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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年10月号

フォーラム2016

排除に抗うために、「共に」の時間と空間を

松波めぐみ

「障害者なんていなくなればいい」――。容疑者が吐いた言葉の毒がゆっくり体内を巡るかのように、事件後しんどくなっている障害当事者や家族が身近にいる。ある親御さんは言う―「昔よりは良くなったようで、やっぱりあれが障害者に対する世間の本音なのか、って」。娘さんが学校で排除された記憶が鮮明に蘇るのだという。

私は昨年より、企業等で障害者差別解消法の研修を多く行なっている。やりとりの中で、障害者と接するのは面倒だが、「差別だ」と言われたら困るのでどう予防線を張ればいいか教えてほしい等と頼まれることがある。また「障害者雇用が大事なのはわかる。が、うちは中小(企業)で余裕がない。もっと大きな企業さんがやれば」と渋い表情で話す人もいる。

そこで思い出すのが、地域で障害者のグループホーム等を開設することへの住民の反対運動だ。なぜここに建てるのか、「もっと適した場所」があるでしょう等の言葉で、露骨な排除が容認されてきた。

「施設から地域へ」という世界的な潮流が停滞する背景に、「障害者はどこか別の場所にいてほしい」という人々の排除意識がある。それはしばしば、「そのほうが、その方たちのためになる」という“配慮”の仮面を被りながら、障害のある人が地域で暮らし、学び、働く権利を奪ってきた。

社会が人を分けてきた。その結果、障害者と「どう接したらいいかわからない」と嘆き、別の場所にいてほしいと願う。この意識を変えていく契機があるとすれば、それは「命は平等だ」といったお題目でも、ありきたりなメディアの番組や教育・啓発でもないだろう(注1)

鍵はやはりインクルーシブ教育への転換だ。日常に潜む排除をなくしていくのは、日常を共にするのが一番だ。通学路で、教室で、放課後の居場所で、障害のある子もない子も共に学び、遊ぶ。葛藤を経て、意思を通じ合わせる。そんな場を当たり前に経験していくことが排除に抗(あらが)う力になるだろう。子どもだけでなく大人も、地域や職場で出会い、関われる仕掛けが必要だ。

誰もが地域で、多様なつながりの中で生きられる社会への転換を。いなくていい人など誰もいないのだから。

(まつなみめぐみ 大阪市立大学非常勤講師)


【注釈】

1)メディアや教材は、障害のない人が心地よく消費できる「前向きにがんばる、けなげな」障害者像をつくりあげてきた。「がんばっている」人を称(たた)えることは、がんばれない(がんばっているように見えない)人を置いてけぼりにする。今回の事件の被害者は、まさに置き去りにされていた人たちではないか。これも排除だと私は思う。