「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年1月号
1000字提言
障害者の生きる意味
岡部宏生
冒頭から二つのお詫びを申し上げます。
まず、私は障害者を代表できる者ではありません。ALSは(病状が進行すると)制度的にも一般的にも、身体的に最重度の障害者と言われています。ですが、敬愛する障害者の福田暁子さんによれば、ALSは、時々羨ましがられる程度の障害者でもあります。
もう一つは、生きる意味というタイトルですが、私は生きる「意味」などたいしてないと思っています。それは、障害者も健常者もです。
では、なぜこんなタイトルをつけたかというと、昨年の相模原・やまゆり園の悲しい事件が起こって、どうしても書きたいことがあるからです。
ALSを発病する前から思っていたことなのですが、発病してからさらに強く明確に思うようになったことがあります。それは、生きる意味とか意義とか生きる価値とかは、人の解釈の問題でしかないということです。そこに存在するという事実の前には、そんなことは小さなことだと思うのです。
ALSを表現する言葉に「No Cause No Cure No Hope(原因不明、治療無し、希望無し)」というものがあります。私は、発病したころには、悔しいけど、上手いことを言うなぁと思っていました。
ですが、しばらく経つと原因不明と治療無しは事実であるが、希望無しは解釈の問題であって、ALSでも希望を持って暮らしている患者も、決して少なくないことに気が付いたのです。
まさに人の解釈で社会は動いていると言える側面もありますが、それと事実の違いについて、もう少し考える必要があるのではないでしょうか?
ALSの例だけでなくて諺(ことわざ)や、名言と言われているものの中にも、たくさん事実と解釈が入り混じっています。
たとえば、自分に起きることや世の中に起こることには、必ず意味があるということはよく耳にしますが、では災害やテロにあった人は、どんな意味があるのでしょうか?それをきっかけにして、今後に活(い)かすということは意味があることですが、そのことに遭遇して亡くなった人にとっては、意味などと言っていることはできません。
やまゆり園の事件を起こした容疑者も、その人なりの解釈で障害者を捉えていることに最も恐ろしさを感じます。
作家開高健が言っています。
「事実はひとつ。解釈は無限」と。
こんな当たり前のことを忘れて、生きる意味とか、生きる価値とかばかり言ったり考えたりすることによって、あたかも自分の考えが正しいものなのだ、と思わないようにしたいと願っています。
私の考え、それは無限の中のひとつに過ぎません。
【プロフィール】
おかべひろき。1958年東京都に生まれる。1980年中央大学を卒業。同年建設会社に就職。2001年建築不動産事業コンサルタント会社を設立。2006年ALSを発症。2007年在宅療養を開始。2009年日本ALS協会東京都支部運営委員。同年胃ろう造設、気管切開・人工呼吸器装着。2010年訪問介護事業所ALサポート生成設立。2011年日本ALS協会理事・副会長。2016年日本ALS協会会長に就任。