セックスと精神薄弱者

セックスと精神薄弱者

Sex and the Mentally Ratarded

Dr. A. N. Jennings, and others

Director of the Mentally Handicapped, Department of Health,
N. S. W. Australia.

 精神薄弱者のセックスの問題と、その問題について地域社会の態度はいろいろな点で身体障害者の問題についてのものとは違っている。知性のある身体障害者は、一般の人々の一部であると思われている。ものの考え方も知られている。身体障害者の物質的な生活と他人に対する態度も、正常人と同じだと思われている。しかし、精神薄弱者の場合はちがうと思われてきた。今になって、彼らを正常者と同じに扱うことについて論じあっているのである。彼らの生活のうち、セックスに関することはよくわかっていない。数世紀にわたって、セックスについては秘めかくすということがあったため、実用的な知識をえることがなかなかできなかった。今までの、せまくてしかもおさえつけるような法律などのため、性衝動を表現することがやりにくかったし、精薄の若い男女が社会的に交流することさえむずかしかった。また実用的な調査や研究もほとんど行なわれてこなかったし、伝統的なカウンセリングでも、ほとんど別扱いにし、そのカウンセリングの結果も別途に報じられてきた。

 おそらく、正常者のセックスと性教育全体の問題も、今までのぼんやりした状態でなく、はっきりとした形でとりあげなければならないと思われる。そのことはまた、特殊な問題と特殊な要求をもつ精薄者のような人々に実用化できるかどうかよりも、先だつ問題だと思われる。学校における性教育を論じる中で、Delbert Oberteufferは次のように書いている。

「われわれは、あいまいさ、あてすいりょう、言い伝え、迷信、無知などは必要としない。しかし正確さを強調することもまた問題の一つであることを皆が理解しなければならない。われわれの性生活の中で、科学的だと言われているものの非常に多くのことが、キリスト教の信条やユダヤ民族の信条、さらに種族の特性にもとづく文化様式などからできあがってきたのである。そのため、化学的ということを強調すると、今言ったようなものと相いれない信条をもっている人からは攻撃のまとにされてしまいかねない。さらに、科学者自身が、生理学者、心理学者、内分泌学者など、また他のどんな器質関係の学者であっても、自分がセックスの働きを説明するにはほど遠いということをおそらく知っていると思う。たとえば同性愛をとってみる。教室内でそのことについて、科学的で正確な何かをしようとしてみる。第一に、そのことについて説得力のあることを行なうには、どういうことをすればいいのかさえじゅうぶんには知られていない。第二に、哲学者、宗教者、科学者、著作家が、2500年にもわたって、同性愛が正常な状態であるかどうかを論じあってきているのである。われわれの文化では、異性愛だけが受け入れられることが完全に明らかにされているだけである。」

 OberteufferはDr.Marion Pollockからの手紙から、次のことを引用している。

「セックスはいつも興味ある事件である。現在公けにされているもの、つまり映画、舞台、文章、テレビ、広告にはっきりと描かれた、ある種の裸体像、性行為などいまわしいものをみると同時に、学校で性教育が行なわれているということをきいて、おどろきにたじろいでしまう。」「健康に関しては、カリキュラムの下位領域に分解してとりいれることをほとんどしていないことは、残念である。性教育と家族生活は健康問題のうちの一つである。ひとたびわれわれが完全で段階づけられたカリキュラムを発展させることができれば、そういうカリキュラムの整然とした下位領域のすべてが人間を全体として研究するための、知的な研究法になっていくであろう。」

 過去には、われわれは精薄者があたかも一つの同じ性質の人々であるかのようにみなす傾向があった。ふつうは、この人たちが正常な感覚をもちあわせていないと考えてしまうか、または、個人としてあるいはグループとして、危険な性衝動をもつものと考えてしまっていた。われわれは彼らが自分の行動になんらかの規制力をもっているものではないかと考えもしなかった。精薄者に子どもをつくることができるようにすると、だんだん種族全体の知性が低くなっていくのではないかと数十年にわたって恐れられていた。

 1920年にHollingworthは精薄の90%は根本的に遺伝によることを示す根拠があると考えていた。1934年までに、Penroseの研究によって、29%が遺伝によるというように減少した。しかし、古い考えによる、遺伝的なものであるという恐怖はまだ地域社会に多く残っている。

 文献によると、Babroff Allenが1956年に書いたA Survey of Social and Civic Participation of Adults formerly in class for the Mentally Retardedで、軽度精神薄弱者について、仮定的にではあるが次のように報告している。144人について年間追跡調査したところ、67%は結婚した(デトロイト市の人口の82%が結婚している)。また、被調査者の初婚のうち16%は離婚している(同じく同市民の離婚率は8%である)。彼はさらに次のように言っている。市民教育のいろいろの分野に力説しなければならないことが発見されるが、被調査者は、じゅうぶんで望ましい社会的生活様式を身につけてきたように思える。自分の家族といっしょに生活している121人の被調査者のうち86%について、家族が社会活動のすぐれた単位を構成している。また、被調査者の75%が親しい友人をもっているということである。

 したがって、こういうことについては、軽度精薄者の大多数については正常者と同じだと考えられる。学校卒業後に、軽度精薄者に特別の施設が必要であれば、実際に彼らは正常者の生活様式をとりいれることができるし、地域社会で受け入れることもできる。ただ、かなり高い社会経済的地位にある家庭に生まれた精薄者は困難をもっている。つまり、両親は全く異常とみなす傾向があるし、生涯の保護が必要だと考えてしまう。勤労階層では、家族は若い人にあまり期待しないのに対し、こういう家庭は、その精薄者の兄弟が、専門的な職業についたり、実業界で名をあげたりすることを期待されるので、精薄者については、結婚したり、単純労働についたり、家庭を営むことはできないものだと考えられてしまう。

 アメリカの研究によると、中度精薄者でさえ、結婚に成功した例を評価している。Dr. Keys Smithは身体障害者の場合、男性が女性よりも結婚しやすいとのべている。Edgertonの報告によると、精薄の男性と正常の女性よりも、正常の男性と精薄の女性のほうがはるかに結婚している例は多い。

 Legislative Aspects of Mental Retardationに、1967年のストックホルムのシンポジュウムの結論として、精薄者のための新しいことがいろいろ宣言された。それは一般原則という名のもとで、「居住地の選択、余暇の活動、財産の処理、人としての身体的精神的完全性を保つ、投票、結婚、子どもをもつ、問われた罪について公平な裁判を与えられるなどの諸権利…」などである。

 Bank-MikkelsenはServices for the Mentally HandicappedのデンマークのDirecterであるが、1968年にシドニーを訪問している間に、結婚や子どもをもつことの権利について、相当詳しく語った。強制措置として断種することは、デンマークでは消滅したが、精薄者の同意があればまだ行ないうる。だれが子どもをつくってそれを養育すべきかを、われわれが、予め判断すべきかどうかに疑問をもち、これをさせているいろいろの社会的背景について語った。オーストラリアの精薄者の親は、祖父母から分離してきたといえる子どもの実際の責任を自分がとることについてかなり悩んでいる。今、デンマークでは考え方の変化が起こり、このことについて、精薄者とのカウンセリングを通して断種のほうへかなり傾いているか、または親密な管理をしていく傾向があるようだ。

 他の正常な人々が貧しい両親をもつのが望ましくないと同じく、中度と軽度の精薄者がパーソナリティの問題をもてば、子どもに対して適切な養育をしたり成長を促すのに望ましいとはいえないこともある。子どもの興味がわれわれの最高の関心事でなければならない。具体的思考しかできず、抽象的思考、象徴的思考のできない、いちじるしく自己中心的な精薄者は子どもの欲求に鈍感であろう。

 結婚の機会のある精薄の少女は、花嫁衣装、教会結婚式、彼女自身の家庭をもつなどにあこがれ、結婚をする。そしてそのとき断種に同意することになる。のちに彼女は子どもをもちたいという切なる願いに苦しみ、絶望感に悩む。彼女は養育者として認められることを夢に描く。彼女は人として価値を低くみられていると感じるようになる。精薄者が満足の欲求の補償をみつける機会は、昇華することができ、抽象思考ができ、知的満足ができ、いろいろの社会組織の一部などになりうる正常者よりもきわめて少ない。しかしまた、われわれはおそらくそうした障害者の創造的な興味や技術の可能性を軽視している。われわれは精薄者の同質の、繰り返しの作業をする者という型にはまった固定観念を持っているのかもしれない。

 ある精薄の女性は、その家族や他人から情緒的なささえを得ることを求めるだろう。そして、子どものいない婦人の悲しみをわかちあうことを理解する。男性も絶望感をもち、そのことについて語りたいと思うだろう。しかし、中度精薄者の多くがこの絶望感を必ずいだくわけでもない。さらに彼らは自分が操作できない状態からの保護を必要とするだろう。子どもをもつことに責任をもつことのできない社会的に不適当な、このような女性にとっては破滅的かもしれない。子どもができうることと、生活のほとんどすべての分野にさけられない絶望的な状況があることが、まず配慮されなければならないことを強調したい。

 デンマークは精薄者の社会的実験室となってきた。そこでは少なくとも結婚やその他の要求を満足することは、今や中度精薄者にも可能になっている。彼らについての新しい計画の一つでは、精薄者がなんらかの管理のもとに、ふつうのアパートの1階と2階が、ひとりか結婚した2人で住めるように接収されているところがある。地域社会は、やがて彼らを終着的なこどもであるとみなすことをやめるであろう。結婚は結婚のまねごとでなく、真の結婚でなければならず、またそうみなされなければならない。われわれの法律下の人々は、牧師や行政長官が、じゅうぶんにその疑問を解き、結婚の誓いを理解していると確信していなければ、結婚することはできないのである。

 オーストラリアは、一般に精薄者の成人生活についての考え方とその計画で、先進国家に遅れている。公認されている計画的援助の中に、とくにカウンセリングの援助をとりいれなければならないなどの、いくつかの一般的な原理をわれわれが注視することは役にたつであろう。

 知的障害をもつ人々の多くに成熟過程の遅滞があり、正常な人の場合当然であるような発達の速度が、いろいろの面で一様ではない。性的発達のいわゆる正常な段階は、精薄者にとっては時間的にひきのばされる。このため、結婚の失敗、いらだち、困惑の機会を多くしてしまう。若い人や両親がこのことで忠告を求めても、医学や関連分野の専門家の援助やカウンセリングが欠けている。これはまだ、この分野に従事する人々が少ないことも一部にはあるが、専門家の間の知識や信頼の欠如にもよる。両親は、自分の信念と、研究から得た狭い知的経験をとりちがえているような、いろいろの専門家から、混乱した忠告をかなりうけているようだ。全体として、性の問題は軽視されている。

 Social Services to the Mentally Retardedは、1969年にアメリカで出版されたものだが、その中に啓発されることがかなりあると思う。著者のHelen L. Beckは子どもの問題について、ワークショップと雇用について、まったく古くなったやり方をだいじにしている。性に関することで、精薄者の保護の要求を強調し、悲観的に結論している。「しかし、これらはむずかしい問題で、10代と若者に対する制度上の計画を彼らがかなり急がせることになろう。」

 New South Walesでは、精薄の青年のための施設を両親は避けたがっているという印象がある。彼らはホステルを望んでいる。Health Departmentの次官であるMr. J. D. Rimesは、Marsden Newsletter(1970年9月)に、デンマークで行なわれていることについて印象を書いている。「デンマークの制度で最もすぐれた点は病院の外の住居を作っていることである。近年New South Walesの大きな進歩にもかかわらず、ホステル、フラット、ボーディングハウスであろうと、欠点は地域の住居施設の不足にある。当局はこのことに思いきってやってこなかった。そしてこのことは伝統的に、民間組織の機能とみなされてきたようだ。今後はこういう施設の設立のための政府助成金が役だちうる。しかし今日、施設を設立する病院の費用の用意に困難があるのではなく、それを操作する維持費にある。民間の組織が、それを行なうことに不安をもっているが、施設の意見によってこの領域にはいりこむことから妨げられてきたのも疑いない。一方、当局はその病院の条件をみたすだけで手いっぱいだった。

 New South Walesの地域社会の施設の配備は、民間の組織によって方向づけられたことは論をまたない。当局も民間組織もどちら側も必要なのは資金である。私はこれらの見解を表明するためにConsultative Council for the Intellectualy Handicappedに提案した。」

 これらの設備は精薄者を新しい方法で地域の生活にもちこんだ。地域にはその恐怖にうちかつように援助の用意がなければならない。ある民間の組織はホステルを作ることを妨げられてきた。それは資金の不足よりも地方議会議員の間の偏見のためである。

 全体として、性衝動は正常人よりも精薄者のほうが低いけれども、知的な障害が性衝動の強さに本来影響するものではないことは知られている。知的障害自体は、ほとんど欲求不満の耐性には関係しない。その欲求不満が、情緒的欲求が発達途上に現われる現われ方と関係していたり、脳損傷の程度に関係して現われるものであったにしてもである。たとえば、施設の中で育った人々は愛情不満になることは避けられず、そのため性衝動は高められ、自慰の増加と同性愛の傾向へと向かう。

 性的発達の順次的段階を考えることはいま必要であろう。

1.好奇心、性の器官の発見とともに始まる、とくに少年。

2.満足の習慣のかなりの確立。

3.性行動に社会的に負わされた強制による複雑な現象の意味の理解。

4.思春期青年期の反応、確立された身体全体の知覚、同性の理想的なまた英雄的な姿をしばしば同一視しようとする 。

5.異性愛の衝動。

 精神的障害が重くなればなるほど、一段階から次の段階へ進むのが遅くなるようだ。最も重度な者は好奇心の段階へ到達することさえないようだ。彼らが固定的であれば、人々はあまり関心をもたないが、動的なものなら、文献には彼らが性の狂人になるという幻覚が表われている。知性があるレベルまで低くおちこんでいる人々は性的感覚もすくないと仮定されるが、それほどでない障害者はより大きい問題をもつので、社会的に受け入れられる行動を理解させる必要があるのも真実である。

 われわれが遺伝についての誤った理解を一掃し、またわれわれが概念操作についての考えを明らかにできれば、われわれは精薄者が他の人々と同じく、性的満足を得る権利があることを認める用意がより多いことになる。彼らを一つの道徳の型にあてはめるのは、まだよくあることだが、精薄者には役にたたない。彼らの愛情欲求はかなり強い。彼らは社会的圧力にさえ反応するし、はじめは家族からのちには他人から文化的価値を抽象することもできるのである。

 家族は非常に重要である。Delbert Oberteufferが言うように、「謙譲、性の相違、家族関係、遺伝、愛、束縛、衣服、純潔、乱交、道徳、ロマンス、結婚、価値、行動の全部を学ぶことについては、幼児からその源泉を家庭にもっている。」正常児の両親は、性教育者としてはときどき適当でないと感じている。精薄者の親でもそうである。Oberteuffer教授はその領域で科学的業績の研究に基づく援助を提供しうると確信する教師、牧師、カウンセラーに、責任を投げかけている。彼はこうも言っている。「われわれはこの領域の教育はわれわれの多元的社会にみいだされる各文化の、偉大な宗教的信条にどうしてもかかわってくることを理解しなければならない。われわれはもし、愛、道徳性、尊敬、家庭から教育を切り離すなら、全体として成功することは決してできないだろう。」

(武田 洋訳)

参考文献 略


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年1月(第1号)39頁~43頁

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