音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年2月号

インクルーシブ教育の実現に向けて:現状と課題

荒川智

はじめに

障害者権利条約が批准され、障害者差別解消法も施行されるなか、文科省は2013年度からインクルーシブ教育システム構築事業(2016年度はインクルーシブ教育システム推進事業)を進めている。通常学級に在籍する障害のある子も多くいる。これだけを見ると、インクルーシブ教育が実現する条件が揃(そろ)いつつあるようにも思える。

しかし、そうした子どもたちの学習権は本当に保障されているといえるのだろうか。交流及び共同学習も進められているが、依然として年数回の行事交流の域を出ないという指摘も多い。逆に特別支援教育の対象となる子どもが急増している。競争的学力向上政策やゼロトレランス、学校スタンダードなどによる管理強化で、通常学級での居場所を失う子どもも増えているのではないか。インクルーシブ教育は本当に進んでいるのだろうか。むしろ逆行していないか。

1 「インクルーシブ教育システム」のレトリック

そもそも文科省は、インクルーシブ教育システムをどのように捉えているのだろうか。2012年7月23日に出された初等中等教育分科会報告「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」では、インクルーシブ教育システムの定義として次のように述べられている。

「障害者の権利に関する条約第24条によれば、「インクルーシブ教育システム」(inclusive education system、署名時仮訳:包容する教育制度)とは、人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」(署名時仮訳:教育制度一般)から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供される等が必要とされている。」

つまり、「障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み」がインクルーシブ教育システムとされる。

さらに、次のようにも述べられる。

「インクルーシブ教育システムにおいては、同じ場で共に学ぶことを追求するとともに、個別の教育的ニーズのある幼児児童生徒に対して、自立と社会参加を見据えて、その時点で教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できる、多様で柔軟な仕組みを整備することが重要である。小・中学校における通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある「多様な学びの場」を用意しておくことが必要である。」

「インクルーシブ教育の理念が重要」であるとしつつ、「共に学ぶことを追求するとともに」以下の文章は、まさに特別支援教育そのものの説明にとどまっているのである。

実際に、その後のインクルーシブ教育システム構築事業の具体的な中身は、通常学級や交流及び共同学習などでの合理的配慮、早期からの就学相談支援、特別支援学校のセンター的機能とネットワークといった、「共に学ぶ」ことに関連する特別支援教育の一連の施策のまとまりであるといえる。

合理的配慮は新しい施策といえなくもないが、その具体的中身を見ると、多くは従来からなされてきた特別支援教育の施策を言い換えているに過ぎない。「日本的なインクルーシブ教育システム」(中教審特別委員会での論点例)の現状は、本来のインクルーシブ教育とはかなり距離があり、何か本質的な課題が見過ごされているといえよう。

2 インクルーシブ教育の本質は

ところで、障害者権利条約の政府訳では、第24条第1項の文科省のinclusive education systemを「障害者を包容するあらゆる段階の教育制度」と訳されていた。インクルーシブという用語を避けて「包容する」としたことに対しては疑問もあり、文科省のインクルーシブ教育システムの方が、一見素直な訳のようにも思える。しかし「あらゆる段階の教育制度」という訳は、教育制度全体をインクルーシブ(包摂的)にするということを含意しており、むしろこちらの方が条約の趣旨を踏まえているといえる。「あらゆる段階のインクルーシブな教育制度」は、決して特別支援教育の事業の一部分ではない。そもそもインクルーシブ教育は、障害のある子どもの教育だけを問題にしているのであろうか。

筆者はこれまでも、インクルーシブ教育に関するユネスコの指針を紹介してきた。

「インクルージョンは、学習、文化、コミュニティへの参加を促進し、教育における、そして教育からの排除をなくしていくことを通して、すべての学習者のニーズの多様性に着目し対応するプロセスとしてみなされる。」(『インクルージョンのための指針』2005年、13頁)

「インクルーシブ教育は、一部の学習者を如何にメインストリームの教育に統合するかという周辺的な問題ではなく、むしろ教育システムやその他の学習環境を学習者の多様性に対応するために如何に変えるかを追求するアプローチである。」(同上、15頁)

「インクルーシブ教育は、すべての子ども―民族的・言語的マイノリティの出身者、過疎地の対象者、HIV/AIDSの影響を受けた者、障害や学習上の困難のある少年・少女を含む―の要求を満たすための、そしてすべての青少年や成人に学習機会を提供するための、学校や他のセンターの変革に関わるプロセスである。その目的は、人種、経済的地位、社会階級、エスニシティ、言語、宗教、ジェンダー、性的志向、能力における多様性に対する否定的態度の結果であり、対応の欠如でもあるところの、排除を取り除くことである。」(『教育におけるインクルージョンのための政策指針』2009年、4頁)

日本ではまだ、単に障害のある子どもを通常学級に統合する、あるいはその子に特別な支援を提供して既存の通常教育について行けるようにするというかつての統合教育との違いが十分に理解されていない。しかし、学習等への参加、排除をなくす、多様性への着目と対応が、インクルーシブ教育をめぐるキー概念であり、特に学習者の差違や多様性は、教授・学習上の「問題としてではなく、学習を豊かにする機会として捉える」べきものとされている。「障害のある子と障害のない子が共に」という視点では狭いのである。さまざまなマイノリティを含めたすべての学習者を対象とし、そのニーズの多様性に対応するための学校教育全般、とりわけ通常教育の改革のプロセスとして考えられなければならない。その際に重要なのは、カリキュラムや指導法の改革による授業実践とそのための条件整備である。

3 インクルーシブな授業実践と合理的配慮

すでに欧米のいろいろな国で、インクルーシブな授業実践が進められている。その考え方や方法はさまざまであるが、大きく共通しているのは、授業の単元や教材はみんなで共有しつつ、すなわち「今日はみんなで何を学習するのか」を共有しつつ(これが共有できずに単に同じ場にいるだけでは真のインクルーシブ教育とはいえない)、全員が同じ内容を同じスタイルで学習するわけではなく、具体的に取り組む課題はニーズに応じてさまざまなものが用意されるといことである。クラス全体での教授・学習と小グループや個別の学習が織り交ぜられており、やや習熟度別のような取り組みもあるが、さまざまな能力や背景のある子どもたちが協同的な学び合いをしている授業も多い。

こうした同一単元での多様化された課題設定という実践形態は、日本の障害児教育でこれまで蓄積されてきたことでもある。もちろん、こうした実践は定数40人の通常学級では不可能に近いのだが。

しかし、日本でも非常に困難な条件の下ではあるが、通常教育そのものの改革も試みられてきている。そのひとつに、授業のユニバーサルデザイン化がある。発達障害への対応を活用し、すべての子どもにわかりやすい授業を組み立てようとしているのだが、一方で全校的に特定の学習スタイルに統一させるような傾向もあり、多様な学習スタイルを認めようとするインクルーシブ教育とは理念が異なるように思える。むしろ、多様なニーズに応える学習スタイルという点では、協同学習(協働学習)の考え方に共通性が見いだせるのではないか。それらを参考に、たとえば総合学習での調べ学習などを手始めに、インクルーシブな授業実践を模索することはできないだろうか。

定時制高校や昼夜間併置の高校、あるいはいわゆる困難校といわれる高校でも、障害の診断のある、あるいは障害の可能性のある子、不登校だった子、精神疾患のある子などさまざまな生徒がおり、学力的にも困難な子が多く、通常の授業自体がさまざまな工夫の下に試みられ、またカウンセラーや各種相談員と連携した生徒指導がなされている場合が少なくない。インクルーシブ教育がどこまで意識・意図されているか、果たして本当にインクルーシブ教育の理念と整合するのかなど、検討すべきことは多いが、特別支援教育の枠組みを超える可能性があることは評価したい。

障害者差別解消法の施行によって、合理的配慮の実施が学校にも課せられた。合理的配慮は本来、学習権を平等に行使するために「個別に必要とされる」「適当な調整・変更」である。それがなされることにより、他の子が行う学習や活動に参加できる場合に義務づけられるもので、それがなされず参加が阻まれると差別に該当する。しかし日本で今日合理的配慮と見なされているのは、多くがこれまで特別支援教育でなされてきた障害種別の一般的配慮にとどまっている傾向がある。

欧米における合理的配慮や合理的調整をみると、さまざまな内容が特定の個人に提供されているが、ほとんどは特に高度に職人的な専門性を有するものではなく、日本で行うのも困難な内容ではない。何が違うのかといえば、人的配置である。担任教員一人で対応するのではなく、巡回教員などの複数教員、あるいは各種のアシスタントやコーディネーターが教員と連携して指導に当たっており、だからこそ合理的配慮も効果的になされるのである。

おわりに

そもそもインクルーシブ教育を本当に実現していくためには、通常学級の学級編制基準を抜本的に改善する必要がある。欧米各国でインクルーシブ教育を実践している学校の多くは、1学級20人前後、あるいはそれ以下である。また、教員以外の各種のスタッフも十分に配置されなければならない。

さらにより根本的にことは、包摂(インクルージョン)とは反対の排除を生み出す要素やメカニズムを識別し取り除いていくことである。競争的学力向上政策が推進されるなかでは、特別なニーズに対する配慮や施策は、実は包摂と排除のどちらにも転化する両刃の刃ともなりうる。学校教育全体の改革という大きな政策上の課題を追求するとともに、学校の日常において排除や差別となりうるものを少しでも取り除き、包摂できる子どもの範囲を拡(ひろ)げていく地道な取り組みも求められている。

(あらかわさとし 茨城大学教育学部)