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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年2月号

インクルーシブ教育を担う教師の専門性と養成の課題

戸田竜也

1 「特別支援教育」と教師

2007年からスタートした特別支援教育は、特殊教育から「対象とする子ども」を拡大し、「すべての学校」、通常学級を含む「すべての学級」において実施されることになった。これは一方で、「限られた特定の教師」が担うものから、所持する免許種や経験の有無にかかわらず、「すべての教師」が担う教育へと変更されたことを意味している。

特別支援教育の開始から10年を経た今日、すべての学校・学級において、すべての教師が担う特別支援教育は実現しただろうか。

この実現には、教育条件や学校環境の整備とともに、教師一人ひとりの特別支援教育に関する理解や認識の深まりが必要である。これまではその実践から距離を置いていた教師が、特別支援教育を他人事とせず、自らを実践の主体として位置づけて理解することが求められるが、これは教育制度の変更とは別の次元にあるために、必ずしも同時並行的に進むとは限らない。このように考えるならば、特別支援教育にはいまだ多くの課題が残されており、それはインクルーシブ教育の実現に向けての課題とも言うことができる。

ここであるデータに着目したい。それは、文部科学省が集計している「特別支援学校・特別支援学級の在籍者数」とその推移である。特別支援教育開始後もその在籍者数は毎年右肩上がりに増えており、この10年(2007―2016年)で見ると、特別支援学級の対象者は全国で87,885人、特別支援学校の対象者(高等部段階を含む)は、29,721人増加している。

義務教育段階及び後期中等教育段階にある子どもの数は減っているにもかかわらず、在籍者が増える背景には何があるのだろうか。

筆者の臨床による知見に過ぎないが、その背景の一つには、本人や保護者の「より専門的な教育を受けたい」という願いがあり、特別支援学校や特別支援学級が就学先として積極的に選択されていることがあるだろう。

一方、在籍者の中には、当初は通常学級で学んでいたが、何らかの事情で特別支援学級(特別支援学校)に在籍を変更した子どもたちが相当数含まれている。この子どもたちは、なぜ通常学級で学び続けることができなかったのだろうか。

それぞれのケースによって理由は異なるだろうが、それは今日の通常学級の在り様と無関係ではない。つまり、学級規模や教育方法、授業進度や目標・評価、学級における人間関係、教師の態度、ニーズに応じた配慮の有無等の複数の要因が、通常学級が障害のある子どもたちの学びの場として位置づくか否かを決定する。本論のテーマであるインクルーシブ教育の実現と教師の専門性は、通常教育の改革が前提として議論される必要がある。

2 相互作用モデルによる障害理解

本邦は、障害者権利条約の批准を見越し、2011年に障害者基本法を改正して「障害者」の定義を変更した。障害をこれまでの「医学モデル」から「相互作用モデル」で捉えることを明確に打ち出したわけだが、このような重要な変更が教育現場に浸透しているとは言い難い。

障害を「医学モデル」で捉えられてきたこれまでの学校は、教室で生じる子どもの困難やトラブルは「子どもの問題」であり、診断・判定によって特定の専門職が対応する「領域」としてきた。

また、障害のある子どもの集団への参加は、一人ひとりの「適応」が問題とされ、個別指導や訓練によってそれが目指されてきた。このような取り組みの在り様は、学校文化の一つとして長く継承されており、今も一部教師の暗黙知として根強く残っている1)

一方、特別支援教育において、障害を「相互作用モデル」で捉えるならば、学校は1.障害のある子ども本人へのはたらきかけとともに、2.周囲の子どもたちや教師、学校設備といった広義の環境へのはたらきかけ、3.障害のある子ども本人と環境との「関係性」へのはたらきかけ等をもって障害による「困難を克服する」ことが目的(学校教育法第81条)とされなければならない。

また、集団への参加では、周囲の子どもや集団が変化することによって障害のある子どもを排除しないことが求められ、そこに教師の指導性が発揮されなければならない。このように障害定義の変更は、障害をどのように理解するかといった視点を超えて、教師の在り様や日々の教育実践に変更を迫るものであり、多くの教員に理解される必要がある。

さらに、相互作用モデルによる理解は、障害に関係するさまざまな問題を「社会で解決すべき事柄」としての認識を育む。この認識は、今後さらに充実が求められる交流及び共同学習や総合的な学習等での「障害理解学習」において、子どもたちと共有されなければならない。

養成段階にある学生の一人は、中学時代の「総合的な学習」において、車椅子に乗って街中を探検するという経験をし、「車椅子利用者がどんなに大変か」ということを学んだという。同時に、「障害者はかわいそうな人」であり、「健常者―助ける人」「障害者―助けられる人」という、それ以前から持っていた認識を強化したと語った。

このような貧しい福祉観を克服し、障害を社会との関係において理解する子どもを育てるためにも、教師の障害理解が重要なのである。

3 これまでの経験の捉え直しを促す

一方、教師や養成段階にある学生の障害理解の障壁になりかねないのが、それまでの学校生活の中で直面した「能力主義」である。

筆者が出会ったある学生の一人は、「自分が希望した進路が実現しなかったのは、頑張らなかった自分の責任だ」と言い、ある教師は「自分の努力の結果として、いまの立場・地位を築いた」と述べた。彼らとの対話で印象的だったのは、一見正反対の考えに見えるが、他者に対して同様の厳しい眼差しを向けていることであった。

彼らは、学力テストや入試が重視される学校生活において、日常的に「できる―できない」といった二分的評価にさらされる生活を送ってきた。「できない」のは自分の努力不足や至らなさの象徴であり、「できるようになるために」学ぶことの意味を考えることをやめ、意欲とは切り離して機械的な学習にも取り組んできた。一人ひとりの努力の結果は、大人から「学力」や「能力」と定義づけられ、それによるさまざまな差別・区別を甘受することによって、子ども時代から「自己責任」を内面化させてきたのである。

このような能力主義による教育の経験は、個別に分断化された「能力」によって差別・区別することを容認しやすい土壌を生む。それは、直接的に障害による差別を是認することにはつながらないが、障害を「本人の問題」に帰結する医学モデルとの親和性が高く、問題の社会化を拒むのである。

先に紹介した教師は、「相互作用モデル」を解説し、「能力」は他者との共同性の中で育まれる2)と提起した筆者による現職者研修を受けて、「まるで、これまでの自分の努力が否定されているかのようだ」という感想を述べた。また、合理的配慮の実施についても、懐疑的な考えを持っていた。これはあくまでも一人のケースであるが、教師が敏感であるべき権利性を含んだ価値観に触れた場合であっても、それが素直に受け入れられないほどに自らの歴史が重いということを示している。

教員養成や現職者の研修において、それぞれが「子ども」として経験してきた教育や学校を相対化させ、その経験やエピソードを今日の教育課題や権利という観点から繰り返し問い直させる必要がある。

4 筆者による「特別ニーズ教育論」の実践

北海道教育大学では、教員養成を行う3キャンパス(札幌・旭川・釧路)において、専攻・コースにかかわらず「特別支援教育」を必修科目としている。一方、筆者が所属する釧路校では、「特別ニーズ教育論」(1年次後期、筆者担当)を別途全学生を対象とする必修科目として開設し、毎年200人弱が受講している。

教員養成カリキュラムの過密化が課題となる中、独自に科目を新設することは難しい判断であったが、先述した問題意識を複数の教員で共有し、インクルーシブ教育を実現させる教員の養成につながる試みとして、2015年のカリキュラム改訂時から取り組んでいる。

障害者権利条約の批准を契機にしてインクルーシブ教育の実現が目指されているが、本来、教育への「包摂・包容」というテーマは、「特別な教育的ニーズ」をもつ者を含んだ「すべての子ども」が対象とされなければならない。このような視点を持たなければ、障害のある子どもが教育に包摂・包容されないのは明らかであり、また、目標とされるソーシャル・インクルージョンにもつながらない。

真のインクルーシブ教育の実現のためには、状況によっては排除されかねない「特別な教育的ニーズ」をもつ子どもたちを仲間や教師、学校とつなげ、子ども主体のもと、誰をも排除しない学校・学級コミュニティを実現する教師が求められている。

以上のような考えから、「特別ニーズ教育論」では、筆者が作成したテキスト3)を資料として、障害者権利条約の理念や障害の定義、インクルーシブ教育について概説した後、1.発達障害、2.心身の疾患、3.不登校、4.虐待、5.貧困、6.社会的養護、7.家族にかかわる問題等のテーマを立て、講義・演習を行なっている。また、この2年間は学生として在籍するトランスジェンダーの当事者を特別講師として招き、LGBTの解説と自身のストーリーを語ってもらう機会を得ている。

授業後に学生が記した感想を読むと、この授業を核としながら、他の科目や学校ボランティア体験などを関連付け、多様な状況にある子どもと家族の存在に気づき、教師として彼らと「つながる」ことへの想像力を高めていることがわかる。また、困難を共感的に理解しようと模索している学生も少なくない。

一方、障害を含む「特別な教育的ニーズ」を社会の問題として捉え、主権者の一人として社会がどうあるべきかを考える学生は少数に留(とど)まっており、授業内容のさらなる検討が必要と考える。

また、LGBTの講義において顕著であったが、これまで「当たり前」として疑うことがなかった事象や自分自身の在り様を問い直しながら、少しずつ「自分も多様な一人の存在である」という気づきも生まれつつある。これらが、それぞれのコミュニティにおいて教師として、一人の市民として自身がどうふるまうかを考える端緒になればと考えている。

おわりに

インクルーシブ教育を実現するための教師の専門性とその養成の課題は、まだ模索され始めたばかりである。今後、さまざまな議論によって求められる教師像が具体化され、必要な知識・技術も明らかになっていくだろう。

現段階では、特別支援教育の積み残された課題を踏まえながら、インクルーシブ教育の理念を理解し、自身の在り様を問い直しながら、実践の当事者として向き合う教師の姿勢を育むことが求められよう。

(とだたつや 北海道教育大学釧路校講師)


【文献】

1)小西行郎、発達障害の子どもを理解する、集英社新書、2010年

2)竹内章郎、平等の哲学―新しい福祉思想の扉を開く、大月書店、2010年

3)戸田竜也、「特別な教育的ニーズ」をもつ子どもの支援ガイド、明治図書出版、2015年