「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年11月号
列島縦断ネットワーキング【東京】
絵画の「触楽」を求めて
塚崎美歩
9月30日、広瀬浩二郎×間島秀徳「無視覚流アート論VSKinesis~絵画を触楽する、制作と鑑賞者の《気》の対話」(東海大学課程資格センター共催)が、間島秀徳 個展「Jackkifing “Kinesis”」(中央区銀座、ステップスギャラリー、9月25日~30日、企画 塚崎美歩)の関連イベントとして開催された。広瀬浩二郎さんと間島秀徳さんの対談に加えて、出品作に触って楽しむ鑑賞の試みでは、来場者もアイマスクをつけ、触る鑑賞の体験を共有した。
ギャラリーに入ると壁面いっぱいの高さ2メートル、4枚のパネルからなる幅7メートルほどの巨大な和紙パネル。滝のように流れ落ちる波飛沫をまといながら、山脈のようなものが水面を浮上してくる作品《Kinesis No.705(jackknife)》の豪快な画面がある。
作者の間島秀徳さんは、広げた和紙を水に浸し、そこに川砂や溶岩、大理石粉などさまざまな素材を撒いては樹脂膠(にかわ)で定着させ、水の流れの痕跡をかたちづくる絵画を描いてきた。特定の場面を描いた作品ではない抽象絵画だが、眺めていると海流や波や島など自然のイメージが湧く。滝のように流れ落ちる水の流れは、触れたくなる豊かな触感を持っている。
広瀬浩二郎さんは、宗教社会学と触文化論を専門とする文化人類学者で、自らも13歳で失明されており「目に見えない世界をフィールドワークにより明らかにする」ことを軸に多岐にわたる分野で研究、国立民族学博物館では「ユニバーサル・ミュージアム」(誰もが楽しめる博物館)の実践に取り組み、昨年の「つなぐ×つつむ×つかむ 無視覚流鑑賞の極意」(兵庫県立美術館、16年7月2日~11月6日)という展覧会で彫刻を触る鑑賞のプロデュースに携わった。
この「無視覚流」の彫刻鑑賞では、ふだん視覚に頼っている「健常者」はアイマスクをつけてスタッフの誘導により作品に向かうが、歩くことも危なかしく道のりがとても遠く感じられる体験に衝撃を受ける。広瀬氏による音声ガイドに従い、細かく指先で触った感触を「つなぐ」、手のひらで「つつむ」、作品のエネルギーの流れを「つかむ」ことで作品を鑑賞すると、触覚だけでも作品や作家の特徴が捉えられ、慣れれば作家名なども分かる。つま先では衝撃を受けたが、指先には希望が伝わってくる不思議な味わいの鑑賞だった。
今回の展示では、この「無視覚流鑑賞の極意」を絵画へと展開することで「触による絵画鑑賞」を実現し、広瀬さん流の絵画論を読んでみたいと希望を持った。しかし絵画に触れて鑑賞する例は少なく、鑑賞の仕方を模索し、広瀬さんと、彼とともに触ることによる美術鑑賞の実践をしてきた篠原聰さん(東海大学)、筆者とで、間島さんのアトリエを訪問し制作中の作品を触って鑑賞した。訪問の手ごたえから、広瀬さん流の絵画論「そこに宮本武蔵がいる!」が誕生し、イベントのテキストとして配布した美術評論誌「SaTetsu通信08」に掲載した。
トークイベント当日は、広瀬さんから「目が見えない」から「目に見えないもの」への感覚の変容や、心に焦点を当て障害のある人もない人も楽しめる『体感する奈良!“心”感覚展』への思いを語り、民族資料の鑑賞教育で出合った実例を交えて鑑賞のポイントや作品への配慮を伝えるなかで、人の手で作られたものや作品を指先で追体験して、その〈気〉を感じ、そのために作品に大切に触れる気持ちを持つことの重要性を語った。
広瀬さんと篠原さんが作品に触って鑑賞し、実感の言葉を交わしたのち、会場の参加者も絵画に触れる体験の時間をもった。晴眼者はアイマスクをつけた状態で学生のアシストを受けながら作品に触り、体験後にアンケートで感想の聴きとりを行なった。
後半は日本画の大切な要素として〈気〉を意識してきた間島さんと、合気道を習得し鑑賞のなかでも〈気〉の感覚を大切にする広瀬さんがそれぞれの〈気〉について対談を行なった。広瀬さんは、宮本武蔵の『五輪書』に着想し、間島さんの作品に宿る〈気〉を地水火風空の奥義で読み解いたが「制作者としての武蔵、鑑賞者としての武蔵」がいて絵が存在する。「伝えたい人と感じたい人がいれば、気が交流する」と語り、ユニバーサル・ミュージアムの奥義を垣間見るような対話となった。視覚障害者、制作者や美術愛好家、ユニバーサル・ミュージアムや博物館に関わる方々の30人が参加、東海大学博物館学芸員資格課程の学生ら約20人が鑑賞アシストを担当した。
会場からの質問や感想も多く寄せられた。間島さんの「日本絵画は決してフラットなものではない」との指摘からも議論が派生し、会場の美術館関係者からも「触る」というテーマを考えることで、触覚から展開する新たな日本絵画の歴史があるのではないかとの美術史的な論点が示された。
篠原さんから「手のひらで作品に触れる心地よさを味わった」という感想が出たが、大理石のざらざらした感じや、岩絵の具のもつ微(かす)かに柔らかなタッチ、画面中央に浮かぶモチーフに塗られた細かな溶岩のごつごつした感触、川砂の絵肌のどっしりとした感じ、大画面の広々とした感覚など、絵画の素材からじかに触って得られる学びと楽しみには、触図印刷や言葉による解説に代えがたいものがある。
美術館の収蔵作品は、画面への接触を極力避けることが鉄則であり、今回の鑑賞は作り手の間島さんの協力と広瀬さんの熱意で実現した。絵画についても広瀬さんのいう「人の手で作られたものを手で触れて追体験する」鑑賞機会は、模写を使用したり触るための絵画を制作するなど工夫は必要かもしれないが、何らかのかたちで実現する価値があるだろう。広瀬さんは、触って捉えたイメージを「宇宙空間や星雲のよう」と言い、会場からも山や岩などのさまざまなイメージが出てくる。一方で、先に鑑賞している人や周囲の言葉を聴いて、イメージするものと実際に触って感じるイメージが異なることで混乱するという話もあった。触覚と視覚で捉えたイメージがずれる部分もあり「聞こえることや見えるものが必ずしも正解ではない」と実感する。
間島さんの作品を前に、次々とイメージが移りゆく時間が紡がれてゆくプロセスはどの感覚情報にも共通である。イメージの違いや変化を豊かな多様性として楽しめるよう試行を重ね、よりよい絵画経験の実現へとつなげたい。会場では他にもたくさんの意見や質疑が交わされ、どれも可能性の萌芽である。その意味を一つ一つじっくりと紐解いてゆくことが、見える・見えないにかかわらず、鑑賞と制作の両面から、すべてのひとにとって有意義な「触楽」へと繋(つな)がるはずである。
(つかさきみほ 北翔大学北方圏学術情報センター 学外研究員)