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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年11月号

注意欠如多動症の私の思うこと

平井佑典

私は注意欠如多動症を持っています。診断されたのは19歳でした。きっかけは妹の診断です。当時、小学生の妹は学校に馴染めずに保健室登校をしていました。そして、学校の先生の勧めもあり病院に検査に行って、発達障害の診断をされたのです。

ですから、最初は妹の理解のために発達障害に興味を持ちました。しかし、調べていくうちに自分の困難にも当てはまることがわかりました。そうして、私も検査を受けて診断されることとなったのです。

私は集中するのがとても苦手です。正確には、集中力をコントロールすることが難しいです。たとえば、幼少期から生活面のだらしなさを親や先生によく怒られました。学校のプリントや教科書、筆記用具あるいは道具箱の中身は常に散らかっていました。どれくらいかと言いますと、たとえば、学習机に収納されている道具箱が物で溢(あふ)れて引っ張り出せないくらいでした。

家においても同様でした。よく母に「机の周りだけでも綺麗(きれい)にしなさい」や「ゴミを捨てなさい」と言われました。しかし、それは大変な作業でした。「ゴミをゴミ袋に入れる」といったシンプルなタスクも、2、3個やったら…もしくは数分のうちに遂行困難になります。これは、作業中にとても気が散ることが原因かと思います。

一方で、「スイッチが入る」とわが家では表現しておりましたが、とても長く集中して作業することもありました。たとえば、学校でも図画工作や体育は、自身の発想で手や体を動かせるのでとても気に入って取り組んでいました。また、家でもテレビゲームに熱中したり、苦手な片付けものも年に1回くらいは妙にテキパキこなすことがありました。

こうした様子から、周りの大人たちには「やればできるのに」と言われ続けていました。「やればできる」と言えばポジティブにも聞こえますが、「のに」がつくと話は違います。「やればできるのに、なんでやらないの!」ということです。子ども心に、「自分はよく怒られるなぁ」と感じていました。

やろうとしてもできない。できる時もあるけど、自分ではうまくコントロールできない。それをいつも本人のやる気の問題として叱られ続けるのはとても辛いことでした。

また、私にはもう一つ大きな困難があります。それは、「待つ」ということです。たとえば、授業中に黙って先生の話を聞くということが大の苦手でした。通信簿にも「おしゃべりが過ぎます」とよく書かれていました。

最初はちゃんと聞こうとします。しかし、聞いてる時間がすごく短いのです。相手の話を最後まで聞けず、遮(さえぎ)るように自分の思いついたことを口にしてしまいます。また、話そのものから注意が逸(そ)れることもしばしばです。授業中であれば、それは黒板の掲示物であったり隣の子や窓の外などです。興味の対象が移ると、そこからいろいろな想像が膨らみます。そうして上の空になり、早く授業が終わらないかとソワソワし始めるのです。

授業と関係ない言動が目立ち、私はかなりの頻度で怒られていました。「けじめをつけなさい」「口をチャック」などの言葉は、よく言われたので覚えています。

ところが、小学校6年生の時の担任の先生だけは別のやり方をしてくれました。私の授業中の発言を規制するのではなく、「良い発言」に促してくれました。「大福帳」という名前のノートを黒板の下に吊るし、「良いことをしたら先生がシールを貼る」というシンプルな方法です。

「良いこと」とは、積極的な態度や行動でした。たとえば、「係活動の立候補をした」や「掃除を丁寧にやった」などでした。授業中の発言も歓迎でしたが、授業への質問や進展を促す発言が「良いこと」とされました。先生の力量もあったと思いますが、単純な私はすぐに乗せられました。この時の学級はとても楽しかったです。振り返ると、診断に至るまでの12年の学校生活で、この1年間だけは伸び伸びと学級に参加できました。

私は教育や療育のことはよくわかりません。ただ、学生時代を振り返ると、「本人の気持ちを大切にすること」「肯定的な態度で接すること」「本人が力を発揮しやすいやり方を見つけていくこと」それを「関わる人たちで共有しながら受け継ぎ、さらに良くしていくこと」が必要なのかなと感じます。

きっと、子どもたちにはそれぞれの個性があり、同じ診断名でも同じ方法が有効とは限らないと思います。その子とじっくり向き合いながら、良い面を育てるための連携が広がると嬉(うれ)しいです。

(ひらいゆうすけ 東京都在住)