教育可能な精神薄弱児について、ソシオメトリー法を用いて資料を集め、検討した論文である。判明したいろいろのことがらは、同年齢の普通児に関して判明していることとは、直線的には比較できるものではないことを示し、またそういう異質性ともいうべき理由も説明されている。人間の相互作用の技術の発達を促すために、特別に企画された教育計画が特殊学校や特殊学級で実践されるべきだというのが、その説明の帰結といっていいであろう。
Alice F.Laing *
武田洋**訳
学習に遅れのみられる教育可能な精神薄弱児(EMRと略す)の対人関係の状態に関するソシオメトリー法による研究は、今までに次のようなことを明らかにしてきている。つまり、知的な障害を伴わない子どもたちよりも、対人関係での受容度が低いということである。
Johnson (1956)とMiller(1956)の研究によって、精神薄弱児は積極的には拒否されない場合でも、平均的な学級の場面での仲間による選択で、下位群にはいっていることが明らかにされている。その後の研究によっても、精神薄弱児の社会的状態は、この子らを特殊学級に入れてしまうことによってでは、部分的にしろ全面的にしろ、なんら改善される必然性はみあたらないことが明らかにされている。Meyerowitz(1967)はEMRの仲間の集団への適応は、学校内外の場面での研究で、その子が普通学級と特殊学級のどちらに在籍していようと、またとくに特殊学級の場合、なおさら貧弱であるという忠告をのべている。
Rucker,Howe,Snider(1969)らは、精神薄弱児を全面的にきり離して教育することと、ある場面では普通児といっしょに教育することの効果を比較することによって、次のように結論づけた。精神薄弱児は中学校段階で普通学級に参加させた場合、小学校段階で全員精神薄弱児の学級の場合と全く同様に、知的障害を伴わない子どもたちによって、受容されるということである(Johnson,1950)。
知的教科にしろそうでない教科にしろ、EMRの子どもたちが参加する授業の型には、普通学級での子どもたちの受容には、なんら変化はない。しかし、EMRの子どもの中で仲間に好意をもたれている子どもは、そうでない子どもよりも、やはり普通児によってもよりよく受け入れられているという傾向がある。
これらの研究の意味は、学習に遅れを表わす生徒は、集団が受け入れるために必要な社会的技術をじゅうぶんには備えていないことを表わしており、このことは受け入れる側の集団の性質とか、その集団に参加する場合の形がどうのということにはかかわらないということであろう。EMRの子どもたちがこういう社会的技術のある部分で進歩を示している場合には、なんらかの特殊化された行動ができるということで、特殊学級の中でも普通学級の中でも、仲間として受容される可能性は増加する。
そのためには、教育的配慮ということに関していえば、原理的な点では単にEMRの子どもたちに普通学級に参加させる機会を増加していくということだけでなしに、EMRの子どもたちに対して与える教育計画を、どのような子どもたちの集団からも、受け入れる度合いを高めていくような性質のものにしていくことが、さらに重要なことだといえる。
これまでふれてきた研究では、普通児に対する精神薄弱児の社会的な状態についても研究されている。精神薄弱児だけで構成された集団の対人関係も調査されている。
こうした調査では、普通児の集団にみられるソシオメトリー法による対人関係の構造が、精神薄弱児の集団にもそのままの姿でみられるかどうか、またある期間以上にわたって、どのようなソシオメトリー法による構造が安定した形でみられるか、さらに人間のどのような性質が精神薄弱児集団の中で好意をもって迎えられるのか、それがわかれば普通児の集団にも示唆を与えることになるわけであるが、以上のようなことを確かめることが目的とされたといっていいであろう。
以上のような目的が達成されれば、精神薄弱児が社会的な技術を習得するのに役だつ指導計画の基本となるものと、指導計画の性質が明らかになってくるであろう。
かなり古くなるが、Laing とChazan(1966)の論文の中で、特殊学校の中のいくつかの集団について、予備的にソシオメトリー法で調査した結果が報告されている。前述した目的のうち、ひとつだけが追求された。それは、典型的なソシオメトリー法でみられる対人関係の構造が、精神薄弱児の集団の中に存在するかどうかということである。
その結果、これらの子どもたちの集団に階層的な集団構造が発見されうるという証拠が示された。普通学級の中では、これらの子どもたちはだいたい同質的に受け入れられてきたのである。さらに、精神薄弱児の集団の研究を進めるべきことも示唆された。本報告では3年間にわたる継続的な研究によって、対人関係の構造の性質と、個人の状態の安定性について発見したことがらを報告する。
はじめに七つの学級を研究の対象にした。124名で、65名の男子と59名の女子である。1966年の調査開始の時期で平均年齢11才11か月であった。すべてが中学校の第1学期にはいる時期であった。しかし、学校の型とでもいうべき、規模とその運営方法というものはいろいろであった(表1参照)。
グループ | N | 男子 | 女子 | グループの内容 |
1 | 16 | 9 | 7 | 11才~18才の生徒の大きい混合の普通学校の治療学級 |
2 | 20 | 20 | - | 11才~16才の男子の都会にある通学制特殊学校の第1年度の学級 |
3 | 20 | 20 | - | 11才~16才の男女の都会にある通学制特殊学校の第1年度の男子学級 |
4 | 19 | - | 19 | 11才~16才の男女の都会にある通学制特殊学校の第1年度の女子学級 |
5 | 20 | 11 | 9 | 11才~16才の男女の都会にある通学制特殊学校の第1年度の混合学級 |
6 | 10 | 5 | 5 | 11才~18才の生徒の大規模の混合普通学校の治療学級、いく人かは普通学級に配置されている |
7 | 19 | - | 19 | 11才~16才の女子の都会にある通学制特殊学校の第1年度の学級 |
さいしょはこの事例を3年間追跡調査するつもりでいたが、学校内部に介入するということは、学校経営上問題があった。1学年のさいごに、ひとつの学校、表1の7グループを除いて、全体としてかなりの組みかえが行なわれた。はじめの事例のほとんどのものが、第2学年、第3学年に進級するときに、別の学級に配置がえされてしまったのである(表2参照)。
1年度 | 2年度 | 3年度 | ||||||
グループ | 学級 | N | 学級 | N | 1年度の数 | 学級 | N | 1年度の数 |
1 |
1 |
16 |
2A 2B |
15 12 |
10 4 |
3 |
13 |
9 |
2 |
1 |
20 |
2 |
17 |
11 |
3X 3Y |
18 18 |
4 6 |
3 |
1 |
20 |
2 SGa |
17 10 |
11 3 |
3X 3Y SG |
16 14 9 |
6 4 3 |
4 |
1 |
19 |
2A 2B |
14 16 |
9 8 |
3X 3Y |
19 15 |
3 13 |
5 |
1 |
20 |
2A 2B |
20 20 |
7 13 |
3X 3Y 3Z |
20 20 20 |
3 11 5 |
6 |
1 |
10 |
2A 2B |
23 17 |
4 4 |
3X 3Y |
23 19 |
5 2 |
7 | 1 | 19 | 2 | 18 | 18 | 3 | 18 | 16 |
SGaは第1年度の終わりに他から分離された、困難な問題を有する男子の特別のグループを示す。
そこで第2学年、第3学年のときには、さいしょの事例として扱った子どもがはいっている学級を研究対象とすることに決め、その学級にいるさいしょの事例の子どもが2名を下らないことを前提とすることにした。集団の構成を変えることは、ある年数にわたって、子どもの特殊な下位集団を比較していくことを不可能にする。その点でこの研究は縦断的なものより横断的なものとなってしまった。測定する規準をいろいろ変化させてみたが、ここにのべる判明したことがらは、以下のことに基づいている。
つまり1966年11月当初の事例に対して、さらに1967年と1968年の11月には、はじめの事例が配属された学級集団に対して、それぞれソシオメトリー法による質問紙法によって実施されたものによる。それぞれの場合が三つの質問について2人の仲間を選んであげさせた。三つの質問というのは、学級の中でだれとすわりたいか、だれと遊びたいか、だれといっしょに学級をかわりたいかというものである。他の学級構成員に対する拒否に関する項目、学校全体の中から自由に仲間をひとり選ばせることもあわせ行なわせた。
さいしょの三つの項目から、個人の選択の状況が決定できたし、3年間にわたる研究が継続できるものとなった。選択を変える場合、そのもとになるものは何かを考えると結果の解釈がむずかしくなったが、そのことは多くの特殊学校や特殊学級に共通する場面を反映している問題であると考えられる。
集団の結合力
集団というものは、ある対人関係が平均的なもの以上に、偶然に単独でひんぱんに現われる場合に結合力があると考えることができよう。これらの関係は過度に選択されるものがいく人かあり、また平均以下にしか選択されないものもいく人かあり、しかも相互選択があることを示している。
Bronfenbrenner(1944)が三つの選択枝から二つを選択する場合について示した選択可能性の限界というものを考慮に入れると、子どもたちが12あるいはもっと多くの選択を受けた場合、過度に選択されたと考えられようし、一度あるいはほとんど選択されないような場合には、選択されることが少なすぎるということになろう。選択の相互性についていえば、もし26以上の相互選択(つまり13以上の相互選択の組み合わせ)が現われる場合、選択可能性が過剰ということになろう。これらの数はこの場合集団ごとに10から50あった。
表3、4、5はさきにのべた三つのソシオメトリーの相を示している。それぞれを別に示し、かつ3年間にわたる研究の結果を示してある。第2年度と3年度の研究のソシオメトリーの資料は、関連する学級のすべての子どもに対し、質問紙法による反応を分析したものに基づいている。表3と表4の中で、Nというのは選択の可能な集団の大きさを示しているのであり、選択する側の子どもの数を示しているのではない。長期的に欠席していて選択をしていない子どもも若干ある。また単一にしか選択していないものもいるが、これはごくまれにしかいない。
過剰選択されたもの(12人以上からの選択)が存在することは、集団の結合性をとくに示すというわけでもないが、結合性の基礎となりうるソシオメトリーの階層性が集団内に存在するという指標になるといってもよいであろう。表3では、この研究での精神薄弱児群が、何人過剰選択された子どもを生みだしているかということを示しているが、それは集団内の選択基盤が小さい場合を除いてであることがわかる。グループ3の中に特殊な集団(SG)の子どもたちがいるが(2年度と3年度)、これがここでのひとつの例としてとりあげられよう。
この子どもたちは、この研究の初年度に、学校で与えられる教育計画にこたえられない子どもたちのために、校長によって作られた特別のグループの子どもたちである。2年度は10人、3年度は9人がこのグループに入れられた。その中に長期欠席者がいるために、そのうち6人しか2年度に質問紙に満足に答えることができなかったのだが、そのために2年とも子どもが選択した全体数が、Bronfenbrennerの機会可能レベルに充当する集団の大きさには至らなかった。
グループ |
1年度 | 2年度 | 3年度 | |||||||||
学級 | N | 過度に選択されたもの | % | 学級 | N | 過度に選択されたもの | % | 学級 | N | 過度に選択されたもの | % | |
1 |
1 |
16 |
1 |
6 |
2A 2B |
15 12 |
- - |
- - |
3 |
13 |
- |
- |
2 |
1 |
20 |
1 |
5 |
2 |
17 |
2 |
12 |
3X 3Y |
18 18 |
2 1 |
11 6 |
3 |
1 |
20 |
3 |
15 |
2 SG |
17 10 |
2 - |
12 - |
3X 3Y SG |
16 14 9 |
1 1 - |
6 7 - |
4 |
1 |
19 |
3 |
16 |
2A 2B |
14 16 |
- |
- 6 |
3X 3Y |
19 15 |
1 1 |
5 7 |
5 |
1 |
20 |
2 |
10 |
2A 2B |
20 20 |
1 4 |
5 20 |
3X 3Y 3Z |
20 20 20 |
1 2 4 |
5 10 20 |
6 |
1 |
10 |
- |
- |
2A 2B |
23 17 |
3 2 |
13 12 |
3X 3Y |
23 19 |
3 1 |
13 5 |
7 | 1 | 19 | 3 | 16 | 2 | 18 | 2 | 11 | 3 | 18 | 2 | 11 |
注、 Nは選択が行なわれうるグループの規模を示す。
つまり、こういう小さい集団の場合、すべての子どもが12あるいはもっと多くの選択を行なうことによって選択数が多くなっても、SGの子どもたちによる結果の価値が減少してしまうので有効ではない。集団の大きさが過剰選択される子どもの人数を許容できるような場合のみ、得られた資料がそういう子どもの出現も可能であることを示すことになる。
しかし、見おとされたり、孤立したりしている集団の構成員が多く存在することは、その集団が結合性に欠けることを、直接示しているといえる。
Moreno(1934)は、こういう現象が集団の未熟な姿を示すものと信じ、幼い子どもの集団に似ていると考え、またわずかにしか選択されない子どもの数は、その集団の構成員の生活年齢(CA)が高まるにつれて、減少していくものだと提唱した。彼の“学年別のない”いいかえれば遅れた子どもの学級で、27パーセントの子どもが被選択数が少なく、また彼の調査によると幼稚園児の集団でも同様のパーセントであることをみいだし、さらにBronfenbrenner(1944)の調査した1年生の21パーセントという数に匹敵するとしている。
この私たちの研究と同程度の年齢の、知的障害を伴わない子どもたちの、被選択数の少ない子どもの割合は、Morenoによれば16から21パーセントで、Bronfenbrennerによれば5~6年生で19パーセントとなっている。表4はここで調査した33学級のうちの10学級で、被選択数の少ない子どもの割合は20パーセントを越えている。この10学級のうち第7学級は3年度の調査である。
グループ |
1年度 | 2年度 | 3年度 | |||||||||
学級 | N | 過少選択のものの数 | % | 学級 | N | 過少選択のものの数 | % | 学級 | N | 過少選択のものの数 | % | |
1 |
1 |
16 |
- |
- |
2A 2B |
15 12 |
2 - |
13 - |
3X 3Y |
13 |
2 |
15 |
2 |
1 |
20 |
2 |
10 |
2 |
17 |
1 |
6 |
3X 3Y |
18 18 |
6 3 |
33 17 |
3 |
1 |
20 |
6 |
30 |
2 SG |
17 10 |
1 1 |
6 10 |
3X 3Y SG |
16 14 9 |
8 3 2 |
50 21 22 |
4 |
1 |
19 |
4 |
21 |
2A 2B |
14 16 |
1 |
7 31 |
3X 3Y |
15 |
3 3 |
16 20 |
5 |
1 |
20 |
4 |
20 |
2A 2B |
20 20 |
3 4 |
15 20 |
3X 3Y 3Z |
20 20 20 |
3 1 7 |
15 5 35 |
6 |
1 |
10 |
2 |
20 |
2A 2B |
23 17 |
3 3 |
13 18 |
3X 3Y |
23 19 |
4 4 |
17 21 |
7 | 1 | 19 | 3 | 16 | 2 | 18 | 2 | 11 | 3 | 18 | 5 | 28 |
注、 Nは選択が行なわれうるグループの規模を示す。
この調査された学級のうち、30パーセントが、二つの点を指摘できるということから、結合性の欠如のために未熟な集団であるといえよう。第一に、もし集団の構成員がかなりひんぱんに、あるいは広範に変化を示す傾向があるなら、形成された関係は崩壊する。これは管理上の困難から、9月のときと同じように、3月の復活祭のあとに、集団を再編成することになり、年2度集団を組みかえたことによる。これはさいしょの七つのグループのうち六つのグループの子どもたちまで行なわれた。グループの2、3、4がとくにこのことの影響を受けた。そして10学級のうち7学級に、被選択数の少ない子どものパーセントが高く現われることになった。
第二に、学習の遅れのある子どもたちの学級には、不適応行動のある子どもが多くみられたことである。そのため、時がたつにつれて、不適応行動に対する社会的反応がそれを強化することを促進し、そのためなおさら永続的になってしまった。学級の他の構成員が異常行動を受け入れ続けることの困難さに気がついた。それはとくに年長者にみられたことである。遅れた子どもの集団の中で、被選択度の少ない子どもが、不変的に高い割合を示すことは、以上のことから選択基盤が安定していないこと、非受容的な行動の存在を反映しているものであって、単なる未熟さを示しているのではないということである。
この場合であれば、被選択度が少ない者の割合は、集団を安定させること、および行動の主として孤立に根ざすものに対して付加的な援助を行なうことによって、減少させることができよう。
表5は33の学級のうち28に、相互選択の数が可能度を越えていることを示すものである。そのため、これらの学級は結合性を有すると考えられる。五つの残りの学級の中で、SGの生徒(3グループ)が2年度と3年度ともに、結合性の指標としての条件段階を下まわっている。この学級の2年度には、選択の30パーセントが相互的なもので、結合性が存在する他の大きい学級からの選択で割合を保持していることがうかがえる。この研究における3年度の学級の組みかえによって、グループ2の場合の以前の相互選択の組み合わせの子どもたちが分離された結果、3Xと3Y(グループ2)学級で示されるその数は、結合性が組みかえ後のほぼ3か月後に生じたことを示している。
グループ |
1年度 | 2年度 | 3年度 | |||||||||
学級 | N | 相互選択組数 | % | 学級 | N | 相互選択組数 | % | 学級 | N | 相互選択組数 | % | |
1 |
1 |
16 |
32 |
33 |
2A 2B |
15 12 |
52 50 |
58 69 |
3 |
11 |
30 |
45 |
2 |
1 |
19 | 48 |
42 |
2 |
17 |
46 |
45 |
3X 3Y |
15 16 |
22 24 |
24 25 |
3 |
1 |
19 |
42 |
37 |
2 SG |
17 6 |
32 4 |
31 13 |
3X 3Y SG |
10 14 9 |
34 26 16 |
57 31 30 |
4 |
1 |
19 |
32 |
28 |
2A 2B |
13 12 |
28 |
36 47 |
3X 3Y |
15 13 |
30 43 |
33 54 |
5 |
1 |
20 |
42 |
35 |
2A 2B |
20 20 |
58 42 |
48 35 |
3X 3Y 3Z |
19 20 20 |
64 52 48 |
56 43 40 |
6 |
1 |
10 |
36 |
60 |
2A 2B |
23 17 |
62 44 |
45 43 |
3X 3Y |
23 19 |
44 44 |
32 39 |
7 | 1 | 19 | 20 | 18 | 2 | 18 | 34 | 32 | 3 | 18 | 28 | 26 |
注、 表5ではNは実際に選択している子どもの数を表わす。パーセントは選択可能な数すべてに基づいて出してある(Nを6倍すれば100パーセントとなる)
グループ7(初年度)の場合、相互選択の指標が低くなっていることについて、この学級の構成数がBronfenbrennerの規準を応用するのにじゅうぶんな規模であるということとか、または3年間にわたって組みかえが全く行なわれなかった唯一の学級であるということなどの理由で、解釈が異なってくるであろう。
初年度には、このグループの選択は被選択度が少なく、また相互選択も少ないという特徴があった。そういう状態で、相互選択の指標は、「スター」としての注目を、それほど人気のない構成員が争って求めることであったということに帰せざるをえない。2年度と3年度になると、グループ7の中に、より現実的な関係が現われ、結合性が高まり、その学級の教師の力で初年度にみられた落ちつかない行動に比べて、この学級も扱いやすいものになったことがわかる。
精薄児学級では、調査のやり方が構成員に明確にうけとめられていなかったようだし、あるいは内容が彼らにじゅうぶんに理解されていなかったようだ。また両親とその周囲の人たちも、せいぜい学校と学級に対して細心になるぐらいであり、パーソナリティや行動の問題がかなりひんぱんにみられることになった。そのために、普通学級上みられる以上に相互選択が少ないだろうということは予想されていた。関連するすべての人たち―生徒、両親、教師―の間の伝達を実験的に改善しようという試みをすることやあるいは集団としての未熟さを発達的な遅れとみなすよりは、集団の人間関係の確立のための意志の不足とみなす態度のほうが妥当ではないかと思われる。
この研究で扱ったある子どもたちの場合、仲間を自由に選択させられる際、集団の外部の人間を選択することによっておきかえる傾向があることから、集団内の人間関係の満足感が不足していることがわかった。集団内選択の指数は、集団内の子どもを選択する子どもの数と、全体の子どもたちから選ぶ子どもの数(ひとりだけ全体から選ぶよう指示したのであるが)を分けたものである(表6)。
グループ |
1年度 | 2年度 | 3年度 | |||
学級 | 指数 | 学級 | 指数 | 学級 | 指数 | |
1 | 1 | .31 |
2A 2B |
.53 .25 |
3 |
.27 |
2 | 1 |
.68 |
2 |
.53 |
3X 3Y |
.47 .56 |
3 |
1 |
.55 |
2 SG |
.59 0 |
3X 3Y SG |
.50 .79 .55 |
4 |
1 |
.58 |
2A 2B |
.69 .58 |
3X 3Y |
.93 .62 |
5 |
1 |
.65 |
2A 2B |
.60 .70 |
3X 3Y 3Z |
.63 .80 .65 |
6 |
1 |
.22 |
2A 2B |
.61 .18 |
3X 3Y |
.57 .31 |
7 | 1 | .58 | 2 | .44 | 3 | .17 |
平均 | .54 | .51 | .56 |
得られた指数が、各年度のすべてのグループの平均指数を下まわるような場合、そのグループは内部志向よりも、より外部志向的であり、または求心的よりも遠心的ということができよう。33グループのうち13グループがこの指数で、その8グループが著しい。集団としての結合性が不足しているということで、すでにのべた学級、つまりグループ2の3年度3Xと3Y、グループ3の2年度と3年度、SG学級などが遠心的な傾向を示している。
2年度には、グループ3とSGグループのだれも自分の学級のものを選択していない。グループ1とグループ6の場合、普通学級に精神薄弱児を含んでいるのであるが、これらのグループでは3年間にわたって、9例のうち6例まで内部のものよりも外部のものを多くの子どもが選んでいることがわかる。
集団の結合性に関して発見したことの全体についていえば、学級編制を変えることが人間関係を出現させるのに有害であっても、個人の不適応行動が見のがされることがない小集団を高めていくのはとくに困難であり、さらに仲間関係への要求が満たされないことを子どもたちが理解できるような学級に、子どもをとどめておくことは、適切な解決とはいえない。学級内外の子どもたちの人間関係を、ソシオメトリーによって分析することは、単に管理的な信念に基づいて学級編制を行なうよりも、より効果的な基盤を提供することになるし、加えて子どもたちに与えられる教育計画も、個人の発達と同様、社会的な技術に焦点をあてて慎重に計画されたグループ・ワークの機会を含んだものになるはずである。
性別
3年間の研究を通じて、ソシオグラムでは異性に対する選択はほとんどみられないことが明らかになった。初年度には、3人の女子が男子から選択され、4人の男子が女子から選択された。この選択のぜんぶがグループ6で行なわれた。2年度には、異性に対する選択は記録されなかった。グループ6で、3年度に若干の異性に対する選択が現われた。4人の女子が男子によって選ばれ、2人の男子が女子によって選ばれたのである。3年度にはグループ1でも、1人の男子が女子に選ばれるという例が出た。
この研究の初年度に、社会的距離測定(Cunning-ham,1951)が行なわれ、学級のすべての構成員の、「たいへん好き」から「全然好きでない」への連続性をみるために、仲間を評価するように要求して資料を得たのである。
この調査の結果からは次のようなことがわかった。つまり、ソシオグラムに現われる性別というのは、選択する側が性の異なる仲間をきらったり、あるいは局外中立の立場をとるというよりも、特別視するというように、心からのものでないものを反映しているということなのである。女子が男子に対するほうが、その逆の場合よりもより大きい好感を示す一方、男子が同性に対するほうが、女子の場合よりも嫌悪を示す例が多いこともわかった。
この例の中の精神薄弱児のグループで観察された、性差による選択の少ないことについては、ソシオメトリー法の質問紙による技術上の問題として考えられるべきだろう。この点で、学習遅滞児が示した性別ということには、同年齢の普通児にみられたものと、同じような事情が考えられるのである。したがって、この結論から以下のことが論じられることになろう。精神薄弱児集団の人間関係の希薄さは、学習遅滞児の広範な未熟さを反映しているのではなく、安定した関係を確立する機会に欠けるのであり、それと同時にあるいはそれとは別に、その関係を維持する技術に欠けるのだという主張を支持することになる点であろう。彼らの配慮されるべき社会的な発達が未熟であるとするなら、実際にこの研究上現われたものより、性差をこえた選択がもっと多い指数になることが期待できるのである。
選択の安定性
集団の結合性がある程度希薄な学級については、強調して論じてきたが、調査した大多数の学級には結合性があるということができる。そのため、いろいろの学級で行なわれた選択が、継続した年間にいろいろなソシオメトリーの基準に照らしてさいしょに選択したもののほうに傾いているかどうかという程度が問題になってくる。
選択の弁別 Moreno(1934)は、幼い子どもの集団や、精神薄弱児の集団では、選択の重複の程度が高いとのべている。またある基準に基づいた仲間として同一人物を選ぶことは、いろいろな基準に基づく行動に固有の性質を識別したり、それに従って選択弁別をしなければならないということのほうが、選ぶ側での要求よりも高いことに原因があるとものべている。さらに、行動の性質を識別する能力が高まれば、集団の複雑化と成熟つまり、「社会的な掟」の働きをとり除くという進歩もまたでてくると主張している。
Bronfenbrenner(1994)はこの意見に同意した。しかし彼は、もし行動の性質が重複して現われていれば選択の重複も避けられないであろう、その限りでは基準となることがらが選択のための識別に影響を及ぼすであろうと指摘している。
精神薄弱児学級の学級組織の形式的でないやり方は、選択の重複を促すであろう。たとえば、個人は遊戯のときに選ぶ仲間のそばに、教室の中でもいつも自由にすわることになる。この調査でも選択の重複の程度は高いし、ひとつの基準による選択状態の序列は、考えられている99例のうち84について、他の二つの基準による序列として有意差で相関しているのである。
したがって、精神薄弱児たちが基準の性質をじゅうぶんに識別するための、互いの能力を評価できているということを示す証拠はほとんどないといってよい。むしろ、彼らは自分を許容する仲間のひとりとして、あるいは行動の性質がどうあろうと、つながりをもちたいと思う仲間を選んでいて、この選択の過程は彼らが互いに知りあうための時間の長さなどには、全く修正されないように思われる。
個人の状態の安定性 選択状態の指数は、各年度に三つの基準によって選択された度数に基づくものであるが、さいしょの例の各人について集計したものである。その次の序列は3年間の研究期間の相関関係である。
表7から、初年度と2年度の間のほうが2年度と3年度の間よりも、選択状態の安定度がより高いことがわかる。時間の間隔が大きいほど、個人の集団内での位置が変化する。集団の中にかなりの分裂が起こった場合、この例ではグループ2の2年度であるが、安定性はほとんどみられない。社会的な状態は、とくに年長の子どもの場合、高度な安定性を示すものであることが論じられてきた(Bonney,1943;Northway,1968 )。
グループ |
1年度と2年度 | 2年度と3年度 | 1年度と3年度 | |||
N | ρ | N | ρ | N | ρ | |
1 | 14 | .163 | 10 | .218 | 10 | .200 |
2 | 11 | .366 | 10 | -.127 | 12 | -.395 |
3 | 14 | .682** | 13 | .372 | 16 | .365 |
4 | 17 | .453* | 16 | .351 | 16 | .549* |
5 | 20 | .618** | 19 | .218 | 19 | .344 |
6 | 8 | .607 | 7 | .366 | 8 | .298 |
7 | 18 | .598** | 16 | .658** | 16 | .544* |
a4と30の間の数について、Siegel(1956)による。
*ρ<.05. ** ρ<.01.
しかし、この研究での精神薄弱児の例から得られた資料によれば、かなりの変化が起こっているようである。そのため、社会的な技術を増加させる目的の教育計画は可能であるといえよう。選択の安定性が全期間を通して示されているのは、この例ではみられない。全年度にわたって集団構成がほとんど変化していないグループ7にのみみられることであろう。この場合、ほかのどのグループよりも、選択の状態が安定しているのである。
しかし、3年度の第7学級にとって、集団内の選択の指数は、得られた指数のうち最も低く、また個々の構成員が自由選択を許されたとき、仲間としての級友をあまり好いていないことを示している。それで、その成員の社会的な技術のじゅうぶんな発達を可能にするためには、おのおのの特殊化された集団の構成について、あらゆる面で考慮されなければならないだろう。単に集団の構成を維持することではふじゅうぶんであろうし、ひんぱんに変化させることが分裂をまねくことになるのと同じことである。
研究の初年度に、各学級のある構成員が集団の階層の中に、特殊な位置を保つようになることが明らかになった。これらの子どもたちはスター(12以上の被選択)や無視児(1以下の被選択)、孤立児(1以下の被選択と5以上の拒否)などである。
表8に示したように、特殊な位置の変化の程度は、いくつかの学級に全体としてみられる状態が、安定性を欠いている点を強調しなければならない。興味のあることには、3年間にわたってスターの座を保ちつづけたのはすべて女子であった(Northway,1968 )。
1年度の状態 | 1年度 | 2年度 | 3年度 |
スター | 13 | 4 | 3 |
無視されている | 17 | 1 | 2 |
孤立している | 4 | 1 | - |
初年度に孤立していた4人のうち、1人は職業訓練センター、1人は矯正学校、1人は寄宿制の特殊学校に移ってしまった。孤立していた第4番目の生徒は、2年度も孤立している状態であったが、3年目になると孤立の条件から脱するのにじゅうぶんな選択を受けた。しかし、拒否の状態にはとどまっていた。
一般的に次のようにのべることは当を得ているであろう。つまり、彼らが徐々に変化していくにつれて、過度に選択される子どもはスターの位置から落ちてしまうが、学級の平均以上の被選択の指数は保つこと、また被選択の指数が低い子どもも、いくらかの選択を獲得するようになるが、学級の平均以上にはならないということである。そのことから被選択度の低い子どもの学級での階層の中の位置は、改善はんされたが不安定なものにとどまっているといえる。
階層の安定性 以前から指摘されてきたことは(Northway,1968 )、個人の状態が変わっても、社会的な差はどんな集団にもあらわれるであろうということである。このことは選択がいつも同等に配分されるとは限らず、そのときに重要だと思われる価値を、人格化できて選ぶ側に表現して何人かに与えられるもので、また集団の要求を満たすことができるようにはみえないような他の者には与えられないものである。集団のすべての成員がソシオメトリーからいえば同じではないのがわかる。さいしょの例の精神薄弱児のすべてが、また2年度と3年度に与えられていた特殊な位置のものが、いろいろの階層の中に集団化されたとき、社会的な差異は変動中もはっきり見ることができたように思う(表9参照)。
年度 | N | スター | 無視されている | 孤立している | 拒否されている | 平 均 | |||||
N | % | N | % | N | % | N | % | N | % | ||
Ⅰ | 124 | 13 | 10 | 17 | 10 | 4 | 3 | 6 | 5 | 84 | 68 |
Ⅱ | 199 | 17 | 9 | 20 | 10 | 6 | 3 | 12 | 6 | 144 | 72 |
Ⅲ | 242 | 20 | 8 | 45 | 19 | 9 | 4 | 13 | 5 | 155 | 64 |
しかし、個人の集団での位置を調べてみると、かなりの多様性を示していることがわかる。ある学級ではスターは出現していないし、他の場合には孤立している者はいない。それぞれの集団を別別に考えてみるほうが、ある程度異なった場面で異なる構成の集団をいっしょに考えるよりも、ソシオメトリーの研究法としては、おそらく適切といえるであろう。こういうやり方をとれば、たとえ各個人が階層の中で変化していても、集団の階層的な構造が安定しているという意見は、支持できない証拠がでてくる。
Leinhardt (1968)はNorthway(1969)がのべたように、以上のことから成人の集団に関連する構造の不変性が、まだ明確にはされていないが、このかぎりではこれらの精神薄弱児の集団は未熟であるといえる。しかし、たとえいくつかの例では階層の中の特殊な位置のもの、たとえば「スター」のようなものが現われなかったとしても、すべてのグループに選択のひろがりはあったのである。
この精神薄弱児の集団の研究から明らかになったことは、典型的なソシオメトリー法による形は内部に存在するが、同年齢の普通児の集団に直線的に比較できるものではないということである。個々の精神薄弱児の集団は、ほとんど選択されない子どもの数や相互選択のひろがりにおいて、著しく異なっていることがわかった。社会的な状態については特異な層の存在の根拠が認められるが、すべての学級に一貫したある層構造のあることは主張できない。また、行動の性質の多様化がほとんど起きていないことを示す、かなりの数の選択の重複が存在する。
精神薄弱児の集団について上であげた性質は、この研究でとりあげた事例よりもかなり年少の普通児の集団に、いろいろと関連している。しかしここでは、未熟さが単に原因となるものではないようだということをのべてきた。つまり集団の構成の絶えざる変化の影響、研究している事例の中の不適応行動、集団の成員の何人かが自分の学級で、他の子どもに注意を払うという仲間意識の必要性の欠如などが考慮されなければならないことがらである。
次のようにいうこともおそらく妥当であろう。特殊な教育的な取り扱いを必要とする生徒への教育計画は、現在のところ個人としての学習者に慎重に方向づけられたものである。教育的な遅滞を生み出す要因があまりにもいろいろで複雑なために、そういうとりあげ方もさけられないし、必要ことでもあろう。しかし、精神薄弱児が単に他人のそばにおかれることによって、他人といかにして相互作用をするかを学ぶであろうと仮定することは、あまりにも楽天的すぎる。
Partridge (1943)は社会的な相互関係の技術を獲得する方法だけは、ある時間にわたる実践によるものだと説明している。学習の速度における問題や相違があるために、他といっしょに行動すること、集団に寄与すること、ひるがえって集団から利益を得ることなどの能力の発達は、精神薄弱児に関しては見落とされる傾向があったようである。個人あるいは学級の学習へのとりくみは彼ら個人にとって重要ではあるが、それはまた集団のとりくみとしても重要である。
そのため集団内の技術を習得することを促進する教育計画は、どんなものでもその不可欠の内容として、何かを達成したり生みだしたりすることをいっしょにやるという実際の経験を含んでいなければならない。ソシオメトリーによる分析は、いかにしたらここで扱ったような比較的小さな集団が、最もよく構造化されるのか、また実際に可能な接触の範囲を拡大するような小さい単位の集団が、だんだん結合していけるのかということを、教師が見えるようにするのを助けるであろう。
個人、集団、または学級の人間関係についての討論は、役にたつものである。たとえ子どもたちが学校や家庭の中、あるいは学校の外の場面で経験したり、証明したりする行動でつながっている場合、あるいはテレビのプログラムや映画、新聞紙の切り抜きによって刺激を受ける場合も、それはいえることであろう。これらの接触のすべてが社会的能力をおしすすめるために企画された教育計画につけ加えられようし、そのほとんどが彼ら個人の目的ともなる知識の習得をもたらすものである。
同時に、小さい集団や大きい学級集団で、奇妙な行動が集団の成員に受け入れられず、あるいはようやくがまんできるようなものであったりするような子どもたちには、治療的な援助も必要となろう。人間関係が出現可能だと思われるような場合、あまり急速に集団の成員を入れ替えるような措置はとるべきでないし、下位構造があまり発達していない段階で入れ替えが不可欠なら、可能なかぎり強い関係、たとえば相互選択の組み合わせなどは、そのまま残して行なうべきである。
小さい集団の中に生じた行動をさらに成長させるためには、そう努力することによって学習過程への個別化されたとりくみの重要性が減少するとみるべきでなく、精神薄弱児が特定の困難を有する領域で対人的な技術を補っていくこととして、つまり他人の行動を評価し、妥当な程度の一致点まで自分の行動をその場に合わせることとしてみるべきである。学校内外の普通児の集団に、また学校を卒業してからは仕事の場面での集団に精神薄弱児が受容性をみいだしえないような困難ということにも一部問題があるともいえるのである。
参考文献 略
*Swansea 大学
**秋田大学教育学部講師
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年7月(第11号)10頁~20頁