障害児のための治療を目的としたレクリエーション

障害児のための治療を目的としたレクリエーション

Therapeutic Recreation for Exceptional Children

Charles Baker*

新井由紀**

 最近の研究をみると、教育家やセラピストらがレクリエーションについて、どのように考えているかが伝えられているが、レクリエーションが障害をもつ子供たちの治療の効果的な手段となりうるということが、ようやくにしてわかってきている。

 障害児のうちでも、特に、情緒障害児に対して効果があることが認められている。ここでは、自分たち自身にはなんの責任もないが、いろいろな原因の結果、ある状況におかれているような子供たちを対象にして話を進めていくことにする。器質上の問題があり、思考力が侵されている子供もいるだろうし、周囲の環境の被害者となった子供もいる。この子供たちは往々にして奇妙なふるまいをし、おとなたちには不愉快だとか、何をやっているのかさっぱりわからないというふうにみられる。

 精神薄弱児を受け持っている教師たちは、おそらく、「レクリエーションが私たちの仕事となんの関係があるのでしょう?私たちの務めは子供たちの読書力、思考力、学力、そして社会的行動を向上させることです」と疑問に思うことだろう。答えは「大ありです」。

 これまでに、レクリエーションに関しておもなポイントともいえるものが三つ、明らかになっている。第一に、レクリエーションは、子供に自己満足を表現する機会を与えるものであり、第二に、参加している子供にとって、治療的な意味および価値をもつ。そして、第三に、遊んでいる子供たちを観察している専門家にとっては、貴重な参考資料を与えてくれる。教育、精神衛生的見地から、またさらに実際的な面からみても、精神薄弱児たちを教えている教師は、かなりセラピスト的な性格をもっていることになる。したがって、この面の専門的技術の進歩におくれないようにしていく責任がある。

 精神薄弱児は、いわゆる「正常な児童」に比較して、物事に対する集中力に欠けるということをご記憶のことと思う。このような子供たちの教師に、工夫できることといって、計画されたあるいは自由ゲームの組まれた一日を通して、何回もの「休憩時間」を設けること以上に、効果的な方策があるだろうか。この休憩は、長い時間にわたって、じっと席に着いて注意を集中していることに耐えられない子供にとっては、大きな息抜きとなり、解放となる。そこで伸びをし、飛びはね、走り回り、笑いころげ、そして大声をはり上げるようなことさえできるような時間が、ぜひ必要なのである。

 このように、押さえつけられたエネルギーを自然に発散させることにより、時間がきたときには、心の準備も整い、進んで授業に戻っていく。このような活動の変化はこの子供にとっては、特に休憩時間を楽しんだ後には、気分を一新、壮快にさせるものである。休憩時間は、さらに子供と教師の間により新しい関係をもたらすことにもなる。

 ある精神科医は、レクリエーションを医療上の重要な助手役とみている。「レクリエーションの人の気持ちをくつろがせる効果と、はけ口となるレクリエーションをもつ必要性とは、いくら強調しても足りないくらいだ。レクリエーションは、病気の人の社会復帰ばかりでなく、調和のとれた肉体的、精神的健康を維持するのに大いに役だつものである。そういう意味で、レクリエーションは医療のうえでたいせつな助手役である」

子供

 有名な教育家であり、著者、講師の肩書きをもつDr. Jay B. Nashは、一般に子供の教育の可能性を決定するものとして、次の五つの基本事項をあげている。

1) 正常な脳皮質

2) 完全な中枢神経組織

3) じゅうぶんな乳児期間

4) 適切な親の保護

5) 遊び

 子供の発達は、遊びの活動を通してはぐくまれるものなので、この最後にあげられている遊びが欠けると、初めの四項目のもののもたらす利益も全くむだに、あるいは大きく影響されることになる。子供のうちにある感情的、肉体的衝動性は、遊びの中でそのはけ口を見つけ、さらに子供を新しい探検と経験の分野へと送り込んでいくのである。

 父兄も教師も、子供は食べたり、寝たりするよりも、むしろ遊ぶことを好むものだということを学んできた。実際、子供を遊びからそらせるのはむずかしいことだ―子供の世界に吸い込まれてしまっているのだろう。

遊びとは何か

 <遊び>は、軽い、取るに足らないというような響きをもった簡単な言葉にすぎないようである。しかしながら、子供の教育にたずさわる人々にとっては、<遊び>は子供時代の素地をなすものである。かれらにとって<遊び>と<子供>という言葉は、起源発生的に結びついているものなのである。子供は、遊んでいると全く自由になり、このときに最もよく自分の内面の生活を表わしてくる。

 ゲームは、うまくいけば、子供にグループというものを理解させ、その中で協調していくことを教えてくれるので、子供の社会性を養うのに役だつ。ゲームのルールを通して、ことを平明にすること、判断、自己抑制を経験する。ルールを尊重することにより、民主的な行動の原則を実行し、学んでいくのである。

 子供が遊んでいるのを見ていると、その子供についていろいろなことがわかる。―その子供が利己的であるかどうか、戦闘的か内向的か、こわいもの知らずか臆病か、うれしいのか悲しいのか。子供の遊んでいる様子はありとあらゆる情報に満ち満ちている。

 精神分析家のDr. Lionel Herdenは、つぎのように語っている。「精神分析家は、過去30年にわたって、子供のレクリエーションの問題をいろいろな角度から研究している。その成果のいくつかは、“Recreation and Psychiatry”というパンフレットにまとめられているが、この子供の遊びの心理学的意義に関する調査の結集は、今いちど著名な精神科医たちが、直接得た経験を通じて書いている解釈を、見直してみるよい機会となるだろう。

 Dr. Herdenの参照しているパンフレットは、National Recreation Associationの主催で行われた治療のためのレクリエーションに関するシンポジウムの成果で、1960年に発行されたものである。

 このシンポジウムでは、故Dr. James Plantが、「レクリエーションと個人の社会的統合」という論文を発表している。プラント氏は、レクリエーションとは、習うことでは身につかない自然の態度であるとしている。「レクリエーションでは、個人個人の態度を強調する。そしてこの態度とは、決して教えられたものではなく、偶然とらえられたものなのである」と説いている。プラント氏は、レクリエーションの中で、子供がその「効果」や「結果」には全く無関心に、かれ自身のリズムをかもし出しているのを見た。実際にこれはレクリエーション・リーダーにとっての警告であったのだ。詳細にわたって計画された活動に見られる機械的なリズムは押しつけとなり、子供自身の内面から生まれるリズムをくずしてしまうものになる。20年以上も前に、プラント氏によって提唱されたこのレクリエーションの概念は、今日になって広く受け入れられ、それを反映して多くの専門施設では、子供たちの活動のプログラムが、ますます柔軟性のあるものになってきている。

 プラント氏は、アメリカの社会は、報酬や統計といった物質的なものにあまりにもこだわりすぎていると思っていた。もしレクリエーションを、何かそのことにおいて、成功をおさめるべきものであるとするならば、それは、レクリエーションから、その本来の意味と本当の利益とを取り去ってしまうことになるのだ。

 同じシンポジウムで、Dr. William Menningerは、子供のレクリエーションに対して、異なる見方を発表した。かれは、レクリエーションを、精神衛生と深く関係あるものと考えている。子供の性格異常や、日常生活における不適応の問題が、非常な数にのぼっているのを憂慮して、Dr. Menningerは、レクリエーションをその治療法だと考えたのである。

 このシンポジウムで発表されたレクリエーションに対するもうひとつの見方は、Dr. Alexander Reid Martinのものである。かれはおもに、レジャー・タイムの誤った過ごし方の結果、精神的、あるいは肉体的に病気になる多くの人々のことをいたみ、レクリエーションは、本来、年齢にかかわらずすべての人々にとって、予防的医療であるはずのものと説いている。Dr. Menningerも、Dr. Martinも、アメリカには、遊びやレジャーを、人生を通じての芸術や哲学の源泉とは考えず、むしろ、ものぐさや怠惰の態度と結びつけてみる、古いピューリタン的な観念がまだ残っていることを残念に思っている。Dr. Martinは、「レクリエーションは、決して人の寄りかかる松葉づえや薬、ごほうびのようなものではない」と強調し、「レクリエーションそのもののために、健康を促進させるものである」としている。

 Dr. Thomas C. Campanelleによると、臨床的見地からは、「遊びは非常によいカタルシスになりうる」彼の著書“Psychology of Education”の中で、「子供は自分の悩みを実際に演じてみることによって、無意識のうちにとり除いている」と述べ、さらに、子供に対して、不公平な態度をもって接したおとなは、その子供のファンタジーの中で、さばかれる結果になるのだと言っている。

個性の必要性

 治療のプログラムを企てるときに、手びきとなる原則は、プログラムは、問題のある子供たちのためのものであり、いわゆる「問題児」を対象にしているのではないということである。それぞれの子供は、自分の内に定義づけたり、予測でき得ない成長の可能性を秘めている。この子供たちの多様性はたいせつに育てられなければならないものである。したがって、子供の間の一致などということを目標にしてはならないし、また成し得ないことである。個々の子供が、唯一無二の個性をもち、この独特の個性こそが、遊びを通じて保ち続けてほしいものなのである。このような個人個人のかくされた可能性を発見し、それを最大限までに発達させることが、われわれの使命である。この使命の目的が、実際に達せられうるものであるということは、つぎのケースを見ていただけばおわかりのことと思う。

事例

 私生児として生まれ、誕生のときから里子として育てられてきたDavidは、12才のときに、この宿舎づきの治療センターにやってきた。かれはこれまでに、何度も臨床テストをされ、いちおう舞踏病による神経障害という診断が下されている。センターで行われたWechsler Intelligence Scale for Childrenのテストの結果は、77(境界線)であった。脳波図(EEG)には脳損傷が見られる。

 1964年の春に、Davidの最初の担当になったケースワーカーが会ったときDavidは、足を引きずるようにしてオフィスにはいり、頭は低く垂れ、沈黙のままであった。恐怖のため、コチコチになっているようであった。ケースワーカーが手を差し伸べると、さらに引っこみ、縮みあがっていた。

 Davidは背が高く、やせていて、臆病そうに動く少年であった。手や腕を使って何かをしようとするときには、しばしば、いらだちや苦痛の表情が、顔にあらわれるのが見られた。あるときには、おこっているように見えるが、この怒りを発散できないでいた。ほとんどいつもそうであったが、緊張しているときには、一つの文を始めから終りまでつづけて話すことができなかった。ふるえ、どもり、すっかりあきらめてしまい、うずくまり、失望の色を表し、憂うつそうになり、ますます内にこもって、また口をつぐんでしまう。

 ほかの男の子たちが遊んでいても、Davidは外からみているか、地面をみつめ、くつでほこりをけり上げている。センターの職員は、Davidの気持ちを喚起できるものをやっとみつけた―それは<野球>である。

 Davidの野球への興味を引きおこすために、地域の少年クラブのコーチと相談をして、かれを野球のチームに加えることにした。野球場は、センターから8マイル離れたところにあったので、職員が車で送り迎えした。その職員がついていてくれたので、Davidは、初めての施設の外での経験も安心していた。この計画の第二ステップは、クラブのコーチにDavidの送り迎えをしてもらうことだった。そして、第三ステップに、Davidがバスに乗るのに付き添う年上の少年を選んだ。ついに最後には、Davidはひとりでバスに乗って通うようになった。

 Davidは、その夏と初秋をスポーツで過ごした。この間、かれの行動にみられた変化には著しいものがあった。Davidは、野球に参加することにより、「自分の殻」から脱け出した。もう遊び場の外に立っていることはなく、それどころか、まっただ中にいてゲームを運んでいくのを手伝っていた。このころ、ほかの人たちと協調していくことを学びはじめ、これをセンターでの日常生活の中でも、ほかの子供たちとの経験に生かしていった。またよい野球選手になろうと努める結果、ある程度の感情的、肉体的な自己抑制がみられるようになった。

 冬が近づいたころ、Davidは、ほかのケースワーカーの受持となった。このワーカーは、オフ・シーズンの間も、Davidが野球との接触を保てるよう野球のスクラップブックを作ることを提案した。Davidは、初めは、この案に賛成していたが、しばらくして、他の男の子と口論をした際、興奮のあまり、このスクラップブックを破いてしまった。スクラップブックを作る作業には、あまり身体を使うことがない結果、このような失敗の経験に終わってしまったのであろう。

 冬の間、Davidは、また、ふさぎがちになり、野球シーズンの間にみられた明るさを失いかけてきた。しかし春になり、グローブを手にすると、Davidの顔は再び輝いた。

 ソーシャルワーカーの助けや他の職員の協力を得て、かれの野球以外の活動への参加も増していった。成績そのものは、特にすぐれているというわけはなかったが、意欲はきらきらと燃えていた。

参加―着眼点

 Davidのケースでは、Davidの活動の成績よりも、常に、かれ自身が参加するということに主眼がおかれていた。父兄のかたがたや、教師たちもすでにご存知のように、多くのおとなたちは、特に親としての責任のある立場にいる人々は、往々にして、子供が家に持ち帰ってくる成果そのものに、必要以上にこだわっているようである。子供が完成した作品を持って帰れば、それは親にとっては、子供がよい一日を過ごしたことであり、よい先生についたことであり、そして、よい学校へ進めるということの何よりの証拠なのである。

 私は決して完成した作品というものに反対しているわけではない。私はただ、子供が何も持ち帰らなかった場合の、このようなおとなたちの子供、学校、あるいは教師に対する誤った態度について、警告をしているのである。子供がある課題に取り組んでいるとき、真の創造性というものは、その作業の中に、ましてでき上がった作品の中に表れてくるものではないということを、どれほどの人が知っているだろうか。創造性は、子供の性格そのものの中に、創造の過程のただ中にいる子供の中にあるのである。

 私は、この論文で、レクリエーションがもつ治療の手段としての、大きな価値と無限の可能性を主張してみた。ここで解説のために用いたケースは、学習、および行動に問題のある子供たちのための、寮制の治療センター(無宗派)から借用したものであるが、その応用の範囲はもちろん、この種類の施設に限定するものではない。各施設にはそれぞれの限界、問題があり、独自の個性をもって運営されているものであるが、ここで述べたことが、子供たち―すべての子供たちのために働くかたがたにとって、参考になれば幸いである。

(Journal of Rehabilitation, Jan.-Feb., 1971より)

参考文献 略

*Mr. Baker 現在、ニューヨーク州のBuffaloにあるProtestant Home for Childrenの常務理事を勤め、Homeの職員の訓練と監督、State Univ. College of Buffalo, Dept. of Learning & Behavioral Disorders, Division of Exceptional Children(ニューヨーク州立バッファロー大学、学習・行動障害学部、異常児課程)の実習生のための企画、指導、監督にあたっている。以前には教師、陸上競技部長、レクリエーション・セラピスト、特別講師としての経験があり、研究の分野では治療のためのレクリエーション、そして25年にわたる情緒障害児および非行少年に関する業績がある。ニューヨーク州、ニューヨーク市のYeshiva Univ.において社会学で、B. A.をとり、同じニューヨーク市のニューヨーク大学で教育学でM. Aをとった。
**日本障害者リハビリテーション協会嘱託


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年1月(第5号)12頁~16頁

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