精神薄弱者を重度障害者の介助者に

精神薄弱者を重度障害者の介助者に

Retarded Attendants for the Handicapped

Robert M.Urie,Ph.D.and Donn Brolin,Ph.D.

奥野英子**

 本稿では、四肢マヒ者の介助ケア(attendant care)という永続的な問題を検討するとともに、その解決策を提案したい。重度障害者をもつ家族、友だちばかりでなく、医師、看護婦、リハビリテーションワーカー、職業あっ旋カウンセラー、ソーシャルワーカーなど重度障害者のリハビリテーションに関係をもつすべての職員は、介助者の必要性を強く痛感している。

 重度障害者が病院、リハビリテーションセンター、ナーシングホームなどの施設で生活するのではなく、より正常な環境(すなわち自宅等)で生活しようとするときに、介助者をどこから確保したらいいかの問題に突きあたる。

 介助サービスは、医療関係機関に働く付添人(orderlies)、エイド(aides)やその他準専門職員(para-professionals)などから得られるが、これらのサービスは、リハビリテーションを終えた四肢マヒ者の日常の身の回りの世話をしてもらうだけにしては経費が高くつきすぎる。このような状況下において四肢マヒ者は、介助ケアだけが必須要素であるトータルサービスシステムに対して、毎日高い報酬を支払わなければならないことになる。

「四肢マヒ者(quadriplegic)」という用語は、ある症状をもつ人や、その人の身体症状を言い表すには適切ではない。「四肢マヒ者」という用語は両足両腕すべての機能が失われていることを意味するだけで、その機能喪失の程度については全くわからない。従来、両足両腕の完全マヒ、特に、腕を動かすことができても手の機能が完全にマヒしている場合などを意味してきた。また、完全マヒというよりは、四肢の機能が正常より弱いことを意味する場合もある。

 このように、四肢マヒ者といっても、一方ではかろうじて頭だけを動かせる者から、他方では歩行できる者までをも意味するのである。また、筋力テストの結果が同じ三人の四肢マヒ者でも、動機づけ、訓練、体重などの諸要素によって、身の回りの世話を自分でいっさいできるようになった者と、完全なナーシングケアに依存せざるを得ない者、のように差異がある。

 本稿では一応、「四肢マヒ者」とは日常生活動作(A.D.L.)に人的援助を必要とする者、としたい。ここではできるだけ広範囲にわたる障害者群に適用したいので、概念を広く解釈するつもりである。よって、日常の身の回りのことが非常に制約されたり、介助者に頼らざるを得ない者ならだれにでも、本稿の論旨は該当する。実際に、介助者は、四肢マヒ者にとって死活を左右する者なのである。

 四肢マヒ者の身の回りの世話

 四肢マヒ者がどうしても介助ケアを必要とすることがいくつかある。まず朝目をさましたとき、ベッドから車イスに乗り移るための介助が必要である。障害者のからだが大きく重い場合には、水圧式リフトがあれば、介助者の労力が非常に省ける。体格の小さな人や中ぐらいの人の場合には、リフトは必要ないであろう。しかしここで重要なことは、介助者は四肢マヒ者の一日が始まると同時に必要とされる、ということである。

 障害者が差し込み便器を使うにしても、トイレに乗り移って用を足すにしても、介助者は常に必要とされる。カテーテルを用意したり洗浄するためにも介助が必要となる。多くの四肢マヒ者は、手指の機能がほぼ完全にマヒしているので、これらの日常動作を自分でこなせない。

 介助者の援助によって、ひげそり、入浴、シャワー、整髪、歯みがきなどを終えると、朝の身の回りの世話としては着服が残っている。まずタンスに入っている衣服を出し、それから着る、という動作である。

 建築上障害のない生活環境で電動車イスを使用できる場合には、四肢マヒ者は一日のうち多くの時間をひとりで生活できる。介助者は食事の介助もし、肉を切ったり、スプリントや自動具を付けてあげたり、食事中見守っている。日中数回トイレの介助もする。しかし適切に配慮された環境に住んでいれば、四肢マヒ者も数時間連続的にひとりきりでいてもなんの支障もない。

 夜間は、就寝のときに朝と反対の動作が繰り返される。多くの場合、介助者は夜間も勤務中ということになり、床づれを妨ぐために四肢マヒ者の体位を交換しなければならない。

 いくつかの考慮点

 障害児の親は、数年間またはその子供が生まれて以来ずっと子供の世話をしているわけであるが、自分を介助者と考えてはいない。これらの日常の身の回りの世話は習慣的になっているので、実際の労働を特に意識することもほとんどない。障害児が新しい生活環境にとび込まなければいけなくなったときとか、親が年取ったために子供の世話をすることが不可能になったときに初めて、問題に突きあたる。

 成人の四肢マヒ者は、病院やリハビリテーション施設を退所しようとするときに、この問題を意識する。自分の身体的ケアのニードを満たしてくれる介助者を確保するという、非常に難しい問題に直面するのである。

 身辺の世話についてのみ話してきたが、身辺の世話以外に、家事、買物、使い走りなども介助者の仕事となる。これらの仕事についてはもっと検討する必要があろう。介助者の役割とメードの役割とのちがいを明らかにすべきであろう。この境界線をはっきりさせることによって、介助者が不当に利用される危険性を少なくできるであろう。介助者は四肢マヒ者のすべてのニードを満たす必要はなく、彼との社会的な接点であればいいのである。四肢マヒ者と介助者の関係のあり方については、長期間にわたって指導してくれるカウンセラーやケースワーカーの指導のもとに、確立されるべきである。

 四肢マヒ者と介助者の役割における社会的関係には数多くの問題点がある。また、これらの問題に対する解決策もたくさんある。しかし、これらの重要な問題点を解決するには、本稿の範囲内では扱いきれない。例えば、障害者がグループになって生活するのがいいのか、介助者機構をつくるべきか、そのほかの対策を講じるべきか、どれが一番いいのかわからない。何にしても、四肢マヒ者と介助者の関係は非常に個人的なものであり、お互いの生活様式を満足させるためには、多大な忍耐力、理解力が必要とされよう。

 介助者の質

 介助者は健康が良好であり、少なくとも平均的な体力と協調性を備えていなければならない。心理的には、かなり強い忍耐力をもって、日常の世話をむらなく一貫してできなければならない。介助者は簡単な指示を理解しなければならないが、毎日それを覚えている必要はない。電話をかけられるか、緊急の場合の医療ケアと連絡を取れなければならない。

 しかしながら介助者は、医療や基本的看護技術を理解しなくともよい。読み書きができなくともよい。身体的に特にすぐれていなくともよい。援助を受ける側の者が、自分が何を必要とするのかをすべてよく知っているので、その人の指示に従えばいいのである。基本的な必要条件は、介助者を確保でき、その人が健康で、やる気があり、そして日常の世話に対して忍耐力があるということである。 

 介助者として精神薄弱者を

 四肢マヒ者が必要とする介助者の役割を簡単に分析した結果われわれは、軽度精神薄弱者が介助者としての義務を十分に果たしうることを提案したい。

 精神薄弱者はそのパーソナリティーについて誤解されてきた。彼らは風変りな気質で、危険で、衝動的で、攻撃的で、信頼できず、非行的で、学ぶことができず、ただいくつかの名称をあげられるだけである、と特徴づけられてきた。このような行動をする精神薄弱者もいるが、しかしこれらの特徴は、精神薄弱者の全般的徴候とは考えられない。

 精神薄弱者の学習能力についても、数多くの誤解がなされている。数多くの精神薄弱者は新しい状況に入ったとき、成功させようとか、うまくやりこなそう、といった気持ちが一般的にいって低い。しかし、精神薄弱者の学習能力を研究してみると、われわれが想像する以上のことを彼らは学べるのであるが、その成果はあまりよく出ない。精神薄弱者は低いIQ指数に応じた能力しかもっていないと考えられがちであるが、学ぶ能力は必ずしもIQと直接的に関連しているわけではない。したがって、IQでもって精神薄弱者の学習能力を予測することは適切ではない。

 精神薄弱者の身体的特徴も、個々の人によりかなり差異がある。軽度精神薄弱者やボーダーライン上の精神薄弱者は有機的に障害を受けてはいないので、彼らの健康状態や身体的能力には問題はないのである。

 教育的な見地からしても、精神薄弱者の社会的・職業的能力を伸ばさせる努力が十分になされていない。学校教育プログラムは一般教養にのみ力が入れられている。このような結果、Kokaskaが指摘した通り、数多くの精神薄弱者は報酬の少ない職業に従事しており、したがって、最低生活レベルに置かれている。現在もなお、精神薄弱者を単調、反復作業で、給料の低い職業に従事させる傾向がある。もっと給料のよい、やり甲斐のある職業に就ける精神薄弱者はいっぱいいるのである。

 もし適切な援助が与えられれば、精神薄弱者の75~85%の者は社会に十分に適応できるはずである。諸専門家の論文(例えば、Olshansky、Katz、Wolfensberger、DiMichael、Fenton&Tompson、Bernstein、およびPeterson&Jones)によれば、精神薄弱者にもっと適切な教育、訓練、職業の機会が与えられれば、彼らの個人的、社会的、職業的機能はより高くなるであろうと、指摘されている。ニューヨーク州シビルサービス制度を研究したFentonとThompsonの研究、米国シビルサービス(U.S.Civil Service)を研究したOswardの研究によっても、精神薄弱者は挑戦的かつ競争的な広範囲にわたる仕事に従事できる可能性を持っていることが、明らかにされている。Brolinは多くの精神薄弱者が成功していないのは、一般市民の理解、適切な教育、住居、評価方法、訓練プログラム、親のカウンセリング、フォローアップなどが足りないからであると、実証している。

 精神薄弱者が職業面においてなぜ成功しているのか失敗しているのかを明らかにするための研究のほとんどは、精神薄弱者自身の性格に焦点をあてている。しかし最近は、クライエントの家族、コミュニティー、関係機関など、外部的要素にも注意が向けられるようになった。精神薄弱者が社会に十分に適応できないのは、彼らの作業能力によるのではなく、日常生活(例えば買物、お金のやりくり、料理など)に必要とされるすべての活動を管理する能力や社会的能力が足りないためであると、しばしば指摘されてきた。

 提案

 州職業リハビリテーション機関、リハビリテーションセンター、施設やその他の機関は、リハビリテート(社会復帰)させるのが難しい多数の重度身体障害者や精神薄弱者をかかえている。今まで本稿で論じてきた要素を考えると、両者―すなわち重度身体障害者と精神薄弱者とを結びつけることによって、両者にとってよい結果がもたらされるのではないだろうか。精神薄弱者学校における職業教育プログラムに、このような職種を取り入れてみてはどうだろうか。

 精神薄弱者が物理的な援助をする報酬として、適切な収入、住む家、自分がだれかのために役立っているという生き甲斐を感じられる人間関係を、得ることができる。介助者も、指導するということと、社会参加するという二つの点が、重度障害者と介助者との役割のなかでおのずと充足される。そのかわり、四肢マヒ者は自分がどうしても必要とする物理的援助を得られ、ひいては、心理的保障も得られるわけである。

 これらの人々のサービスに従事している数多くの機関が私たちの提案をすぐに取り入れ、介助の手を必要とする四肢マヒ者の介助者として、それに適した精神薄弱者を養成する方法を検討するよう、強く提案するものである。

(Rehabilitation Record,Sept.―Oct.1973 から)

参考文献 略

Dr.Urieはノースキャロライナ州 St.Andrews Presbit-erian Collegeの保健・リハビリテーションサービス部長であり、Dr.BrolinはUniversity of Missouri-Columbiaの教育学部助教授である。
**日本肢体不自由児協会書記


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1974年7月(第14号)33頁~36頁

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