生活保護対象者の職業リハビリテーション

生活保護対象者の職業リハビリテーション

The Rehabilitation Process And Public Welfare

Simon Olshansky*

奥野英子訳**

 貧乏人はいつの世にもいるものであり、貧乏人というグループに属さない人びとにとっては、多少悩みの種でもあり、そういう意味では、少しは関心をもたれているというべきであろう。貧乏人を受けいれやすくするには、痛み、苦しみ、悲しみ、失意に日夜悩まされている実存としての人間としてではなく、何か抽象的なものとして、距離を置いてみることである。

 ここで取りあげたいことは、生活保護の対象となっている人びとの職業リハビリテーションである。このような人びとを就職させることは容易ではない。事実、その過程はむずかしく、複雑であり、根気のいる仕事である。

 本稿では、われわれが直面し、解決しなければならない諸問題、そしてそれらを解決する方法について述べたいと思う。もちろん、どんな解決方法をとったとしても、それはそれなりの問題を伴うものである。しかし、これについてはまた別途に考えることにしよう。

自尊心

 生活状態がどのようであれ、どんな人でもプライド、すなわち、自尊心を伸ばさなければならないのである。全世界共通のニードともいえる、この自尊心を認識させ、伸ばさなければいけないのである。自尊心という基盤がない場合は、進歩させるために、脅迫と強制という手段しかないであろう。しかし、このような方法でつちかわれた進歩は長つづきしないものであり、大して意味がないのではなかろうか。

 自分を向上させたいと思う人間は、自分の未来をつくるのだという気構えがなければいけない。もっと実際に即したいい方をすると、クライエントには、できるだけ自分のことを自分で決断させるようにしなければならない。自分は社会復帰がしたいのか、そのためには何をなすべきか、を自分で決断させるのである。職業リハビリテーションを施しても、挫折や失敗に終わることが多かったのである。これは、いつも他人に決定させるという習慣の結果なのでる。カウンセラーがどんなに有能であろうと、その人が決断者であるかぎり、そのクライエントは興味を半減し、怒りを増大させるばかりなのである。子どものように扱われることを好むおとなは、だれ一人としていないのである。

 決断者であることを認められ、決断者たることを奨励されるならば、クライエントは、決断者としての能力と自分の決断が正しかったことを証明したいという意欲をもつものである。自分自身で決定する権利を否定すると、自分のためにお膳立てされたプログラムをさぼるようになるであろう。「さぼる」張本人さえ自分の意図に気がつかず、表面上はあたかも熱心であるかのような態度を取るであろう。専門家とどうように、クライエントも自己欺まんに陥るのである。とにかく、自尊心とは自分の生活の責任を負わせる原動力であり、このような責任感は、決断者となってのみ初めて実現されるのである。

自 信

 成功の機会を増大させるもう一つの方法は、クライエントに自信を持たせることである。このためには、正式な評価・訓練方法よりも非正式な方法のほうがうるところが大きい。

 正式な方法より非正式な方法のほうがよいという理由は、福祉に依存している人びとの多くは疑い深く、常におびえているということである。彼らの人生は常に苛酷であり冷淡であった。福祉ワーカー、警察官、セラピスト、医師たちの「事務的態度」は常に不安を生み出していた。このような感情は、決して彼らの先入観によるものではなく、彼ら自身および彼らのまわりにいる人びとの経験から生み出されているのである。もし彼らが自分自身にそして私たち職員に対しても自信をもとうとするならば、自信をつちかう経験をさせるよう助力しなければならない。正式な方法よりも非正式な方法のほうが、自分たちをもっと楽観的に見つめられる経験をたくさんんさせられるのである。

 もっと的確に述べるならば、精神測定検査は、福祉に依存している人びとにとって気分のいいものではなく、その結果、検査の苦痛の鋒先をわれわれに向けがちである。これらの人びとにとって検査は屈辱であり、自分の限界を暴露させる方法としか映らないのである。

 どうように、正式なセラピイやカウンセリングはあまり生産的なものではないので、むしろ「道を封じられる」ように見えるのである。このような援助を必要とするか否かは重要なポイントではない。このような正式の援助を実際に必要とするまえに、こちらから無理に提供しようとすることは、彼らのほんとうのニードを理解していないことになるであろう。全体的に見て、正式な過程とは、思慮のない無慈悲な“事務的な態度”を象徴しているのである。

ワークショップ

 福祉に依存している人びとが援助を必要とする場合、そしてもし正式なリハビリテーション過程ではその人に効果をもたらさないとわかったら、何をしたらよいであろうか。

 非正式な過程を強調するならば、診療所よりはより自然な環境として、ワークショップが考えられ、そこでクライエントは有能な労働者としての自分を経験できるであろう。自分も働けるのであると認識し、その達成感と勝利感にもとづいて、満足をうるのである。また、働けば働くほど稼げるので、努力と報酬のつながりを知るのである。この努力と報酬の関連性が、自分の運命および未来を自分の手で切り開こうとする気持にさせるのである。何もしないで、一人で孤立し、家でふらふらしているよりも、仲間といっしょに働いているほうがずっとよくなるのである。

 このようにして、働く経験とそこに出てくる報酬というかたちによって、クライエントはプライドと自尊心をもつようになるのである。このような感情を持てば、自然に生活態度も変わってくるのである。子どものように他人に依存する生活よりも、おとなとして独立した生活のほうがいいと考えるようになるのである。

 ワークショップにおいては、クライエントは苦痛・苦悩を感じると同時に、自分が浄化され自信を持てるような気持とをくり返すのである。しだいに、ワークショップの居心地がよくなり、自尊心も増し、自信を持つようになるのである。

 ワークショップのよい面ばかりを描いたようであるが、ワークショップは、福祉に依存するすべての人びとに役だつとは限らないのである。長期にわたって就労せず、ぶらぶらしていた人びと、自分は働きたいのか働けるのかさえわからないでいる人びとにとっては、ワークショップ療法は効果的であろう。働きたくないのだと思っている人びともおり、そういう人の拒絶感は予想以上に強いものである。強制は決していい結果をもたらさない。働くことに興味をもっている人、少なくとも、働くことに未練がある人びとについてのみ、考えてみよう。生活保護に依存し、自己隣憫をもっている人は、自分よりも、もっと悪い状況に置かれている人びとを知れば、勇気づけられるであろう。自分よりも障害がもっと重い人びとの英雄的な努力をみれば、元気づけられるであろう。

 とにかく、クライエントが決断者として深く関与するよう奨励され、かつ、懲罰のおそれなしにいつでも自分から辞められる権利が与えられているならば、ワークショップの有効性はそれだけ大きくなるのである。ワークショップが自分たちに有益なものであるとわかれば、もはや刑務所のように敬遠されなくなるであろう。

時間的要素

 アメリカ人は、とかく物事を急ぐ傾向がある。成果を早く見たがるのである。意図がよく、お金をたくさんかけ、方法論を知っていれば、必ずやいい成果が出ると考えがちである。かける費用にも糸目をつけず、技術的な問題を解決しようとするならば、短期間でその成果をあらわすであろう。しかし残念なことに、社会的、心理的な問題はもっと複雑なものであり、融通性のないものである。早急に成果を期待することはできない。

 生活保護に依存している多くの人びとは、はく奪と屈辱の人生を歩まされてきた。自分自身についても、他人についても、自信を持てないのである。怒りと憤慨に満ちあふれているのである。目に見える傷、目に見えない多くの傷をいやすには、多大な時間と忍耐が必要である。そのほかの方法はないのである。だれのニードを満たすのか、彼らのニードなのかわれわれのニードなのかを、はっきりと認識しなければいけない。

労働市場の需要

 われわれは心理的に固定観念を持ち、Holmes裁判官の賢明な教訓を忘れがちである。「あいまいなものを追い求めるより、目に見えるものに力を入れなさい」という教訓を。われわれは、その人の過去についてや動機づけなどについて、語りすぎるのではないだろうか。一人ひとりの心の底から出てくる特別の器官であるかのように「動機」を観念化しがちである。 

 ここで、目に見えるものについて述べてみよう。働くことへの最大の動機づけは、機会を与えることである。そして、労働市場が要求する高い水準に到達できてこそ、初めて働く機会が用意されるのである。6%以上の失業率を目の前につきつけても、社会的に不利な立場にある人びとにやる気を起こさせることはできないのである。

 リハビリテーション分野で働くわれわれの努力も泡に帰すであろう。クライエントはわれわれの意図するところをまったく理解せず、失業率も一向に低くならないであろう。残念なことに、このような冷酷な要素については、われわれは何もできないであろう。

そのための条件

 本稿では、職業リハビリテーション過程を妨害するような、福祉・リハビリテーション制度自体にある諸問題については、ほとんど手をふれなかった。いくつかの例をあげてみると、ワークショップから出される賃金のため補助額が減少する問題、サービスを受けることにより年金を失ってしまう人の問題、決断権は自分にあると主張するカウンセラーの問題などがあるが、しかし、「慢性的に社会に依存する」という状態を避けるためには、これらの諸問題をなんとしても解決しなければならないであろう。

 生活保護等に依存して生きている人びとを、もっと寛大に理解をもって扱うならば、見捨てられるのではないかという恐怖感を持たないであろう。実際に、このように見捨てられるのではないかという恐怖感を持っているからこそ、福祉措置への依存度を深め、それに執着するのである。いったん、生活保護を離れても、また戻ることがむずかしくないならば、もっと多くの人びとが、ぬるま湯のような状態から脱け出られるのではないだろうか。

まとめ

 生活保護にまったく依存しきっていた人びとも社会復帰に成功しているのである。もしわれわれがもっと創造的になり、個々の問題に対してもっと想像力を働かせられるならば、諸問題も解決できるはずである。彼らに行動面での変化をもたらすまえに、まず彼ら自身に自尊心を持たせることが重要である。人間はにんじんとむちにのみ反応するものでると信じている人びとが、まただくさんいる。いくつかの原因が複雑にからみ合い、そのようなレベルの反応しか示さない人びともいるが、しかし、ほとんどの人びとはプライドと自尊心のために自己を向上させるのである。プライドと自尊心を守るために苦しみも乗り越え、人間としての試練を経てきたのである。人間をにんじんとむちで扱おうとする職業リハビリテーションのシステムは、もう終わりを告げなければならないであろう。

Journal of Rehabilitation,March-April、1972より)

* Mr.Olshanskyは、マサチューセッツ州ボストンにあるCommunity Workshops,Inc.の常務理事である。以前は、同州ケンブリッジのChildren’s Developmental Clinic所長であり、Joint Commission on Mental Illness and Healthの研究員であった。同氏は経済修士号を得ている。
**日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年4月(第6号)31頁~33頁

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