情緒障害とコミュニケーション問題

情緒障害とコミュニケーション問題

Emotional Disturbances in Relation to Problems of Communication

Mr. Paul Morrow

新井由紀*

 話すということは、話術や日常の会話に参加することを可能にする心理・身体的作用の過程ののひとつと見ることができる。その後者のための過程は、私たちの生活している文化的背景の下で、個人的、社会的充足感を得るためには不可欠のものであり、さらにこれを成功させるには、個人の調和のとれた人格がたいせつな土台となる。 

 人間は揺りかごから墓場までの旅の間、適応性があり、正確でかつ敏速な「談話」という行動を通じて、絶えず自分の人格の成長、発達の能力に強力な影響を与えている。心理・言語学的観点からすると、言語能力は生まれたときから自然に発達する、聞く、話すことから読み、書きへ進んでいく。ここでは、人がすすんで寄り集まり、みずからお互いの興味や考えを分かち合ったり、交換したりするときに感じられる人間どうしのふれ合いのあたたかさという意味合いを含め、聞くことと話すことの形としての「談話」について、もっぱら考えていこうと思う。 

 会話の術―この中で「話す」という行動はきわめて自動的であるのだが―という媒介をとおして、複雑さの程度は異なるが、高度に先練された人間交流が行われる。「話」の中心になっていることは、おもに知的なもの(例、説明)、社会的なもの(例、食後のスピーチ)、あるいは感情的なもの(例、訓戒)であっても、よい会話というものは、この三つの要素をすべて、そこにいる人全員に合った均衡のとれた形で含んでいるものである。

 話すということは、自由選択の行動の典型的なものである。話すことを余儀なくされることもあるかもしれないが、だいたいの場合、本当に話したくなければ、それ以上に強制されることはないはずである。 

 教師には、この話の3要素の不均衡がこれを聞く回りの人々をゆがめることになるだろうことはよくわかるのだが、子供の親たちは往々にしてこれを見分けるほど、客観的、分析的ではない。全人格的な調和のとれた内面生活をもつことが、たとえば雄弁術の訓練を受けることよりも、はるかに健全な会話による交流のための素地となるという考え方を、一般の人々にわかってもらうよう努める必要がある(例、知的退屈、おしゃべり、場を白けさせるもの等)。内面からのあたたかさというものは、口から出る言葉よりは、むしろ言葉以外の中に表れてくるものである。 

 「会話をするには少なくとも2人の人がいなくてはならない」ということわざは、私の論題にふさわしい真理を述べている。このことから、片方の側に障害があれば、真に意味のある会話をすることは事実上不可能になるということが言える。

 そのために、情緒障害をもつ子供が仲間はずれにされ、社会的に隔離されてしまうということがよくあり、そのような子供は、しばらくの間でも、特殊教育を通じて治療されなければならないようなことにもなる。

 望ましい人というのは、いつでも物事に熱心な興味を示し、また彼自身興味深い人物である。他人との間で感情や考えを受けとめ、また伝えることができなくてはならないし、毎日の社会生活に適応していく好ましい姿勢を身につけていなければならない。そういう人は、常に他人の話に耳を傾けること、言葉を交わすことの力を自覚していて、他人にも自分にも喜びを与え、友情を堅くすることに心を配っている。 

 自分の置かれた環境の中で仲間などと自由に話しができ、他人の権利や特権を尊重する一方、自分の要求も満たすことのできる人は、おとなも子供も必ず人間交流のじょうずな人である。周囲の環境に適応していくことができなくなると、他人と有意義な思慮ある交流を保つことにむずかしさを感じ始める。子供のもつ不安な気持ちの隣には、往々にしてその子供のニードや行動に対して接するおとなの矛盾の多い態度が見られる。おとなが子供に対して矛盾して、また無神経につきつける要求は、子供の周囲にいるおとなと友好的な意味のある交流をもちたいと願う自然の気持ちを、すぐにだいなしにしてしまうのだ。

 若い人々は、しばしばこうした場合の欲求不満の気持ちを、最後のどたん場でただ自分を認めてもらおうとするために、意味のない方向に追いやってしまう。つまりだれも彼らに耳を傾けていないと感じるときである。実際の生活を幻想化してしまうような防衛反応に走ったり、他の人の協力を得ておとなの全く除外された世界に作り直そうとする無益な努力をしたりする。しゃべり過ぎ、どもり、聴取不能、健忘、擬似聾などは、根深い人格的欠陥の症状として現れるものである。このことは急ぎ子供の人間交流の方法を向上させるための対策にとりかかる前に、関係ある専門家のチームにより、子供の人間関係の問題全体を理解することがいかにたいせつであるかを示している。 

 生まれつきの、またある場合には遺伝によって受け継がれた欠陥が、人間交流の問題を引き起こすことがある。医学の報告によると、はっきりした性格の特徴や人生の大きなできごとの影響は遺伝子に刻みこまれることがあるそうだ。身体障害、体内の新陣代謝に伴う欠陥、精神・神経性異常、そして身体の有機作用の問題などがこれに含まれる。同じことはもちろん事故や病気の結果起こることもある。 

 人間交流の障害のいろいろな原因が、人生の初期のうちに発見され、とり除かれることが望ましいが、早期の段階でそれらの原因があることがわかったとしても、その多くが実際にどのような結果をもたらすものか、じゅうぶんにわかっていないようだ。会話や言語能力を著しく侵すようなことも、性格に不適応性という二次的障害を招くことになりやすい(例、耳の聞こえない子供は往々にして初めに情緒障害、精神薄弱などの症状を示したり、おとなの盲でさえも風刺の材料にされることがある)。そのあとに付随して反社会的、感情的、知的行動を起こさせることになり、医師、心理学者、教育者、父兄らは本来の問題の治療につけ加えて、それらの二次的な問題にもとり組まなければならないことになる。 

 より効果的な人間交流を回復、あるいは向上させるための治療計画には、それぞれの場合の限られた条件にもよるが、子供の身体的障害を軽減すること(例、捕装具の利用、手術、化学療法等);子供の本来の刺激に対する反応のしかたに見られる問題を矯正すること(例、言語治療、知覚・運動神経作用の調整訓練、条件づけ技法、精神療法等);あるいは子供のいる環境を変えること(例、父兄の指導、里親、特殊教育、補修教育、施設等)などがあり、問題が深刻な子供の治療にはこの三つが同時に行われる。 

 遺伝的あるいは後天的な特性がいろいろに組み合わされる結果、子供の感情の快活性、欲求不満の状態に対処する能力は、それぞれ大きく異なる。子供によっては、嫉妬、欲ばり、うぬぼれ、疑いなどの否定的(ネガティブ)な感情が、その素地を作った状況が過ぎてしまったあとから生じ、しだいに強まっていくということがある。誇張された根強い偏見、差別の感情の犠牲になるにつれて、正常な社会的、知的行動からだんだん遠ざかるようになり、ここで効果的な治療が施されなければ、そのまま成長するうちに、みずからを周囲の環境から切り離してしまうことになる。

 これは根深い人間交流の問題を形成しているものであり、行動のすべての面に通じているものである。事例に関する資料の中にも多く記録されていることだが、人生の初期に形成されたこのような態度が累積した悲惨な結果は、早いうちに気づき対処されない場合は、明らかに社会的隔離、人格的分裂につながっている。教育的立場から、幼年時代の早期に情緒的に問題のある子供をとらえ、その段階で治療の手段をとるようにすることに、できるかぎりの努力をつくすべきであるということは言うまでもない。このような一次的予防処置が最も大きな効果をもたらすのである。 

 人間交流がじょうずにできるようになるためには、子供はのびのびと身体的、社会的、感情的、知的成長・発達ができなくてはならない。自分に対して反応があり、強化作用を及ぼしている環境の中におかれていることを感じとり、その中で自由な人間交流をもち、そして家庭と学校の一致して明快に示されるしつけの規則の中で行動ができなくてはならない。家庭と学校の環境が子供のために一致協力して会話の技術を伸ばすよう奨励、監督し、新しい態度、興味、考え方を育てる後ろだてになることが最も望ましい。中でも最近の子供たちはいろいろな考え方を見分け、自分自身を主張し、そうすることによって自覚、自立の心を高めることを学ぶゆとりが必要であり、将来社会に出て子供の親となり、職業的、経済的独立をする準備をしなければならない。この社会の将来は、私たちがどのような新しい教育の道を築き上げるかということにかかっているといえる。 

 要約すると、私のここに述べた論旨は、人間交流に見られる障害は必ずと言っていいほど行動の障害と深い関係がある、ということである。そのどちらかより先に生じた、あるいはより根本的な問題として存在している。したがって、できれば治療にとりかかる前に鑑別診断が必要である。さもなければ、根本的な問題をとり残したまま、表面に表れた症状のみを扱おうとする結果にもなる。 

 子供にとってもおとなにとってと同様、人間交流は目的であるとともに手段であると考えるべきである。人間交流は両者の関係が育ち発展する可能性を促進し、また逆に促進され、しいてはその場に満足をもたらすとともに、お互いの人格を向上させるものである。子供は周囲のおとなたち、特に両親や教師から正直、誠意、そして尊敬をもって接せられている場合にのみ、子供もまた他の人々と親しいつながり、人間交流のある健全な人間関係をもつことができるのだ。 

 最後に、父兄や教師は子供の言わんとすることに、特に彼らの問題に熱心に耳を傾けるよう努めなければならないということを申し上げたい。子供の言わんとすることをよく聞いてみて、初めて彼らのもつ問題、悩み、恐れ、疑惑を知ることができ、問題が大きなものになる前に助けの手をさしのべることもできるのだ。ここで思い出したのだが、「問題児というものはない。ただ問題のある親がいるだけだ」多くの人々が忘れかけていることではないだろうか?

(Rehabilitation in Australia, April, 1971より)

*日本障害者リハビリテーション協会嘱託


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年1月(第5号)29頁~31頁

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