内側からみたリハビリテーション過程

●内側からみたリハビリテーション過程

―医療関係への提言―

The Rehabilitation Process―As Viewed from the Inside:Remarks Addressed to the Allied Health Professionals

Frank M. Swartz

 Mr. Swartzはアリゾナ州ツーソンにあるアリゾナ大学教育学部付属Rehabilitation Center副ディレクターである。ツーソンで開かれたThe American Rheumatism AssociationとThe Arthritis Foundationの会議におけるAllied Health Professionals分科会で1969年12月4日に行なわれた講演がこれである。

 

 患者としての立場から医療関係者をどのようにみているかを述べるのも、何か私の責任のような気がする。仕事から私には医療関係の知り合いも多いが、今まで彼らについて私がどう思うか聞かれたことはなかった。というのも、模範的な患者というのは物言わぬ静かな者だと信じ込まされてきたし、私もそのような患者の一人であった。

 私自身もリハビリテーション・センターと関係があるが、患者ではない。私はいわば編集のような仕事をしており、専門的なことはしていない。これから述べることは、仕事とは全く別な個人的な一つの見方である。32年間、関節炎で苦しんできた経験にもとづいて言わせてもらうのである。

 医療関係者は「チーム」を作ると聞かされてきた。正直なところチームという名にはドキンとした。「チーム」というと、簡単な相談や話し合いを、まるで革命的な新技術のように思わせてしまう。確かにたいせつな手段ではあるが、決して革命的に新しいものではない。

 チームと言うとき、患者もそのチームの一員として考えられないだろうかと聞いてみたい。「考えている」と答えられると思うが、チームの一員として患者が扱われてきたとは、私には思えない。患者はいろいろなことをじゅうぶんに知らされているとは思えない。チーム討論や治療プログラムの決定に参加させてもらえもしない。このような場での患者の役割の重要性は、じゅうぶんに認められているとは思えない。患者自身に関係あるスタッフ会議や相談会議全部に出席できないだろうが、チームの一員として患者も重要である。

 医療だけでなく、社会福祉、リハビリテーション関係者にも提言したい。私の提言は、これら医療関係者すべてに向かって言われるべきだと思う。あなたがたは、われわれ患者が自尊心を傷つけずに保持していけるように援助できなかった。われわれをバカにし、軽々しく扱い、恩きせがましく、恥ずかしめた。われわれ患者も人間であると尊敬をもって扱ってはくれなかった。われわれの感情は考慮に値しないと思っているようであり、何も建設的なことは一人ではできないと思っているかのようである。患者はどこか劣っている者のように思われているようでならない。ただ病気だから、ビッコだから、仕事をしていないから、降ってわいた災難に適応していないからというだけで、劣等者のように思っているのではないだろうか。

 個人的感情を仕事上のことと混同している人がいるのは残念である。人柄が気に入らないとかいうことで、治療を断わられたり、ちゃんとした治療をしてもらえなかったりした患者を知っている。意識的にされたことではないにしても、患者が非協力的だとか、どうしようもなかったとか、ほかのだれかがもっと世話をしなかったからだとか、理由を探すのはやさしい。

 あなたがたがどんな患者でもわけへだてなく好きだとは思わない。患者の中にはしゃくにさわる者も、粗野で、無神経で、無礼で、不愉快な者もいる。でもこれは患者に限ったことではない。(多分あなたがた、治療者の中にもそういう人はいるだろう。)患者すべてを好きになることはできないが、反感や偏見が自分のうちに起こるのに気づくことはできるし、それは仕事の質を落とすことにならない。

 個人の尊厳をそこなうような治療は害になるだけである。救われるためにいるのだという気持を患者のなかに増してしまうだけである。患者自身の価値に疑いをもたせ、一生懸命にやる気をなくさせてしまう。困難な訓練を行ない、苦痛の多い手術に耐え、新しい仕事の訓練を受け、職場を捜しても、自分の価値がないと思ったら、治療にあたるあなたがたが彼らの人間としての価値を認めなかったらどうなるだろう。

 長い間、医療関係者の特徴とも言えるコミュニケーションの不足に悩まされてきた。みんな金鉱脈でも掘りあて人に知られるのを恐れるように口が堅い。それ以上に、患者に具体的にどうなっているのか説明したくないようにさえ思える。何をそんなに隠さなければならないのだろう。「なぜ、これを今やっているのか」と説明してもらえないために、私たち患者がどんなにイライラするか、あなたがたは気づいていないようである。あなたがた、治療者にとっては当たり前の日常見慣れたことでも、患者には、不安で得体の知れないとまどいにおちこむことになるのであるが、それにも気づいていないようである。

 治療者がすすんで患者の言うことを聞こうとしないところに、コミュニケーション障害のもう一つの原因がある。痛みはこの例である。ここに患者と治療者の間の大きな溝がある。私たち、患者の苦痛がどんなものかとても言葉では表わせないし、あなたがたもとても理解できない。骨折とか、歯の痛み、子供のときのケガ等から痛みがどんなものか、だいたいは知っているが、それだけでは、毎日絶えまなく何年間にもわたって痛むというのが、どんなものかをとても理解できない。私の友人の一人はこんなふうに言っている―「関節炎ってやつは地獄みたいだ。」

 関節炎の患者を扱う治療者の中には、「これは痛みの激しい病気だ」と言うのを、勤めの一つだと思っている者もいる。「そうなんです。これは痛むんですよ」と言って、治療は終わったかのようにわれわれを置きざりにしてしまう。そうかと思うと、私たちを傷つけることを恐れて遠ざかったり、ひどく気を使いすぎてじゅうぶんな治療ができなかったりする者もいる。どちらの場合も、どんな治療プログラムにも、多少の痛みはがまんしなければならないのだということを、われわれ患者に教えてくれない。

 いま、私が患者としての立場から述べた苦痛にも、解決の希望はある。まず私が、あなたがたの治療の質についてなんの不満も持っていないことをはっきり言っておきたい。ただ治療のやり方の実際に少しあき足らないのである。なんとか少しでも変えられなければならないと思っている。

 この方面に詳しい私の友人によると、患者と医師との促進的関係とでも呼ぶものを育てる方法は、学習できるものであるということである。友人によれば、患者やチームの同僚とじゅうぶんに意思の疎通をはかり、気持を理解し、相手を尊敬していることを示す能力を育てることは可能なのである。これは、今まで私が述べてきたように、患者も同じ人間であることを理解していただければ、本当に実現されると信じている。

 患者にも、患者の責任とかなすべきことについて厳しいことが言えるが、ここでは、あえて治療者に対して言わせていただいた。

(門奈 逸代訳)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年1月(第1)44頁~45頁

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