重複障害をもつ脳性マヒ児について 脳性マヒを伴った精神薄弱児の諸問題

重複障害をもつ脳性マヒ児について

脳性マヒを伴った精神薄弱児の諸問題

Problems of Mentally Retarded Children with Cerebral Palsy

R.Shakespeare

 この論文は実験的研究について述べたものではない。私は心理学者のもう1つの役割、すなわち児童の発達と進歩を評価し、どのような種類の訓練計画の採用が必要とされるかを考えることを目的として、児童のグループを観察することに注意がひかれるのを期待して書いた。

 私が論じようとしている児童のグループは、脳性マヒ児全体の中でかなり多くいるのに、比較的無視された部分を構成している。現在、彼らは英国地方教育当局によって教育システムから除外されている。彼らのIQは50~55か、それ以下である。このカテゴリーにはいる脳性マヒ児の割合はおそらく25~35%であろう。Dunsdon (1952)は35%と見積り、New Jersey Studyは、1951年に28.4%を示し、Schonell(1956)は26%を見いだした。問題の大きさを示すもう1つの方法は、精薄児を対象とする病院にいる集団を調べることである。Hillard とKirman(1957)は、Fountation Hospitalに来た全部で770人の患者のうち、23%が脳性マヒを持っていると分類した。そこで彼らは、各種の脳性マヒは重度な精神薄弱にとってごく一般的な障害であると考えた。

 こうした脳性マヒを伴った重度精神薄弱児は教育不可能であると考えられ、一般的な意味での教育を決してうけないのは確かである。次に考えるべきことは、彼らは何の学習をすることを必要とし、どんな指導を受けることができるか見いだすことであるように思われる。

 100人の児童の評価

 この論文の材料は、Queen Mary's Hospital for Childrenの精神科病棟に入院した100人の児童である。彼らは初め神経学的検査をするために選ばれ、しばらくしてそのうち92人が、知能と日常生活技能の達成度を調べるために評価された。8人は死亡または退院した。調査のために選ばれた技能の中には、移動能力、食事、着衣、およびトイレット訓練があった。それらを選んだのは、自立した生活の達成のために、なくてはならない技能であり、児童がそれらのいずれかで進歩すればするほど、いっそう多く自立できるだろうと感じたからである。使用された評価尺度はかなり簡単なものであったが、われわれは発達尺度の中で、もっともしばしば述べられた項目を含むことを目ざした。この4つの尺度による92人の児童の評価の結果は、主要な問題のいくつかを示している。

 評価された児童は3才から15才の間(平均8.4才)で、IQは全員50以下であった。

 移動能力

 グループのうち、16%だけが自立していて、彼らは一人で歩くことができ、イスをつかうことができた。もちろん、この段階は通常は2才までに達せられるものである。また8%は部分的に自立しており、動きまわることができ、助けによって歩いたり、はうことができた。残りの76%は全面的に依存的であり、他の人によって動かされないかぎり、1つの場所に制限されていた。

 食事

 92人のうち、13%は食事が自立しており、スプーンやスプーンつきのフォークを使って、自分で食事することができ、コップでのむことができた。これも正常なら2才の段階である。また13%は自分自身の食事をある程度することができ、一人でパンやビスケットを食べることができた。だから部分的に自立している。残りの73%は依存的で、スプーンかびんで食事を与えてもらわなければならなかった。

 着衣

 18%は2才レベルまたはそれ以上に達していて、衣服の着脱をある程度行なうことができた。しかし、ボタンをとめることができないため、自分自身で完全に着ることのできる者は一人もいなかった。また11%は衣服を着せてもらうために、腕や足をのばすことによって協力できる。残りの71%はまったく依存的で、衣服の着脱は看護スタッフにたよった。

 トイレット訓練

 児童のうち6%は、トイレ訓練をうけ、昼間一度すませば夜間完全に清潔であった。これもまた正常ならば、2才児の段階であるように思われる。また12%はトイレのコントロールを学んでおり、規則的な室内便器の使用に応じ、トイレに連れていくよう求めた。8%は両方とも失禁した。

 こうした状態から、これらの児童の大多数が、各領域で看スタッフに全面的に依存していることは明らかである。

 これら4領域の発達は、もちろん相互に関連しており、1つの領域で依存的な者が他領域の1つまたは2つ以上で自立している場合もあろうし、ある領域でまったく依存している者が他の領域でもそうである場合もあろう。

 評定

 この研究では、児童は各尺度で6つのレベルの1つに位置づけられた。このレベルは6か月以下、6~9か月、9~12か月、12~15か月、15~24か月、および24~36か月であった。92人のうち、57人は各活動について同一レベルまたは2以内のレベルで評定され、28人は3または4をこえる範囲の能力をもち、7人だけが5またはちょうど6をこえた範囲の能力をもっていた。だから各領域の発達レベルは、全体として関係しているけれども、児童のうち少数は、たしかに異なった発達領域で広い幅を示している。これらの到達度は知能レベルとも関係しており、私は今、痴愚レベルにあると分類される、すなわち20~50のIQをもつ者について述べたい。

 知能レベル

 私は脳性マヒ児全体の中に痴愚と白痴レベルの者がどの程度いるかについて、2つの研究しか見つけることができなかった。しかも、これらの研究結果は異なっていた。Smith (1926)は50人のうち40%が痴愚で、22%が白痴であることを見いだした。一方、Hansen(1960)はそれぞれ10.3%と7.0%という数字をあげている。Hansenの研究は大規模なもので、2,621人にもとづいている。しかも最近行なわれているが、その研究は少数のケースでの知能検査にのみもとづいていた。しかし割合は2つの研究で同一であり、2人の痴愚について1人の白痴がいるように思われる。

 われわれの病院のサンプルはこの割合と異なっており、実際は反対である。というのは4人の白痴に対して1人の痴愚がいたから。これは多分、白痴レベルの患者は痴愚レベルよりも入院する可能性が多かったためであろう。92人のうち23人は20~50のIQであり、これらの者が自由にたいていのことをすることができるメンバーであった。移動、食事、着衣、およびトイレット訓練の領域で自立していたのは4人いた。このうち3人が痴愚レベルであった(1人は白痴レベルと分類された。しかしこの低い知能は行動障害によると思われた)。残りの20人の痴愚のうち、7人は3つの領域で自立しており、1人は2つで自立し、4人は1つの領域で自立し、8人はなにひとつ自立していなかった。

 これらのメンバーは、ほとんど確実に新しい技能の大半を学ぶことができる者であり、こうした知能レベルの児童は、通常訓練センターにはいる資格がある。しかしながら、困難が生じるのはしばしばこの点である。これらの児童は身体的ハンディキャップのため、身体的にもっと能力のある精神薄弱児が受ける教育から除外され、一方、あまりにも知的に遅れていると感じられるため、身体障害に適応したり、自立することを学ぶのに援助を与えられないかもしれないという危険がある。

 Queen Mary's Hospitalの訓練センターでさえ、ほかの多くのセンターよりずっと寛容であるにかかわらず、この23人の痴愚レベルの(訳注―脳性マヒ)児童のうち、12人しか入所させていない。

 この種の児童の場合、限られた知能のために、動きまわったり、衣服を着たり、自分で食事したり、きれいになったり、よごれたりするのを学ぶことができないのか、あるいは、彼らの経験が非常に限られており、環境を探究するのに非常な困難をもっているために知的能力がずっと遅れたのか、決定することは不可能である。

 私は今まで身体的ハンディキャップの程度についてはのべなかった。これはもちろん、日常生活技能の発達にとって重要な要因である。Stephen (1962)は病院併設学校にいる肢体不自由で精神薄弱児のグループを研究して、低知能の児童の場合(範囲43~69)、日常生活技能の進歩は、一次的には身体障害の性質と程度にもとづいているようにみえることを見いだした。

 コメント

 私が今まで自立の学習の問題だけをのべたのは、これが唯一の問題であることを意味するものでなく、基本的問題であると感じていたためである。移動能力をなんらもたない児童は、何年もの間、何時間もイスにすわっているか、ベッドに横たわるよう運命づけられる危険がある。多分彼らは毎日毎日同じものを見てすごすだろう。ほかの人々は自分のまわりをまわる物である。手に入れることのできる触覚経験の範囲は、自分で自分の環境を探究することができないため、非常にせまいであろう。

 この問題に対する唯一の解答は、障害児が同じ程度の精神年齢の正常児が経験するものを、できるだけ多く経験できるようにすることであると思われる。このことは、第1に、正常児は何をしているか、どのように発達するかを発見すること、第2に、身体的な問題から進歩することができない場合は、工夫することのできる人工的な教材教具を与えることによって、障害児が発達するのを援助することを含んでいる。

 食事、衣服の着脱、トイレの問題も同様である。正常児の生活では、こうした活動は比較的短時間しかとらないが、精薄で肢体不自由の児童の食事や着衣、トイレの問題を考えると、彼らを世話する者の側で、こうした活動が1日のうちで、非常に多くの部分を占めていることは明らかである。同様に、児童の側からしても、しばしば不快な状態で待ちながら、しかも場面の解決をはかることができないというフラストレーション経験をもつことに、多くの時間を使うのはさけがたい。だから、もし児童がこれらの活動のいずれかの間、なんらかの方法で自分自身を助けることができれば、たとえそれが長くかかっても、その結果として、彼はフラストレーションを感じることが少なく、より多くの経験を楽しみ、彼の世話をしている人々も、社会活動やとりわけ児童が行なっていることをはげますために利用できる時間を多くもつことができよう。

 もしもこれらの児童が悪循環のうずにまきこまれないようにするのならば、われわれは彼らの教育の問題に多次元的なアプローチをしなければならないだろう。一方では、彼らができるだけ自立するようなんらかの可能な方法ではげますことがたいせつであり、他方では、知的能力が必要以上に限られていなければ、訓練センターで、精神薄弱児が通常受けるのと同一種類の経験を与えることが大事である。

(J.Loring(ed.),Teaching the Cerebral Palsied Child,Heineman,1965,pp.194~198より)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1971年10月(第4号)25頁~28頁

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