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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年4月号

ワールドナウ

南アフリカ:自立生活事業を通した障害のあるメンバーたちの成長

宮本泰輔

南アフリカのハウテン州でJICA草の根技術協力事業として、障害者自立生活センターの設立のための人材育成に取り組み始めたのが2013年。それから4年近くが経ち、確実に地域社会が、そして障害者自身が変化してきているのを感じる。昨年9月には、住宅改善や交通バリアフリーに焦点を当てた第2フェーズが始まった。

本稿では、自立生活センターづくりのための人材育成について、国内最大の旧黒人居住区(タウンシップ)であるヨハネスブルグ市ソウェト地区の自立生活センターを例に取り上げる。ここでは、ピア・カウンセリングや介助派遣といった事業活動そのものより、それを支えたリーダーシップとチーム・ビルディングに焦点を当てたい。

2013年、最初に私の前にいた障害者は2人だけだった。ソウェトを担当するのは、黒人でDPSA(南アDPI)の前議長のムジ・ンコシである。彼はリーダーとしての経験も長く、組織運営の実績もある。しかし、自立生活センターは障害者1人では運営できない。障害のある「仲間」たち、それもリーダーシップがあって、地域の障害者のためにともに頑張る覚悟とスキルのある人材が必要である。

最初のメンバーをどこから集めるか。ムジは、ソウェトやその近郊にある公立病院のリハビリテーション科に紹介してもらうことにした。「若くて、重度障害で、地域に暮らしている人で、自立生活ワークショップに参加してくれそうな人」というのが病院側に提示した数少ない「条件」であった。どれくらいきちんと自立生活概念を理解しているかはともかく、南アの理学療法士やソーシャル・ワーカーは本事業に賛意を示して、何人かの障害者を紹介してくれた(当然、本人の許可を取った上での話だ)。面接などの結果、最終的に5人の障害者が自立生活ワークショップに参加してくれた。

普通、こうした人集めの仕方は、3年間で成果を求められる「プロジェクト」のあり方からすると「博打」である。特に最初のメンバーたちは、サブリーダーやピア・カウンセラーになることが期待される、重要な人材である。普通であれば、障害者団体で一定の活動をしているとか、資格があるとかいった選考条件を付けただろう。

しかし、ムジと私は、「実績」より「可能性」を信じて、我慢強く3年間彼らと関わる覚悟を持つことからスタートした。ムジは「地域の重度障害者に可能性をもたらせられないなら、この事業は意味がない」と当初から言い切っていた。私も事業を無難に進めてほしいと願う周囲の気持ちとの間で揺れることもあったが、本気で地域を変えていこうというムジの気持ちに応える覚悟を決めた。

南アでは、数多くの「プロジェクト」が地域社会を対象に行われてきている。地域住民の中には、「プロジェクト」への主体的な参画ではなく、とりあえず数年雇われるから関わっておくか、と思う向きがある。

背景には、多くの事業で、地域の外の南ア人が専門家としてやってきて、地域住民はその下で働くという、地域社会が受け身になる構造があると考えられる。もちろん、ほとんどの事業は「地域住民が参画して」と謳(うた)っているが、外部の専門家や資金がなくなった後も自立して機能している事業は決して多くない。タウンシップの住民からは「成功した人は出ていってしまう」とよく聞かされるが、それは、「タウンシップにいる人は成功できていない人だ」という自己否定にも聞こえる。きっと、ムジはそれを変えたかったのだろう。

本事業もご多分に漏れず、なかなかこちらの「意図」が伝わらず、苦労することも多かった。メンバーの知人・友人の中には「宮本の予算を教えてくれれば、こっちで人を調整してうまく払っておくから、パートナーを組もう」と持ちかける者もいた。また、メンバーの中には、当事者団体での主体性について話をすると、「給料をもらう立場なのに、なんで団体のために私がお金集めしないといけないの?」と言う者もいた。

私もムジも、粘り強く「これは障害者たちに数年お金を分け与える事業ではない。作業所づくりのような雇用創出の事業でもない。あなたたちが、障害当事者として身を尽くして働くことで、障害者一人ひとりを、そして社会を変えていく事業だ。それを行政に理解させて、予算を付けさせることで、初めてあなたたちの雇用の話になるんだ。みんなはそれをやるために選ばれたのだ」ということを、機会があるごとに説いていった。

事業が終わりに差し掛かった頃、ムジが当事者メンバーに対して、「行政がJICA事業終了後、すぐに予算措置することは難しいだろう。そうすると、事業が終わった後、しばらくはみんなに給料が出せない。そうなっても、みんな、行政が動くまで無給で頑張る覚悟を持ってほしい」と率直に語りかけた。みんなの顔には一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。もちろん、個々の生活があるから、全く喜ばしい話ではない。しかし、動揺や反対の声、宮本への苦情や要望といったものはなかった。むしろ、どうやって活動を継続しようかという議論を自分たちで始めるほどだった。

行政の遅れが、この国によく見られる複雑な手続によるものであることが分かっていたので、冷静でいられたこともあるだろう。しかし、それ以上に、自分たちがやってきたことへの自信と、それを続けることが地域社会に必要なのだという強い自覚を、私は彼らの言葉の端々から感じ取った。

ヒューマンケア協会でも、行政が予算執行するまでの空白期間の間、わずかながら資金援助を行なったが、その資金が介助者への謝金に優先的に回されたことについても異論は出なかった。メンバーはこれまで以上に予算の使い方や資金集めに自覚的になっていた。結局、半年遅れたものの、JICA事業の頃を上回る補助金が支給されるようになった。

ピア・カウンセリングなど自立生活センターを作るにあたって必要な技能は、日本から専門家を派遣するなどして、彼らに身に付けてもらったし、それをサポート・グループと呼ばれる形で実践をしてもらった。その体験が彼らの自信や意欲を高めたのは確かである。日本の障害当事者との連帯や、地域の障害者のために働けるという自信を持つことは大きな喜びである。それが本事業の基本である。

しかし、当地に3年住み、日常的に彼らと働いてきた立場から見ると、短期的に身に付けた技術だけでは、気が向いた時にしか地域に関わろうとしなかったり、嫌気が差したら(あるいは予算が切れたら)活動を辞める、という結果になったのではないかと思う。彼らを見ていると、技術を超えた「覚悟」を自分の中から引き出すプロセスは、粘り強いリーダーシップや個々人が悩み、揺れ動く中で構築されてきたチームワーク、そして、学んだ技術の実践を通した地域の障害者の変化とのハーモニーだったのではないかと思う。

最後に、最初集まった5人のうち、2人がすでに他界していることに触れたい。生きることを諦(あきら)めて、家の中で孤立していた期間が長かったことや、医療などへのアクセスが貧弱なことなど、さまざまな理由があるが、毎年冬になると、あちこちから訃報が聞こえてくる。エンパワメントの輪がさらに広がって、多くの障害者が生きることへの力を取り戻すとともに、第2フェーズが生活環境や医療などへのアクセスの改善に寄与することを願って止まない。亡くなった彼らとの付き合いは決して長くなかったが、今のメンバーにとっても、私にとっても今でもかけがえのない仲間である。

(みやもとたいすけ DPI日本会議プロジェクト・マネージャー)