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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年10月号

知り隊おしえ隊

映画で感じる発達障害・愛着障害の豊かな可能性

二通諭

本誌2010年5月号掲載の拙稿「映画の中の障害者像―その変遷から見えるもの」では、障害者映画の歴史を概観しながら、「映画もまた特別支援時代を迎えた」という項で締めました。それを受けて、ここ数年の拙著『映画で学ぶ特別支援教育』(2011)、『特別支援教育時代の光り輝く映画たち』(2015)、さらに『総合リハビリテーション』連載の拙稿の一部を援用しながら、映画の中の発達障害や愛着上の困難を抱える人物にスポットを当てます。

1 「男はつらいよ」の寅さんや「サウンド・オブ・ミュージック」のマリアも

学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラムなど発達障害的傾向を有する人物は、映画の主人公としても光を放っています。その頂点に立つ人物といえば、渥美清演じる「男はつらいよ」シリーズの「寅さん」こと車寅次郎です。シリーズ第1作は1969年8月に公開され、最終作の第48作「男はつらいよ 寅次郎紅の花」は1995年12月に公開されました。

劇中、寅さんが語る自己像は「生まれついてのバカ」であり、おいちゃん(叔父)の寅さん像も「生まれつきのバカ」です。幼少期から発達や行動上の問題を有していたのです。

「男はつらいよ」第1作によれば、20年前に実父とケンカをして家を飛び出し、それ以来音信不通。中学も卒業していません。第26作「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」(1980)では、寅さんが中学を卒業していないために定時制高校に入学できないというエピソードが出てきます。このときの寅さんの履歴書には、柴又尋常小学校卒業、葛飾商業学校入学、葛飾商業学校中退と書かれています。小学校を卒業し、中学校(葛飾商業学校)に進学したものの卒業できなかったのです。これは後に夜間中学校を舞台とする山田洋次作品「学校」(1993)のモチーフになります。

寅さんの発達障害性を、第1作における「バカ」などの侮蔑的否定語の使用頻度から捕捉してみます。おいちゃんが発する「バカ」は7回。「バカだねー、ホントにバカだ」というだめ押し的な言い回しになるのが特徴です。おばちゃんは、(寅さんなんて帰ってこないで)「死んでいた方がマシ」と嘆き、裏のタコ社長は、「バカッ面」と吐きすてます。寅さんも、舎弟の登に「俺みたいなバカになりてぇーのか」と説教を垂れています。

寅さんは、自身のバカの根源は出自にあると思っています。父親がへべれけに酔ったときに芸者に孕(はら)ませた子どもであり、優秀な妹さくらとは異母兄妹です。しかも生母とは別れたままであり、愛着上の問題も抱えています。実父からはたびたび折檻(せっかん)されています。折檻の原因は盗みや不良仲間との喫煙です。実父が寅さんを叱る時、「お前はへべれけの時つくった子どもだから、生まれついての馬鹿だ」と言っています。寅さんは身体的にも心理的にも虐待を受けています。

寅さんは葛飾商業2年生の時に、校長を殴って退学になります。校長が「やっぱりお前は芸者の息子か、どうせ家じゃろくな教育をしてないんだろ」と言ったことが発端です。寅さんには、すぐ手が出てしまう衝動性があり、取っ組み合いのケンカが定番になっています。衝動性のほか、初期作品群では多動、不注意も顕著です。加えて、睡眠、覚醒にも問題があります。開巻一番の夢のシーンは昼寝によるものですし、だれよりも早い就寝、だれよりも遅い陽が高くなってからの起床となります。多眠傾向が顕著です。

毎度お馴染みの寅さんの葉書も、当初は倍賞千恵子が左手で書いていたとのこと。さすがにその後は美術スタッフが書いたようですが、学習障害の一つである書字障害が疑われます。ただし、井上ひさしは、寅さんを「言葉の達人」と評しています。中学校も卒業せずにヤクザ稼業となりますが、その正体は、ADHDと学習障害をベースとする「学習困難=学校不適応」だったといえます。寅さんは発達障害の傍証に事欠かない人物ですが、前述したように愛着上の問題も抱えています。

次に、アカデミー賞受賞作品「サウンド・オブ・ミュージック」(監督/ロバート・ワイズ:1965)。近年の知見を動員してジャッジするなら、主人公マリア(ジュリー・アンドリュース)はADHDの傾向を有する人物ということになります。

開巻一番、見習い修道女のマリアが山の上で「The hills are alive(高原は生きている)With the sound of music(音楽にあふれて)…」と歌っていますが、修道院では規律違反の行動です。歌い終わった後、遠くから鐘の音が聞こえます。マリアは礼拝に間に合わないことに気づき、慌てて駆け出していきます。

同じ頃、シスターたちは修道院長にマリアの修道女としての不適格性を訴えています。「首に鈴でもつけておくべき」、「木登りして膝をすりむくし、洋服は破く」、「ミサに向かう回廊でワルツを踊るし、階段で口笛を吹く」、「礼拝には遅れてくる」、「食事にだけは遅れない」等々、ネガティブなエピソードが列挙されます。

対して修道院長の言葉は「雲を捕まえてとどめるにはどうしたらいい」、「波は砂の上にとめられません」、「月の光を手のひらにとどめておくことはできません」というものです。マリアは雲、波、月の光に喩(たと)えられるほど制御不能なのです。

マリアの修道院長に対する弁明もADHD的性質の傍証として説得力があります。「扉が開いていて、高原が私を呼んでいたので知らず知らずのうちに…」、「今日の空はあんなに青く、あたりの緑がむせかえるようでしたので、その中に入ってしまわなければならないような気がしたのです」となれば、視覚で捉えたものに誘発されて行動を起こすということであり、衝動性の強さは明白です(参考:曽根田憲三監修『サウンド・オブ・ミュージック―名作映画完全セリフ集』スクリーンプレイ)。

「男はつらいよ」シリーズも「サウンド・オブ・ミュージック」も、発達障害者の豊かな可能性を歌い上げた作品として捉え直すことができます。

2 自閉症スペクトラムの困難と可能性に光を当てる

アスペルガー症候群など自閉症スペクトラムに属する人物にスポットを当てた作品を紹介しておきます。

「タリウム少女の毒殺日記」(監督/土屋豊:日本・2011)は、2005年に女子高生が起こした「静岡母親毒殺未遂事件」から着想されたものです。加害少女が母親にタリウムを飲ませ、衰弱していく様子を観察するという点に本事件の特異性がありました。草薙厚子著『ドキュメント 発達障害と少年犯罪』によれば、加害少女は「アスペルガー障害」の診断が下されています。グラビアアイドル倉持由香演じる少女は「タリウム少女」の2011年バージョンとして造形されたものですが、本作では、少女に別の道を与えています。ここでは詳述しませんが、支援の重要な観点が示唆されています。土屋豊の慧眼(けいがん)に脱帽です。

「ちはやふる 上の句」(監督/小泉徳宏:日本・2016)は、競技かるたに打ち込む高校生の群像ドラマです。前半は、競技かるた部創設を仕掛ける綾瀬千早(広瀬すず)が、団体戦に必要な5人の部員確保に奔走するさまを描いています。5人目の入部者は、校内でただ1人どこの部にも属していない駒野勉です。彼は学年2位の秀才ですが、教室でも他者と接することを嫌い、机上に電車の模型を置き、ひとり鉄道時刻表に見入ることを無上の喜びとしています。「机くん」というあだ名も言い得て妙。自閉症スペクトラム系のキャラクターです。後半の団体戦では、相手校の強者と対戦する捨て駒扱い。負け続けることに耐えられない駒野は試合を放棄します。

さて、駒野はいかにして気持ちを立て直したか。キーワードは、筆者の教育論でもある「良き記憶へのアクセス」。納得の展開です。

「ラブ&マーシー 終わらないメロディ」(監督/ビル・ポーラッド:アメリカ・2015)は、妄想型統合失調症と診断されたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの半生を描いています。医師の監視下で薬漬けとなる1980年代の日々と、作曲者としてヒット曲を連発している1960年代の日々を行き来させながら、ラストを2000年代の復活譚で締めます。

ブライアンは少年期に父親に殴られ、右耳の聴力を失っています。父親は殴る蹴るといったスパルタ教育を実行する自分本位の人物です。ブライアンにとっての父親は反発の対象でありながら、承認要求の対象です。

コンサートツアー中の飛行機内でパニック発作を起こしたブライアンは、ステージに立つことを忌避し、スタジオでの曲作りのみに集中します。ただし、スタジオミュージシャンを相手にした曲作りは他のメンバーが辟易するほどのこだわりをみせます。

一方、突然スタジオに現れた父親から、否定的な言葉を浴びせられた時に、激しい幻聴に襲われます。その後も幻聴に苛まれることになりますが、当時はドラッグにものめり込んでおり、複合的な要因による精神的な変調だと思われます。本作で描かれたブライアンは、トラウマや愛着上の問題のほか、微妙に自閉症スペクトラムの性質も有しています。ここに時代の先を走る創作活動の源泉があったともいえます。

3 多くの人が答えを求めている

発達障害や愛着上の困難を抱える人物を主人公にした作品は、「ノーウェアボーイ」、「舟を編む」、「くちびるに歌を」、「心が叫びたがってるんだ。」など枚挙にいとまがありません。多くの人が答えを求めているのです。直近では「葛城事件」がオススメです。どうして無差別殺傷事件が?という問いへの一つの回答になっています。

(につうさとし 札幌学院大学人文学部人間科学科教授)