国際障害者リハビリテーション協会 第1回東アジア・太平洋地域会議

国際障害者リハビリテーション協会

第1回東アジア・太平洋地域会議

(付)インドネシアにおけるリハビリテーション施設の概況

小池文英 *

はじめに

 昭和48年4月12日から17日に至る間、インドネシアにおいて国際障害者リハビリテーション協会(R.I.)の東アジア・太平洋地域委員会の第1回年次会議が開催され、筆者もこの会議に出席したので、ここにその概要を報告することとする。

 この会議が開催されるにいたった直接のきっかけは、第5回汎太平洋リハビリテーション会議をいつ、何国で開催すべきか、という重要案件の検討のためであった。

 つまり、R.I.の世界会議と並んで、この地域で重要な意味を持つ汎太平洋リハビリテーション会議が、1958年―オーストラリア、1962年―マニラ、1965年―東京、1968年―香港、とこれまで順調にとり行なわれてきており、本来ならば1971年ごろにこの地域のどこかで開催されるべきはずのところ、オーストラリアの提案により宙に浮いたままとなってしまった。(注―オーストラリアが1972年に世界会議を引き受けたので、その前年に同じ地域で、小規模とはいえ同じ趣旨の会議が開かれると互いに競合し、影が薄くなるので、見合わせてほしいと提案し、これが受諾された。)

 したがって、次回の汎太平洋リハビリテーション会議の開催国と時期を早急に決めなくてはならないわけで、昨年の世界会議(シドニー)の会期中に関係諸国の事務局長(national secretary)が集まって相談したのであった。その結果、翌年(つまり本年)に台湾またはインドネシアに再会し、じゅうぶんな時間をかけて検討しようということになったのであった。

 以上は直接の契機であって、実はこの会議の目的の一部分にすぎない。

 では、その他の主要な目的は何か、というと、この地域における諸国のリハビリテーション事業を推進させる方法、手段を相談し、検討する、というようなことになるであろう。(注―詳細は次項に譲る。)

 なお付言すると、欧州においてはこのような趣旨のもとに連絡、協議する組織体が数年前から発足しており、このことが今回の会議を招集する強力な誘因となったことは否めないようである。

 さて、今回の会議に参加したのはインドネシアを除いて次の諸国であった。

 香港、日本、オーストラリア、マレーシア、フィリピン、台湾。

 出席者の氏名は省略するが、おおむね各国とも事務局長ほか1名(計2名)であった。

議事進行

 われわれ海外からの参加者はHotel Kartika Chandra に前日までに到着し、一応「合宿」のような形となった。

 会議場はジャカルタ市街のかなりはずれにある社会省(Ministry of Social Affairs)の新補助館において行なわれた。

 第1日(12日)の開会式は開催国の運営委員長Sardjono夫人(社会省官房長)のあいさつに始まり、ついで福祉大臣(Minister of People's Welfare)および社会省副大臣の祝辞、最後に香港のHarry Fang博士(R.I.副会長)のあいさつをもって終わった。

 ひき続き本会議にはいり、3日間はジャカルタのこの会議場が使用され、その後インドネシアの中部の都市Solo(またはSurakarutaともいう)に移された。(注―ここにはリハビリテーション関係の諸施設があるので、視察を中心として話し合うこととなる。)

会 則

 第1日(12日)は開会式についで小休止の後、会則の検討にはいった。思いのほか長時間を要し、結局この日いっぱいを費して次の会則が成立した。

Ⅰ 名称

 東アジア・太平洋地域委員会(Regional Committee for East Asia and the Pacific )。(注―地域的には北は日本、西はインドを境とし、オーストラリア、ニュージーランドを含み、東はハワイを含まず。)

Ⅱ 目的

 東アジア・太平洋地域におけるリハビリテーション事業を補佐し協調することによって、この地域における国際障害者リハビリテーション協会(R.I.)の仕事を促進し、容易ならしめ、発展させる。

Ⅲ 機能

1. この地域における諸国のR.I.の会員を促進する。

2. この地域における諸国間のより緊密な関係を樹立し、かつ、諸種の会議を通じて、この地域における事業や仕事の方法に習熟することを可能ならしめる。

3. R.I.の方針、活動、仕事の方法および事業を周知徹底させるとともに、この地域の重要な問題に関する動議を提起する。

4. 医学的、社会的、教育的および職業的リハビリテーションに関するこの地域独特のニードを見定め、検討する。

5. 情報サービスを提供し、かつ出版物を発行する。

6. リハビリテーションの各分野における研究を行ない、かつ報告をする。

7. この地域におけるリハビリテーション関係の研修会を促進ならびに調整し、リハビリテーション関係職員に対して、リハビリテーションのそれぞれの部門における研修会を受講する機会を与えるようにする。

8. この地域における諸国の関係職員の交流を容易ならしめる。

9. この地域における障害者に対する未開発の事業を創設する。

10. 地域会議、セミナー、ワークショップを開催する。

11. この地域における障害者を益するその他諸種の活動を促進する。

Ⅳ 会員

 この地域における各国は地域委員会に2人の代表を任命することができる。そしてその中の1人はR.I.のnational secretaryでなければならない。

Ⅴ 役員

 R.I.のこの地域担当の副会長がこの地域委員会の議長に任命される。副議長と事務局長(仮訳。Honorary Secretary Treasurer )は委員の互選による。任期は2年間、ただし再任はさまたげない。

Ⅵ 会計

 地域委員会は会則の機能の条項に示されたすべて、またはそのいくつかに対して、会費や寄付金(現金その他)を受けとることができる。R.I.の承認のもとに、地域委員会はその目的のいずれかに対して借金をし、または募金をすることができる。

 基金は、議長および事務局長が管理する。そしてこのうちの2人が地域委員会の銀行預金を合同で管理する。

 各年次会議において決算報告がなされる。

Ⅶ 会議

 地域委員会の会議は少なくとも毎年1回開催される。議長の裁断によりオブザーバーの参加が許可されることがある。

 4か国以上の要請により議長は特別会議を招集することができる。

Ⅷ 改正

 会則は過半数の決議により改正することができる。改正の提案は当該総会の開催3か月以上前に文書にて地域の各国会員に配布されなければならない。

Ⅸ 解散

 地域委員会は会員の過半数の決議により解散することができる。基金と財産はR.I.に移譲される。

Ⅹ 国際障害者リハビリテーション協会

 地域委員会はその決定と動議のすべてに関してR.I.の理事会の裁決をまつものである。

実施計画

 第1日に会則が定められたので、第2日にはいよいよ具体的な実施計画を検討することとなり、筆者が臨時の議長を務めて会議を進めた。要するに会則のⅢの機能の11項目の内容と具体的にどのように実施に移すべきかについて計画を練るわけである。

 まず最初に、リハビリテーションの各部門に関してこの地域独特の問題点は何か(つまり会則の機能の4.)、をとり上げて検討することになったのであるが、マレーシアのTan 氏(上院議員であり、かつ、マレーシア・ライ救済協会会長)が、この問題はあまりにも対象が広大であるので、どこかに的をしぼってほしいと提案した。

 そこで、てはじめにライの問題を検討しようということになり、Tan 氏に発言を求めた。

 Tan 氏はマレーシアにおけるライ救済協会の過去10年の活動状況を報告したが、その成果には目をみはるものがあった。

 すなわち、ライに対する民衆の偏見を打破するため、ライ療養所に開放日(open day)を設けて積極的に外部から訪問者を迎え入れるように努め、また若い世代の啓蒙に力を尽し、他面、ライ患者の職業指導と受け入れに努力し、その結果おびただしい数の患者が社会復帰に成功している事実を述べたのであった。

 これに関連して他の国の状況を問うたところ、いずれも療養所に隔離されていて、実社会への復帰は困難であるとのことであった。そこで、偏見の打破等、この問題の解決のために、今後マレーシアのより詳細な情報、資料を求めることに意見が一致した。

 次に、個々の疾患別対象を離れて、やはりリハビリテーション全体の問題点をピック・アップして論じたほうがよい、ということになり、各国別にそれぞれ概要を述べることとなった。そして結果的にはこれに相当の時間が費されたのであるが、ここに特記するほどのこともないので、また紙数の関係もあり、省略させていただく。

 次に、人員の交流、訓練に関して種々の論議・提案がなされたが、その中の主要なものを拾うと次のごとくである。

 1. フィリピンのFloro 教授(作業療法学校長)は、「フィリピンにおいてはWHOの援助のもとに10年前にPTとOTの学校が設置され、フィリピン大学医学部に付属しており、いずれも4年制の大学課程で、国際的にも承認されている。

 費用は年額500 ドル(米ドル)で、これは授業料、食費および寄宿料を含むものであり、フィリピンの学生のみならず、この地域の他国の学生にも解放されている。とくに、国情の似ているインドネシアからの留学生の利用をおすすめする。なお、本年から卒後教育コースも発足する。」と述べた。

 さらに、Floro 教授はひきつづき、PTやOTの学校を設置する際、あるいは留学生を海外に派遣するに際しての注意事項を自分の経験に則して指摘したのであるが、われわれにとって特に目新しいことでもないので省略する。

 関連事項として、インドネシアのHandoyo 博士は、「パラメディカルの人たちはリハビリテーションの知識をじゅうぶん持っているのに反して、医師はこの方面の知識がはなはだ乏しい。医学教育においてリハビリテーションをもっと盛りこむべきだ」との提案を行なった。(注―このことはわが国の学会では大部以前から関係方面に要望を行なってきているところである。)

 マレーシアのIsmael博士は職員の養成の重要性を痛感すると述べ、Floro 教授の見解に賛意を表するとともに、とくに医療社会事業員がはなはだしく不足しているので、将来この職種の養成を確立したい旨を述べた。

 フィリピンのTablan博士は、整形外科医の修練に5年コースが実施されているが、必要に応じては3年に短縮することもできる、と述べた。

 2. この地域の人員交流(留学生の派遣)にはコロンボ・プラン(Colombo Plan)を利用することが効果的である、とのフィリピン代表の発言に対して、オーストラリアのGarside 女史は、コロンボ・プランは政府職員を対象としているので、民間職員は選から洩れるが、民間職員もこのプランに拾い上げられることを希望する、と述べた。

 3. 香港のFang博士が、「世界リハビリテーション基金(World Rehabilitation Fund )が香港リハビリテーション協会と協力して、義肢・装具関係技術者の養成コース(3~6か月)を香港に設けている。外国からの受講者を歓迎する」と述べた。

 4. 筆者は、日本においては別府の「太陽の家」(中村裕博士主宰)がこの地域のセンターとして職業的リハビリテーションおよびtechnical aidsの面において利用価値の大なること(注―宿舎および食費は無料)を述べた。

 5. 最後にHandoyo 博士(インドネシア)の提案により、小委員会の設置が考慮されることとなり、結局次の三つの小委員会が置かれることとなった。

1) 助言及び協調(Advice and co-ordination)

2) 情報の収集と拡散(Collecting and disseminating information )

3) 職員の養成・訓練(Staff training aspects)

 この責任者としては、1)がGarside 女史(オーストラリア)、2)については筆者にという要請があったが、言語の障壁と、もう一つは発展途上国を刺激する意味から、マレーシアのだれかにお願いするほうがむしろ望ましいのではないか、という筆者の意見がとり入れられた。3)はFloro 教授(フィリピン)が担当することとなった。

次期開催国、その他

 第3日は役員の選出、次期開催国の決定等に費やされた。

 まず役員であるが、議長は会則にのっとってFang博士が自動的に任命された。次に副議長はR.I.のこの地域担当のセクレタリーとして多年にわたって尽瘁しているGarside 女史が、また事務局長にはFang博士の片腕的存在である香港のnational secretaryのDavid Low 氏がそれぞれ選任された。

 次に、この地域委員会の運営を経済的にいかにしてささえていくか、この設問に対して協同組合(Cooperatives)の提案がなされた。つまり、各国において、障害者の製作した作品を販売して、その益金をこの委員会の基金に当てようというのである。また、マレーシアのTan 氏によって(注―これは当日ではなく、2日後の別の機会においてであるが)、宝くじの益金のうち、毎年1日だけはこの地域委員会の基金に当てるよう提案したい、と述べた。

 最後に、次期の汎太平洋リハビリテーション会議の開催国をどこにすべきかが議題となった。時期としては諸般の事情から、1974年6月~1975年6月の間にならざるをえないのであるが、さて、どの国で引き受けるかが大きな問題である。

 この点に関して名乗りを上げたのは次の諸国であった。(注―この委員会に参加しなかった国は口頭をもって開催の意志表示をしたのであった。)

 マレーシア、フィリピン、シンガポール、インド、タイ、インドネシア。

 ところで、この問題は地域委員会の年次会議(注―今回が第1回会議であることは前述のとおり。)ともからんでおり、複雑であるが、時間も差し迫っており、かつ欠席国も少なくないので、事務局に一任して、さらに後日検討を進めることとなった。(注―その後の個人的に得た感触としては、マレーシアにおいて地域委員会の年次会議を、次いでシンガポールにおいて汎太平洋リハビリテーション会議を開催する、という案が最も具体性をおびているようである。)

大統領との会見

 第3日目の会議の終了まぎわに大統領官邸から電話連絡があり、早々にして会議に決着をつけ、われわれ数名の代表が車を駆って官邸に向かった。そして、待つことしばし、スハルト大統領と面接したのであった。

 そもそも、これは何を意味するかというと、R.I.の数年前からのとり決めで、何かの行事のあった際を利用して、その国の元首に「リハビリテーションの10年」(Decade of Rehabilitation)という、いわば、障害者のリハビリテーションに関する人権の宣言にも似たような一種の憲章を贈呈し、その国のリハビリテーション事業の推進(ひいては国際的レベルにおける事業の推進)を図ろうというのがねらいである。

 スハルト大統領はくつろいだ制服(戦時中の国民服のような服装)に身を包んでわれわれの前に姿を現わし、約30分にわたって自由濶達に意見の交換を行なった。

 彼はインドネシアの障害者の現況を語り、いかにして社会に復帰させるか、について抱負を語ったが、リハビリテーションに対する理解の深さ、正確さにはわれわれ一同大いに驚いたのであった。

 後になって筆者がSoeharso夫人から聞いたところによると、大統領はかつて青年将校のころSoloに長い期間勤務しており、そこのリハビリテーション・センター(注―これがインドネシアにおける最初にして最大の施設―故Soeharso博士の創設による。)を日ごろ見聞していたからである、とのことであった。なるほどと首肯したが、いずれにもせよ、よい大統領を持ったものとうらやましく思ったのであった。

 それと同時に次のような放恣な感想が脳裏をよぎったことも否めない。

 というのは、ジャカルタの街はたしかに近代都市として発展しつつあるが、大通りから一歩裏道に踏みこむと、栄養失調で餓死寸前とも思われるほどに痩せこけた人たちがうつろな目をしてたむろしているのを、いやというほど目撃するのであった。

 障害者のリハビリテーションはもちろん重要な課題であるが、栄養失調に苦しんでいるこれら多くの民衆、過大な失業問題等はどのように対処されているのであろうか、と他人事とはいえ、はなはだ気がかりであった。

 このこととも関連があるのでもう一言付け加えさせていただくと、今回の会議において運営の諸事万端を担当したのはインドネシアの夫人たちであった。つまり、上流階級に属すると思われる夫人たちで、かつて海外に留学し、りっぱな英語(なかには日本語)を話し、国際的なマナーをじゅうぶん身につけた人たちがこの会議を準備し、運営をリードしたのであった。

 この点も日本の現状と比べて対照的であり、考えさせられるところであった。

施設見学

 大統領と会見した日(4月14日)の午後、ジャカルタ地区において次の施設を訪問見学した。

 1) Fatmawati 麻薬中毒センター

 20床。対象は麻薬中毒患者で、年齢は13才~43才、平均20才。入院期間3週間。退院後のフォロー・アップがはなはだ疑問。

 2) Fatmawati リハビリテーション・センター

 上記1)と近接して最近設置されたもの。一般のリハビリテーション患者を対象とした通院制のリハビリテーション・センターで、4月末日開院予定とのこと。PTとOT部門より構成された小じんまりしたセンター。

 3) 国防省立職業訓練センター

 1968年設立。10ヘクタールの広大な土地に10の建物―本館、ワークショップ(2)、訓練生の宿舎(2-70名)、職員宿舎(2-30名)、等。

 対象は軍人および帰還軍人の中の障害者であるが、近い将来一般市民の障害者をも包含することとなる。

 訓練期間は2~4か月で、訓練種目は農業、洋裁、電気技術、ラジオ、靴修理、時計修理、写真、手工芸、等である。

 以上の施設見学で一応ジャカルタの日程を終わり、翌朝(15日)Solo(インドネシアの中部都市)に飛び立つ予定であったが、その飛行機が軍隊の移動のため使用されることとなり、やむなく予定を一日延期して16日にSoloに移動した。ここで見学した施設は次の三つである。

 4) 肢体不自由児センター

 インドネシア肢体不自由児協会(会長:Soeharso夫人)が経営するもので、インドネシア各地に13の支部を持っている。この施設は入園児74名、通園児30名。入園期間は3か月(なかにはもっと長期間入園を継続するものもある)。年齢は3才~14才。PT2名、PT助手2名。OTなし。脳性マヒの入園児は20名。ただし重症児はとらない。STなし。教師10名。入園料は平均月額3,000 ルピア(注―100 ルピア約74円)、政府の補助あり。

 5) 脊髄損傷センター(Paraplegic Village)

 1967年設立。50床。軍関係の施設であるが、一般市民の障害者をも対象とする。主として医学的リハビリテーションを終わった脊損者に対する職業的・社会的リハビリテーションの場。

 6) Soeharsoリハビリテーション・センター(Prof.Dr.Soeharso Rehabilitation Center)

 このセンターは故Soeharso博士が設立したもので、インドネシアの一枚看板となっている施設である。

 第2次対戦後インドネシア国内にオランダ人と内地人との間に激しい内乱が勃発し、国内軍がしだいに後退してこのSoloの近郊においてようやく戦火が収まった。しかしおびただしい戦争犠牲者(身体障害者)が出たので、Soeharso博士は事態の収拾のために立ち上がり、その努力が国連等の援助を得て、上記センターの設置(1950)となったのであった。

 このセンターは身体障害者の診察、評価、治療(手術・義肢製作を含む)から、職業的リハビリテーションに至る、広範囲な分野を包含する総合的リハビリテーション・センターといってよいであろう。

 さて、紙数の関係から、以上インドネシアの施設見学の模様をかけ足で説明したのであるが、あえて一言感想を述べさせていただくならば、フォロー・アップに多くの疑問が残ることを否みがたい。このことは、1億500 万人の人口をかかえ、しかも大小合わせて1万3,600 余の島々からなり立っている地理的条件を勘案すれば、じゅうぶんなフォロー・アップを期待するのがむしろ酷というべきかもしれない。

 それにしても、各施設ともフォロー・アップに熱意を欠いているように見受けられたのは残念に思われた(筆者の誤解であれば幸いである)。

 かえりみると、筆者はかつて13年前(1960年)2月末から3月初旬にかけて10日間インドネシア(ジャカルタ―ソロ)に滞在し、リハビリテーションの状況を視察した。

 当時は施設としては上記の4)と6)、および5)の前身的施設があっただけであった。当時と比べると現在はたしかに進歩の跡が見受けられることも事実である。

 しかしながら、この13年間にわが国におけるリハビリテーション事業の急速な進歩、発展と対比すると、うたた感無きあたわざるものがあることも事実である。

 終わりに、今回の会議の開催について多大のご配慮をいただいたインドネシア当事者各位に対し深甚なる謝意を表するしだいである。

*日本障害者リハビリテーション協会事務局長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1973年7月(第11号)29頁~35頁

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