リハビリテーション・カウンセラー

リハビリテーション・カウンセラー

―米国における問題点―

The Rehabilitataion Counselor:Training and Employment

Carl E.Hansen*

奥野英子**

 わが国では、リハビリテーション・カウンセラーという専門職の養成はいまだ着手されていないが、米国において直面している問題点をここに紹介し、今後、日本の方向を決めるときの資料として提供したい。

 過去多年にわたり、リハビリテーション教育担当者および州職業更生機関の行政官は、カウンセラー養成はどこかに問題があるのではないかと嘆きつづけてきた。リハビリテーション・カウンセラー教育プログラムは、職業更生法(Vocational Rehabilitation Act)の改正として1954年に出された公法第565号(Public Law 565)によって、正式に設置された。それから15年以上もたった現在、教育担当者および行政官は、むかしと同じ問題に直面しているのである。

 その問題とは、修士課程におけるリハビリテーション・カウンセラーの教育はどのようにしたらよいかである。

 1970年に開催された全米リハビリテーション会議において、全国リハビリテーション協会(National Rehabilitation Association)のE.B.Whitten常務理事は、「リハビリテーション専門職員の養成に新しいアプローチを試みるべきである」と力説した。「リハビリテーション・カウンセラーの教育はクライエントのニードをじゅうぶんに考慮していない」と州職業更生行政官が非難している事実をも、同氏は指摘していた。

 SussmanとHaugは、リハビリテーション・カウンセリング専門職に関する研究論文を1970年に発表し、「現行の養成プログラムは、1970年代のニードを満たすために修正しなければならない」と結論している。そのほかたくさんの論文や報告書が、リハビリテーション・カウンセラー教育プログラムと州機関との間にある断層を指摘しつづけている。

 大学院における教育プログラムが、州機関で働くカウンセラーの養成を意図していないことは確かである。リハビリテーション事業庁(Rehabilitation Services Administration)が助成しているプログラムを卒業した学生の就職状況を見れば、教育担当者や行政官は考え込まざるをえないであろう。1970年度の統計を見ると、養成者と雇用者の間のへだたりが非常に大きいことを示している。修士号取得見込み者のうち、州機関へ就職した者は、334名であり、全体の35パーセントにすぎない。

 支出と税金の精算を考えると、カウンセラー教育担当者と州行政官は、カウンセラー養成と州職業更生事業との間にある格差を解決するために、ただちに行動に移らなければならないであろう。カウンセラー養成プログラムに対する弔鐘は、「ドル紙幣」の撤退を意味するであろう。過去15年間、この連邦政府から出されるドルが、カウンセラー教育担当者に仕事を与えてきたのである。Whittenは1970年に、次のように断言している。「現在行なわれている大学院課程のプログラムは、州政府および連邦政府、特に連邦政府の援助が打ち切られれば、お手あげ状態になり、廃止せざるをえないであろう」と。州職業更生機関のニードからは独立しているはずであると主張しているカウンセラー養成プログラムは、その本来の目的、その位置づけを真剣に考えなければならないであろう。

論争点 

 州行政官とカウンセラー教育担当者が意見を異にする一番大きな論争点は、カウンセリングの強調点をどこに置くかということである。カウンセリングの必要性について、とやかくいう人はいないであろう。問題は、「適切なカウンセリングとは何か」である。州機関が重要視するカウンセリングの目的は、数多くのカウンセラー教育担当者が描いている〈心理療法的カウンセリング〉とは異なるようである。

 MuthardとMillerは、「教育者が解釈し広めているカウンセリング様式は、本来のリハビリテーション・カウンセリングとは似ても似つかない、筋道のそれたものである」と1966年に報告している。

 Smits、WrightおよびButlerは1968年に次のような結論を出している。「教育を受けたカウンセラーは、典型的な機関で行なわれている現実のリハビリテーション様式を理解しておらず、理想化された観念的なリハビリテーション様式を考えているようである」と。彼が述べている観念的な様式とは、カウンセラーが尨大なケースやケース割当制で多大なる重荷を負わされている現実を直視していないことである。

 この問題をもっと広くとらえている論文として、1957年に書かれたPattersonの「カウンセラーかコーディネーターか」をあげてみたい。この論文は、「数多くの州リハビリテーション機関は、高度の資格をもつカウンセラーには大して興味を持たず、コオーディネーター的な役割をになう人を求めているようである」と結論している。

 それから11年後の1968年に、Pattersonは「リハビリテーション・カウンセリング――専門職か商売か」を出版した。この本は、州機関のなかでカウンセラーとコオーディネーターの両者が必要であることを提言している。専門家としてのカウンセラーは、クライエントと事務的サービスの連絡調整にあたるべきではなく、カウンセリング(おもに心理療法)にのみあたるべきであると、結論している。カウンセラー教育担当者にとって、Pattersonのこの豊かな著作は、カウンセラー養成プログラムが取るべき方向――すなわち、療法的性格を主体とするカウンセラー様式――を象徴しているのではないだろうか。「多芸は無芸」という叫び声は、当分の間、心理療法を強調するカウンセラー教育様式のキャッチフレーズとなるであろう。

専門職として強調

 リハビリテーション・カウンセラーの教育について討議されるとき、「専門職」とか「心理職」とかいうことばの影響力を見のがすことはできなかった。広く社会に認められ、社会的位置を確保するためには、「専門職」ということばが重要性を帯びていたのである。職業更生市民諮問委員会(Citizens Advisory Committee on Vocational Rehabilitation)は次のように答申している。

 カウンセラー問題の危機は、専門職としてそれは何であるかがはっきりしないため、なおさら複雑になっているのである。学生時代は自分をカウンセラーとして意識し、苦境にいる人びとを一対一でカウンセリングし、それらの人びとを援助するにあたっては、自分のパーソナリティーを最大限に活用するのであると認識している。しかし、一旦、州リハビリテーション機関にはいり、働き始めてみると、この自画像を変えざるをえないのである。州リハビリテーション機関では、ケースを解決する能力、上部機関への陣情者、ケース記録者としての自分しか期待されず、絶えずスーパバイザーに監視されているのである(1968年、P30)。

 1968年にPattersonは、「専門職者としてのリハビリテーション・カウンセラーは、カウンセリングにのみ専念すべきであり、その他の雑用は他の職員にまかせるべきである」と述べている。確かに、専門職者としてのリハビリテーション・カウンセラーになるためには、連絡調整にあたるコオーディネーターとしての役割を、あきらめざるをえないであろう。

 「専門性」とは、すなわち、カウンセリングのことを意味する、と考えるカウンセラー教育担当者もいるようである。その論理によると、一対一で行なうカウンセリングに従事し、その他の仕事は何もしないことが「専門性」であるということになる。

 リハビリテーション分野に新しい職域が生まれるとき、「専門職」ということばのその本来の意味を再検討する必要があろう。全国リハビリテーション協会新職種プロジェクト(National Rehabilitation Association New Carriers Project)に1970年に投稿したMcAleesは、リハビリテーションの刷新をはばむような、専門性ばかりを主張するやり方は、もはややめるときではないかと指摘している。専門職者はリハビリテーションにおいてもちろん重要である。しかし、非常に狭い意味での「専門性」は、リハビリテーションの刷新的アプローチを抑圧するだけであろう。

心理学の影響力

 専門性をあくまでも追求しようとするならば、「心理学」ということばが重要性を帯びてくるであろう。Waldrapは職業リハビリテーション部訓練会議の議事録のなかで、次のように提案している(1966年、P23)。

 2年間の大学院課程でリハビリテーション・カウンセリングを学び、完全な専門レベルで活躍するカウンセラーは、「心理カウンセラー」として位置づけられるべきであり、大学院課程の養成を受けていず、したがって、職業、教育、および個人的諸問題をもつクライエントを対象に、個人的カウンセリングまたは集団カウンセリングを行なう資格のないカウンセラーとは、はっきり区別すべきである。

 また、Samlerは、「専門職者としてのリハビリテーション・カウンセラーは、基本的には心理職員として働くべきである」と提案している(1968年)。

 カウンセラーとしての専門性は、心理セラピストとなることによってのみ、または準心理職員とならせることに重きを置くことによってのみ達成されるのかを、リハビリテーション・カウンセラー教育担当者は自分自身に問う必要があるであろう。数多くのリハビリテーション教育担当者は、カウンセリングおよび心理学の勉強は積んでいるが、州機関で実際に働いた経験は一度もないであろう。このような背景から、専門性とは何かについて、長年ひきつがれてきたなんらかの偏見がありはしないかを、反省する必要があるであろう。専門的なリハビリテーション・カウンセラーになるには、カウンセリング・セラピストや心理職員として要求される資質のみによって判断するという養成方法および考え方は、疑問の余地がある。

連邦政府の指針

 今までに述べたカウンセリング議論は、おもにリハビリテーション・カウンセラー教育担当者の立場から見られたものである。これと全く反対の立場を見ようとするならば、すべての州機関リハビリテーション・プログラムに共通な基本資料であるFederal Register for Vocational Rehabilitationを見なければならないであろう。これには、カウンセリングに関する指針が出ているのである。カウンセラー教育課程は2年間であり、その2年間のカリキュラムの中心はカウンセリングに置かれている。それでは、連邦政府の指針では、カウンセリングをどのように解釈しているか見てみよう。

 Federal Registerのなかでは、カウンセリングおよび指導ということばが137回出てくる。ここで説明されているカウンセリング活動とは、心理職員的な方向をあまり要求していないようである。カウンセリング・サービスとは、クライエントが自分の能力と限界および自分に適した職業目標をしっかり理解し、また、医療サービス、訓練等、自分の職業適応を最大限に達成するために必要な、その他のリハビリテーション・サービスを駆使できるよう指導することであると、記述されている。

 「調査によると、カウンセラーの役割とカウンセラー教育プログラムの間に隔たりがある」と、Kunceは1969年に指摘している。また同氏は、できるだけ広く関連分野を網らし、カウンセリングのみを強調するのでないカウンセラー養成コースを修士課程で実施すべきであると、主張している。

離職率

 カウンセラー養成問題に結論を下そうとするとき、SussmanとHaugの研究報告第7号を見のがすことはできないであろう。この報告書は、1965年にリハビリテーション・カウンセリング養成課程を終了した学生の就職状況を研究している。卒業したての1965年から1968年にわたる3年間の職歴を把握し、職業面および個人的性格をもみるとともに、現状および現状を変えざるをえない圧力、および現実の職場に適応していく過程などを綿密に分析している。この報告書で取り扱っている職場とは、州機関に限られていることもお断わりしておきたい。

 もっとも深刻な問題は、政府が助成しているリハビリテーション・カウンセリング課程を卒業したばかりのカウンセラーの離職率が、非常に高い点であることを、著者は痛感している。著者はそれを「現実のショック」と呼んでおり、これは、大学の養成課程を卒業して州機関に就職したとき、学生がどんな気持ちをもつかを表わしたことばである。大学によってその教育成果もまちまちであることにも触れている。卒業してから3年ののち、ある大学の卒業生の100パーセントがリハビリテーション分野(俸給は連邦政府がほとんど支払っている職場)でそのまま働いているが、他方、大学によっては、もはやだれもリハビリテーション分野で働いていないという例もあった。このような現象はどうして起こるのかについても、疑問を発している。

 SussmanとHaugが書いた次の文を読めば、その答えは出てくるであろう。

 「ほとんどの養成学校は、社会が直面している現実の社会問題についてゆけないのであろう。より広い視野に立つ経営的鑑識眼が、養成制度にじゅうぶんに生かされておらず、そのため、カウンセラーは、新しい状況にチャレンジする重要性を、見失っているのではないだろうか……」(1970年、P35)。

強調点の転換期

 今こそ、修士課程のカウンセラーの養成および就職に対して、新しいアプローチ、新しい方向を見い出さなければならないのではないだろうか。過去15年間の結果をみてみると、各種機関が必要とするポストを満たすにじゅうぶんな数のカウンセラーを養成していないことが明らかである。カウンセラーの教育哲理およびカウンセリングの重要性については、教育者と州職業更生行政官では意見の分裂が見られる。

 機関におけるこんにちの運営機構では、将来活躍すべきカウンセラーを養成することはできないし、これを大学側としても期待できないし、また望むべきではないだろう。機関における現職教育プログラムを見てみれば、これはすぐに明らかになるであろう。サービスを実施しながらリーダーシップのとれる人材を、大学で育てるべきである。

 機関において障害をもつ人びとにサービスを実施する場合、その実施体系がもっとも重要である。そして、障害者に対する適切なサービスのなかで、どうしてもなくてはならないものがカウンセリングなのである。カウンセリングは本当に一番重要な部分なのである。カウンセリング以外の仕事を行なわないようにと、カウンセリング教育担当者は主唱しているが、これは現在の州機関の体系のなかでは不可能であろう。他方、州行政官はカウンセリングは軽んじてはならない。カウンセラーの職務は書類をいじくりまわすことだと考えるのは、もってのほかである。

 リハビリテーション・カウンセラーの将来について考えるとき、次の四つの重要点を考慮する必要がある。

1. 信頼すべき情報によると、州機関は修士課程を終えたカウンセラーを必要数確保することが不可能になり、リハビリテーション・サービスを実施できるのは民間団体だけになってしまうだろう。

2. 補助職員の活用という問題は、もはや理論上だけではすまされない。州機関は、修士課程卒業のカウンセラーを確保しようとしないで、補助職員でその穴うめをしようとしている。

3. 州のリハビリテーション事業はクライエントの適性に合うよう開放すべきである。そうすれば、サービスの流れはよくなり、継続的に行なわれるようになるであろう。

4. 州機関で現職教育を実施し、リハビリテーション職員養成に貢献すべきである。

 専門職としてのリハビリテーション・カウンセラーは、障害をもつクライエントと一対一でカウンセリングにあたるのであるという理念を貫けば、上記にあげたポイントを自然に強化できるであろう。現在、修士課程を終えたカウンセラーは不足しているのである。カウンセラー教育プログラムが現状と同じ方法で進められるなら、養成された者と現実の職場とのギャップはますます大きくなるであろう。また、教育界と州行政機関とのギャップも増大するであろう。

補助職員の活用

 補助職員の活用という新しいアプローチをすれば、大学院レベルのカウンセラーがすべてのクライエントを、一対一でカウンセリングしなければならないという従来の理念は打ち破れるのではないだろうか。学部を終えたばかりの補助職員を、もっと大々的に活用するようになれば、修士号をもつカウンセラーは、カウンセリングの能力ばかりでなく、医療面、地域社会の資源、ケース管理などについてもじゅうぶんに知識をもち、カウンセリング・コンサルタントとして機能できるようになるであろう。

 このカウンセリング・コンサルタントには、5~6人の補助職員を割り当てる。そうすれば、クライエントとのカウンセリングについても、また就職あっせんについても、この5~6人の補助職員を指導することにより、自分の知識や能力を生かせるのである。したがって、カウンセリング・コンサルタントはクライエントに直接つくわけではないが、補助職員を指導することにより、その及ぼす力は何倍にもなるであろう。このような方法を取れば、現職教育も自動的に行なわれるようになるであろう。すなわち、カウンセリング・コンサルタントは、自分のもとにいる5~6人の補助職員の現職教育プログラムに責任を持つのである。

 リハビリテーション機関の内部を知っている人は、カウンセラーを監督する立場にある者がすでにいるではないかと反論するであろう。しかし、リハビリテーション機関にいる現在のスーパバイザーと、私が主張しているカウンセリング・コンサルタントとは、その任務が全く違うのである。カウンセリング・コンサルタントはカウンセリング活動そのものを監督・指導するのである。現存の機関にいるほとんどのスーパバイザーは、財政管理上のスーパバイザーである。このスーパバイザーの通常の職務は、ケースにサービスが実施されているかどうかを監視することである。たぶん、もっとも重要な任務は、経費が適切に使われているかどうかをチェックすることであろう。ここで、私が提案しているカウンセリング・コンサルタントとは、財政的な管理となんの関係もないのである。

 補助職員の活用を実施すれば、修士号をもつカウンセラーは、それまでに開発されていなかった自分の能力をじゅうぶんに働かせられるであろう。したがって、一対一でクライエントのカウンセリングにあたるセラピストとしての任務だけを考えているカウンセラーは、カウンセリング・コンサルタントになるには適切でないだろう。現実においても、セラピイだけの職務を考えて州機関に就職したカウンセラーは、仕事に関する自画像と現実の仕事との隔たりに直面し、州機関から離職しやすいのである。

 州機関は、修士号をもつカウンセラーの確保が困難なために、それよりレベルの低い人材を雇わざるをえなくなっていた。そうなると、ここで新たに直面する危機は、補助職員を適切に監督・指導できるかどうかである。適切な教育背景をもつ学部卒業者、技術者、助手などを指導するために、もっと強力な現職教育プログラムが必要とされるであろう。「新しい職種を成功に導くには、その監督・指導が重要な鍵になる」と、McAleesは述べていた(1970年、P34)。

 ここまで本稿を読んで下さった読者は、私の提案に反論したくなるであろう。しかし、もしリハビリテーション職員であるわれわれが恵まれた社会に住み、資金も無限大にあるならば、私もあなたがたの反論に同意するだろう。しかし現実は非常にきびしく、時間においても財政においても限度があるのである。現在リハビリテーション・サービスを受けているアメリカの障害者の大多数は、修士号ももたないカウンセラーからサービスを受けているのである。補助職員を活用すれば、現在リハビリテーション界が直面している職員不足をじゅうぶんに補えるであろう。しかし補助職員は、高度な資格をもつ専門家によるしっかりとした監督・指導のもとでなければ、障害者のニードには応じられないのである。

新たな傾向

 私の提案は、カウンセラーとコオーディネーターの両者の必要性を主張したPattersonと同じ考え方ではないか、と思われる人もあろうかと思うが、しかし私の提案するカウンセリング・コンサルタントは、クライエントに対して直接カウンセリングはしないのである。助手が適切なカウンセリング・プログラムを実施しているかどうかを、絶えず監督・指導するのである。カウンセリングが非常に重要視されるクライエントを精神科医から照会された場合などは、徹底的な心理療法的カウンセリングが実施されているかどうか、注意してみるのである。このようなサービス方法は、現在どこかで実施されているであろうか。

 Peckhamは1968年に、ゲットー地域のクライエントを対象に行なわれた刷新的プログラムを記述し、その折に、カウンセリング・コンサルタントのアイディアについて触れている。彼の計画によると、その土地の住民を助手として積極的に活用し、一対一のカウンセリング・アプローチはいっさい使用していない。

 カウンセリング・コンサルタントという概念にもっと近いのは、オハイオ州職業リハビリテーション局が試みたリハビリテーションサービス・チームアプローチである。このリハビリテーションサービス・チームアプローチは、カウンセラー・マネージャーを活用し、このマネージャーは、ケース管理に責任をもち、カウンセラー、カウンセラー助手、事務職員とともにチームを組んで働くのである。

 ミシガン州で行なったPeckhamの理念も、オハイオ州のリハビリテーションサービス・チームアプローチも、職員の活用および障害者へのサービス実施に関する刷新的方法に目をつけている。各州では、1970年代のニードに合った刷新的なサービス実施方法を求めているのである。このような時機に、カウンセリング・コンサルタント・アプローチは非常によい結果をもたらすことと私は確信している。

まとめ

 私が提案する修士号取得のカウンセラー活用方法を採用すれば、Thoresen、Smits、ButlerおよびWrightなどの諸氏が述べている問題は解決されるであろう。

 リハビリテーション・カウンセラーは、その教育担当者およびその他専門家が教えてくれる職務と、実際の職場で要求している職務が違うので、混乱のうずに巻き込まれているのである(1968年、P8)。

 カウンセリング・コンサルタント・アプローチも、大学院レベルでの養成を必要としているが、しかし、そこでの教育の強調点は変更しなければならないであろう。カウンセリング・コンサルタントは、自分の助手を通して自分のカウンセリング能力を発揮することはもちろんのこと、自分の助手たちと効果的に働くためにも自分のカウンセリング知識を生かすのである。また、自分のもとにいる職員に対しても継続的な現職教育を実施する責任をもつ。

 リハビリテーション・サービスを必要とするすべての障害者に一対一のカウンセリングを実施しなければならないというような、心理療法士としての従来のリハビリテーション・カウンセラーの概念にしがみついているのは、もはやこっけいである。大学院レベルの教育を受けた者が、自分で一人一人の患者に一対一でカウンセリングするかわりに、数人の助手が実施するカウンセリングを指導するという、より広い能力を活用する新しい養成・雇用形態を取り入れるには、今が一番適した時機ではないだろうか。

参考文献 略

* Dr.Hansenはオースチンのテキサス大学リハビリテーション・カウンセラー教育プログラムの副部長である。
** 日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年4月(第6号)24頁~30頁

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