Dr. G. Keys Smith
Director, Handicapped Children's Centre, Royal Children's Hospital,
formerly Medical Officer in Charge, St. Andrew's
Mission Hospital for Children, Singapore.
セックスというものは、正常な人々、特に若い人たちの人生において最も重要な要素の一つをなすものであるが、障害者にあっては、障害ゆえに性活動に生起する問題や制約をもつということから特に重要なものとなる。
この論文では上記の問題について、初めに障害者の性に関する身体的問題、ついで結婚への見通し、その困難さと可能性、最後に性生活に関するいくつかの行動問題という三つの側面から述べることにする。
身体的側面から性生活をみた場合、男性では精子形成、勃起、射精の三つの機能が必要であり、女性では膣の開放、卵子形成、それに受胎、妊娠、出産の可能性が必要である。これらの諸機能についてみれば、ほとんどの障害者は正常な機能を有しており、身体的側面からの問題は少ないといえる。しかしながら、性器に悪い影響を与える病気もいくつかあり、特に下半身マヒは性生活での身体的側面に劇的な影響を与える。毛髪や胸部等の二次性徴についてはほとんど正常者と変わりがない。ところで、きわめて少ないが、性活動を低下させる病気がある。これは精神遅滞者(シェルタード・ワークショップにおける典型ではない)の多くにみられるもので、極度の衰弱を伴う病気の多くにもみられる。しかしより重要なことは、障害者の多くにセックスそのものにおける不適切さや不安定さ、それに無能感が伴うことからくる心的な影響である。これは男性を著しく不能にさせる作用をもち、しかもこの徴候は種々の神経症的症状を有する正常者のそれとは異なるものである。
重度で進行性のマヒを有する患者は、多く不能であり、セックスの欲求の欠如しているものであるが、これはシェルタード・ワークショップ職員の限界を越えたもので、これら職員がより関与できるのは、性交に伴なって不随意運動や緊張してしまう痙直やアテトーゼの患者であり、かれらは配偶者の最大の助力と励ましがなければ性行為が不可能になってしまうほどのものである。なお四肢や体幹にマヒを有する患者は、性交の際、体位や運動に実際上の困難が伴う。
さて股関節や骨盤の疾病は、男性では性行為の妨げになることはまれであるが、女性の場合、実際的な困難を伴うことがある。これらの疾病は、関節炎や骨盤の溶解によって生起するが、もちろん骨盤の異常は妊娠や出産に重大な障害になりうるのである。
下半身マヒには特別の問題があり、より以上に複雑である。というのは、既述のように男性には三つの諸機能(精子形成、勃起、射精)が必要であるが、下半身マヒはこれらの機能すべてに困難がある。下半身マヒに関する研究によれば、局所刺激に対してはほぼ46%、心的および局所の両刺激に対しては20%が勃起し、全体では66%がその可能性を有していることを示しているが、このことは逆に34%の者が全く勃起せず、性交不能であることも示している。これらの患者は、女性を満たすだけのじゅうぶんな勃起を維持することはできないが、わずかの者に射精の可能なこともある。さらに外傷や三次感染により精子形成が妨げられていることもあり、下半身マヒの男性のうちわずかに5~7%が実際の生殖可能者にすぎない。そこで人工授精が試みられているが、満足すべき成果はあがっていない。多くの既婚者たちにとっては、養子縁組だけが家族をもつ手段である。
下半身マヒの女性では、受動性のゆえに困難さはより少ないといえる。膣は開放し、性交が可能で、受胎能力はそこなわれないのである。多くの下半身マヒの女性は妊娠も可能であり、注意深い指示のもとで出産をし、子どもを得ているのである。
性器に感覚がないという例のような実際に即したことで、性交が問題になることもある。この例では身体刺激によるオルガスムスはなく、心的要因によってのみ満足を得るのである。また性器への激しい刺激によってのみしばしば勃起が得られるということから、妻がこれをしなければならないという容易でない事実もある。下半身がマヒし、動きが制限されているということで妻は勃起させ、それを維持させるためにより積極的にならなければならないのである。さらに下半身マヒの患者は、膀胱や腸のコントロールがしばしば困難であるということから、性経験が排泄機能と結びついてしまい、相手に著しく抑制的な影響を与えるというゆゆしい例もある。
このような経験を分かちもつには、心身ともに成熟した、理解ある配偶者でなければならず、下半身マヒの男性はこのことを特に感じている。研究によれば、勃起が不可能で配偶者をある程度満たしてやることのできない患者は、これらの機能を果たすことのできる患者よりも引っ込み思案で抑うつ的であることを示している。
セックスに心的に付随するもの、たとえばノイロティックな考えにふけることや、裸体を実物や写真で視覚的に楽しむこと、また実際の身体接触の経験談とかは、あまねく不変のものである。しかしながら、障害を受けている範囲水準よる下位の感覚が喪失しているということから、これより上位の接触が欠くことのできないものとなる。そしてこのような患者は、普通の性交よりも接吻や愛撫により大きい満足を得るのである。
簡約すれば、ある障害のタイプ、特に下半身マヒにおいては非常に苛酷で、ときには荒廃をもたらすような結末もあり、各シェルタード・ワークショップの長は、セックスの問題が討議される際に、これらの事実を知っておくことがたいせつである。
セックスの身体面に関して、ほかの二点を指摘したいと思う。
第一は地域社会における他の多くの正常者のように、障害者もセックスの身体面に関してしばしば怪奇な考えをもつということである。これに関する知識が欠如するのは、授産施設収容者に顕著であるが、これはかれらが児童や青年として収容されている保護環境のゆえに、ますます異性と交わる機会が少なくなってしまうためである。授産施設への入所が、その者にとって異性との最初の緊密な接触であることもある。このことからも、障害者の訓練や教育にはより考慮が払われなければならず、その長は、セックスに関する誤った考えが、これら収容者に共通していることを認識しなければならない。
第二は、多くのタイプの障害についていえることであるが、個人がその障害のために成熟が遅れたり、ときにはとまってしまうこともあるということである。これゆえに、障害者は、年少の者によりふさわしいような身体特徴や性行動における関心を示すのである。
たいていの障害者は、他の正常者と同様に、結婚についてあれやこれやと考えるものであるが、その多くは結婚が可能であるのか、そして当を得たものになるのかについて悩んでいる。もちろん障害者の多くは満足できる結婚をしているわけであるが、概してシェルタード・ワークショップに入所している障害者では、結婚のチャンスは少ないといえる。一方地域社会における障害者の結婚は、被雇用の可能性いかんに密接に結びついている。調査によれば、一般会社で職を維持できる者は、男女を問わず結婚の可能性があることを示している。
オーストラリアでは、シェルタード・ワークショップの障害者のうち何パーセントの人たちが結婚しているかについて明らかでないが、多分少ないであろう。施設に入所している人たちと同程度の障害を受けている青年たちに関する調査でも、結婚する者の割合のきわめて低いことがわかる。このように、概して障害者の結婚の機会は非常に少ないわけであるが、その中でも男性における結婚の可能性のほうが、女性のそれよりも大きいといえそうである。それは男性の世話をしたいという女性もおり、これなどが正常者の重度障害の青年との結婚に影響する一つの無意識の動因になるからかもしれない。他方男性のほうも、配偶者には一般に正常者を望むということがあって、女性の結婚はより機会が少なくなるのである。
このような、結婚で最も重要な点の一つは、配偶者が障害の正確な認識を得るということである。これは婚姻関係にはいる際の身体面での困難の度合のみならず、障害によって生起するかもしれない遺伝的な問題までも含まれなければならない。また結婚の永続性にきわめてかかわりのある心理学的問題や適応問題も知らされなければならない。不能とか性交維持ができないというような問題は無効となる動機にもなるので、配偶者がこの事実を知り、その状態を受け入れることが重要である。
結婚にあたって障害者は、その障害が遺伝するかどうか悩むものである。これは遺伝の可能性が病気の種類のみならず、タイプによっても異なるということから複雑な問題である。幸いにも障害の多くは遺伝の問題を含んではいないが、遺伝学者のいう数例の場合については、結婚が見込まれる時点でいつも専門家の助言が望まれる。
精神遅滞やてんかんに関しては、多くの研究がなされているが、その結果もさまざまに得られている。このような疾病をもった者が結婚した場合、その症状の遺伝する可能性はほとんどないのであるが、相手も精神遅滞やてんかんである場合には、より以上にゆゆしい問題が生起してくる。すなわちこのような疾病が一方の親のみであるならば、種々な知的能力をもった子どもの生まれる可能性があるが、それが両親ともの場合は、疑いもなく平均以下の知的能力をもつ子どもが生まれるのである。
同様な問題は糖尿病の患者や、ある特別な筋肉疾患者にも生起する。すなわち糖尿病の患者とその遺伝質を受けていない者との結婚による子孫はほとんど危険がないが、両親ともに糖尿病である場合は、その子どもが糖尿病になるチャンスはかなりあるといえる。ある筋ジストロフィーでは問題がさらに複雑である。一般的なタイプの筋ジストロフィー(Duchenne)では、男性は結婚するのもまれであり、その姉妹が素因をもつ可能はほぼ50%、その息子に素因のある遺伝子を与える可能性が50%ある。またシェルタード・ワークショップにみられる、あまり一般的でない筋ジストロフィーの一つでは、男性、女性いずれかの子どもの半数がかかっていることがある。なおまれにしかみられない病気で、直接遺伝することが明らかにされているものも多くあり、病気の遺伝に関するコメントには注意を払うべきである。それはこの問題がきわめて複雑で、疾病についての正確な認識と系図に関してのかなりの知識を必要とするからである。ただ専門家の意見は、このような知識を求められたときに与えられるようにしなければならない。
障害者の多くの結婚では、夫婦の問題がより重要なものとなるが、その問題となる点はすべての夫婦に共通したものである。しかし配偶者の一方ないしは双方が障害を受けている場合には、「障害者の結婚は、他の正常者のそれと決して変わってはいません。全くそれ以上なんですよ。」というある障害者の言葉のように、その問題がより困難なものとなる。
このような結婚をした配偶者は、その障害が結婚のきずなにしばしば緊張をもたらすということから、かなりの助力を必要とするものである。さて障害者自身および社会についてのかれらの態度や感情、それに対人関係の問題等を扱ったこのテーマは、障害者とともにいる読者にとってはよく知られていることがらであり、いまさらここにあえて記すこともないが、しかしながらこれらは、多くの障害者にとっての結婚の当否と成功に直接関係しているということである。
障害を受けている児童や青年の成熟過程に著しい差のあることは、すでに強調したところであるが、多くの障害者は疾病や保護的環境のゆえに正常な成熟をせず、青年期初期ないしは中期に普通にみられる行動型と全く共通したパターンを示すのである。これをセックスについてみれば、セックスのことがらについてのせん索好きとフィルムや絵、テレビ等のセックスに関する情報に対しての未熟な反応がこれにあたる。この未熟さに対しては理解と同情が必要であり、彼らに正確な知識を与え、より成熟した態度がとれるようにする必要がある。
障害者の性的倒錯に関する研究はわずかにしかなされていないが、正常者に比してかれらの間により広くおこなわれているという結果はほとんどみられない。このような行動は、多く未成熟さや性的好奇心によるもので、特に精神遅滞者にみられるが、これはかれらに正常者と同様にかなりの性的欲求がありながら、その行動の意味を認識できないことによるのである。さらにゆゆしいことは、社会に対しての隔絶感や苦味ないしは精神遅滞であることを利用して、異常な行動に導こうとする無節操な人により、障害者にそのような習慣が形成されることである。
より複雑なことには、セックスの異常性が人の悲痛感や憤りの感情によっても出現するということである。また自分自身に性的能力のあることを確信させるためにとられる行動も多い。たとえば、糖尿病の一女性であるが、かの女は性交が不可能で、子どもを産むことができないといったその晩に、街で知り合った一面識もない男性と性交をしているのである。同様なことは病院の障害者にはよくあることで、重度障害の患者が看護婦と性交渉を持とうとするのは、その人に関心を抱いたのではなく、かれらが自分自身に対して性的能力のあることを示さんがためである。しかしこれらの例で性行動を批判するのでなく、その個人が自分自身や社会について感じている方向を理解してやることがたいせつである。
自分自身の身体に関する概念が、その人のパーソナリティとか他の人との関係における概念に多く関与していることから、ボディ・イメージについての論文が多く書かれている。人はみな自分の身体についてあるイメージを抱き、筋肉の発達とか手先の器用さ、身体の美しさなどにある誇りをもっており、ボディ・イメージとその人の価値観には密接な関係がある。障害者には手足の欠損とか筋肉の萎縮、視力の欠損、身体のマヒなどがあって、ある意味でボディ・イメージが損傷を受けているわけであるから、自分の障害に合致させるためにも、身体に関する新しい概念を発達させなければならない。
さて身体で最も重要な部分とはセックスに関係した部分である。性衝動には非常な力があり、しかもこれが個人の発達にたいせつであるということからも、セックスの異常性がその人自身のイメージや価値観に深い影響を与える可能性をもっている。これは現代社会での非常なセックスの強調とか、文学、広告、マスメディアにおける“身体の完全性”ないしは“身体美”の強制などにより、ますます強められているのである。したがってこのような環境では、障害ゆえに正常な性生活を行なえない者が劣等意識を持ち、完全な人間ではないと感ずることを避けることができない。かれらはよく障害を受けた部分を“無益”で、“自分のものではない”といったり、ときには嫌悪感をもってみたりするが、その結果、心配とか恐れ、抑うつ、緊張した対人関係、児童期の未熟な行動パターンへの退行、それにフラストレーションの表出といった、誇張ないしは不適切な情緒反応を示すのである。
そこで私たち障害者とともに働く者やかれらの観念の形成に関与した社会の人たちは、パーソナリティの成熟を助け、かれらが他から尊敬される人であることを確信させてやるように助力しなければならない。そうすることによりかれらも身体的にハンディのある範囲で、精いっぱい生きる励みを得るのである。
Robert Browningも次のように書いている―
“あなたにとっても
私にとっても
だれにとっても共通の問題は、
たとえそれが正しいとしても
それが人生において
正しかったものを空想するのではなく
まず今後正当になるものをみつけ、
さらにいっそう正当化する方法を発見して
みんなの財産にすることであろう。”
(山下 皓三訳)
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年1月(第1号)34頁~38頁