からだの不自由な人の明るい性生活

■新連載

からだの不自由な人の明るい性生活

LIFE TOGETHER

─The Situation of the Handicapped

 Inger Nordqvist*

石坂直行**

目次

序文

イントロダクション

第1章 からだの不自由な子どもと親の関係

第2章 親と環境がからだの不自由な子どもに及ぼす影響

(以上本号)

第3章 からだの不自由な若い人の解放

第4章 からだの不自由な子どもや若者の性的発達と家庭や施設の環境

第5章 からだの不自由な学童に対する性教育

(以上第10号掲載予定)

第6章 からだの不自由なおとなと他の人との接触

第7章 からだの不自由な人の性的欲求と機会

第8章 からだの不自由な女性の性生活

(以上第11号掲載予定)

第9章 からだの不自由な男性の性生活

第10章 からだの不自由な人の避妊方法

第11章 からだの不自由な人の性生活の相互協力

(以上第12号掲載予定)

●序 文

 本書は、1969年5月に SVCR(Svenska Centralkommitten for Rehabilitering, スウェーデン・リハビリテーション・中央委員会)によって企画された、からだの不自由な人の社会生活を親密化させるためのシンポジウムの報告書である。読者は、このシンポジウムが、これまではだれも研究したことのない問題を扱ったことを心に留めておいていただきたい。そのことは、本書で問題を余すところなく論じてあるとは言えないことを意味している。にもかかわらず、SVCRとしては本書を至急刊行することにした。その目的は、からだの不自由な人とその周囲のすべての環境との問題を複雑化させている実際問題、偏見、劣等感などの要素を明らかにし、研究し、可能な解決方法を提案することにある。当然、性的問題は、偏見の最たるものとして最も強く攻撃されるべきものであり、同時に実際的困難を含むものとして主点が置かれてある。これらの問題は、遠い昔から形成された、調和のとれた全般的な人間関係の社会生活と、切っても切れない密接な関係にある。このことは、言うまでもなく、からだの不自由な人だけの独特の問題ではない。したがって、私たちが特に強調したいのは、本書の目的が、からだの不自由な人を孤立したグル-プと見なす見方を助長するのでなく、通常の人間としての問題が、ある種の外部環境によって重い負担とされているグループであるという認識を広めることにある。

 願わくば本書が、今後の討論、すなわち研究グループにおける今後のいっそうの討論を呼び起こす刺激となり、調査と研究を促進させるためのものであると理解されることを希望する。別の言葉で言えば、本書は、私たちが今日までに知り得たことと、シンポジウムで判明したことを報告するものである。同時に本書には、私たちがまだ知り得ていないことは何かということについても述べてある。それは、そのことが、みんなで協力しあっていっしょに生きる人生についての問題を解決するための今後の努力を刺激するものとなることを信ずるからである。

  Ellika Ljunggren

  Executive Member of the SVCR Board

●イントロダクション

 私が編集の責にあった本書は、からだの不自由な人、その友人と親戚およびからだの不自由な人と接触するすべてのカテゴリーのスタッフを読者対象として書かれたものである。

 こんにちに至るまで、権威者たちは、からだの不自由な人が、やはりからだの不自由なほかの人や、からだが不自由でない人と親密な関係をもつことをいかに必要としているかについては、ほんのわずかしか注目しなかった。反対に、権威者たちは、実用的な問題を技術的に解決させることに専念してきた。それゆえに私たちは本書が、権威者に対し、からだの不自由な人がほかの人たちといっしょに、豊かで調和のとれた生活をしながら人生を生きていくことを求めているという点、ことにからだの不自由な人にも、からだが不自由ではない人以上の道徳的圧迫を受けることなく性生活をフルにエンジョイする権利があるのだ、ということを思い出してもらえるものとなることを希望する。

 人間関係を完全なものとさせる要素とはなんであろうか? からだの不自由なおとなが、ほかの人と接触する機会をもつための重要な要素としては、経済状態、住宅環境、都市環境、コミュニケーションの手段、それから、接触をもつ場所の状態などがある。からだの不自由な人が人間関係を維持することのできる能力は、主として、ほかの人と接触したいという欲求と、心理的特性とによって決まる。性生活を発展させるうえで、個人に対する性的情報や、技術的援助が重要な要素となる。からだの不自由な子どもが将来、完全な人格の社会人になるためには、たくさんの要素が満たされることが必要であるが、その中でも、からだの不自由な子どもの育てられる環境と、ほかの人たちといっしょにいることのできる機会とが特に重要である。以上の諸点は、本書で論じられている問題の一部である。

 本書のような、からだの不自由な人の性の問題についての特殊な刊行物は今後は不必要になることと、種々の身体的ハンディキャップに含まれる各種の問題が、性教育の標準的な図書においてじゅうぶんに扱われるようになることを私たちは信じたい。

 そのような取扱い方は、二つの重要な目的を果たすことになるであろう。それは、からだの不自由な人に対し、その性的問題が特異なことでは決してなく、からだが不自由でない人にとってもまったく同じ問題なのだということを認識させることと、同時に、ある種のからだの不自由な人の問題は、ほとんどすべてが技術的および実際的な問題であるということを、からだの不自由でない人に認識させることである。このことは、多くのからだの不自由な人に対し、からだが不自由でない配偶者といっしょに生活することをより容易にさせるであろう。

  Inger Nordqvist

  B. S. in Social Work

●第1章 からだの不自由な子どもと親の関係

 からだの不自由な子どもの心理的成長は、主として両親との関係に影響される。この関係は、すべての心理的成長の基礎であり、子どもがよりよく調和した人格の人に育つことを助言するか失敗するかを左右する。完全な調和を望むことはできないが、究極的目標として常に目ざされなければならない。

からだの不自由な子どもに対する親の反応

 からだの不自由な子ども対する両親の反応と問題に適応する能力とは、両親の個性と、夫婦としての情緒的関係とに応じて大きく異なる。ある親は、困難に立ち向かい、問題に踏み入り、状態を改善できる方法を受け入れようとする。ほかの親は、自分で殻に閉じ込もり、困難から逃避し、問題と取り組んで努力しようとは決してしない。このような反応は、親の行動にさまざまな形であらわれてくる。ある親は、からだの不自由な子にあまりにも心を奪われてしまい、自分自身に必要なことや、周囲から求められていることを忘れてしまう。またある親は、いやなことを思い出さないよう、時間のことごとくを投入しながら種々の行事に没頭する。肢体不自由児の出生したことを、どうしても受け入れられない破局として、また問題から離れて生きることのできない悲劇としてしか考えられない親もある。このことはさらに、問題に対する主導権を取る力をまひさせ、親の片方または両方ともを、多かれ少なかれ冷淡な態度に追いやることにもなる。

 親の反応の結果としての行動の両極端のケースは、子どもに対する過保護と、事実を無視して認めようとしない態度である。ほとんどの親の行動は、これらの両極端の中間にあるものであるが、からだの不自由な子の親のばあいは、外部の環境と圧力の結果、どちらかの極端に陥りやすい。

からだの不自由な幼児は母親にどんな影響を与えるか?

 からだの不自由な子どもを研究した専門家の大多数は、子どもとその不自由自体に対する親の態度が、子どもの個人的な成長にとっての基本的な要素であると考えており、不自由自体の問題よりも重要であると報告している。しかし、人間と人間との関係は、すべて相互作用の形で形成される。子どもに影響を与えるものは、単に母親の態度だけではない。すべての時間において、母親と子どもの間で相互に作用し合い、影響を与え合うのである。これについては、非常に多くの母親と父親が、からだが不自由ではないほかのきょうだいを特別の困難なく育てたということから、じゅうぶんな実力のある親の資格があるということをくりかえし表にあらわし、不用意な行動を通じて、からだの不自由な子を混乱させているのである。

 それでは、そのような好ましくない態度がどうして親にあらわれるのであろうか? からだの不自由な幼児は、まさにその不自由のゆえに、母親の反応あるいは期待を満足させることができない。母と子の相互関係は混乱させられるのである。たとえば、母親を見てほほ笑むとか、手で母親をつかむとか、母親の動きを目で追うなどの動作が、からだの不自由な子にはやれないこともある。別の言い方をすれば、からだの不自由な子は、母親のしてくれる世話に対し、じゅうぶんに報いることができないのである。すると母親は、子どもの扱い方が間違っているのかと気にするようになる。手答えのないことから自信を失い、その子に失望するようになる。次の段階では、子どもに対する過保護あるいは放置の態度が親の側に進行していくことになるのである。

父親は忘れられているのか?

 父親の存在と役割の必要性については、あまり注意が払われていない。父親の多くは、家族に対する責任の重荷の気持ちを休めることが家庭の中ではむずかしいので、だれか外部の人に自分のかかえた問題を話したがるものである。多くの父親は、家族を経済的にささえることを主たる責任と考えているので、からだの不自由な子どもを持ったことに打ちひしがれて悲観してばかりはおられず、常に妻のささえとならなければならないと考えている。もちろんこのことの多くは、伝統的な男の育てられ方、なかんずく、男は泣いたり弱さを見せてはならないという育てられ方に基づいている。また母親としては、子どもの取扱い方について、父親の必要のない範囲で責任を負っていると考えられる。さまざまな地域組織との接触を担当するのが主として母親の役目であるという事実は、父親を部外者の立場に止め置くのを助長している。

 このような状況下では、父親と母親の間の意志の疎通は困難になる。このことからさらに、家族の中で、母親または父親がからだの不自由な子と一体感を持ち、残りの家族と対立するという「戦線」を形成し、家庭の中に分派を作ることがある。子どもが就学年齢に達したときにはじめて父親が関与してくるということも、家庭カウンセリングで通常に見られる残念なことである。このことは、男の子にとっても女の子にとっても、将来、性的な役割をうまく調和させるようにするために、父親の役割が非常に重要だという事実からしても残念なことである。

子どもが施設にいるときでも親の役目があるか?

 子どもが施設に入れられているときにも、親子の密接な関係が維持できるかどうかは、母親が出産のための入院中という早期に知らされることの内容と、与えられる指導とに大きく依存する。また、よく医師は、からだの不自由な子をできるだけ早く施設に入れるように親にすすめることがある。その結果、親は、その子のめんどうを見るのは社会のする仕事だという考えにさせられる。医師は、親を懸念することから、子どもを施設に入れさせようと考えることがしばしばである。それは、子どもを家庭で育てるのが無理な時期がくることと、そのときでは親子の別離がつらくて、親が子につきまといすぎることになると医師が案ずるからである。

 このような問題は、子どもをあきらめるように親に勧告するだけでは解決できない。おそかれ早かれ子どもを施設に入れるしか方法がないばあいであっても、親は親たることを放棄すべきではない。そうでないと、施設の多くは親との接触を失うことになるが、この接触は、子どもや青少年にとってきわめて重要なものなのである。Johannesdal ナーシング・ホームにおける研究によれば、「子どもをどこかのナーシング・ホームに入れて忘れてしまえ」式の不適切な情報を持った親が、適切な情報を与えられた親よりも、いかに子どもとの接触が少ないかを明白に示している(Karin Sigvardsson)。施設に入居している子どもが、学校の課程や職業訓練を終えたときは、多くの親はもういちどその子を家庭に迎え入れてめんどうをみるべきである。親と子の間に継続的な接触がないと、無数の困難な問題を作り出すことがあるからである。

各種の援助機関と接触することはいかに需要か?

 親がからだの不自由な子をじょうずに養育することができるかどうかは、各種の援助機関と接触をもつかどうかにも大きく関係してくる。当初から各分野の専門家と積極的に接触し、必要とするときにはすぐに出かけて行って自由に意見を交換するという利益を得ている親はたくさんいる。しかし一部の親は、出産のときに知らされたことのショックが存続している。その理由は、医師というものは、患者に対する容易ならぬ事実を知らせるとき、正しい方法で相手を傷つけずにやれるのに必要な訓練を、通常は受けていないからである。出産のあとで知らされた事実は、母親がまだこの種のショックに対応するのに必要な精神の安定した状態ではないことも、情報を混乱させることになる一因である。

 このように、出産のときの母親と医師との接触は、からだの不自由な子の親として最も必要な、各種の専門家と将来接触し支援を受けることを妨害する障壁となることがある。そのように、まずい方法で伝達された情報は、そのほかにも、親が置かれた状態に慣れるだけの時間を持たないうちに、過度の恐怖から子どもを施設に入れてしまおうと考えさせる原因ともなるのである。(Ann Bakk)。

必要な対策

1. 親と子の関係の改善

 両親に対し、最初の第一歩から適正な指導をすることができるようにするために、心理学、社会学および医学の専門家による共同作戦が必要である。両親が実際的問題を正しく取り扱っていけるよう、専門家グループは、注意深く継続的に親と接触することが必要である。

2. 初期の情緒的な親子関係を直接的に改善すること

 子どもに対する初期の関係が、子どものからだが不自由なためにそこなわれていると感じて失望している親に対しては、医師、ソーシャルワーカあーるいは心理学者の支援と情報提供が必要である。親に対しては、子どもが親に期待する行動を示さなくても、それは親の罪ではないと教えなければならない。もちろん、じゅうぶん満足な親子関係を作り上げるために、くりかえし努力することを教え励まさなければならない。

3. 父親と母親との関係の改善

 家族の中で分派を作って戦線を形成し、意志疎通を阻害するのを防ぐため、両親を含めたディスカッション・グループを組織するべきである。この種のグループは、以前にもスウェーデンのある地域では組織されていたが、大部分は母親だけが参加するものであった。これらのグループは、最大10~12人のメンバーで組織され、必要とされる10項目のテーマについて会合し、ソーシャルワーカーの指導のもとに、連帯する問題を討論した。それは、全員が対等の立場から問題を議論することができ、大いに効果があがった。

4. 子どもの肢体不自由についての最初の情報を適正に親に与えること

 医師に対し、各種の肢体不自由の影響と、出生時の赤ん坊の将来の姿を予見することの困難さについて、もっと広範で詳しい情報を与えなければならない。今後の医師には、子どもに肢体不自由があるとき、そのことを親に告げるのに、親の心を傷つけてしまうことのないようにするには、どうすればいいかということも教え込まなければならない。

5.親に対して積極的援助を与える機関の設置を進めること

 親に対する積極的援助は、単に経済的な見地からも採算の合う提案であるということを、すべての関係者は、政治家や他の責任ある人に強調しなければならない。家族というものは、全体として心配や不安の重荷をもたないときに、地域社会により大きい貢献をするものである。また、からだの不自由な子どもは、好意に満ちた環境に育てられることが保証されたとき、勉強と将来の就職に適応するのがより容易になるのである。

●第2章 親と環境がからだの不自由な子どもに及ぼす影響

 前章で私たちは、どこかからだの不自由な子どもを持つことで、いかに親が影響を受けるかを考察した。そこで本章では、親と環境がいかに子どもに影響を及ぼすかを見ていきたい。子どもの養育と、家族以外の人との接触の両方において、からだの不自由な子どもが周囲の世界と満足な調和を発展させるうえでたいせつないくつかの要素がある。

子どもに妥当な要求をすることは、周囲との調和に重要な要素であるか?

 からだの不自由な子どもは、ほかの子どもと同様の発育の局面を経験する。このことは多くの親も純粋に知的な態度で受け入れることができる。しかし、からだの不自由な子どもは非常に手がかかり、発育させるためには外部からイニシアチブをとる必要があるので、子どもが反抗期に達すると、困難な問題が起こってくることがある。子どもの反抗は、運動機能訓練のときにあらわれることがあり、子どもからいちばん身近にいる人に向けられるのである。

 このようなばあい、子どもに妥当な要求をすることは、親にとって常に困難なことである。それがやれるためには、親は子どもの潜在能力と限界の両方を見なければならない。親の子どもに対する見方がどれほど現実的であるかという度合いは、すなわち子どもが自分自身をどう見るかということと、さらにそれに伴って起こるその子の社会的な適応とを特徴づけるものとなる。

常に子どもの能力の範囲内から始めよ

 運動機能が不自由なばあいは、通常よりもはるかに多くのエネルギーの集中が要求されるので、子どもの活動計画をたてる際には、常に子どもの能力の範囲内から始めることを基本的に考慮しなければならない。子どもの環境を形成するすべての人は、子どもに活動の限界を定めることを援助しなければならない。そうすると子どもはその限界を目標にして適切に対応することができるのである。

 すでに検討したごとき親自身の態度と、子どもの能力の範囲についての親の知識とは、子どもにどのような要求をするかを決定する。ある親は、子どもに要求する資格がないと考えるか、勇気がなくて、子どもに独立心の育つのを妨げることになる。これと反対の極端なケースは、親が子どもに過度の期待を抱くことから、からだが不自由だという事実を否定し、子どもが対応できないほどの向上を強要するのである。もちろん、中程度の適切な目標を設定し、喜びながら達成するようにさせる親もある。

からだの不自由な子にも失敗の経験が必要

 われわれは成功と失敗の両方の経験を通じて学ぶのであるから、からだの不自由な子どもにも、失敗と成功の両方を経験させることがたいせつである。重要なことは、失敗の程度が、その子の耐え得られる限度以内でなければならないということである(Kershaw)。もしも周囲の状態が、からだの不自由な子に成功のみを体験させる環境であり、いつもうその励ましを与えていれば、その子はほかの人と相互に協力し合って、ともに生きる立場に置かれたとき非常な困難を経験し、事実を正しく見ることができず、ほかの人がもっとよく、もっと多く、そしてもっと早くやればよかったことだと甘えた判断をすることになる。

子ども自体あるいはからだの不自由なこと自体は主要な問題か?

 子どものからだの不自由なことを、どの程度に親が受け入れているかということは、子どもにとって非常に重大なことである。もし不自由さを親として受け入れるのに困難があり、子どもを見るよりむしろ不自由自体を見ているばあいは、親のこの態度は子どもに伝わり、子どもは自分をかたわ者として、まともでないのだと感じる見方に支配されることになる。もしこれと反対に、不自由自体を親が受け入れることができ、もはやそのことは基本的に重要なことではないと考えるなら、その態度も子どもに伝わり、子どもはもはや自分自身を除け者と感じたり、不自由のゆえに不安になることはなくなる。

子どもの早期の対外接触はその後の調和に役だつか?

 からだの不自由な子どもが家族以外の人と接触することについては、だいたいにおいてすべての親に受け入れられているが、ときとして他人の無遠慮な好奇心を処理するのに困難を感じることがある。極端なばあいでは、からだの不自由な子どもが家庭外の人と接触することについて、周囲の人の論争を招くことがある。反対の極端な例は、子どもがふつうに受け入れられるのでなく、常に人々の関心の中心に置かれることである。

 子どもが友だちと接触することについて、親の気持ちの中に、ある種の反対感情が存在することがある。親はわが子が友だちと接触することを望み、そのようにさせようと計らうのだが、いっぽうでは、わが子が弱点を突かれて傷つけられることを恐れている。最もいい接近法は、子どもの友だちに、わが子のからだの不自由の性質を客観的に説明してやることである。からだの不自由な子は、ほかの子どもたちと交わるとき、ある種の動作がほかの子のように容易にはやれないとか、ときには不可能だということをたびたび知らされることはあっても、それによって自分自身をより健全により自然に成長させることができるものである。どんな人でも、子どものころに、男の子や女の子と交わって訓練されたことがなかったなら、おとなになったとき、ひとりでに社交的な人間になると期待することはできない。

無差別の学校と就学前施設はからだの不自由な子どもとそうでない子どもとの調和を助ける

 学齢前の児童は、からだの不自由な子どもに対する固定した先入観を持っていない。一般社会の大多数の人に、より深い理解を創造するためには、このような固定観念のない幼児のときから、私たちの仕事を始めなければならない。からだの不自由な子どもを、ふつうの無差別な就学前施設で、からだに不自由のない子といっしょにしてしまうことは、前者にとっても後者にとっても、お互いにより容易に受け入れ合うのを助けることになる。この方法をとるならば、このあとに続く就学期間と思春期において、無知と無経験から起こる偏見を減少させることが大いに可能である。からだの不自由について最もすぐれた説明をするのは、その子自身であるということがしばしばある。

運動機能の不自由に基づいて学校教育のやり方を決めるのか?

 学校に入れることは、基本的には子どもの能力の限度によるのであり、中でも知的能力いかんによる。アメリカでの研究によれば、けいれん性まひの学齢児を持つ親は、子どもに年齢を越えた知的努力を強要し、からだの不自由なことをうめ合わさせようとする傾向があるという(Elizabeth Lord)。

 このようなからだの不自由さで子どもの学校教育を決定するべきではない。特殊学校と普通学校の両方ともに登校する経験をしたからだの不自由な子どもの大多数は、普通学校のほうが好きだと言っている。ある普通学校に置かれた特殊学級の生徒たちも、スペースの都合で普通学級の生徒たちといっしょでなく、別の時間に食事をさせられるなど、ほかの生徒との接触が複雑化されている事実にもかかわらず、自分たちが普通学校の中に置かれていることを歓迎している(Borje Ogelstam)。

子どもの環境順応能力はからだの不自由の性質に関連するのか?

 子どもが環境に順応する能力は、からだの不自由によって複雑化されるという点について、必要以上に強調されるという一般的傾向がある。しかし多数の研究の結果、からだの不自由な子どもの環境順応能力は、からだが不自由ではない子どもと違うと考える必要はないことが明らかにされている。

 Kammererは、入院中の脊椎奇型児50人と、骨髄炎の子ども30人について、一般的な環境順応能力を調査した。かれらの平均年齢は13才であった。どの標準テストにおいても、かれらはからだが不自由でない子どもの標準グループに比べて差異は認められなかった。そのほかにも、からだの不自由なことは、子どもの性質になんらかの決定的影響を及ぼすものではないことでは、ほとんどすべての研究者の意見が一致しているようである。

 CruickshankとDolphinは、中程度の肢体不自由のある特殊学級の生徒87人を、その2倍の人数のからだの不自由でない子どもの標準グループと比較して考察した。生徒たちは、自分自身をどう見ているかということと、ほかの生徒が自分のことをどう見ていると思うかということのリポートを提出させられた。それを検討した結果、からだの不自由な子どものグループでは、罪の意識を感じることが、標準グループよりも少ないことをあらわした以外は、ふたつのグループの間になんらの差異は認められなかった。

 最後に引用するものとして、Donofrioの研究を紹介しよう。これは、寄宿舎制学校にいるからだの不自由な139人の男児と131人の女児を対象とし、不自由の程度と永続性とが、学業の進歩と個人的順応性などにどのような関連を持つかを調べたものであった。調査の結果は、からだの不自由な子どもとそうでない子どもとの間には、なんらの差異を見い出し得なかった。不自由の程度と個人的順応性との間には、相互関係は見られなかった。

 以上のことは、からだが不自由なことは、順応性に決定的な影響はないことを示している。もしもからだの不自由な子が、親と教師と級友の洞察のもとに現実的に扱われたならば、からだの不自由のゆえに順応性が否定的方向に影響されることはたぶんないであろう。

必要な対策 

1. からだの不自由な子どもの満足な順応能力を発達させること

 前章で論じられたような、親に対する積極的な援助は、子どもの順応性の発達のために非常に重要なことである。親と協力するには、単に短期的な見地からの問題を考えるだけでなく、そのあとに続く順応性育成の一連の問題について指導することが必要である。

 運動機能の訓練、養育、学校教育などについては、個人の子どもごとに、どこまで要求できるかを検討しなければならない。子ども自身で経験することの重要さを、もっと強調する必要がある。子どもの将来の順応性のために、他の子どもたちとの接触することの重要さを親に理解させなければならない。そのほか、からだの不自由な子どものばあい特に、自分のしたことをほめられるとはどういうことであり、それにより自信を与え自尊心を持たせること、さらにそのことが順応性を育てるということを強調しなければならない。

2. 子どもに対する現実的な評価をすること

 医師、理学療法士、ソーシャルワーカー、心理学者および教師は、個々の子どもが、肉体的および精神的に取り組み得る設計図を協力して描かなければならない。

3. からだの不自由な子どもが差別されずに周囲との接触を増進させること

 からだの不自由な子どもは極力、無差別の就学前施設および無差別の普通学校に入れるべきである。こうすることにより、からだの不自由な子どもとそうでない子どもの双方に、将来の順応性を養い、相互に受け入れ合うことを助けるのである。

4. からだの不自由な子どもに対する生徒間の偏見を阻止すること

 からだが不自由でない生徒に対しては、より寛容を示すよう、就学前施設の段階から始め、学校の各学年ごとに、組織的で客観的な情報を与えることと、寛容についての実際的な訓練をしなければならない。こうすることにより、就学前施設と普通学校は、偏見の出現あるいは増大と積極的に戦うことができる。

5.普通学校に差別なく受け入れて成功すること

 いちじるしくからだの不自由な子どもを普通学校に差別なく受け入れて成功するためには、休み時間や食事時間などに、ほかの子どもと接触することを助けるためのあらゆる努力がなされなければならない。

● 第3章 からだの不自由な若い人の解放

 からだの不自由な若い人を、その立場と環境に全面的に適応させることができるかどうかは、その人が、自分の親から正しい方法で解放されるということと、それによって得た自由というものを、いかに活用することができるかということにかかっている。

頼りにされたいという親の気持ちが、わが子の独立心の発達を妨げる

 ある親は、自分にとって最も重要なことは、自分の子どもに保障を与えることだと考え、それ以外のことは、考えることができなくなってしまっている。だから、こんな親は、自分が長い年月にわたって経験した、わが子との親密な感情を、いつまでも維持しようと熱烈に望み、夢中になっている。

 ところが、突如として、その行き方が行き詰まることになってしまうのである。それは、子どもは成長して大きくなると、自分だけの世界に生きようとするか、あるいは、自分で別の新しい生き方を捜そうとするからである。

 もしこのとき、このからだの不自由な子どもの世話をしてきた親、あるいは看護婦が、その心の中に、このあとも引き続きその子から頼りにされたいという気持ちを依然として持ち続けるならば、その子どもの独立心を育てることは容易なことではない。

解放の過程における親の両面価値

 子どもが家庭の外部との接触を開始することに対する親の両面価値的態度、すなわち同一対象に対して同時にふたつの相反する感情を持つ態度は、子どもが成長するにつれて強く目だってくる。ほとんどの親は、子どもは、ある時期がくれば、自分自身の足で自立しなければならないことを認識しておりながら、その過程において子どもが傷つくのを恐れている。このとき、いつでも必要なときには親の支持が得られるということを、子ども自身が確信しながら、しかも自分の独立性を少しずつ発達させるようにするならば、より容易に子どもは正しく解放されるのである(Mussenほか)。

 思春期の子どもが、家庭の束縛から自由になり、自立した人間になろうとするとき、もしそれに抵抗する気持ちが親の側にあるときは、危機が訪れることになる。それが、からだの不自由な子どもである場合、親は家庭外との接触をじゃますることになるのを恐れて、放任してしまう結果になることもある。

社会は、からだの不自由な若い人の社会的要求に応じているか?

 若い人の解放が非常に進展するための重要な要素は、若い人がおとなとして行動する機会と動機づけを、社会が提供しなければならないということである。(Mussenほか)。

 現代の社会は、からだの不自由な若い人のこの点については欠けている。建築物にある各種の妨柵が、これらの若い人の進路をはばんでいる。具体的に考察するならば、からだの不自由な若い人は、学校や大学の建物の中にはいることが、現実には不可能なこともあるであろう。仕事が与えられても、職業に不自由なしにはいって行くことが不可能なこともしばしばである。友だちに会いたいと思っても、映画館や劇場や娯楽施設に、はいることが困難だということを体験するだけである。家庭を離れて住みたいと思っても、からだのハンディキャップが支障にならない便利な設計の家を捜すことは困難であり、友だちを訪問したくても、先方のアパートが不便で、はいることができないことが多い。

 からだの不自由な若い人を解放するための過程は、このようにむずかしいものにされてしまっているが、そのほかにも、かれらを通常の家族ぐるみの社交的行事に参加できないようにさせる障害物で、社会本来必要でないものがたくさん存在している。

からだの不自由な若い人は、ほかの若い人との関係に自信を持っているか?

 若い人の解放の過程での重要な局面は、友だちやほかのおとなと接触するとき、親の庇護と家庭の結びつきを失う代償として、じゅうぶんな保障を社会から与えられていると感知することが必要である。(Mussenほか)。

 もし解放の初期の段階で、若い人が家庭外の人と接触する機会をじゅうぶんに持つことができるなら、社会的保障の不足を克服することが比較的容易になる。ところが、からだの不自由な若い人の場合は、上述したような建築物に存在する妨柵に閉め出されるため、そのような機会を持つのが困難になる。そのため、からだの不自由な若い人の多くは、社会的関係に対する大きな不安感を持っている。その例として次の報告がある。

 けいれん性まひの学童(6~10学年生)を、ハンディキャップのない大きい標準グループの学童(6~9学年生)と対比して、社会的接触の問題について調査した。それによると、けいれん性まひの子どもは、標準グループの子どもよりも、社会的な不安を持っており、自立についての自信がないことがわかった(Kurt Olofsson)。

 アメリカで、からだの不自由な若い人約300人について調査したところによると、ほかの人との個人的関係について驚くばかりの不安を感じていることが判明している。かれらは、ほかの人に対してどのようにふるまえばいいかについて、はるかに深刻に考えており、心配することなしに、あるいは特別の精神的努力なしに、個人的関係をうまく保つことが困難なようである。困難なことの多くは、不適切な社会的手段に由来すると考えられる(Bernt Gustafsson)。

ハンディキャップとともに生きることを、他からの援助なしに学ぶことができようか?

 からだの不自由な若い人は、ティーン・エイジャーとしての通常の問題から離れても、自分のハンディキャップ自体に打ち負かされないように頑張らなければならないが、そのことが、社交的な折り合いをさらに困難にさせている。もし親が、わが子のハンディキャップ自体を受け入れていたら、そのような見方と態度は、子どもにも伝わっている。しかし、このような有益な支持を、早い段階で親から受けることがなかった子ども、あるいは思春期以後にからだが不自由になった子どもを、援助するにはどうやったらいいのであろうか?

 「ハンディキャップとともに生きることを学ぶ」ということは、不幸にして学校のカリキュラムのテーマにはないし、からだの不自由な人と常に話し合っている内容のものでもない。しかしながら、自分自身をはっきりと受け入れる心境に達していることは、他の人とともに生きるうえで非常に重要なことである。

必要な対策

1. 親からの開放を進めること

 からだの不自由な子どもが成長したとき、おとなとして行動したがるという自然な要求について、すべての親は、ソーシャル・ワーカーと個人的に話し合う機会を持つことが望ましい。そんな子どもたちと親たちとでグループ討論をすることも必要で、共通問題を話し合うことで、双方に受け入れ可能な解決方法を発見することができる。

2. からだの不自由な若者に対するコミュニティの支持を進めること

 からだの不自由な若者は、対人関係についての正常な欲求を持っており、コミュニティの一員なのだという認識を、もっと広めさせるよう、責任と権限を有する人に義務づける必要がある。そして、からだの不自由な人の個人的問題を、個々に切り離して技術的に解決するのに熱中するのでなく、むしろコミュニティが全般的に、からだの不自由な人にとってより安楽な場所となるようにする義務がある。

 たとえば、レクリエーション・センターを、車いすに乗った若い人にも利用可能とするひとつの方法として、ストックホルムでやっているように、専門のコンサルタントを委嘱して、建設以前の計画段階から、からだの不自由な人に必要なことが満足されるように、設計することである。

3. ほかの人との接触に自信を持たせること

 からだの不自由な人とそうでない人の両方を含めるグループ活動の機会を、もっと多く作ることが必要である。それは、多くの人にとって、より広範なコミュニティ生活への第一歩であるし、社会的関係についての自信を持たせる方法だからである。自分のからだのハンディキャップを受け入れることが困難な若者を援助するために、個人的な話し合いの機会が必要である。「ハンディキャップとともに生きることを学ぶ」というテーマが、からだの不自由な人の学校教育カリキュラムに取り入れられるべきである。

● 第4章 からだの不自由な子どもや若者の性的発達と家庭や施設の環境

 このあとで、子どもや若者の性的行動に対する親や看護婦の態度について論ずるに先だち、その背景として、一般的な性的発達についての概要を簡単に述べておこう。

性的発達はいつから始まるか?

 心理学的な意味での性的発達は、思春期に始まるものではない。それは、幼児が直接的環境と相互作用を体験する最初の日に始まる。すべての個人の正常な心理学的発達は、このように、思春期以前でも、未成熟な性的衝動の抑制と再生という形で具体化されながら、性的成熟に至るものである。多くの人がこの事実を無視しており、性の問題を、何か特別のきわだったことのように安易に理解してしまっている。正しくはそうではなく、個々の人間の資質と発達のひとつの局面として理解されなければならない。

幼児は性的興味を持つか?

 学齢前の子どもの多くは、自分の性器にさわったり、いじったりするのがおもしろいことを発見する。たぶん、子どもの大多数はこの年齢時に、限定された形のマスターベーションを行なっているのである。さわることと満足することとが、性器に結びついているので、それをすることの子どもの興味は増大し拡大して、自然にほかの子どもの性器にも及ぶことになる。しかしながらそのことでは、しばしば罰を受けることになるが、その結果はむしろ、性的行動と生殖器に関連するあらゆることについての強い関心を増大させることになる。

 学校ごっこをして遊んでいる幼児を観察すると、子どもが自分の性器を露出し、お互いに性器をながめ合い、非常な好奇心を示していることがしばしば認められる。このことはなんら例外的なことではない。なぜなら、この年齢の子どもは、自分自身の人生に順応しようとし始めているのであり、それに伴って、あらゆることに好奇心を持ち始めたのだからである(Mussenほか)。

若い人を異性の友だちに順応させることと、性的欲求を正しく処理すること

 低学年のころは、男の子も女の子もお互いに避け合い、同性の友だちとつきあいたがる。思春期に達すると、異性に対して強くはっきりした興味を示すようになる。このことは、若い人がコミュニティの中で順応することをきわめて困難にさせる問題を含んでいる。

 そのほかにもかれらは、ホルモンの作用と解剖学的発育から影響されて起こる、性的満足を得たいという欲求も処理しなければならない立場にある。性的欲求は、肉体的成熟につれてしだいに激しくなる。それはまた、映画、テレビ、印刷物などマスコミの刺激によってさらに強くさせられる。

 ほとんどの若者は、性的欲求のなんらかのはけ口を捜そうとするが、マスターベーションやペッティングあるいは性交を行なうべきかどうか、さらには、どの年齢ではどの程度に行なうべきかを、自分ひとりで決心できなくて悩むのである(Mussenほか)。

マスターベーションは正常な行為だ

 マスターベーションが、男の子にも女の子にも正常な行為であるということは、今日ではしだいに広く受け入れられている。それは、思春期やティーン・エイジの若者、ことに男の子に多く、強烈な性的欲求を持ちながら、それを合法的に満足させる機会の少ない若者の間にさかんに行なわれている。異性との接触を容易に持てない子どもや若者、施設の中にいる若者やおとなにとっては、マスターベーションは、性的満足を得る唯一の方法であることが多い。マスターベーションは、罪の意識を伴うときにのみ危険となる。そしてそれは、通常は自然発生的には起こらないもので、環境から罪の意識を持たされるときに、悪影響が起こるのである(Ulf Otto)。

親と子の関係は、子どもの対異性順応性に影響するか?

 若い人の中には、異性と満足に順応するのが困難な人がいる。その困難さの度合いは、幼いころの親子関係がどうだったかということによって決まるものである。幼児期に、親との相互作用によって作られて身についてしまった態度というものは、青年期にもそのままに存続して、ほかの男性や女性に対する関係に、支配的な影響を及ぼす。

 たとえば、ある女の子が、父親に対して、愛と崇拝を体験していたならば、その子がおとなになったときには、男性との関係が、一般的に愛と崇拝の方向に進む女になると考えられる。反対に、父親が冷たくて無関心にされた女の子は、おとなになってから、すべての男性からはねつけられるのではあるまいかという不安を持つ女になる傾向がある。それと同様に、母親に押えつけられていた男の子は、ほかの女性についても同じ見方をするようにしつけられたわけである。

 このように、親と子の関係は、子どもがおとなになったとき、異性に対する円満な順応を容易にするか妨げるかの影響を与えるものである。そのような順応を困難にする他の要因には、後天的に得た性行為に対する不安と、一般的な社会的関係に対する恐れがある。このような不安や恐れについては、からだの不自由な子どもの場合、特別に注意して観察し、困難な事実と戦って克服するよう支援しなければならない(Mussenほか)。

どのようにして子どもにセックスの情報を与えるべきか?

 からだの不自由な子どもも、そうでない子どもと同様、また、からだの各部の機能と同様、セックスと生殖に興味を持つ。もし親が、子どもからセックスについて次々とたずねられるのに応じて、客観的に自然に対応しておれば、性的行為にしばしば伴う不安を減少させることができる。

 親はまた、子どもがどこかよそで仕入れてきた性生活に対する誤った情報や態度を、打ち消すことができる立場にある。子どもは常に、質問したそのときに、ひとつの小さな、しかし適正な情報がすぐに与えられることを求めている。セックスについての子どもの質問に、適切に答える自信のない親やその他の人のためには、すぐれた本がたくさん出版されているから、それを参照するとよい。

からだの不自由な若い人の性生活を親は受け入れるか?

 子どもが思春期に達したとき、それまで家庭でセックスの話がタブーになっていたなら、セックスについての子どもの質問に、正しく応待することが困難である。このとき親は、にわかに窮地に陥るのである。世の中は急速に変わってしまっているので、親自身がセックスに対する現実的な指導をすることが不可能になっている。また、そのような質問について、家庭内で議論すること自体が、親としてはやれなくなっている。

 こんなとき、問題に直面しようとせずにはぐらかす親もあれば、問題の存在自体を頭ごなしに否定する親もある。このような親は、自分の子どもを、やがて性的欲求を持つおとなの男や女になるということを、考えようとしない親である。しかしそれは、わが子を将来いちだんと苦しめることになる。なぜならば、からだの不自由な若い人が、異性と順応することは、本人が「無性の人間」であるとほかの人から見なされているとき、極度に困難になるからである。

 からだの不自由な子どもを持つ親の大部分は、わが子が教育を受けることと、仕事をもつことと、子ども自身の家を持つことだけは、希望するものである。しかし、からだの不自由なわが子が結婚の相手を得たり、性生活を営むのを望むことは、親自身の気持ちとしてできないのである。

 一部の親は、わが子が性生活を営むことまでは期待することができるが、生殖能力があることを認めようとはしない。このような親の否定的な態度は、自分が経験したことを子どもにも経験させるのを恐れるという不安に基づいている。つまり、からだの不自由な子どもをわが子が持つということである。このことは、若い人たちに、将来異性を求めてともに性生活を営むという役割を、自ら認識するうえでも、否定的に考えてしまうような悪影響を及ぼすことになる。

子どもの性的行為に対する施設職員の態度

 からだの不自由な子どもも、そうでない子どもと同じ性的興味を示す。施設の中にいる子どもも、マスターベーションをし、性的好奇心を発揮し、性器を露出し、相互に性器を観察し、性行為についての質問を発するなど、すべて自然のままである。

 この子たちは、そのような性的質問を、常時身近にいる看護職員に向けるのが普通である。しかし看護職員は通常、児童心理学的訓練を受けておらず、ことに子どもの正常な性的行為に関しては、全然知らない場合が多いので、子どもの質問に答えることができず、また、それが子どもの正常な発育の一部であることを理解できない。ときとしてかれらは、子どもの性的行為がしゃくにさわり、その結果、子どもに不安と疑問を起こされるような反応を示すしかできないことがある。

 看護職員は、親の代わりとして、重要な役を演じているのだから、かれらのこのような態度は、子どもにとっては、親が示したと同様の悪い影響がある。それから、男の子にとっても女の子にとっても、将来の性的順応のために非常に重要な役割を果たす父親の姿は、施設の中では不幸にしてほとんど常時見ることができない。それは、男性の看護職員は、子どもの施設ではまだ例外的に少ないからである。

 多くの施設で、マスターベーションをすると、おとなになってから変態性欲になるという誤った考え方が、依然として根強くあり、その考え方は子どもにも容易に伝染している。そのほか、職員は、子どもの性的行為を大目に見ると、あとで親から非難されるかもしれないと考えて、抑制的態度をとることがある。

施設にいるからだの不自由な若者の性的問題

 ほかの若い人と同様、施設にいるからだの不自由な若い人も、性的な問題を抱えている。ある施設で、からだの不自由な大ぜいの生徒について行なった未発表の調査によれば、性的な知識が、からだの不自由でない生徒よりもかなり低いことがわかった(Maj-Briht Bergstrom-Walan)。からだの不自由な若い人の、性について知りたいという欲求が応じられていないのは、たぶん、たとえば、この種のハンディキャップは、性的欲求や性的機能を妨げるものではない、ということをよく知らない教師に責任があるのであろう。

 セックスというひとつの対象に、同時にふたつの相反した感情を持つ若者もいる。かれらは、親の意見と、施設の職員の態度とに引き裂かれて、セックスに対する自分自身の意見を持てないのである。施設にいる若い人は、異性の相手を得たいという強い願望を持っており、自分の性的な欲求も知っている。このことが内面的な衝突の原因となる。かれらは、性交を経験したいと望むが、その結果として起こることを心配している。かれらの立場は、施設の多くで、プライベートな生活の機会が与えられていないという事実のため、かなり複雑なものとなっている。

 マスターベーションについて非常な心配をしている若者もいる。それは、マスターベーションすると、何かとてもよくないことが起こるのではないかという不安である。そのような不安を起こさせる原因のひとつは、不完全で誤った情報にある。

 施設の職員は、性の問題の取り扱いについてなんらの訓練を受けていないにもかかわらず、性行為に関する自分の偏見と誤解を、そのまま若い人に教え込んでしまう。からだの不自由な若者は、適切な性教育を受けていなかった場合、職員の誤った情報にすぐに影響されてしまう。またそのような情報というものは、施設の中でなく一般社会で広く一般的な情報を得ている若者が受けるよりも、片寄った情報であろう。

 からだの不自由な若者は、このような環境の中で、異性の相手と特別の困難なく順応することは、どうやれば可能であろうか?

必要な対策

1.子どもと若者の性的行為に対する親の側の理解を深めること

 親の知識不足を補い、親子の年代間の理解を深めさせるために、親の会は、セックスに関する質問に対する情報を提供するべきである。

2.若い人の将来の性生活の欲求を親にもっと受け入れさせること

 親と子のグループ討論には、性生活に関する質問についての問題も含めるべきである。

3.からだの不自由な人にとって、異性の相手と性生活をすることについての不安を軽減させること  

 からだの不自由な人が性生活をすると、どんな問題が必然的に起こるかということと、生まれる子どものことについて、親と若い人とが討論できるよう、医師は現在よりもはるかに広い範囲の問題について、勉強し準備しなければならない。

4.子どもと若者の正常な性的行為について、施設職員の側に大いに理解を広めさせること  

 施設のすべての職員は、性教育を受けなければならない。そのあと小グループによる討論で、実際の具体的問題についての研究を継続的に行なうべきである。すべての職員は、継続的な実務研修の機会に、性に関する心理学的教育を受けるのが望ましい。

5.異性に対する自然な関係を持てるように支援すること  

 男の子と女の子の間で自然な接触を可能とさせるために、施設はまず、男性と女性の両方の職員の混ったものとすることが重要である。すでに言及したように、子どもの施設では、特に男性の職員を置くことが、子どもの将来の性的順応のために非常に重要である。

6.必要に応じて職員に支持を与え、常に責任を持たせること

 職員は、自分がどうすればいいかわからなくて困ったときは、アドバイスを求め支持を受けられる人を持っていることが必要である。すべての職員は等しく重要であるという認識を持ち、同等の責任を負い、チームの一員として喜んで働く機会を持たなければならない。

7.職員と子どもたちとの関係を改善すること

 すべての施設において、職員と子どもたちとの協同システムを作り、責任分担と相互感化を増進するべきである。

8.外部との接触を進めること

 施設の外の世界との接触の道を開くことは、職員と子どもの双方に重要なことである。職員は、外部での訓練を受けることで、コミュニティ全般の進展から遅れないようにし、施設内に新しい刺激をもたらすようにするべきである。

 子どもたちには、外部の世界とできるだけ接触を持たせるように刺激し、施設にいる時間だけ外部から孤立しないよう、そして施設から出たときに一般社会に容易に順応できるようにするべきである。

 このために、施設を新設するときは、その建物は、バリヤーズ・フリーな構造、つまり、階段のような、からだの不自由な人の出入りを困難にする建築上の妨柵をすべて取り除いた設計のものとし、活動的なコミュニティの中心部に設置するべきである。

● 第5章 からだの不自由な学童に対する性教育

からだの不自由な人は、そうでない人よりも多くの性教育が必要か?

 からだの不自由な人は社会的にみごとに順応し、異性と正常な関係を持っているのでないかぎり、性的順応の点でも困難に出くわすことになるであろう。もし性的順応が不適切であると、異性に対する強い嫌悪の感情が表面化し、社会に対する理由なき攻撃へと進む。だから、からだの不自由な学童に対しては、そうでない子ども以上に配慮して、性についての明確な見通しを早期から持たせることが必要である(Spring)。

 しからば現在、からだの不自由な子どもは、そうでない子ども以上に、性に関連することについての教育を受けているであろうか? 前章で引用した未発表調査によれば、からだの不自由な若者は、標準グループよりも低いレベルの性知識しか持ってなかったことを明らかにしている。このことは、スウェーデンでは、性教育が学校で強制的に行なわれ、9年間の義務教育期間中の全学年で、全児童に教育されるという事実と対立的である。スウェーデン教育委員会発行の性教育に関するマニュアルには、からだが特別に不自由だったり、知恵遅れのため、普通学校でなく、寄宿舎制の特殊学校にいる学童に対しても、性教育を施すように指定してある。

学校性教育以前にはどのようにして情報を与えたらいいか?

 施設内の学校で学科としての性教育を始める前には、性についての情報を、教師と看護職員にグループ・インフォーメーションとして分かち与えることにより、性生活に対する肯定的な態度をしだいに作り上げることが必要である。学童と各種の職員との間に起こる相互作用の見地から、学童を取り巻く人たちの一般的な態度を、話のわかるものとすることをしないで、学童だけに性教育を施すのは、現実的なやり方ではない。

 性教育を授業する教師は、教室で実際に教えることの内容について、前もって親に通知しておくのがいいやり方である。そうすることで、除け者にされていると感じた親が、レッスンの初めから否定的な態度をとるのを防ぐことができる。

高学年生徒に教える教師はより多くの知識が必要か?

 特殊学校のクラスはかなり小さいのが普通である。低学年と中学年の生徒は、主として単なる事実について興味を持つ。妊娠中の胎児の成長や出産などについて知りたがる。このような質問は、高学年生徒の場合の、より個人的でより本質的な、重要性と不安に基づく質問よりも、答えるのが容易である。高学年の生徒に対しては、問題を深く掘り下げて納得させるために、教師はより多くの知識を集中させなければならない。生徒が言いたいことをすっかり話せるように、また、質問に詳しく答えられるよう、じゅうぶんの時間をあてることが特に重要である。

感受性訓練の必要

 からだの不自由な生徒に、性に関する適切な知識を与えるためには、何から始めたらいいだろうか? 前に引用した調査の示す、性知識のレベルが低くてふじゅうぶんなことは、おそらく教師自身が、からだのハンディキャップとセックスのことを討論する際に、行き詰まりを経験することによるとみられる。教師は、からだの不自由な生徒を指導する際、情緒的にどう取り扱ったらいいのかの適切な訓練を受けておらず、したがってまた、その生徒と妊娠などのことについて話し合うのがとてもやりにくく感じるのである。

 ほとんどすべての性教育に欠けているのは、繊細な感覚と反応力向上の訓練である。その訓練は、グループとして行なうもので、それを指導する人の経験に基づいたものとなる。その訓練の目的は、感受性の増大、選択の認識、対人関係における純粋に誠実な態度などについて教えることである。このグループ療法的方法は、医療、社会事業的指導、私企業、産業界にも利用されている。

「人はすべてパートナーとともに性生活をエンジョイして生きる」ことを教える必要

 生物学、社会学、心理学および宗教の授業を担当する教師は、人はすべてパートナーとともに性生活をエンジョイして生きるものだということについて、生徒に教えなければならない。この点の教育について、スウェーデンで実験的に行なわれたことの結果は、その妥当性に完全な確信を与えるものであった。その教育は、最初は4年生に試み、続いてその上級学年にも行なわれた。

グループ教育に加えて必要なこと

 個人カウンセリングのほかに、グループ指導をすることの必要性は、前に引用した性知識調査で明確にされた。生徒の90パーセントは、性の問題について、教師や学校の看護婦や校医とでなく、外部の人と討論したいと述べている。

 個人カウンセリングを行なう人は、知り得たすべてのことを秘密にする職業的義務を守ることが重要である。在来の性交方式は、ある種のからだの不自由な人には実行できないので、カウンセラーは、できるだけフレキシブルでオープンな態度で、実際的な指導をしなければならない。カウンセラーにとって、このような素質は、多くの若者の性行為に対する潜在的な不安を見つけ出すためにも必要である。

必要な対策

1.効果的な性教育の促進

 性教育に対する支持を強め、反対意見に生徒が迷わされないために、性教育開始前に、施設職員と親の両方に、グループ情報を用意して提供すること。

2.からだの不自由な生徒に性教育が施せるよう、教師の能力を向上させること

 最初にやるべきことで、しかも最も重要なことは、普通学校の教師を含むすべての教師に対し、からだの不自由な人もセックスをエンジョイする機会を持つことが可能なのだという事実を教え込むということである。これにより教師は、生徒の質問に、よりじょうずに答えることができるようになる。

 現在では(訳注―スウェーデンその他の諸外国では)からだの不自由な生徒を、極力普通学校に差別なく受け入れているという事実は、すべての教師が、いつか必ずからだの不自由な生徒を受け持つということであるから、普通学校の教師も、からだの不自由な人のことについて、じゅうぶんな教育を受けていなければならない。

 教師に対し、からだの不自由な生徒をじょうずに扱えるようにさせるため、また適切な授業を可能ならしめるため、上述のごとき感受性訓練を、教員養成課程の必須科目とする必要がある。

3.からだの不自由な生徒に、グループ教育に加えて、さらに必要な性的情報を与えること

 からだの不自由な生徒のために、すべての学校には、性の具体的問題について個人的に指導するためのカウンセラーを置くべきである。からだの不自由な人のためのアパートについても同様である。

 図書館には、性行為に関する各種の図書を備えつけるべきで、それには、からだの不自由な特性に適応した性交体位を見つけ出すための性交テクニックのマニュアルを含む必要がある。

 からだのひどく不自由な子どものための特殊学校の高学年生徒は、普通学校の学年と同一でも、実際の年齢は2~3年、年長であることにも留意しなければならない。

● 第6章 からだが不自由なおとなと他の人との接触

からだの不自由な人と他の人との接触を妨げる障害物はなにか?

 われわれが、からだの不自由なおとなと、他の人、つまり他のからだの不自由な人やそうでない人との順応について語ることができるためには、ふたつの基本的な必須要素が充足されなければならない。そのひとつは、他の人と接触する機会をじゅうぶんに持つことであり、もうひとつの要件は、接触したあとの関係をうまく維持できる能力を備えることである。

 からだの不自由な人が、他の人と接触を試みるとき、多くの困難な問題が次々と続いて登場してくるものである。公共的建造物と私的住宅の両方ともに内在する階段など各種の建築的妨柵は、からだの不自由な人が他の人と会うことを困難にさせている。次に交通機関の問題がある。自分の自動車を持てるのは、学生として特別の補助金を与えられた人と、就職に成功した人だけである。それ以外の人は、地方自治体のサービスとしての身体障害者用交通機関を利用するのだが、それはレジャーのための外出に利用するには、はなはだ不適切である。それに加えて、ハンディキャップのある人は、収入の点からも、文化施設を利用する機会には限度がある。

近視眼的な地域計画のために無差別受け入れ方針が効果をあげていないのではないか?

 からだの不自由でない人は、自分の交際相手としてからだの不自由な人を考えることがあるか、どう考えるかについて、明確な意見を持っていないということについては、このあとで述べるが、その原因はたぶん、工業化社会がそうさせたのであろう。

 つまり工業化社会においては、その集団から逸脱した「少数者」を、本体のグループから切り離して分離し、別のグループとして取り扱うという習慣があるが、このやり方が人の心を支配するに至ったのであろう。分離された「少数者」に対する差別を撤廃して、コミュニティの中に無差別に統合する努力は、これまでにほんのわずかしかなされなかった。このことはたぶん、簡単に言えば、安直で、効率中心的で、経済的に問題を解決させようとする考え方によるものであろう。その考え方はまた、コミュニティの大多数を占める人をして、少数者と適応するために必要なあらゆる努力と義務から解放し免除してしまっている。

 少数者グループの人たちのかかえる問題を、その人たちを孤立させたままで解決することは不可能なことである。少数者を、コミュニティ計画の中に無差別に統合し、コミュニティの構成分子としなければならない。そうすることにより少数者は、多数者と同じように、社会全体の生活の中で仲間にはいることができるのである。少数者グループが、社会から孤立させられることが多ければ多いほど、そのグループのひとりひとりにとっては、そのあとの生活について、社会と順応するのに困難を増すものである。

 法律を制定することは、ハンディキャップのある人を、実際生活面で差別扱いするのを防止する補助的な効果はある。しかし、差別の原因を作る社会的および情緒的な問題に対しては別の方法で攻撃しなければならない(Constantina Safilios-Rotschild)。

ハンディキャップのある人とない人との関係に存在する精神的緊迫状態の原因はなにか?

 ハンディキャップのある人とない人との接触を維持するうえでのひとつの重要な問題は、両者の社会的な関係において起こりうる精神的緊迫である。からだの不自由な人に初めて出会ったとき、その人と今後交際することについて、多くの人は不安を感じる。その人に手を貸すべきか、貸さざるべきかを知らない。自然にふるまうことに困難を感じる。たとえばこんなことも感じる。からだの不自由な人に対しては、焦燥や立腹を示すべきではないのではあるまいか? からだの不自由なことを話題にしてもいいものだろうか? こういった問題が無限に続いて出てくるのである。

 いっぽう、からだの不自由な人は、自分たちが多数者から「異なった別の存在」であると見られていると感じ、その結果、実際にそのとおりの存在であるかのような反応をする。からだの不自由な人はしばしば、事実はそうでない場合も、否定的な反応を予期するものである。社会的な訓練の欠如のために、そのふるまいがぎこちないこともある。からだの不自由な人とそうでない人の、両グループ間の接触を困難にさせている原因は、主として、からだの不自由な人に対する差別を解消して、無差別に社会に受け入れることが不完全であるために、お互いに出会う機会が少ないことによるものであろう。

ハンディキャップのある人に対する募金活動はハンディキャップのない人の持つ偏見を助長している

 ハンディキャップのある人とない人との接触は、一般大衆の偏見からも影響を受けている。その偏見は、ハンディキャップのある人の状態に対する無知に基づくものである。しかしながら、その偏見と、固定化した陳腐な考え方に対しては、広範で継続的で徹底した情報を、マスメディアを通じて流すことで、効果的に戦うことが可能である。

 不幸にして、ハンディキャップのある人に対する、一般大衆の偏狭でがん迷固ろうな態度は、まずい情報の副作用と、募金活動の副作用によってさらに悪化されるということが、じゅうぶんに認識されていない。たとえばテレビは、聴視者に気前よくかねを出させることで募金番組の成功と見たい意図から、ハンディキャップのある人の状態は、事実以上にドラマチックに扱われる。ひどくハンディキャップのある人は、絶望的な犠牲者として紹介される。

 偏見を減少させるために、それよりもはるかに効果的な方法は、テレビのあらゆるタイプの番組の中に、ハンディキャップをテーマとしてでなく、ハンディキャップのある人を自然に登場させるように扱うことである。そうすればテレビを見る人に、ハンディキャップのある人とない人々の間には、基本的な相違はないのだということを理解させることができるからである(Constantina Safilios-Rotschild)。

決定的なのは交際の質

 第2章と第3章で述べたように、他の人とりっぱに交際するにはどうすればいいかは、当人がくりかえし接触する過程で自分で学ぶことである。重いハンディキャップのある人はすべて、なんらかの理由で、社交的関係を制限されている。しかしながら、交際することから得られる満足というものは、その回数で決まるものではなく、その質によるものである。それは交際の性質であり、あたたかさの度合いによる。ハンディキャップのない人の態度は、ハンディキャップのある人に対する広い範囲の皮相的な接触よりも、数少ない密接な接触によって決定的な影響を受けるものである(Kershaw)。

心理学的素質が他の人との接触に影響する

 デンマークで行なわれた調査によれば、からだの不自由な人は、男も女も、50パーセントの人が、レジャー活動の面で他の人とほんの少ししか交際していないことが明らかにされた。この点で、からだの不自由な人は、全般の人よりも、はるかに悪い状態にある。レジャー活動についてのある調査によれば、からだの不自由な人が他の人と接触する度合いは、不自由でない人の10分の1にしかすぎないことが判明している。

 他の人との接触は、心理学的素質に影響されるということも判明している。からだの不自由な人の中でも、他人に頼らずに自立する性質の人は、最も広い範囲に交際しているが、不安を持ったり、自分の生活をまかなうだけの収入が不足している人は、他の人と接触するのに困難があり、レジャー活動で、他の人と交際することも少ない(Kuhl)。

 人の心理学的素質は、他の人との接触を維持する能力にこのように影響するものである。

肉体的には変わっていても心理学的にまで変わっているのではない

 もしからだの不自由な人が、ハンディキャップによる現実的限界を認識する半面、それでもなお、活気のある楽しみ多き人生と、自己能力完成の機会がまだあることを認識するならば、自分が心理学的には人と変わるところはなく、肉体的にだけ変わっているということを、受け入れるのがより容易となる(Margareta Hellerstrom)。このことはさらに、自分を現在の状態によく順応させ、次いでは、自分の環境への順応へと広がることを可能にさせるものとなる。

 同じことが、ハンディキャップのある人の態度についての調査においても発見された。からだの不自由な人の順応性は、その人が自分を、からだの不自由でない人に比べて、どれくらいに肉体的ならびに心理学的に異なっていると考えるかによって決まる。順応性の不足は、自分がからだの不自由でない人よりも極端に違うという感覚の反射である。満足な、あるいは補完された順応性は、自分が肉体的な特定の点では、からだの不自由でない人と違うことを認めているが、そのことが全人格に影響しているとは考えない人に、見い出される反射である。セラピストが効果的な仕事をするには、からだの不自由な人に対して、このような態度で接することが必要と考えられる(Howard Bell)。

他の人の反応にうまく対応することを学ぶことができるか? 

 ハンディキャップのある人はすべて、自分の環境の反応にうまく対応することを学び、環境を理解しなければならない。特に、おとなになってからハンディキャップを持った人は、他の人や親戚に対する関係を、うまく処理するために必要な能力を欠いている。相手がおとなでも子どもでも同様である。多くの場合、かれらは、自分の病気や事故が直接的結果としてもたらす明白な事実以外に、それに引き続いて起こってくる、個人的および社会的なもろもろのことに対する準備は、していないものである。

 ハンディキャップのある人は、自分が出くわすかもしれない困難について、自分自身のためにも、周囲の人たちのためにも、学ぶ義務がある(Maud Reutersward)。これは、たとえば、援助の手をさし伸べてくれるどの人をも無視して、はねつけたりしないために、あるいはまた、無知に基づく好奇心に傷つけられないためにも必要である。

必要な対策

1. からだの不自由な人が他の人と接触できる機会をふやすこと

 からだの不自由な人のために地方自治体が行なっている輸送サービスを、レジャー・タイムにも利用できるように拡大する。からだの不自由な人を、事実上利用から閉め出している建造物の階段などの、建築的防柵については、一般大衆の強い意見の支持を得て、極力取り除く。社会的援助法(Social Assistance Act)に対する先般の修正の結果として実行される、活動圏拡大援助計画においては、からだの不自由な人が他の人と接触するのに必要なことがらを特に考慮し、必要な対策を実施しなければならない。ハンディキャップのある人が、経済的な困難のため、既存の文化的施設を意のままに利用することができない場合は、入場料の割引率をもっと高めることを検討しなければならない。

 原則として、ハンディキャップのある人を助ける規則を決定する人は、ハンディキャップのある人と直接的にコンタクトするための、現在よりももっと徹底した機構を完備させ、常にその人たちのほんとうに必要としていることを正確に学び取るようにすることが必要である。そうすれば、「アームチェアーの中で作った非現実的な」と批判される結果に終わるような、まずい決定をしてしまうのを避けることが可能になる。

2. ハンディキャップのある人とない人との接触を進めること

 ハンディキャップのある人とない人とが、ハンディキャップの問題を離れたテーマについてのクラブ活動に参加するのを奨励することにより、両者の社会的差別解消化を促進させるべきである。マスメディア、ことにテレビは、世論形成力が強大であるので、それらを通じて、ドラマチックでない、客観的な情報を流す必要がある。プロデューサーは、建設的な効果をあげる番組を作りたいなら、その前にまず第一に自分自身が、ハンディキャップのある人の現在の状態と、目標として達成さるべきあり方についての、適正な知識を入手しなければならない。

3. 交際を維持できる能力の増進

 ハンディキャップのある人に対し、人間関係に大いに自信を持たせる目的の教化を施す必要がある。年とってからハンディキャップを負った人に対しては、自分の問題を心理学者やソーシャル・ワーカーと話す機会を継続的に持たせるべきで、それは本人が職から解雇されたあとも続けなければならない。上記に引用した、ハンディキャップのある人のレジャーにおける対人関係調査によれば、非常に高い技量を持つ専門家でも、単独では指導効果はむだに終わることがあり、それに見合う高いレベルの心理学的指導を併用しなければ、じゅうぶんな効果をあげられないことが確認されている。

●第7章 からだの不自由な人の性的欲求と機会

からだの不自由な人は性的欲求を持つか?

 性生活が、人間の健康と幸福のために重要であるということは、一般に認識されている。すべての人間的努力のうしろに、その動機づけの力としての性欲の存在が見られる。からだの不自由な人も、そうでない人と同様に、性欲の必要と欲望を持ち、それには個人差がある。不幸なことに、多くのカテゴリーの職員の間には、からだの不自由な人の性的欲求と性行為能力についての無知があるため、からだの不自由な人は、調和した性生活を達成する機会を、不必要に制限されている。

 パートナーを得て性生活をエンジョイすることについては、からだの不自由な人は、そうでない人よりも、心理学的問題が多くある必要はない。問題はむしろ、主としてコミュニケーションと、実際の技術的方法に関連している。からだの不自由な人に、性的欲求を押えさせたり、はねつけるようにさせる理由はない(Spring)。性生活は、からだの不自由な人を、建設的な他の分野の活動に進出させる刺激となる。それによりその人は、より開放的で社交的な人間となり、他の人と容易に接触でき、自己能力の完成のために、よりよい立場に立つことができる。

からだの不自由な人は性欲のすべての面を満足することが可能か?

 性欲の概念には、ふたつの面がある。ひとつは純粋な衝動としての性欲で、技術的に多かれ少なかれ困難を伴うクライマックスに達する欲望である。もうひとつは、愛情と合体した性欲で、その構成分子としての性欲と愛情の双方の重要さについて、われわれは常に留意しなければならない。

 技術的問題については、あとで詳細に考察するが、解決が最も容易な問題である。性欲の他の面、つまり深い人間的接触を欲求する面は、自然法則的にも、また心理学的にも、解決のむずかしい問題である。性欲のこの面を、分離して解決できる孤立した問題とみることはできない。それは、全体としての、社会的統合のプロセスの一部である。もしも、からだの不自由な人を、コミュニティやグループの中に、無差別に受け入れることが、すでに行なわれているならば、その人がパートナーを得て性生活をエンジョイすることについての問題は、重大な問題としては、もはや残っているはずがない。

理想的美という社会概念が、そうでない人を差別する

 からだの不自由な人に対する、大部分の人の持つ偏見は、単に無知からのみ発生するものではなく、美とはなにかという概念からも発生するものである。

 からだに不自由のない人には、からだの不自由な人の性的な状態など、想像することも困難であろう。それは、手足の不自由な人のからだと、そうでない人のからだとの間には、外見上で大きな相違があるが、性欲というものは、からだの特定の外観を目で見ることと結びついていることが多いからである。

 からだの不自由な人の性生活を否定する一般の態度は、そのほかに、われわれの社会の中に一般的に存在している美の理想像の概念によって、さらに強化されている。理想像は、マスメディアによって人々に植えつけられ、理想的タイプから離れたすべての人を、差別する原動力となっている。

ハンディキャップを負った際の年齢の早い遅いで、セックスの問題に相違があるか?

 おとなになってからハンディキャップを負った人、たとえば脊髄損傷の人は、だいたいにおいて、すでに性生活に関する一定の様式を持っているので、リハビリテーションでそれに戻ることができる。それが可能な範囲はもちろん、神経損傷のタイプによって決まる(医師は常に、その人の損傷の位置と範囲に基づいた評価をしなければならない)。そのほかにも、その人の性的衝動と、もし必要なら、従来の性習慣とどれくらいまで違う方法を受け入れられるか、満足を得るための新しい方法を見い出し得るかということも、決定的な要素である。

 生まれつきハンディキャップを負っている人は、異性の相手と性的関係を確立したことがないので、問題はいっそう困難である。しかしリハビリテーションでよい素質をつちかうことにより、異性の相手をひきつける魅力を備えるのが、より容易になる。

 しかしながら、すべての評価と比較して忘れてはならないのは、性的な順応が成功する度合いは、結局はきわめて個人差のあるものだということである。順応性は常に、本人個人と、環境と、ハンディキャップの程度とによるものである。

男女下半身まひ者の負傷の前と後の性的欲求と興味

 脊髄損傷の男性26人と女性21人に対する徹底的な調査によれば、性的な感覚、幻想、興味が、負傷後に男性ではわずかに低下する傾向があるのに、女性では増大することがわかった。すべての人が、なんらかの生理学的問題をかかえているにもかかわらず、負傷後は性的に困難な問題を持つと答えた人は、男性でも女性でも50パーセントにしか過ぎなかった。男性のほうが女性よりも、異性に対する自分の性的な役割と、社会的関係に適応するうえでの困難を多く感じているのは、たぶん性的にも社会的にも、男性のほうが、より積極的に行動する立場にあるとされる期待によるものであろう。

 負傷後の性的衝動の変化は非常に小さく、性的満足を得る方法が変わっても同様である。男性も女性も、大多数の人が、性的な欲求、興味、行動を示している(Kaplanほか)。

 この研究について興味があることは、全員について性生活上の生理学的問題が論証的に認められるにもかかわらず、問題の存在について、半数の人しか感じていないということである。

 最も重要なことは、このように、人間はいかに自分の状態を経験によって知るかということであって、事実として客観的に認められる状態からではない。

必要な対策

 ハンディキャップのある人が性的に必要としていることについての認識を進めること

 ハンディキャップのある人の環境を構成する各種の攻撃目標グループ、つまり親戚、施設職員、リハビリテーション従事者およびハンディキャップを持たない一般大衆に対する情報を増大させることが、なによりも重要である(ハンディキャップのある人自体に対する性的指導については、第8章と第9章で論ずる)。情報は、純粋に事実に基づくもので、ハンディキャップのある人が実際に必要としていることと、性的行為能力に関連したものであるべきである。情報を与える方法には、グループ討論を伴うディスカッション、テレビ番組、刊行物の記事などが利用できる。

 この情報の究極的目的として、成人はハンディキャップにかかわらず、次のことが可能でなければならない。

a 自分の性生活について、自分自身で責任をとる。

b ハンディキャップにかかわらず、いかにして性的に満足に行為すべきかという情報を入手する。

c 望む相手と性生活をエンジョイする機会を持つ。

d 相手を選択できるために、外に出て行って社交的に接触する機会を多く持つ。

● 第8章 からだの不自由な女性の性生活

 からだの不自由な女性の性生活に関する研究はきわめて少ない。これはたぶん、性交の際に一般的に女性に必要な行為は、男性ほどに大きくないことによるものであろう。女性は、たとえば、相手を満足させることができるためには、自らオルガズムに達することが、必ずしも必要ではない。からだの不自由な女性にとって、これまで主として問題にされたことは、彼女に技術的に性交能力があるかということと、妊娠が彼女にどういう問題をもたらすかということであった。

性交の4局面

 性交は四つの局面に分けることができる。いかなる形の性的刺激でも、それに対する最初の反応は興奮の局面である。それはときにより異なり、性的興奮がしだいに増大していく特徴を持っている。そして次の高原的局面、つまり性的刺激と興奮がかなり高い状態で持続する局面に移る。次いで、肉体の各組織の性的反応はしだいに上昇し、遂にはオルガスムスの強烈な局面に到達するが、その後その局面は数秒間しか持続しない。それに引き続く解除の局面では、各組織はだいたいにおいて早く元の無刺激状態に戻る。

 性交中の女性の反応には、大きな個人差があり、また状況によって非常に異なる。多数の女性が、オルガズムのあと、興奮が高原的局面以下に低下する以前に、もう一度刺激されると、急速に再びオルガズムに達することができる。その反面、最初の興奮の局面のあと、高原的局面に達するだけで、引き続き刺激されてもオルガズムには至らない女性も少しだけれどいる。

 もしオルガズムが起こらなければ、解除の局面にも続かないので、直接的興奮が、そのままでゆるみもせず、また性交中に生殖器に大量に集結していた血液は、オルガズムのあとのように、数分間で解散することもできない。その結果、精神的興奮状態と性器充血状態が、非常に長い間そのままに継続する。このことは、厄介なことの原因となることがある。なぜなら、それはしばしば腰部の圧迫感と腰痛を発生させるからである(Masters & Johnson)。

アテトーゼ、運動失調症および下半身まひの女性

 報告によれば、非常に重いアテトーゼ(不随意けいれん性運動)と運動失調症(バランス失調)の女性は、完全な性交能力を持つことができる。それは、緊張を主観的に完全にゆるめる処置をとると、その状態が15分間までは持続するので、まずその処置をとったあとで性交を行なえばよい。

 純粋に技術的には、下半身まひの女性は、男性の下半身まひ者よりも容易に性交することができる。女性は性交に積極的行為をしなければならないということはないからである。そのような女性の一部の人は、オルガズムの主観的な感覚を持たないけれども、相手の男性を満足させる点では完全に有能である(Guttman )。

股関節硬直の女性

 股関節硬直の女性30人の機能分析調査によれば、そのうち20人は、だいたいにおいて通常方式による性交を行なっていた。そのうち6人の女性が、まったく正常に性交を完了できると確信しており、実際にも常に自由に性交を行なっていた。10人が、自分の希望する方式の性交を行なうことには困難があると考え、別の方式による性交を行なっていた。4人が、やはり通常方式の性交を行なっているが、ハンディキャップを持つ以前のほうが、性交の満足が大きかったと答えている。

 ハンディキャップを持った後に初めて性交を開始し、いまだかつてオルガズムを経験したことがない8人は、それをハンディキャップのせいだと考えていた。ことに、ハンディキャップを持つ以前には、性交で常にオルガズムに達しており、以後ではそうでない3人は、ハンディキャップのせいだと確信していた。腰のけが以来、性交を断念してしまった女性がひとりあった。その他の人は、オルガズムが実際に起こっているかどうかはっきりしない。

 12パーセントという大きな外転肢位のひとりの女性は、前からの性交を最もぐあいのいい方式と考えていた。屈曲状態の大きい5人の女性は、後ろからのみの性交を行なっており、2人は横からの性交を好んでいた。これらの女性は、種々の方式を試みた結果、自分に最も適した姿勢を発見している。

 股関節の彎曲や硬直のため、自分に適した性交姿勢を知るのに苦労している人には、各種の性交姿勢を示した印刷物を研究して、適当な回答を発見するように勧告しなければならない。

 調査対象の女性の中には、性交上の困難を重大な心理学的負担と考えている人がある。そのうち8人の女性は、その点で特に窮地に立っていると感じており、そのためあらゆる口実を設けて性交を避けようとしている(Foss Hauge)。

 もしもこれらの女性とその夫が、性交以外の方法でオルガズムに達する方法を知っていたなら、性的難問はたぶん減少していたであろう。

からだの不自由な女性は通常、そうでない女性よりも妊娠と出産が困難ではない

 下半身まひの女性は、妊娠するのになんの支障もない。彼女の再生産器官は、男性の下半身まひ者の場合と異なり、体内の位置で保護され、下半身まひの結果起こり得る体温調節機能の変化の影響を受けない。ほとんどの場合、メンスは脊髄損傷の影響を受けない(Talbot)。別の研究によれば、下半身まひの女性が、重いハンディキャップにもかかわらず、出産にも困難なく、発育のよい健康な子どもを分娩し、きわめてじょうずに子どもを育てている(Guttmann)。

 7人のアテトーゼを含む11人の痙直性まひの女性の21件の妊娠例に対し、ロスアンジェルスで行なわれた追跡調査によれば、妊娠と分娩に関連する問題はほんのわずかしかなかった。妊娠に伴う問題としては、ひとりの女性のストレス高進例と、他のひとりの腰の不安定であった(Margaret Jones)。

 先に引用した股関節硬直の11人の女性は、合計17人の子どもを分娩したが、妊娠中に特別の困難に出会った人はひとりもなかった(Foss Hauge)。

性交以外の方法で性的満足を得るには

 からだの不自由な女性は、性交、またはダミー・ペニス(訳注―プラスチック製の模型。外国では各種市販)や自動刺激器具(訳注―電池バイブレーター式の専用器具。同様市販)の単独あるいは併用による代用性交など、性器に対する刺激のタイプにかかわらず、いずれの場合も、まったく同一の肉体的変化をたどってオルガズムに達するものだということを知らなければならない。このことは、女性のみならず、男性についても同様である。オルガズムすなわち性的満足に達することのできる方法には、経験的な差異はない。このことは、任意対象について実施した科学的調査で裏づけされている(Masters & Johnson)。

 もし性交するにはからだが無理だという女性であっても、自分のクリトリスを、手あるいはマッサージ器具で刺激することはできるだろう。クリトリスをマッサージ器具で刺激しながら、同時にダミー・ペニスを使ってヴァギナを刺激することもできよう(このとき、腕を動かせることが前提条件となる)。もしその女性のパートナーが下半身まひで、勃起が得られないときでも、かれは彼女のクリトリスを、指、口あるいはマッサージ器具で刺激することにより、彼女を性的に満足させることができる。

クリトリスはいかに機能するか?

 女性のクリトリスは、男性のペニスに相当する器官であって、その大きさも、ある女性では2ミリ、ある女性ではほとんど1センチもある。その構造は、ミニァチャー・ペニスというべきもので、1本のシャフトと小さな亀頭を備えている。

 興奮局面の間、血液の流入によりクリトリスは増大して、通常の2ないし3倍の大きさになる。シャフトは高原状局面の間収縮し、粘膜ひだの下に引っ込み、もはや見えなくなる。もし刺激が継続されないとオルガズムに達しない。刺激が継続され、オルガズムに達したあと間もなく、クリトリスは収縮してもとの大きさに戻る。刺激の性質のいかんにかかわらず、クリトリスの状態は常に同一の生理学的変化をする。重要なことであるが、クリトリスの周囲数センチの部位は、クリトリスと同程度に敏感な感覚力があるらしい。それゆえに、その全体の部位を刺激することが、じゅうぶんな性的満足を与えるのに効果的であることが多い。

必要な対策

第9章に同じ。

●第9章 からだの不自由な男性の性生活

 男性の場合は、性生活には「遂行」という問題が含まれている。そのために欠くことのできないふたつの要素は、性交を果たすことができるための勃起を得ることと、受精が起こるための射精が得られることである。

男性における勃起と性交の生理学的プロセス

 男性における局部的な生理学的変化のおもなものは、勃起と射精である。勃起の際には、ペニスは大量の血液の流入により膨張し、固くなる。ペニスのサイズは人により個人差があるが、性交の感度と反応は、男性にとっても女性にとっても、ペニスのサイズとは無関係である。

 性交中、男性はだいたいにおいて標準的パターンをとり、偏差はきわめてわずかである(第8章で述べた性交の4局面参照)。

 男性のばあいは、性的刺激に無反応な時期が、解除の局面の間に起こる。この期間の長さは、きわめてさまざまである。正常な性交は、常に男性のオルガズムとともに終結する(MastersおよびJohnson)。

下半身まひの男性

 性的能力についての調査研究の大半は、下半身まひ、つまり外傷性脊髄損傷の結果、両脚のまひした男性についてである。そのハンディキャップのため、他の原因以上に、性的能力に影響を受けるからである。下半身まひの男性の性的能力についての3種類の研究結果について、以下に簡単に報告する。

 400人の下半身まひの男性を調査の結果、約3分の2は勃起が得られ、約20パーセントは、純粋に外部的な心理学的刺激、すなわちハンディキャップのない男性と同一の刺激により、性的に機能した。この研究は、受傷後6か月以内、つまり大部分の人がまだ入院中に行なわれた。そのためこれらの数字は、ミニマムなレベルを示していると考えられる。

 別の調査は、500人以上の下半身まひ者の勃起と射精のオルガズムの可能性について報告している。調査対象は、神経の傷害部位の上下、あるいは脊髄損傷が全面的か部分的か等により、種々のタイプに分類された。勃起について26パーセントという最低数字を示したのは、下部神経の全面的損傷の場合であった。その他のグループでは、勃起は93パーセントから99パーセントの間を示した。射精は、神経の全面的損傷の場合には一般的でないが、その他の損傷では明白に正常であった。脊髄上部損傷の一部のみが、オルガズムのすべての可能性を消失させていた(Bors)。

 3番目の研究は、脊髄損傷男性の30パーセントが勃起を得たうえ、性交を完了するのにじゅうぶんな時間、保持できることを示した。この研究発表者は、性交の前に、ぼうこうをからにすれば、勃起保持時間が延長できると報告している(Bailey)。

 以上の数字は非常にはっきりしている。従前の意見とは反対に、下半身まひ男性は、勃起が非常に期待でき、オルガズムと射精に達することについても相当な期待が可能なことを示している。

下半身まひ男性の授精能力

 下半身まひ男性の実子を持つ能力についての情報はさまざまであるが、受傷後に実子を得た人が5パーセントということが、多くの報告で述べられている。ある報告では、108人の下半身まひ男性が205人の実子を得ている(Guttmann 1964)。同じ報告者は、90人の下半身まひ男性の50パーセント以上は、生殖能力があると発表している。このことは、特別のテストで立証された(Guttmann 1960)。

 これらの統計の示すとおり、部分的神経損傷の男性はもちろん、全面的損傷の男性でも授精能力を持ち得る。研究によれば、下半身まひ男性の授精能力の低いことを示す数字は、精液の変化と異常精子細胞の頻発によるものであろうといわれている。そのほかにも、ぼうこうの末端の筋肉の異常収縮によるものもあるだろう。それは、そのために、射精した精液が裏口を通ってぼうこうを通過するからである。機能的な不調がないかぎり、射精は常にぼうこう末端の筋肉の収縮を伴う。そのような筋肉収縮が起こらないことは、実際に実子を得た男性が5パーセントという数字と、Guttmannのいう50パーセントの男性は授精能力があるという数字との開きを説明するひとつのデータであろう。

 性交後の尿を採取して人工受精が試みられた。また、こう丸に針を刺して、直接精液を採取する試みもなされた。しかし、これらの方法は、まだ試験的段階にある。もしも特定の筋肉のけいれんを減少させて排尿を改善できたら、大部分の例の性的能力の回復をもたらすだろう。

性的役割の入替え

 脊髄の受傷個所が比較的高位のときは、下半身まひの男性は、勃起に達するためには、器官に対する継続的な強い刺激を必要とする。ひとたびペニスがヴァギナに挿入されたあとは、女性がじゅうぶんに積極的に行為するならば、勃起は永く保たれる。射精は器官の主観的感覚に伴っては起こらないが、心理的満足が得られるという大きな意義がある。

 多くの下半身まひの男性は、このように、相手の女性が性交についてじゅうぶんに積極的であることを条件として、相手を性的に満足させる完全な能力を持っている。このことは、必然的に、性的役割の入替えの必要性を示している。そのためには、女性のほうが常に性交についてイニシアチブをとり、積極的に行為し、相手の男性をリードしなければならない。このような場合、その女性には、性生活における彼女の新しい役割に、うまく適応するのを援助するための情報を与えることが必要である(Krusenほか)。

性交テクニックを向上させる練習

 このように女性は、性交時に非常に積極的に行為することで、相手の下半身まひ男性の勃起を長びかせることが可能となる。彼女が体操およびその他の練習で、特定の筋肉の訓練をすることで、そのような向上した性交能力を持つことが可能である(O'Relly)。

  特に、からだを動かさずに特定の筋肉の収縮力を強める方法は、手足の不自由な女性であっても、性交技術向上のための練習が可能であろう。

性交せずに満足する方法

 性交のできない男性は、相手の人に、ペニスを手またはマッサージ器具で刺激してもらうことで、ほとんどの場合に満足できる。彼が自分自身でもやれるが、腕と手を使うのにじゅうぶんな機能が残っていることが前提になる。

必要な対策

1. 手足の不自由な人には、それが男性であっても女性であっても、自由で現実的なセックス・カウンセリングを進めること

 最初に、そして最も重要なこととして、手足の不自由な人にアドバイスを与える立場のすべての人は、第7章で論じられたような、手足の不自由な人の性的欲求と性的能力について、よく認識しなければならない。カウンセリングを成功させるのに必要な条件は、カウンセラーとからだの不自由な人との間の信頼関係である。全般的なセックス・カウンセリングと、医学的援助との多数の経験の累積が必要である。だから、セックス・カウンセリングを提供する機関と、リハビリテーション機関と、精神医学の専門家との間の協力が必要である。

2. 手足の不自由な人の性的適応を向上させること

 セックスの問題は、リハビリテーションの間に取り扱うことと、現在よりもはるかに広範な程度に患者とディスカッションすることが必要である。もしも、通常の性交が可能だけれども困難な点があるという場合は、適当な体位を推薦できる態勢が整っていることが必要である。

 もしも性交が不可能な場合には、からだの不自由な男性にも女性にも、実際の性交以外の方法でも満足を得ることが可能だということと、どういう方法で相手を満足させることができるかということを教えなければならない。からだの不自由な男性は、もし相手の女性が積極的であり、適当な刺激が得られるときは、性交することが可能な場合のあることを認識しなければならない。

 リハビリテーション・センターは、他の肉体的機能の向上訓練をやるのと同様に、性的行為能力を向上させる訓練も施すことができるはずである。

3. 性交を助けるための適切な器具と、性交を代用する器具の設計を促進すること

 第8章と第9章であげたダミー・ペニス、マッサージ器具およびバイブレーション式専用器具、その他の技術的援助器具あるいは性的刺激物は、手足の不自由な人の特性に応じて製作されてはいない。価格は常に高く、多くは通信販売である。この種の補助具の大半は、腕と手の動作が制約されている場合は使用が困難である。以上に述べられたことから、からだの不自由な人の各種のカテゴリーに合致して性的機能を補助する器具を設計することが重要なことは明白である。その種の器具の明細目録はまだ作成されておらず、からだの不自由な人の使用上の問題についての考察もまだなされていない。

 であるから、この問題を処理するための、各方面の専門家および、からだの不自由な人自身を含めた研究グループを編成することが必要である。そしてこのグループの研究の結果生産される性的補助具は、からだの不自由な人に対する他の補助具と同様に、国家から無償交付される扱いにならなければならない。

●第10章 避妊方法

 よく知られているとおり、避妊のためには各種の方法が行なわれている。物理的手段を用いないもの、機械的器具あるいは化学的薬剤を用いる方法および近代的な避妊方法などである。

物理的手段を用いない方法─安全期間法と性交中断法

 物理的手段を用いない方法には、安全期間法と性交中断法がある。これらの欠点は、信頼度が低いことである。安全期間法は、女性のメンス・サイクルの規則性と、メンスとメンスの中間の排卵期のだいたいの知識とに準拠している。欠点は、事前に性交を計画しなければならないことと、衝動的に性交したくなったときには、がまんして思い止まらなければならないことであろう。

 性交中断法の原理は、射精の直前にペニスをヴァギナから抜き出すことである。欠点は、高度の自制心が要求されることと、快感の絶頂で性交が中断させられることである。そのほかに、この方法では、再び性交を反復することが許されない。なぜなら、生きた精子が輪尿管内部に残っているので、短い間隔のあとでの性交で、妊娠してしまうことがあるからである。手足の不自由な男性にとっては、適切な時期にすばやくペニスを抜き出すことが、純粋に肉体的に困難であることを体験するであろう。

コンドームは腕の機能に制約があるときは使用不可能

 避妊の機械的手段にはコンドームとペッサリーがある。どちらも常に化学的薬剤と併用して使用するべきものである。

 コンドームはきわめてよい避妊具である。コンドームは今日では品質がよくなっており、性交中に破損などの事故は起こらない。

 コンドームに対する一般の心理学的反対は、それを装着するために性交が中断されてしまうことである。勃起が終わった後もペニスがヴァギナに残留していると、コンドームが滑り落ちて、妊娠する危険がある。反復して性交を続ける場合は、男性はコンドームを最初から着用しなければならないということを、だれもが知っておかなければならない。それは生きた精子が、輪尿管に残留しているかもしれないからである。腕と手の動作に制約のある男性にとっては、コンドームを装着したり取り外したりすることが不可能である。

ペッサリーは腕の動作に制約があるときは使用不可能

 ペッサリーの使用について、決定的な要素は、女性がそれを挿入する能力である 。 もしその女性がハンディキャップにもかかわらず、ペッサリーを自分自身で、あるいはパートナーの協力を得て挿入できるとしても、なお多数の心理学的マイナス点がある。ペッサリーは女性に対し、あらかじめ性交の行なわれることを予見することを要求する。なぜなら、ペッサリーが有効であるためには、女性はそれを性交の前に挿入しなければならないが、あまり前すぎてはいけないからである。それは、ヴァギナの形状は、女性のオルガズムの間に変化するので、ペッサリーはそのときヴァギナの内壁に完全には密着しないため、化学薬剤を併用しなければならないが、この薬剤は、性交の1時間以上前に挿入してはならないからである。

化学薬剤は手の弱い女性には解決方法とならない

 化学薬剤は、ヴァギナ挿入式の錠剤、ジェリーおよびヴァギナにスプレーするクリーム、それからスプレイヤーで吹き込むあわ剤溶液などがある。これらの薬剤は、横たわった姿勢でヴァギナ内部のできるだけ奥深くに導入しなければならない。このあと、もしできることなら、女性は性交の始まるまで、および性交中も、そのままの姿勢を保っているのが望ましい。化学薬剤は、ペッサリーのほかにも、安全期間法と性交中断法にも併用すべきである。

 腕と手の機能が損なわれているか力の弱い女性には、化学薬剤を利用することが不可能である。

子宮内器具

 子宮内器具(略称IUD)は、性交を始めるに際して避妊対策を考慮する必要のない方法である。この欠点は、その使用から必然的に起こる副作用である。IUDは、子宮粘膜をこすってすり減らし、絶えず出血させることがある。このことは、メンス期間が長びき、メンスとメンスの間にも出血を起こすことになる。ハンディキャップのためにメンスの処理に困難のある女性には、この点が特にマイナスになるが、このような出血は、挿入当初の数か月後には通常は消失する。それにこの方法を試みる女性の大多数には、そのようなことは問題とならないであろう。

 しかし副作用は、以前に妊娠や分娩の経験のない女性、あるいは最近流産した人にはより深刻である。だからこのような人には、IUDは通常すすめられない。しかしながら、妊娠の経験のない女性でも、常時医師の指導を受けながら、試験的にIUDを挿入することは、医学理論的には反対はない。それに生殖器官の感染以外には、IUDを排斥するに足るほどの病変も起こっていない。

 妊娠の危険性は、IUDを挿入してから1年間に、100人について約3人であるが、もし妊娠したら、胎児が負傷する問題はない。妊娠が中絶しなければ、妊娠の経過も分娩も正常である。自然流産の危険は増大するが、それが起こらなければほかには妊娠中の問題はない。

ミニ・コイル

 チリの人が、プラスチックのIUDに銅の添加物をつけたものを試験し、銅が子宮粘膜の代謝に影響を与えて、妊娠の機会を減少させることを発見した。通常のIUDは、前述したように若干の妊娠の危険性を持っている。銅を添加したミニ・コイルは、その後スウェーデンでも実験された。この器具は、在来のIUDの欠点である子宮壁をこそぎ落す問題を減少させた。これを用いる避妊法は目下開発中であり、からだの不自由な女性にとって最もいい方法になると期待されている。

ピル

 避妊ピルの長所は、性交に関連してなんらの処置を要しないことと、きわめて安全なことである。避妊ピルを処方してもらうためには、その女性は、過去2~3年間、排卵を知らせるメンスが規則的にあったことが必要である。

 避妊ピル服用の結果、血栓症の危険がわずかだがあることと、それが増加しつつあることが確認された。車いす常用の女性が避妊ピルを服用すれば、他の女性より血栓症の危険が大きくなるかどうかについては、まだ調査されていない。ピルの服用から凝血の起こることはめったにないし、妊娠中に起こる例ほどには危険が大きくない。一方、妊娠はわずか9か月間のことだが、ピルの服用は長年にわたることがある。それゆえ医師は、血栓症の傾向つまり高血圧、血栓症前歴および腎臓あるいは循環系統の不調などのある女性には、避妊ピルの処方を避ける。からだの不自由な女性は、ハンディキャップ自体は問題なく、他の人と同様に医学的見地から取り扱われることになる。

 避妊ピルにはそのほかにも副作用がある。そのひとつは体重増加で、当初の数か月間は特に著しい。また、頭痛や、場合によってはイライラも起こる。これらの副作用があらわれたら、ピルの服用を中止させられることがある。その他の起こり得る副作用で、からだの動作に制約ある女性に問題を及ぼすかもしれないことは、おりものの増加で、ヴァギナの感染率を増大させる。

ミニ・ピル

 通常の避妊ピルが2種のホルモン剤を含んでいるのに対し、ただ1種類のホルモン剤だけのミニ・ピルは目下試験が行なわれている。現在のところミニ・ピルは、不定期出血を起こさせる率がきわめて高いが、副作用の危険は通常のピルよりも少ない。たとえば体重増加は起こらない。妊娠の危険はIUDとほぼ同じである。

各種の方法の利点と欠点は、妊娠の危険度と慎重に計りにかけねばならない

 各種の避妊方法を考えるとき、手と腕の弱い人に実用的な方法がきわめて少ないことがわかる。この見地から、性交中断法、コンドーム、ペッサリー、化学薬剤等は、パートナーがそれを行なうのでないかぎりオミットしなければならない。IUDは手足の不自由な女性に利用可能だが、子宮内壁の損傷という処理困難な問題がある。避妊ピルには体重増加とおりもの増量の副作用があるが、その女性が血栓症の恐れのある症状を持たないのなら、ピルも試してみるべきである。

 安全期間法は、純粋に理論的には、手足の不自由なすべての人に利用可能であるが、既述したとおり不確かな方法であり、性交をあらかじめ計画したとおりに行なわなければならないという欠点がある。採用する方法が、ある種の欠点があっても、妊娠を避けることの重要さと比較しながら考慮することが必要である。

 手足の不自由な女性は、そうでない女性と同様、避妊ピルとIUDの処方には、恒常的チェックを受ける必要がある。婦人科的検査の際には、血圧、尿、体重等を検査し、ホルモンが有機体にいかなる影響を及ぼしているかを、全面的に確認することが重要である。非常に多くの女性がこれらの錠剤を服用するので、婦人科医のみならずすべての専門医は、一般開業医の立つ重要な局面について熟知していなければならない。

必要な対策

1. からだの不自由な人に対し、避妊についての専門的アドバイスをもっと多く与えるようにすること

 婦人科医、一般開業医、家庭問題指導機関および母親援助センターは、避妊方法の選択のための情報と知識を、手足の不自由な人にも広めるように努力しなければならない。

2. からだの不自由な人に対する、もっと実用的なセックス・カウンセリング・サービスを可能ならしめること

 からだの不自由な人と婦人科医との接触をもっと緊密にさせるようにすることが重要である。肢体不自由者施設、家族寮等には、婦人科医的コンサルタントを配置すべきである。婦人科診察台は、手足の不自由な女性が乗れるようにデザインしなおすべきである。

●第11章 からだの不自由な人の性生活上の相互協力

からだの非常に不自由な人が望むタイプの住居を選択できるか?

 からだの非常に不自由な人が、パートナーといっしょに住むのに適した住いを選べるチャンスが、どれだけあるだろうか? そのカップルが住むには、住い自体と、できればその環境とが、からだの不自由な人を助けるように設計され、からだの不自由な人自身と、生まれてくる子どもとの双方に必要なサービスが利用可能なことが必要である。

 不幸なことに、その種のサービスは、望ましい限度には利用不可能な実情がある。からだのひどく不自由な人のうち、ほんのわずかの人だけが、自分自身の家に住む機会を持てるだけである。大多数の人にはそのような選択は許されない。その人たちに利用可能な唯一の生活環境は、多くのカップルにとって希望とはまったくかけ離れた、非人間的な住いの公共的集合住居である。

 最も進歩的な公共的集合住居環境といえども、ハンディキャップのために完全な自立的生活のできない人には、その人を退化させる影響を与える。交通事故で負傷した多数の若者は現在、公共的集合住居に収容されている。彼らは、思いハンディキャップに対して自分自身を適応させなければならないばかりか、受傷以前とはまったくかけ離れた雰囲気の中で生活することに適応しなければならない。その結果彼らは、自分自身と社会とに対して敵意ある態度を持ち、それを増大させることになる。

 これら交通事故の犠牲者たちは、意義ある生活をする正しい機会を与えられなかったという理由だけで、コミュニティから棄てられた存在になってしまうことが多い(Karin Engdahl Thygesen)。

公共的集合住居環境における他人からの影響

 ハンディキャップの非常に重い人は、けっきょくは他人の協力に依存しなければならないので、ハンディキャップのない人のように完全に他人と無関係に生きることはできない。

 このことは、彼らが公共的集合住居に住むときに出くわす問題を悪化させることになる。たとえば、もしもからだの不自由な人が、パートナーとセックスを楽しんでいるとき、ひょっとすると他人の出現に驚かされて、行為を中断させられたり、雰囲気を台なしにされるかもしれないという不安を持つとき、種々の問題が起こってくる。

 多くの場合、彼らはドアをロックできないし、ピンチをすばやく切り抜けることもむずかしいし、人目をはばからなくてもいい場所に潜り込むこともできないからである。そのような状態のもとでは、パートナーと問題なく性的に調和した生活をすることは不可能である。たとえば、人間はだれでも、性交でオルガズムに達するまでには、適当な刺激が継続することが必要である。もしも何かに驚いて性交を中断させられると、そのあと器官が刺激に反応しなくなる。その時間は、男性の場合も女性の場合も、かなり長いことがある(Masters&Johnson)。

 このように、人に見られやしないかという不安と、性交を中断させられる危険とが絶えずあるということは、パートナーと協力し合って性生活をエンジョイするのを困難にさせる直接的要因である。

 純粋に技術的な問題が、公共的集合住居あるいは実はいかなる環境においても起こることがある。それは、ふたりともからだがひどく不自由な者同士で性生活をエンジョイしようとするが、第三者の介助がなければ性交が不可能な場合である。この困難な問題がスタッフの援助によって克服されるためには、心構えの変換を前提条件とするが、それは現在では問題のあるところである。

性生活に対する環境の影響

 他の人とともに生活すること自体については、ハンディキャップのある人が、ハンディキャップのない人以上に大きい心理学的問題を持っているわけではない。しかしながらこの点は、ハンディキャップの非常に重い人が、公共的集合住居に住むときは、必ずしもそうはいえないのは不幸なことである。そこでは環境が主要な役割を果たしており、しかもそれは性生活に対する否定的な影響を及ぼすことがある。未婚者の同棲は、完全に禁止されているか、種々の制約を受けている。

 次頁で紹介する下半身まひ者の結婚と離婚についての研究は、実情がきわめて多種多様であることを示しており、ハンディキャップのある人にとって、同棲が他の人以上の心理学的問題を含むものではないという意見を確認している。この研究において、対象となったハンディキャップのある人は、自分の家に性的パートナーとともに住んでいた。彼らの結婚の成功と不成功は、環境からはそれほど影響を受けていないようで、それは主として個人としての彼ら自身と、パートナーと協力し合って性生活をうまく発展させていることによって決まることが明らかになった。

下半身まひの男性および女性の結婚と離婚

 1,316人の男性と189人の女性について、結婚状態を調査したところ、下半身まひも四肢まひ(両脚のほか両腕もまひしているか力が弱い)も、それ自体が結婚の成功に関する障害とはならないことが明らかにされた。このことは、ハンディキャップを持つ以前にすでに結婚していた人にも、その後に結婚した人にもあてはまる事実であった。またこの点は、ハンディキャップが非常に重いかどうかは、なんら重要な関係のないこともわかった。

 調査対象の人々は、ハンディキャップのない女性が、ハンディキャップのある男性と結婚する例、ハンディキャップのない男性が、ハンディキャップのある女性と結婚する例、それからハンディキャップのある人同士、さらにハンディキャップのない人同士の結婚例が同数ずつ含まれていた。

 ハンディキャップを負った後の結婚の状態とリハビリテーションの効果に影響する最も重要な要素のひとつは、ハンディキャップ以前の結婚状態であるらしい。もしハンディキャップのある人のパートナーでハンディキャップのない人が、相手にハンディキャップの起こる以前の結婚状態に満足していた場合は、ハンディキャップを負った人が、家庭の中とソーシャル・サークルの中で、再びりっぱに適応できることが大いに期待可能である。

 離婚については、ハンディキャップを負う以前に結婚したグループは、あとで結婚したグループより離婚率が低い。離婚後再婚しないままでいる人は、結婚したすべての人の5.1パーセントを占めた。これは1961年の全イギリス人の離婚率1パーセントよりはわずかに高いが、非常に重いハンディキャップを持つ人にしては、当初の予想をくつがえすほどの低い数字であった。

 離婚の背景を調べると、ハンディキャップのないパートナーが、相手のハンディキャップを受け入れ難いと考えていると見られるような原因ではないことは、決定的に明白であった。離婚のいくつかの例では、結婚そのものが早急すぎたのであったり、ハンディキャップのない人の側に愛情以外の理由から結婚した事情が見られた。そして、夫婦以外の人に対して性的関心を抱いたのが原因で離婚に至った例が非常に多かった。そのほか、ハンディキャップのある人で、相手に逃げられた後、その状態をうまく乗り切って、男性も女性も非常に多くの人が再婚しているという新事実も発見された(Guttmann 1960)

ハンディキャップのある人は子どもの世話ができるか?

 重度の肢体不自由者であることは、よい親であることを妨げるものではない。親としての資格は、子どもの実際の世話をすることだけではなくて、子どもに情緒的安心感と愛情を与えることも重要な要素である。その反面、子どもに必要な親身な援助が必要なときに求められないと、ハンディキャップのある親は窮地に立つことになる。

 もしハンディキャップのある親が、だれか他人の手を借りて、子どもを満足に世話することができるなら、養子を迎えることを考えるのは完全に正当なことであって、その機会を排除すべきではない。ハンディキャップのあること自体が、里親としての適格性を評価するうえでの決定的な理由と考えられてはならない(Swedish Council for the Handicapped)。

 イギリスの例で、養子を迎えた何人かの下半身まひ者のすべては、養子縁組みの段取りは申し分なく取り計らわれていた。関係当局は好意を示し、懇切な協力を惜しまなかった、(Guttmann 1960)。

必要な対策

1. 重いハンディキャップのある人は、自分の家に住めるように援助すること

 ハンディキャップのある人自身およびその子どもにとって、家庭内で必要な援助を提供するための資金の確保が極めて重要である。これにより、ハンディキャップのある人が自分の家を持つことを容易にさせるからである。ハンディキャップのある人のために、特別の地域に専用住宅街を建設することは、コミュニティの無差別化方針に逆行することで問題を起こす恐れがあるので、それよりは特別設計のアパート若干を、通常の住宅地域内に建てるほうが望ましい。

 しかし、ハンディキャップのある人が、自分自身の家を持つことに特別の価値があることについては、公共的集合住居政策に対比して評価するよう、検討する必要がある。この際考えるべき問題は、利用可能な人的資源を、いかにすれば最大限に活用できるかということである。その問題の背景にあるものについて、本章で論議されたことは参考になるであろう。

2. 公共的集合住居環境を可能なかぎり改善すること

 公共的集合住居環境を改善するひとつの方法は、関係職員の考え方を向上させることである。そのためには、職員が居住者にインタービューし、それをテープに記録して後で検討することである。このインタービューで、環境デザインの改善と、居住者と職員の関係を改善するためのヒントが得られる。この方法は、職員教育の方法として有効なことが実証されている(Johanssonほか、およびLarsson,I)。

●提案された対策の要約

1. ハンディキャップのある人の立場についての情報提供と、訓練を施す必要のある対象

施設職員、教師、医師、政治家、リハビリテーション職員、ソーシャル・ワーカーおよびセラピスト

2. ハンディキャップのある人の潜在能力についての情報を与える必要のある対象

ハンディキャップのある人自身、親および一般大衆

3. 親に対する積極的援助

4. 手足の不自由な人に対する心理的支援

5. 手足の不自由な人の無差別受入化を促進すべき対象

就学前施設、学校、レジャー関係およびコミュニティ全般

6. 建築物に存在する手足の不自由な人を利用から閉め出す妨柵の除去

7. コミュニケーション手段の改善

8. 手足の不自由な人に対する家庭内で必要な援助の向上

9. 公共的集合住居環境をくつろぎあるものとすること

10. 性交補助器具の設計

●提案された研究

1. ハンディキャップのある人に対する偏見に対抗して、それを打ちくだくための情報を提供する最もいい方法の研究

2. 各種の手足のハンディキャップが性的行為に及ぼす影響の調査

3. 自宅と公共的集合住居との、ハンディキャップのある人に及ぼす個人的適応性の影響の比較、たとえば年齢、性別、結婚状態、ハンディキャップの性質と重さ別等に

参考文献 略

*インゲル・ヌードクゥイスト夫人。身体障害者の性的問題の世界的権威。スウェーデンの Svenska Centralkommitten for Rehabilitering 職員。SVCR's Working Group on Social and Sexual Intercourse for the Handicapped委員。Nordic Symposium on Sexual and Allied Problems Among the Orthopedically Handicapped リ-ダ-。
**車いすの身体障害者。第一勧業銀行勤務。「スポック博士の心身障害児の療育」共訳者。「ヨーロッパ車いすひとり旅」著者。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年1・4・7・10月(第9~12号)33頁~40頁・38頁~46頁・2頁~9頁・2頁~10頁

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