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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年2月号

1000字提言

この世に生まれた〈お役目〉があるんどす

今中博之

わたしは、「100万人に1人」の稀(まれ)な障がい者である。育ての親は、お婆ちゃんだ。「ええか、障がいがあるからいうて、下向いてたらあかへんで、前向いて生きなはれ」。明治生まれ、京都育ち、硬派のお婆ちゃんにかかれば俯(うつむ)いていられない。障がいがあろうがなかろうが、稀だろうがそうでなかろうが、関係ない。「この世に生まれた〈お役目〉があるんどす」。それがお婆ちゃんの口癖だった。

わたしの実家は、商店街の小さな酒屋だった。壁のトタンが剥(は)がれ雨が部屋に降り込んだ。青空も見えた。貧乏だったが、お婆ちゃんは毅然としていた。明治の女である。「貧乏、金持ちは回り持ちどす。貧乏の何が悪いねん。貧乏な者の気持ちは貧乏人しかわからへんのや。よう覚えときやす。金持ちにまかれたらあかん。へつろうてはあかん」。今をそのまま受け入れるのだ。泣くな、愚痴るな、あんたには「この世に生まれた〈お役目〉があるんどす」。

2016年版の自殺対策白書では、15年の自殺者数は2万4025人。4年連続で3万人を下回ったとはいえ深刻な数字であることに変わりはない。また、災害に見まわれ、全(すべ)てを失ったという人も少なくない。運命を呪う人も多いはずだ。この世に生まれたそれぞれの〈お役目〉とは、何だろう。

強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・フランクルは、人の主要な関心事は、快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」だと主張した。お婆ちゃん的にいえば、人生の〈お役目〉を見出すことだと解することができるだろう。その意味の探求は、「終局において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである」(1)とフランクルは続けた。つまり、人生の〈お役目〉は、自ら問うべきものではなく、問われるものだというのである。

「ナマンダブツ…ナマンダブツ…ナマンダブツ」。お婆ちゃんは、膝枕で眠るわたしに刷り込むように唱えてくれた。ナマンダブツが南無阿弥陀仏(すべてを阿弥陀仏にお任せする)だと知るのは、わたしが30歳を少し越えたころである。既(すで)にお婆ちゃんはお空に還(かえ)っていた。

障がいのある「自分の人生の責任を引き受けることによってしか、その問いかけに答えることはできない」(1)。なぜ病いは、わたしの身体に痛みを与え続けるのか。それを個性と言い表すことも、自分の人生だと引き受けることも、あまりにも苛烈である。これがお婆ちゃんのいう〈お役目〉なのか。

次回は、仏教からの問いかけに、わたしの〈お役目〉を見出してみたい。

(1) V・E・フランクル(著)、霜山 徳爾(翻訳) 1985 『夜と霧』 みすず書房


【プロフィール】

いまなかひろし。1963年生まれ。先天性下肢障がい。社会福祉法人素王会 理事長。アトリエ インカーブ クリエイティブディレクター。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会エンブレム委員、同委員会文化・教育委員。厚生労働省、文化庁構成員等。賞歴:Gマーク・通産大臣賞等。著書:『観点変更』等。