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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年9月号

災害時における移動を考える
~移動支援Reraの記録~

村島弘子

移動支援Reraの活動

東日本大震災の中でも最大被災地となった宮城県石巻地域は、沿岸のほぼすべての集落が壊滅。中心市街地も一部を除くほぼ全域が水没した。クルマ社会であるこの地域において、数万台の車が使用不能となった。

市内に建てられたプレハブ仮設住宅は7,000世帯以上にのぼり、ほとんどが抽選による入居決定だったために、親族や知人と離れ離れになり孤立する住民が多数発生した。これらの理由により、石巻地域で移動支援のニーズは膨れ上がっていた。

団体名の「レラ」は、アイヌ語で「風」を意味する。北海道のNPO法人ホップ障害者地域生活支援センターが立ち上げた団体を地元住民が引き継ぎ、現在に至っている。福祉車両6台と一般乗用車2台を使用し、復興のフェーズに合わせたさまざまな人々の“足”となり、活動を続けてきた。

送迎の対象者は、公共交通を利用できず、送迎する家族などもなく、経済的に困難な方。毎日平均延べ70人、年間2万人ほどを送迎している。震災からの累積送迎人数は13万人を超えた。行き先の9割が病院で、利用者のほとんどが高齢者や障害者、生活困窮者である。

ここでは、私たちが実際に経験した事例を紹介しながら、災害と移動について考えてみたい。

移り変わる移動困難者

災害が発生した時に、安全に確実に避難するための移動手段を考えておくことは大切だ。だが、避難した後にはさらに長く不自由な避難生活がある。

災害時における「移動困難者」はフェーズによって移り変わる。

被災直後は多くの人々が一時的に移動手段を失い移動困難となる。やがて公共交通が再開し、自家用車を購入し、移動手段が戻り始める。

この時期の移動困難者とは、被災を機に運転を諦(あきら)めた人、公共交通の利用がもともと難しく孤立した人などである。それは見方を変えれば、もともと抱えていた移動の問題が災害をきっかけに前倒しで現れた状態ともいえる。個人の問題だけでなく、たとえば、不十分な公共交通やマイカー依存などの社会的な問題とも結びついている。

被災地で何が起きたか

送迎を通じて知ることとなった、さまざまな被災の断片を挙げてみる。

「自分を置いて逃げろ」と言う寝たきりの父親を残し、泣く泣く逃げて自分たちだけが助かったと話す方。避難所前で津波に追いつかれ、避難所から飛び出してきた男たちに担がれ、間一髪で運び込まれた車いすの方。一方で、間に合わずに車の中で命を落とした方。

全壊で立入禁止の紙を貼られた危険な自宅に戻った家族。「障害のある子どもが避難所や親戚宅で迷惑をかける」という気兼ねからだった。自宅の1階が壁ごと津波にさらわれ吹き抜けになっている家の2階に、寝たきりの親と暮らしていた家族。

「夫婦」「母親と息子」等の場合、一緒に入浴して介助することができないため、被災から2か月以上も風呂に入れないまま避難所の床に横たわっていた方。市の臨時バスで人工透析に通っていたが、途中でバスが終了。タクシーで片道数千円する避難所に突如、取り残された方。

「そんな理不尽な!」と叫びたくなる状況だが、誰もが余裕のない被災地では、気づかれない人々や気づかれても放置される人々で溢(あふ)れていた。

これからのためにできること

災害が起きる前にできる備えとは、何なのであろうか。

まずは、学ぶこと。被災地には多くの「負の教訓」が生み出された。目をそらさずに事例を学ぶことによって、被災時に起こり得るさまざまな問題を想定しておくことができる。

日常の関係を大切にすること。車いすの利用者夫婦が、家具が倒れ身動きが取れなくなった際、上の階の住人が助けに来て抱え上げられ、間一髪で部屋を襲った津波を免れたという。

重度の障害をもつ利用者は、日頃から家族ぐるみで地域の交流をしていた。避難所に逃げ込んだ際には、近所の方々に良い場所を用意してもらい、不便な生活も助けられながら過ごすことができた。

災害と日常は一つの線上にある。暮らしやすい日常のための関係づくりが、転じて非常時に大きな助けとなる。

被災をきっかけに現れた移動の課題は、新しいものであり、昔からのものであり、未来の世の中の先取りでもある。

私たちが地域の住民(移動困難であるなしにかかわらず)から言われるのは、「ずっと活動を続けてほしい。これからもこの地域に必要だから」という言葉である。

この言葉の意味をしっかり受け止め、地域に根差した組織づくりを模索しながら、これからも活動を続けていくつもりでいる。

(むらしまひろこ NPO法人移動支援Rera代表)