「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年10月号
街中まるごと美術館:商店街と協働した取り組み
小林瑞恵
スタート地点
2008年にアール・ブリュットの総本山と称される世界的にも有名な美術館アール・ブリュット・コレクションと滋賀県にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MAとの合同企画で、海外と日本のアール・ブリュット作品による日本国内3か所(滋賀、北海道、東京)を巡回する展覧会「アール・ブリュット/交差する魂」が開催され、私もその展覧会を担当するスタッフとして参加していた。海外と日本の作品が並列に展示されたこの合同展では、歴史も古く、また世界的な評価も高い海外の作品の迫力もさることながら、日本の作品も無名ながらその迫力に押されることのないエネルギーと品格を発していた。日本の作品の力強さに、なんとも言葉にしがたい光をみたようなワクワク感で心が震えたのを覚えている。
日本ではボーダレス・アートミュージアムNO-MAが2004年頃より先駆的に作家の調査・発掘に取り組み、また展覧会を開催して、社会にこれら作家や作品を紹介し伝えてきた。この芸術分野を東日本でも紹介したい。そんな思いから、当法人の拠点が東京の中野区にあったため、この地で発信拠点を作れないか考えた。発信拠点を作りたいという志だけはあったのだが、現実をみると「どうやって?」と途方もない気持ちにもなったことをよく覚えている。
その理由は大きく分けると3つある。1つは、7年ほど前(2009年頃)、「アール・ブリュット」という言葉の社会における認知度は全くといっていいほどなかったため、この言葉を介して会話することも、理解する人も、ましてや応援する人もいなかった。2つ目は、中野に展示空間となる美術館がなかったこと。3つ目は、その当時、商店街や街とのつながりもなかった。
このようなことから、目指したい方向へ向かう道程は容易なものではないが、現代社会においてとっても大切なメッセージを伝える力、違いを超えて人をつなぐ力がこの芸術分野にはあると確信し、多くの人にただただ知っていただきたかった。
アール・ブリュットの魅力
アール・ブリュットとは「生(き)の芸術」と表され、美術の専門教育を受けていない人が、独自の方法と発想で制作した芸術作品を指す。日本では「障害者アート」と訳されることがあるが、障害の有無にかかわらず、多種多様な作家がいる芸術分野である。
ある作家は、精神科病院などでひたすらに創作を行い何千枚もの作品を描いた。ある作家は郵便配達をして生計をたて、40歳を過ぎてから誰もが想像もしない壮大な建物を創造した(現在はフランス政府により国の重要建造物に指定されている)。またある作家は自閉症で、通所施設に通う中で陶器の立体作品を作り、その類まれな独創的な作品が評価され、2013年に開催された第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に展示された(作家:澤田真一氏)。作家の中には、周りにいた関係者により作品が発見され美術館などで展示された方もいるが、人に知られることなく命を閉じた方もいる。日常の中で生まれる芸術、アール・ブリュット。
障害の有無にかかわらず、多種多様な作家がいるアール・ブリュットを介すると、この社会の人の多様さ、奥行き、広さに出会えることがこの芸術分野の最大の魅力である。私たち個々が持つ世界は、どんなに手を伸ばしても限られてしまう。仕事で接するのは同じ業界やそれに関連する関係者が多くなり、プライベートでは共通の趣味や似たような価値観を持つ人、居心地のいい人と一緒にいるようになり自然と世界が狭められてしまう。そうした中で、アール・ブリュットは自分が持つ世界を超え、この社会にいる人の形の多様さや世界の奥行きに出会うための窓口となり、人と人、他分野と他分野など違う土俵にあるもの同士がつながる大きなプラットフォームのような機能を果たす力を秘めているのである。
中野の街の景色へ
前段で申し上げたように、中野でのアール・ブリュット発信の展開にあたっては、順風満帆にスタートが切れる状態ではなかった。
美術館がないなら、中野の街にある機能を活かした展開がないか考えた。そして、街全体を1つの美術館として捉え、発信しようという発想に至り、4つの商店街を中心に協議を重ねた。商店街の方々が海のものとも山のものともつかないものをよく受け入れてくれたと思うが、作品を観た瞬間に「これは面白いから毎年やろう」と言ってくれたことが、大きな始まりの一歩であった。
作品の持つ力に後押しされるように、商店街の人と中野アール・ブリュット実行委員会を形成し、協働して毎年取り組むようになっていったのである。負け惜しみではないが、街を1つの美術館として捉え、展示することでその期間だけ国内最大規模のアール・ブリュット展示空間が広がったのである。
展示舞台となっているのは大きく分けて2つの場所である。1つは、中野駅周辺一帯、北と南に広がる3つの商店街。1日延べ5万人が往来する全長約240メートルのアーケードを持つ中野サンモール商店街と、サブカルチャーの聖地として国際的にも有名な中野ブロードウェイ商店街、そして1日延べ2万人が往来する中野南口駅前商店街。2つ目の舞台は、中野駅から北の方に4キロメートルほどのところにあり、約350店舗が密集する野方商店街である。商店街での展示では、作品を印刷した大型バナーやパネルなどの複製物を各商店街の機能に合わせ制作し展示している。また、中野アール・ブリュットのイベント期間中には、実際の作品も見ていただけるよう仮設の展示空間での展覧会や、芸術や福祉、行政など有識者を招聘したフォーラムの開催、映画上映やパフォーマンスイベントの開催など年々規模を拡大しながら実施している。
今年で7回目となり、中野の街の恒例行事となり、街の景色となった。継続は力なりとはよくいったもので、当初は「アール・ブリュット」という言葉も「えっ、それ何ですか」、「アート…ブ…?」などと聞き返されることも多かったが、今日では日常会話の中で何気なく発せられる場面も格段に増えたように思う。
また当法人だけで、アール・ブリュット推進に取り組むのではなく、4つの大きな商店街を中心に協働して取り組むことで、点ではなく、線となり面となって、地域のコミュニティを巻き込みながら拡がっていったことも大きな効果をもたらした。今となっては、芸術文化による街づくりのモデルケースとして、地方自治体や街づくりに取り組む団体などが視察に訪れるようになっている。
中野アール・ブリュット実行委員会の委員長を務めている中野ブロードウェイ商店街青木武理事長は、この6年間に及ぶ活動を振り返り、以下のように語られている。
「過ぎ去る時の移ろいに想いを馳せると、私たちの活動は『波紋』という一語に尽きるでしょう。少しずつ然し着実に拡がりを見せ、商店街だけでなく地域の諸企業・学校の方々の応援にまでこぎつけた。誰もが『アール・ブリュット』というフランス語を事もなげに発する事態が生まれ始めてきているのである。この現象が意味するものは、「障害者の芸術」が進化して一つのジャンルとしての位置付けが確立されつつある段階に差し掛かっているということである。つまり、『アール・ブリュット』だけで完結していた言葉が、メッセージとして誰にでも伝わるようになったのだ。
湖面に小石を投げた時に生まれる美しき波紋に、少年期の澄みきった鼓動が映し出された。そんな表現が適切かもしれない。」
今後の展開
商店街とアール・ブリュットの中野での展開がうまくマッチしたのは、どちらも「多様なもので形成されている」という共通項が、両者を相性よくつなぐものとなったようにも思う。商店街は、老若男女、障害の有無、多国籍の人などさまざまな人々が共に暮らす場である。また、アール・ブリュットも等しく視覚的に人の多様性を伝えていく。
2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催される日本ではより多文化共生が謳(うた)われている。アール・ブリュットの今(こん)取り組みも、多種多様な人々が活躍できる社会の基盤を作る一つのプラットフォームとして今後も展開していきたい。
(こばやしみずえ 社会福祉法人愛成会常務理事・アートディレクター)