予防的職業リハビリテーション

予防的職業リハビリテーション

Preventive Vocational Rehabilitation

Harold H.Punke*

細村迪夫**

 合衆国においては、半世紀にわたって、出産時障害、事故、病気などのために身体障害をもつにいたった人々に対する関心が組織化されてきた。社会の薄幸な人々に対するややばくぜんとはしているが、真の人道主義的感情は、職業リハビリテーションが強調する就職の可能性を潜めた人を経済的にささえる力となってきた。物質の豊かさと人道主義とが相互に強化しあう傾向、医学・補装具製作・指導の諸技術の発達、じゅうぶんに考慮されたプログラムに使われる資金はじゅうぶん採算がとれるという投資論を職業リハビリテーションが証明することができたということなどが、リハビリテーションの対象となる人々や障害の種類をしだいに拡大させるのに役だった。こうしたことに影響を受けて、新しい技術的可能性の研究および新しいサービス分野の研究は、リハビリテーションへのビジョンとあいまって発展するという考えが強く主張されるようになってきた。

 力動的社会において、多くの文化領域はどんな時期をとっても拡大発展をしながら、一方で修正を経ていくということに注目するならば、文化領域に格差や重複が生じることが認められよう。つまり、サービスが充実発展する一方において、それに対する不満も増大してくるというように。

 文化の成長、発達のより実際的な尺度の一つは、おそらく、人々が一般に利用することのできるサービスであろう。文化の成長が始まるとき、それはたいてい、これまで現存しているサービスの管轄内と認められていた以外の領域に起こるからである。

 人および施設を限りなく改善することができるという考えと、サービスの成長とを調和させようとする努力は、初期の基盤となる実践活動に、新しく獲得されたものや発展したものを実際に統合する必要があることを示している。いかなる分野においても、より包括的な仕事のためにほかの道具を開発しようとしている間は、現に有する道具を使わなければならないのである。

心理学的に考慮すべきこと

 心理学は、人間の思考のしかたや、行動のしかたに対して広範な関心をもつという点からみれば、われわれがなすすべてのことに関係する。しかし、ほかの多くの分野のように、心理学が特にかかわりをもつ点から考えれば、それは未来のできごとにより重要な関係をもつであろう。このような意味で心理学が関係するもののなかには、精神遅滞(そのために生じる職業上の障害がどの程度治療できるかということを含む)、さまざまな障害をもつ人々のための学習材料や学習の場を分類する方法、技能や他の諸能力と経済面の影響を受ける雇用可能性との関係などがある。

 職業準備について、態度や価値構造の果たす役割(そこにはいくつかの心理学的概念が含まれているが)は、前述したことよりも明白ではない。価値や態度は、アメリカをはじめとして他国においても、可能性が最も未発達の分野であるといえよう。このことに結びついて、いくつかの関連する疑問や問題が生ずるのである。

 a.一般文化は、個人がその国に住んでいるという理由だけで、「国は個人の生活に対する義務を負っている」という態度を個人がもつことを認めるのか、それとも、むしろ、職業サービスや他のサービスを通して、個人は社会に貢献〈すべきである〉という態度を個人に吹き込むのか。

 b.人生における最大の個人的満足のひとつは、地域社会が尊敬する職業に実際に従事することと関係しているという認識は、項目aと関連がある。〈これは「働く必要性」(the need to work)について広く寄せられた関心ばかりでなく、「働く権利」(the right to work)に関する哲学をも意味している。〉

 c.いかなる年齢・性・人種・障害――能力尺度における位置・現在の職業上の地位を有する人であれ、本質的に人間の限りない改善の可能性を信じる哲学が、どのように個々の事例に適用されるかを理解する必要がある。かれらはまた、個人の進歩改善はふつう個人の努力とぎせいを伴うということを理解する必要がある。

 d.行為は能力を判定する基礎であり、この基礎は地域社会の価値構造に従って確立されたり、変えられたりすることもまた理解されるべきである。かくして、能力とは、個人がなしたことになんらかの方法で地域社会が報酬を与えることができるようなことがらを、個人がなす能力、および進んでそれをなそうとする意欲とによって測定されるといえよう。あることがらが起こらないように報酬を与えることは、善―悪尺度ではかれば、消極的で最も悪い例であるにすぎない。

 e.職業雇用は、大部分の人々に対して、ほかの人々と協調して働くことをますます必要とさせているので、働く人々の態度面における人間関係は、特定の知識や技能の修得よりも仕事の成功とより多くの関係をもつであろう。

 f.力動的な、そしてますます自動化される職業構造をもつ社会においては、職業上の変化を理解する能力や、そうした変化が意味するものを、自分自身の職業生活や一般生活の中に進んで取り入れようとする意欲が、個人やグループにとってますます重要なものとなってきている。全く衰退した、または過度に都市化された地域に住む人々の職業習慣および生活習慣に関するアメリカの当惑は、この分野の問題の開始を告げているにすぎないであろう。

 他の実例をあげて説明できる分野は前記の6項目に加えることができよう。ここにおける基本的主題は、これまで職業心理学または産業心理学と考えられてきたものの多くが、国の職業的・経済的繁栄に最大の貢献をするためには、ここで指摘した方向にむけて再方向づけをすること、または発展していくことが必要だということである。

予防上考慮すべきこと

 「リハビリテーション」は、文字どおりの意味では、回復、治療、復帰、更生を示し、また別のいい方をすれば、ある人が以前に有していた地位に「復帰させること」と考えることができる。このような狭義の「リハビリテーション」は、事故や病気のために、あるいは、地域社会にその職種がなくなったために、失職した人の再雇用を可能にすることに関係するであろう。このような意味でのリハビリテーションは、年齢や前歴がどうかを問わず、これまで職についたことのない人や、もっと高い収入やもっと高い地位が得られる職種につこうとする人に対しては、ほとんど適用されないであろう。

 そのような狭い解釈をすることが実際に不可能であることは、リハビリテーション・ワーカーの資格を有する人々が、以前に実施したクライエント訓練よりも、もっと効果的な方法を知っていることを特徴とするのを観察すれば、明らかになるように思われる。さらに、ある人がしばらくの間失職するならば、以前の職業分野の仕事の内容は、その間におそらく変化を受けているであろう。それゆえに、ただリハビリテーション概念の厳密な、または法律尊重主義者的解釈のために、潜在雇用主が受け入れない現実に合わない技術を開発することは、ほとんど益のないことであろう。

 アメリカ文化のいくつかの局面において、この数十年の間に、サービスの概念は、病気、事故、文化はく奪、台風や他の天災、経済的不況、「共産主義封じ込め」等からの回復を図るサービスから、予防医学、安全教育、ハイウエイ・デザイン、公害制御、耐震建築、職業と雇用のサイクルに関する社会的・経済的立案等によって、不幸や災害が生じるのを予防するサービスへと変化してきている。

 前述したような広範な文化的状況において、リハビリテーション分野は、もっぱら救助、治療、回復の概念に関する展望を方向づけることによって、その未来を制限すべきであると示唆するのは、非現実的である。

 予防的領域に関する示唆はわずかではあるが注目に値するであろう。

日常的分野における予防

 安全教育は、治療を必要とする多くの状態をもたらす事故を予防する意味において、日常的なものである。子どもたちやある種の成人に関して、家庭は事故の主要な発生源であることに着目するのは無益ではない。しかし、だれかがホームデザインや建築に、または親の教育や責任感に言及するとき、かれはアメリカの最も大事にされている、そしておそらく最も顧みられない施設の一つである家庭に「侵入」していくだろうか。

 リハビリテーションが職業能力を強調するにつれて、鉱山災害や建築業における危険な分野における産業安全は、大きな予防的機会の分野を示唆している。事故が起こりやすい状態、経営者と被雇用者の不注意、法的責任と労働者の補償の関係のような概念の探究は、これと関連して重要である。

 保健教育のいくつかの側面は、日常的リハビリテーション思想に近いように思われる。おそらく、法的なものまたは労働組合によって刺激されたのであろうが、企業の中には、産業保健サービスや他の職業保健サービスが報酬のある経済的投資であることに気づいたものがいくつかある。特定の疾病や一般的な健康破壊は、特定の職業と関連しているように思われるので、一般大衆の予防への関心をかなり引き起こしている。学校におけるティーンエイジャーの職業適用訓練を発展させる必要があるということは、この種の訓練を、まだ全く労働市場に参加したことのないティーンエイジャーに制限すべきだということを意味するものではない。

 学校教育と責任を伴う有給の仕事との関係する分野において、発達を必要とする二つの概念がある。一つは、急速に変化している職業構造においては、職業技能や能力が現実に合わなくなるために、継続的職業リハビリテーションが必要だということである。予防的機会は、マイナスの方向への発達および二者択一の可能性を早期に、責任をもって認知することにある。もう一つの概念は、社会的有用性および個人的満足という基盤に立った継続的職業参加を意味する。年齢および身体的活力は、これら二つの考えらえたルートのいずれが強調されるかを決定するのに役だつであろう。しかし、重要な諸点において、それらは関連しているように思われる。

実行可能な分野

 一つの分野は、アメリカ社会において個人を発達させ、かれに生活の準備をしてやる諸機関とその活動とが現実に合わなくなっていることを含むであろう。個人に働きかけて、かれがはじめに効果的なやり方で機能するためには、広範なリハビリテーションが必要なのだと思うように方向づけをするような、一種の機関リハビリテーションが示唆される。あらゆるタイプの機関が現実に合わなくなりうるし、また、ある程度そうなっているのである。

 学校および大学は、時世おくれの程度やそれへの関心において非常にさまざまである。非常に多くの大学が、真理を発見し、知識を広め、人類の福祉のためにその知識を応用することを、他の諸機関と分担しあっている。職業訓練や専門訓練の用意および知識を広め、技能の向上を図る大学公開サービスの発達はその例である。地方の地域社会の公立学校に関する大学の教育学部の研究は、連邦政府が後援している農業普及運動ほど古くもなく、また広範囲にわたっていないが、国家の今日の要求との関連において適切なものであり、一種の公開サービスといえる。リハビリテーションの指導的立場にある者は、危機に面している分野にサービスを行なうための新しい能力基準を設けるのを援助すべきである。この基準は、制度化されているという意味で、まずリハビリテーションのクライエントに、つぎにより広範な青年や成人層に適用されるべきである。

 組織化された社会においては、すべての機関は法的わく組みのなかで活動しなければならない。活動の拡大発展は、このわく組の変化をもたらすために設けられた正式の機構を通じて、わく組みが変化することを意味するであろう。しかし、発展は、いかなる特殊な意味においても、法律が助成もしなければ制限もしない分野における想像力の実践を意味する場合が多いであろう。力動的社会においては、「新しい分野」は法律よりもはやく出現し、成長するのである。リハビリテーションに関しては、実質的に想像力の所産であるいくつかの分野は、一方において保健および教育機関と、また他方において商業や産業機関と協同の関係にある。成人の無学とそれに関係した雇用可能性の問題、あるいは重複障害に関連する解決がむずかしい失業者の問題は、この特質を例証している。かくして、読み書き能力が児童および青少年期の学校プログラムによって学習されるならば、成人のリハビリテーションは、読み書き能力に関心をもたなくてもよいことは明白であろう。

 想像力によるリハビリテーションの成長は、法的なわく組みが重要ではないことを意味しない。予防的観点から、早期の注意は多くのこのような領域において重要である。つまり、ここでは、法的わく組みは特殊な種類の公的サービスに関して、ふつう保証されている以上のことをなすのを許すこと、また、想像力は、法的わく組みのどこを修正したら最も実り多いものになり、一般大衆に最も容易に受け入れられるかを見分けることができることをいっているのである。

 専門的分野で働く人々が、まっさきに現実に合わないことを認知し、新しい職員や現在従事している職員の両方に対する養成計画を修正する必要性を理解するのはまれではない。したがって、ある人の専門が他の職業に従事する人々の知識、技能を最近の情勢に一致させることに実質的にかかわっているから、かれは自分自身または自分の同僚に関して同様の必要性または可能性に敏感であると仮定するのは非現実的である。

結 語

 対立のない領域への慎重に計画された発展という一般的な考えは、リハビリテーション・サービス、特に予防的リハビリテーションに関する成長可能性に適用される。原子エネルギーの大きな膨脹力は、厳密に制御され、特別の通路を導かれてはじめて、人間にとって財産となるのである。予防的リハビリテーション、よい広い意味での教育、他の制度化されたサービス分野についても、同じことがあてはまるのである。

* Dr.Punkeは、アラバマ州オーバーン市のオーバーン大学教育学教授である。かれは、イリノイ大学、デューク大学、コロラド大学で教鞭を取ったことがある。シカゴ大学から教育学における博士号を得ている。
**東京教育大学教育学部附属桐が丘養護学校教諭


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1972年4月(第6号)34頁~39頁

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