障害児をもつ親たちへの提言

障害児をもつ親たちへの提言

Suggestions for Parents

George W.Brown,*M.D.

新井由紀**

 行動、集中力、学習能力に神経的欠陥のある子供は、それらのことについての事実を認識している親たちや学校の先生の力によって救うことができる。その成果をあげるために、いくつかの鍵となる点に注意していただきたい:(1)その子供個人を理解すること、(2)子供の環境を目的にそって整えること、(3)子供によい手本や基準となるものをうち立てること、(4)愛情によって裏づけをされたきびしさでしつけをすること、(5)子供の自尊心を築きあげるために成功のチャンスを与えてあげること。この論説は、これらの鍵となる重要な点に関しての提言をするものである。

 自分の子供が神経的欠陥のために行動や学習能力、またはその両方に問題があるということを知ると、親たちは種々の質問にやっきとなる。中でももっとも頭を痛める質問は、「何が悪いのだろう?」、その次にくるのは、「どこへ行ったら、そのことがもっとよくわかるだろうか?」ということである。

 この論説は、この二番目の質問にこたえるもので、そのような問題をもつ子供や家族の生活を安心させるために、情報を提言や処方箋の形でもりこんである。

 Careth Ellingsonは彼女の著作、The Shadow Childrenの中で、次のように述べている。

 「この子供たちの状態に共通して見られる重要な要素は無知ということである。無関心ゆえの無知ではない。親は子供を愛し、できるものなら助けてやりたいと、いちばん強く切望しているものである。しかしながら親たちは子供の問題の性格を理解し、さらにそれを改善していく実際の計画を企てるために必要な情報―一般向きの情報をもち合わせていない。専門家は多くの場合、臨床用語を使って、一般の人々の必要としている知識を隔離してしまっている」

この論説は、そのような専門用語をさけ、見なれないと思われる語は巻末の用語解説に定義をのせてある。

 ここでとりあげる子供たちは、普通の知能指数をもち、著しく目だった神経的欠陥、視覚、聴覚の障害は見られない。男の子供のほうが女の子供より障害をもつ率が高いので、文中代名詞は「彼」を使うのが妥当だと思う。

 この子供たちに第一次的な精神病はない。ただし、学校や社会でのたび重なる欲求不満や挫折の経験の結果生じた情緒的問題はありうる。さらに神経的障害者の原因は、子供のおかれた文化的に遅れた環境に帰するものではない。このような子供たちは社会のあらゆる階層に見られている。

 最近の“最小限度の脳障害の示す徴候”に関する専門記事に、もっともひんぱんにとりあげられる問題の10例をあげられている。その頻度の高い順に見ると、

 (1) 過活動

 (2) 知覚―運動障害

 (3) 情緒の不安定

 (4) 一般的な統合能力の欠陥

 (5) 集中力の欠陥(短い集中力、転導性、固執性)

 (6) 衝動性

 (7) 記憶力、思考力の障害

 (8) 学習能力の障害

  (a) 読む

  (b) 書く

  (c) つづる

 (9) 聴力・言語障害

 (10) 疑問のもたれる神経的徴候と、脳髄のX線写真に見られる異常

 これらの問題がひとつひとつ別個に存在することはまれで、通常いくつかの障害が重なって相互に作用している。子供は読書の問題、過活動の問題、衝動的な行動の抑制力に欠ける等の、障害のひとつだけをもつというのでなく、いくつかが重なり合って複数の形で見られる。

 この子供たちの教育方針を企てるにあたり、もっともたいせつな出発点となることは、まず個々の子供の能力と性格の傾向をつかむことである;それぞれ固有の問題とその問題に対して必要としていることがある。子供もひとつの人格である;彼のために企てられた方針でなくてはならない。

 集中力、学習能力、衝動性に欠陥のある子供も、正常な子供たちと同様の働きかけに対して反応を示す。ただ、異なるのはこの子供たちにはよりきびしくそして間断なく働きかけなければならない。このような「陽の当たらない子供たち」には特別の関心、きびしさ、明確さ、予測可能な状況、そして成功のチャンスが必要なのである。

 一般に子供のふるまいはしつけのあらわれだといわれ、子供が社会の期待するところにはずれたふるまいをすると子供も親も非難される。そしてしばしば子供が社会の期待にそえない責任を感じる親たちが、自分たち自身のもっともきびしい批判者となる。子供の問題が自分たち、親のしつけのせいではないと疑ってみる一方「悪い遺伝」や「欠損のある遺伝子」のためではないかというぼんやりした罪の意識を感じていたりする。ときには、片方の親が相手方の親類の中に変わったふるまいをする人のいることを指摘し、自分たちの子供の問題と関係があるようにいう。このような罪悪感や非難は意味のないもので、破壊的なだけである。両親に原因があることもありうる。だからといって、集中力、学習能力、衝動性に神経的障害のある子供たちの衝動的、分裂的、戦闘的、または反社会的行動に対する責任のすべてを負うことはない。親は子供にチャンスを与え、よい手本を示し、しつけをすることはできるが、それらがいつの場合も完全にいかないといって、自分を責めることはできない。

 親は子供の問題に直面することをさけ、自ら、また周囲の人々に、「大きくなったらなおるでしょう」とか「大丈夫ですよ」というふうにいい続けることがある。この自分を欺いていることでひとつ問題になるのは、ほかの子供たちがこの障害児が自分たちとは違うことを敏感に感じとり、しかもおとなのように「大丈夫でしょう」という寛大な態度で接してはくれないということである。

 子供の行動というものは言葉では説明しにくい複雑なものである。行動とは内面に働くもの(感情、食欲、記憶、衝動、気分、恐怖感、興味など)が、外界の現実(目をひくもの、物体、人物、場所、状況、規制など)と相互に作用し合ってできる結果である。われわれは皆、この内面に働くものが実際におかれた外界の状況と調和がとれるよう行動する。

 親や学校の先生は、子供に基準となることや規則を押しつけ、管理することはできるが、結局は子供自身が自分の支配者なのである。願わくば、時間とチャンスと周囲の理解によってよりよい自らの支配者となることである。しかし子供がそうなるまでの毎日、社会の期待にそえない自分の失敗に神経をすり減らし、その過程で非常にゆがんだ自分の像を描きあげてしまう危険がある 。自分は欺かれ、何かの欠陥があり、そして取るに足りないものにと思いこんでしまう。George Orwellは自分の夜尿症の経験について次のように書いていた。「したがって知らないうちに、不本意に、さけることもできないまま罪を犯してしまう可能性もあるのだ」

障害をもつ子供

 年少の子供たち(4~8才)のほとんどが「今この場で」行動しなければいられない人種である。時、場所、まして他人の考え方に関するおとな的な感覚などもち合わせていない。先の報酬を考えて目前の欲求を抑えることができない。自分を他人の立場においてみることができないので、キリスト教の黄金律なども理解しがたいだろう。(小さな子供は自分が何かほしいときに、寝ている人を起こすのをためらうだろうか?)。子供はあたかもおとなの考えをわかっているかのようにしゃべっているが、実際はおとなから聞いたままを真似ているにすぎないことがある。「ぼく生意気だったので叱られたよ」「それどういう意味?」「さあ知らないね!」

 4~8才までの年齢は学校の勉強の分野で困難にぶつかる時期である。クラスの標準に達することができない立場に立たされ打ちひしがれる。「学習能力の遅れている子供」をグループにとって念入りな調査をしたところ、4人のうち3人はIQテストで平均または平均以上の点数を示した。学校の先生の90パーセント以上が、この子供たちの知能が平均以下のものだと思っていた。86パーセントの親たちが愚鈍またはそれ以下とみなしていた。悲劇は85パーセントの子供たち自身が自分を愚鈍または欠陥児だと思い込んでいたことだ。これは全く子供の自分に対する誇りを低いものにしてしまっている。

 劣等生といわれる子供は、自分がひとつの仕事を仕上げるのに、どのくらいの時間がかかるか予測できない場合が多い。そういう子供のためには、子供が課せられたことをするのにじゅうぶんな時間をとってやり、期限、就寝時間、好きなテレビ番組の時間のせまる圧力をさけるようにしてあげることである。ひとつの仕事を満足に仕上げてから、つぎのことにかかることができたということに、大きな喜びを感じ、子供の誇りと自信を高めることになる。

 そのほかにも、神経的障害をもつ子供にとって不利な結果を招く特性がある。日ごとに、または時間ごとに変化の激しい子供を見て、周囲の人々は「努力すればもう少しよくできるはずなのに」と思う。子供のふるまいはばかげていて、出しゃばりで、人の関心をひこうとしたり、極端に否定的であったり、周囲には腹だたしく、いらだたしいものであろう。しかしその子供は故意に意地悪をしているのではない。このいらだたしいようなふるまいは、彼自身にもどうしようもないものなのだ。けれども、外側から分別ある抑制が賢明な形で施されれば、それがしだいに子供自身の内面から働く人生を通じての抑制力にのびる希望がある。

 だらしのない子供とは対照的に、極端に几張面な子供がいる。この秩序や形式に対する執着は、子供の予測できる状況に対する正常な欲求が誇大された形であらわれたものにすぎない。おとなの中にもいるが、多くの子供は状況がきわめて確実に予測できなければ安心していられない。突然のことにはたじろいでしまう。混乱しやすい子供や活発すぎる子供は、新しい刺激のある状況におかれると、全く動けなくなってしまうことがよくある。

 子供の正常な発達の過程には独立と自己決定への欲求が見られる。これは親が子供に望むことに対して、反対の形をとって表われるかもしれない。子供自身は自分で自分の主人になろうとする自分でも気づかない強い欲求にかられて行動をしている。あるときには、子供たちは親自身が実際にしていることとはそぐわない規則を押しつけられているように感じる。「私のいうとおりにしなさい。私のやっているようにではなく」と受けとれるようなことを恨みに思う。子供の自立への努力は、親にとっては親を拒否するものだと見えることがある。親たちは傷つけられて、子供を同情をもって理解しようと努める代わりに、敵意で反応するようなことがある。親にとって、子供が成長し、自分たちの人生の出発の準備をするために親から離れていくという事実を受け入れることは容易ではないのだ。

 子供の内面の戦い、悩み、恐怖感は彼のためにもっと有意義な方向に注がれるはずのかなりのエネルギーを無益に消耗してしまうのである。このエネルギーを消耗するだけでむだな悩みの中には、性の発達、身体の大きさや形、両親の不和、病気、死、学校の先生や目上の人との苦い経験、その他想像上のまたは実際上のことなどがある。子供たちが、このようなことを必要以上に悩むのを回避するのは容易ではないが、少なくとも理解してあげることは可能だ。

 幼年時代によくある問題は学校恐怖症である。この学校恐怖症には、子供と母親の両方がお互いに離れることを不安に思う気持が含まれているようだ。子供は母親のそばから離れたいと思うことに罪悪感を抱き、学校に行くことは母親を見捨ててしまうことのように思ってしまう。母親が死んだり、けがをするのではないかと恐れ、そばにいて助けたいと思う。また単に前の学校の勉強の失敗の経験に気を落していることもある。多くの専門家は子供を母親のそばにとどめて「ごほうび」を与えるよりも、いやがっても学校へ出すことをすすめている。母親はこわがる子供を自分のそばにおくことによって、自分も安心する気持を捨てなくてはいけない。

障害とは実際にどのようなものか

 読み、書き、つづり 読み方の障害にはどのような型があるのか?読み、書き、つづりで字や語の順序を逆にする傾向である。〈6~7才ぐらいまで〉はよくあることで正常な範囲と見られる。しかし、障害のある子供はもっとひんぱんに、そして長期にわたってこの入れ替えを続ける。視力や聴力そのものは普通正常であるが、耳で聞いた音や目でとらえた語の理解が散漫で不安定である。そのため子供は“was”や“saw”のように逆になる語や短い言葉が区別できない。この字や言葉を逆に入れ替えるのに一貫性があるわけではない。ある語を本のある個所で正しく読んでも、同じページをさらに下のほうへいくと誤って読むこともある。どのへんを読んでいるのかすぐわからなくなってしまう。同じページの同じ語のところでくり返し何回もつまずく。印刷してある語の代わりに、絵を見ながら自分で作り出した語をあてはめてしまう。

 符号に混乱してしまうのは聴覚と視覚の両方にいえることである。聴覚そのものは正常であるにもかかわらず、似たような音を聞き分けることが困難で、簡単な意味さえとれない。“Thumb”とTongue”のように似たような語を混同してしまう。口伝えの指示のとおりにすることがむずかしく、後で「忘れてしまった」とか「聞かなかった」とかいうのだ。そういう子供の話はつながりがあいまいで、混乱、間違い、誤解を招く結果となる。子供によってはこの傾向がかなりひどく、聴覚に障害があるのか、故意に不注意を装っているのか、または頑固に反抗している態度なのかなどの疑いがもたれる。

 行動 学校で必要な技術的なこと(読み、書き、つづり、集中力)の問題につけ加えて、学校の勉強と実生活の結びつきがわからない子供がいる。このことは人生の方針について考え始める10代の青少年についても同じである。回りにいるおとなの生き方の正当性に疑問を感じている場合にはなおさらである。学校での勉強は人生の目標とは何のかかわり合いもないものだと思う。そのうえ勉強はむずかしく、わかりにくい。だから〈放棄してしまおうか!?〉子供によい手本となるもの、よい監督がないと、遊び仲間の賛同を得ようとする気持と相まって、学校の勉強から遠ざかり、遊びにひかれていく。この遊びが反社会的なものであると、学校での失敗に重ねて、犯罪の可能性が生まれてくる。

 学校を中退している子供の過半数が、少なくても1年間読みの課目をくり返し、ほとんどはその学力が2~3年低いレベルにあることが知られている。知的能力の欠如が中退のおもな原因ではない。勉強に失敗して何年か低い学年に落とされることのほうが原因となっているようだ。

 過活動の子供は、ふるまいが不愉快で他の子供にきらわれることがある。けんか腰の態度で構えていたりする。子供の短気と敗北感はさらに彼の性格をすり減らしていく。よくけんかをしたり、友だちを得ようとしてわざと道化者になったり、回りの人たちを感心させようと努める。お菓子やお金で友だちを得ようとする。そのために盗みまでして、近所の母親たちは自分の子供たちと遊ばせないように仲間はずれにしてしまう。

 親や学校の先生は、子供の行動の変化や気分の移り変わりの激しさに慣れなければならない。ある日習得した技術や知識をつぎの日には全く忘れてしまう。ある日には敏しょうで、協力的で、有能な子供が他の日には間が抜けて、ぼんやりしていて、だらしのない子供になる。訪問者、天候、口論、雑音などのさ細な環境の変化に対して異常に神経質になる。また自分の失敗や欲求不満に対しても過敏だ。性格がもろく、自信も簡単にくずれやすい。

どのような環境がよいか

 幸運な子供であれば、家庭や学校での経験をとおして得たものが、子供の健康的な発達を助けるものとなる。成功のチャンス、自分の存在が重要なものであると感じること、安心感、愛されているという気持、自分の貢献が期待されているという自信。学習能力に障害のある子供の多くは、この点あまり幸運とはいえない。子供の内面にある不安感、恐怖感、葛藤は、過活動、衝動性、転導性の徴候をさらに増長させるものである。子供は家庭内の不和を覚えるし、敏感である。子供の問題の多いふるまいはさらに混乱し、すでに乏しい自制力を低下させてしまう結果となる。あまり好かれない子供は家族との関係も緊張したものである。

 親子の対立は、特に子供が目上の人に対する根強い反感を抱いている場合には、そのまま学校の先生との対立になり、この敵対意識はさらに警官、役人、そして一般に成功しているといわれる人たちに対する敵意に発展していく可能性がある。

 子供が忍耐強く、理解があり、楽観的で、創意に富んだ人々に囲まれていられたらしあわせである。理想的には、子供のしつけにいちばん重要な役割を果たす人は、子供に期待するものをその子の能力に従って考え、家族のものが(または自分たちが)望んでいることを押しつけてはならない。家族の人は夢に描いていた子供などというものを忘れなくてはいけない。そして子供を現実の生きた人間として見ることだ。

 家族の者は、自分たちの生活のただなかで問題となっていることが、それぞれにとってプラスにもなりうることを知っておどろくのではなかろうか?長期にわたる障害をもつ子供は、その家庭の中に、より強い忍耐、寛容、協力、困難にぶつかる心構えをもたらし、家族同士の思いやりある態度を促す。

 家族の間の交流が向上するばかりでなく、特別の道具だてや訓練なしに、毎日の生活の中に楽しい学習の経験を見い出すこともできる。

 雑誌、博物館や動物園、あるいは毎日の平凡なできごとについて説明したり、話し合ったりするときに使ういろいろな言葉はみなよい学習経験となる。

 よく気がつき、向上心に燃えているような親は「自分の(親の)もてなかったものをすべて」与えようとしてはならない。子供にとってはものは少なくても、より一貫したしつけのほうがよほどためになるのだ。子供に障害があると、親は自然、その子供が「公平な待遇」を受けていないことへの埋め合わせをしようとする。しかしながら放縦なしつけ、甘やかし、たわいのない慰めはなんの足しにもならない。子供はそういう甘やかしやむらのあるしつけに、親は自分がどのようにふるまおうとも感心がないのだというように思う 。

提言

 子供に神経的欠陥による学習能力の障害があるということがわかるまでに、親と子供も敗北を味わい、混乱し、内面怒りに満ちていることだろう。親は子供の行動が悪意、敵意、不道徳からのものではなく、神経的な障害のために抑制のできない結果であることを知ってほっとする。子供は治療すればなおる病気をもっているのだ。単に目上の人にさからったり、頑固なのではない。子供の行動は計画性がなく、理屈に合わず、予測しがたい。子供自身、回りの人々と同じように、いやだれよりも、自分の性格や行動にろうばいしているのだ。

 周囲にいる人々が、子供がくじけたり敗北感を味わうことの原因となるような騒動や混乱、そして失敗の経験をさけてあげるよう努めることである。しくじり、失敗、そして叱られることばかり経験している子供は、すぐに自分を責めるようになる。そして簡単に自分を責めることから、新しいことを試みることをいやがったり、すぐにいらだちやすい子供ができてしまう。

健全な情緒のための基本的条件

 分別あるしつけをするためには、子供がいつも単なる論理や説明、甘言でいうことをきくという考えを捨てなければならない。あまり知的に高度な議論はさけたほうがよい。原則的なことを明示しそれに従わせるのである。「歯をみがきなさい」という簡単な命令のほうが、歯科医術に関する論議をひとくさりするよりもよほど効果的である。

 情緒面において基本的に必要なことに関して、Illingworthが最近つぎのようにまとめている。

 「基本的に必要なものは愛情と安心感。愛情に裏づけされたきびしいしつけ。どのようないたずらをしようとも、両親の期待するような学校の成績がとれなくても、またどのような性格の子供でも常にあるがままに容認されること。しだいに独立心を育てていくこと。性について高い道徳的価値観と良識ある態度をうえつけること。意気をくじくようなことをさけ、さ細なことでもその成果をほめたたえながら勇気づけをすること。つまり、絶えず文句をいったり、非難したり、極端に厳格であったり、逆にしつけを欠いたり、皮肉、叱責、あざけり、軽べつなどをしないことである」

 ときとすると、おじいさんおばあさんは子供に対して親たちよりも寛大で甘い。彼らは子供の人気をとり合おうとしている。が、親はそういうわけにはいかない。親には責任というものがあり、それを果たさなければならない。もし彼らが親としての責任を果たさなければ、ほかにだれがしてくれるだろう?

 おとなは自分の考えを伝えるのにおもに言葉に頼る。しぐさや笑ったり怒ったりする顔の表情、身体全体で表現されるものが、ときには言葉よりも的確に意味を伝達することを忘れがちである。子供は人の落胆、怒り、恐怖感を言葉をもって聞く前に感じとってしまう。子供は親が歯科医や診療所などに行ってろうばいしているのを察する。親がポーカーフェースを作っていられれば、子供もそれほどいやがらないはずである。容認の(または止める)しぐさや身体全体の表現を見て、それではつぎにどうしたらよいかということがはっきりわかる。自分のまたほかの子供たちとの交流をはかるうえで、言葉のみに頼るべきではない。

 罰 行動に障害のある子供の異常にとっぴな、衝動的な、納得のいかないふるまいに対して罰をする場合には、じゅうぶんに気をつけなければならない。哲学的議論よりも具体的な処方箋のほうが役にたつことと思う。

 不器用なこと、過度に活動的なこと、集中力のないこと、衝動的なこと、短気、いらだち、予期しなかったことへの恐れなど、子供が自分で抑制できないような行動を罰してはいけない。お尻をたたくことは子供を興奮させやすく、暴力的で罰として効果的とはいえない場合が多い。あまり興奮すると罰の意味がその勢いに流され、すっかり忘れられてしまう。

 そのほかにも子供を罰する場合の教訓がある。

 (1) 罰はすぐその場で与えること、時間的にずれると子供が自分でした悪いことがわからなくなってしまう。また遅れてくわえられた罰は子供を不必要に長い時間にわたって心配させたり、恨みを抱かせることになる。

 (2) 犯した罪に合った罰をすること。さ細な反則に大罰を加えるべきではない。また同じようなふるまいに対して、ときによって全く異なる罰しかたをしてもいけない。

 (3) 長いお説教、話し、論議、理屈はよくない。問題の処理を直接的に、簡単にすませること、そのようなことは再びしないというような口約束を強いてはいけない。どうして罰を受けたのか、その理由を口でくり返して真似ることができても、実際にはわかっていないようなこともある。

 (4) 実際には決してしないようなきびしい罰をふりかざしておどかさないこと。

 (5) あまり暴力的な、子供を興奮させるような罰はくわえないこと、自分自身の怒りや不満で実際の状況をゆがめたものにしないこと。

 (6) 子供のよいふるまいをほめ、奨励することのほうが、反対に悪いふるまいを罰するより効果的である。子供の特典をおあずけにしたり、静かな場所に隔離するような罰のしかたがよい。子供のしたことがいけないのであって、子供自身をきらっているのではないということを、子供にはっきりさせておくこと。子供をけなしたり、はずかしめたりすることは、仕返しの気持を起こさせるだけである。子供に必要なのは自己の姿を低落させることではなく、向上させることである。

 (7) 自己否定を強いるようなこと、わいろ、約束ごと、お説教などはしないこと。礼儀を守るよう乱暴な長々とした演説で教えることはできない。けんか腰で耳ざわりな批判は教訓的であるよりも、反意をそそる結果を招く。

 (8) 子供のベッドは睡眠をとる場所であり、罰のために使わないこと。

 (9) 厳格すぎたかと思うと、つぎには放縦にすぎたりすることは間違っている。

 (10) 子供にかんしゃくは押えられるものだということを教えるためには、自分もかんしゃくを押えてみせること。長時間石のように沈黙しているのもよい罰の方法とはいえない。

 予防 家で(できることなら学校でも)子供が問題を起こすのを予防するために、次の三つの点について配慮すること。(1)子供にとって耐えられないような刺激の材料をとり除くか、予防すること、(2)環境を日常きまった、予測しやすく、一貫性のあるものに整えること、(3)問題に対して準備を整え、起こる途中で防止すること。

 問題の起きた後に罰を与えるよりも、状況を見越して対処したり、予防するほうが効果的である。子供が短気を起こしそうになったら旅行の用意、荷造り、買物、食事の準備などの手伝いにかり出すとよい。物を運んだり、もち上げたり、走り回ったり、集めたり、掃いたりするような力仕事は内心の怒りを消耗させるのにちょうどよい。

 子供は事故を起こすものであるし、誤ちから学んでいくものである。事故が危険なものでないこと、値打ちが高いものでないこと、また子供の誇りを傷つけるようなことでなければ、かえって子供にとってはよい経験になる。

 親や学校の先生は、事態に収拾がつかなくなるような状況を予知できるものだ。子供の旅行、パーティ、ゲームなどは簡単に、監督の行き届く範囲のものにとどめておくことが肝要である。指示を与えるときは簡単、明瞭にまとめること。ひとつの指示を与え、それを実行させ、それからつぎの指示を与えること。

 子供がつぎに起こることを待ち切れずにいたらそのことについて細かく、目的、途中でとどまる場所、遅れ、実際の場所、興味をひく景色など説明してあげると、子供は徐々にその様子を頭の中に描いていく。このようにして不安がる子供を適当に前もって変化にそなえ準備することができる。あまり時間のずれがあるとじれてしまう。通常子供が時間のずれやがっかりするような事態を、どのくらいまでがまんできるかは親がいちばんよくわかっている。

 行動は言葉に比べてより初歩的な意志疎通の手段である。子供が初歩的なふるまいをしているようだったら、言葉はあまり役にたたないかもしれない。子供がかんしゃくを起こしたら、その場から連れ出し、子供が自分のふるまいが望ましい結果をもたらすものではなかったと気づくまで(同情や妥協なしに)押えていること。自分でわかったときには、かんしゃくも通りすぎてしまっている。<決して折れてはいけない>

 親は身体の大きな子供は親に挑戦してくるのではないか、子供を押えきれないのではないかと案ずる。親が確信ある姿勢を守って、厳格に対処すれば、ほとんどの子供を制することができる。子供のかんしゃくが黙認、おく病、同情の形でかえってくると、そのつぎに子供の思い通りにならないときには、もっと簡単にかんしゃくを起こすようになる。

 親や学校の教師は、子供が決定されたことの反対を望んでいるような場合には、議論や説明の相手になる必要はない。親は自分が決めたことを正当化する必要はない。どんなに論理的に筋立った説明が可能であっても、親は投票で選ばれた役人でもないし、役所から追い出されるような心配はないのだ。親は独断的であってもいいし、ときにはそうあるべきだ。心配症の子供はひとつの決まったことの後には、必ずつぎのことがくるというように自分で予測できる状況にあると安心する;入浴の後が就寝、お昼寝の後にジュース、家庭ではいつも決まった起床時間、お昼寝、休憩、就寝時間を守るべきである。できれば食事の時間も決めたほうがよい。毎日の活動は時間表をつくって計画立てる(見えるところにはり出して);遊び、テレビ、宿題、手伝い、入浴、お話等、子供に複雑なことの決定をさせないこと、「朝食には何がいいの?」などと子供に聞かないこと。母親が決めるべきことで、議論などせずに料理をして出せばよいのだ。交渉はむだなことである;子供は単に決定されたことを変えようとするにすぎない。

 親同士は一体となって子供に対さなければならない。子供の前で仲たがいをしたり、お互いをきびしく批判することはさけること。子供は両方の親の子であることを知っていて、どちらの親が非難されても引き裂かれるような思いをする。しつけの規則は簡単で、決定的なものであり、親によって変わるものであってはならない。それは投票や人気のコンテストなどで決めるべきものではない。規則が守られているか確められる道があり、また励行可能なものであればいちばんよい。実行できないような規則ならないほうがよい;励行できないような規則の例は、睡眠時間、親の居合わせないよその場所での行動について、そして子供が考えなくてはわからないようなことである。

 子供の質問に対しては率直に、ざっくばらんに答えてよい。子供の直接たずねていることに解答することがたいせつであり、子供がたずねているのであろうと思われることに対してではない。返事が満足なものでなければさらにつぎの質問をしてくる。「おかあさん、ぼくはどこからきたの?」という質問は「ミシガン州のデトロイトよ」という答えを期待しているものであり、性についての講義をすることはないのだ。

 子供が徐々に独立心を高め、絶えず監督の下にある状態から脱皮するようはかること。子供の独立はつぎのようなことを通して奨励するとよい。

 1. 簡単で、しかも役にたち、必要な家の仕事や手伝い。どうでもいいような仕事をわざわざ作らないこと。

 2. 子供が特に興味をもっていることや才能は伸ばしてあげること。

 3. 自分の身の回りのこと、洋服、お金、買物、遊び、就寝時間に関することなど徐々に自分でするように努めさせること。

 子供は恩に着せるような態度で扱われたり、保護されたりするようなことをいやがる。子供たちにも正当なプライバシーをもつ権利があり、彼らが10代の年齢になればなおさらのことである。

 環境 家庭(そして学校)の環境は、子供の行動や集中力を左右するものである。注意力散漫なまたは過活動の子供も、つぎのような条件のそろった環境の中にいると、本来の能力を発揮することができる。

 (1)  静かで、華美にすぎずきわめて質素な飾りつけ

 (2) 鏡、絵、掲示板その他刺激になるものはあまり置かないこと。

 (3) 何もない壁に面した仕事場

 (4) おもちゃ、趣味の道具、勉強の材料などは使わないときには目に見えないところへしまっておくこと。

 (5) 簡単でわかりやすいデザインの錠や掛け金

 できれば子供たちは皆、騒動、活動、騒音などから離れた自分だけの静かなコーナーをもてるとよい。勉強している子供の注意力をうばうような家の中での繁雑なことはなるべく少なくする。クラブの集まり、派手な行事、社交、友だち、ラジオ、テレビ、騒音、目に映るものなど、勉強の場所の回りでのことはなるべく慎しんですること。

 個人的なこと 病気やその徴候について必要以上の心配をすることは問題である。Illingworthはそのことを次のように論じている。

 「病気の兆候に対して、むやみに騒ぎ立てたりしないで平常と変わらない態度で対処することは、子供の情緒の正常な発達のために重要なことである。ちょっとした不快の訴えに薬を与えたり、寝かせたり、学校を休ませたり、必要以上に心配する様子を見せると、子供の病気はそれだけですぐに深刻なものになってしまう。子供に、少しでも変わった感じや痛みがあったら薬をのまなくてはならないなどという考えをもたせてはいけない」

 子供のすぐれた才能を見つけて、それをもって成功させてあげることはたいせつである。音楽、芸術、運動、収集、ものを育てること、小さな動物を飼うこと、キャンプ、猟、組み立て、おもちゃや簡単な器具の修理など。競争でなく、チームや特別の道具を要しない運動をすすめること。水泳、走ることなどはたいへんよい。

 字のへたな人はタイプライターを早いうちに習得して救われる。タイプライターのおもしろい使い方で語いを向上させれば、へたな字で書類を作らなくてもすむ。テープレコーダーも目の代わりに耳を使って、勉強の復習をするのに役だつ。

 親は子供の勉強の先生にならないほうがよいだろう。学校の勉強ばかりでなく、水泳、ダンス、運転その他の“正式”な活動についてもいえることである。親というものは優しく親切な統治者であって、勉強の教師ではない。親はいろいろな非公式なことを例や手本を示したり、動機、チャンス、勇気づけを与えながら教えてくれる。学校の先生は親切さと個人的興味の裏づけがある、中立で客観的なきびしい命令の態度で教べんをとる。親は子供のためによく言うことに耳を傾けてやり励ましの態度をもち、子供にかかる圧力をとり除いてやり、ほかの子供と比較するようなことのない自由なふんい気を作ってあげることである。

 神経障害をもつ子供に薬物療法が行なわれているが、その効果はまちまちである。いろいろな種類の薬があり、あるものは鎮静剤、あるものは覚醒剤である。子供はそれぞれ薬に対して独自の反応を示すもので、逆のきき目を示して、治療以前の状態より悪い結果を招くことがある。薬の量も異なるし、時間、副作用もいろいろである。薬の量や時間を数週間、ときには数か月にもわたってためし、調整してみることが必要である。そして子供に合った量と時間がわかったら、それを何年も長期にわたって使用してみることだ。

まとめ

 子供やその家族が子供のしつけ、行動、学習などについて助けが必要だと思われるとき、いろいろと自分たちにできることがある。たいせつなことは、(1)その子供の障害についての理解を深めること、(2)愛情をもって厳しい態度をもって対処すること、(3)環境を整えること、(4)よい手本、基準を明示すること、(5)成功の経験を通して自分に対する誇りを高め、また自分が愛されていることを自覚できるチャンスを与えてあげること。

 運動機能高進性の子供について書いてある最近の論説からの引用であるが、

 「容認と愛情に満ちた態度の中に見られる一貫性、厳しさ、公平さがこの障害をもつ子供にも親にも最良のものである」

 Illingworthから再び引用すると、

 「子供はだれでもそれぞれの限界というものをもっている。真に重要なことは、できるかぎりの援助の手をつくしたうえで、子供を限界と特性を備えたあるがままの姿で受け入れること。その限界を克服するために子供の能力に合った援助をさしのべ、自分のもっているものをじゅうぶんに生かすようにすること。そして子供が常に愛され、必要とされていることを感じていることである」

 障害児をもつ親に是非すすめたい本のうちの2冊は、参考文献の13.14 にある。

(Journal of Learning Disabilities,Feb.,1969より)

 用語解説

 Distractibility(転導性)

 注意があれこれにすぐ移り変わること。さ細なありふれた情景や音に対しても異常に、瞬時的な興味を示したり、注意を払ったりする。

 Dysfunction(機能障害)

 おもに発達の遅れ、誤った発達、当該組織や器官の損傷の結果、本来の機能が著しく減じられること。

 Electroencephalographic(脳波電位記録の)

 脳波を調べる。

 Emotional Lability(情緒の不安定)

 変わりやすい、傷つきやすい感情あるいは気分。極端に有頂天になること、極度の悲しみ、自責、欲求不満、怒りなど、気分が極端に瞬時的に変化する。

 Hyperactivity(過活動)

 目的のないあるいは意図した身体の動きが過度に活発なこと。

 Impulsivity(衝動性)

 行動を自制できないこと。しばしば規則や指示に反したり、危険な、ばかげたあるいは無目的の行動をそのままとる。

 Language(言語)

 学習の場面では考え、感情、欲求などを符号を用いて交流させること。普通、言語能力は、(1)内面の言語、(2)受容言語、(3)表現の言語に分けられる。ここでの「言語」を英語、スペイン語などのような各国語と混同しないこと、2国語を使用することは言語障害をさらに複雑なものにはするが。また、「言語」は考えを表現し、交流されるために音声(語)を口を通して発する「話」とは異なる機能をもつ。

 Perceptual-Motor(知覚―運動)

 知覚を通して得たもの(景色、音、身体の位置など)を以前の経験に照らしながら整理、調整、解釈する過程。運動は目、心像、筋肉の活動の調整、連絡をとりながら符号、字、動作、図形などを作り出す。

 Perseveration(固執性)

 言葉の表現、身体の動き、あるいは考え方などひとつのことに異常に固執すること。例:同じレコードをくり返しかける。

 Syndrome(症候群)

 一連の兆候やしるしで、これらがそろうとひとつの病気を示すまたは患者に多く共通して見られる兆候の型。

参考文献 略

*Lovelace Clinic,Albuquerque,New Mexico
**日本障害者リハビリテーション協会嘱託


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年7月(第3号)15頁~24頁

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