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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年12月号

1000字提言

実名報道

迫田朋子

19人の命が奪われた相模原事件。事件後早々に、被害者の名前を公表しないと判断されたことに対し、障害者団体などから強い違和感が表明された。被害者の名前を実名報道する現状についての是非はあるものの、今回に限って家族がそれを望まないという理由で一律に名前を伏せたことについては、亡くなった一人ひとりのことを考えてのことか、と疑問をもたれるのも当然だろう。障害者、利用者、被害者というひとまとめの扱いでは、個人の顔が見えず、より差別・偏見をうむおそれもある。

9月28日に日本障害者協議会主催で開かれた「相模原事件を考える緊急ディスカッション」では、知的障害の当事者が、みんなに知ってもらうために顔も名前も出してゆきます、と堂々と自分の意見を述べていたことに、大きな感銘を受けた。同じ集会に、薬害エイズの当事者である川田龍平参議院議員が参加していたことから、被害者による実名での活動が、人々の関心・支援の輪を広げ、社会を動かすことが指摘された。そして当の川田議員は、突然、私がリポートした番組のことを話し始めた。

それは、薬害エイズの当事者が初めて実名で放送に出た1988年11月28日放送の「おはようジャーナル」“あたりまえに生きたい~エイズと闘う血友病患者たち~”という番組だった。血液製剤にエイズウイルスが混入して感染させられた被害者であるにもかかわらず、エイズに対する偏見・差別が強く、支援が受けられないどころか、病院にも行けず、幼稚園に行けない血友病の子どもたちもいた頃のことである。赤瀬範保さんが自ら名乗りでて取材に応じてくださったのだ。それまでエイズパニックなども取材していた私は、それがどれだけの覚悟か、よくわかっていた。赤瀬さんの主治医は、患者が病院に来なくなるから出演は止めてほしいと私たちの前で告げた。家族がこっそり薬だけ取りにくる、ということで納得してもらうしかなかった。エイズの治療薬がない時代に、死を覚悟してほかの仲間のことを思って被害の実情を訴えたのだった。放送の2年半後、赤瀬さんはエイズのため亡くなった。

当時、中学生だった川田龍平さんは、その番組を見ていたという。19歳のときに実名を公表し、活動の中心になっていった。さまざまな思いが交錯したのだろう、集会で川田さんは絶句し、「殺されたくない」と繰り返した。名前を出せないまま亡くなっていった薬害エイズの被害者たちが、今回の被害者と重なったのかもしれない。

いちばん辛い立場にあると思われる当事者の覚悟と強さに、私自身どれだけ励まされてきたか。それが社会を動かす大きな力になってきた。そのことに、メディアも社会も責任をもって向き合わなくてはならない、とあらためて思う。


【プロフィール】

さこたともこ。ジャーナリスト。1980年、日本放送協会入局。アナウンサー、解説委員、エグゼクティブ・ディレクターなどを務める。専門は、医療、福祉、介護、市民活動。NHKスペシャル「人体~脳と心~」、「セーフティネット・クライシス」などの番組を制作。現在はビデオニュース・ドットコム プロデューサー。