ダウン症児の言語発達

ダウン症児の言語発達

Language Development in Mongols

Dr. David Evans *

斎藤孝**

 遅滞児におけるすべての臨床的な症候群の中で、ダウン症児は、何の予備知識もないものでさえ、最も容易に、かつすぐに認知できる。この容易に認知できるということは、ダウン症ということから、予測できる行動や能力についての一連の先入観が引きおこすのである。そのため、ダウン症のもつ広い個人差が見落とされがちであるが、それは危険なことである。おそらく、研究者や心理学者は、ダウン症児とともに過ごしている教師よりもこのような傾向にあるのではないだろうか。

 過去において、確かに上記のようなダウン症児の行動を否定すると思われる証拠に基づく予想があった。例えば、ダウン症児はいちじるしいリズム感を持っていると言われていた。しかし、これに対しては研究により疑問が持たれている。彼らはまた、温和で親切で従順であるように言われている。しかし、例えば、Blessing(1959)は、ダウン症児は情緒的かつ社会的反応について、その障害が全範囲にわたっていることを見いだした。このことは強調する価値がある。というのは、特に過去において、「この満足しているキャベツ」のようなものだという想像は、ダウン症児に治療を試みた場合に反応しないということの確信によっていたからである。

 目下、遅滞児の言語発達や思考能力についてかなりの研究上の興味が持たれている。そして、これらの領域については他方、非常に薄弱かつ信頼できない証拠に基づいてダウン症児を想像していることに対する説明もある。本稿の主要な目的は、研究報告の一般化されたものを読んでいる読者に、次のような疑問をいつも持って、批判的に読ませようとすることである。「どのような信頼できるテストを用いたのか」、「このサンプルはどのように典型的であるのか」、「どのくらいの規模であるのか」。(しばしば引用される一つの重要な研究では、わずか11人のダウン症児のサンプルに基づいているのである。)

ダウン症児における言語のプロフィール

 重度の遅滞児において、すべての臨床的サブグループの中で、ほとんどのダウン症児が言語障害を有していることは明らかである。しかしながら、このことは、次の二つの面において問題がある。第一に、言語という項目のもとに含まれる広範囲にわたる能力について示していることであり、第二としては、ダウン症児の中での、個人間とサブグループ間との両方の差を見る場合である。最近、私は、個別に多くの言語テストを使用した結果と、自発的な会話を分析して、101人のダウン症児の言語能力を評価した。この研究では比較的多くの人数であったため、性別、住居、年齢(年少者8.3~16.3歳、年長者16.11~31.1歳)の点から、サブグループ間の差をみることができた。私の報告は、Evans(1973)がすべて報告しているが、ここでは、ダウン症児の研究に従事している人々に対して、理論的かつ実際的興味の両方についていくつかの結果を述べてみたい。

 私が使用したテストの一つは、ITPA(Illinois Test of Psycholinguistic Abilities, 実験版、McCarthy & Kirk、 1961)であり、言語能力をプロフィールであらわすことができる。このテストは、しばしば障害児に使用されており(例えば、Evans、1969を参照)、今や多くの教師がよく知っているものである。

 Kirk & Kirk(1971)の結論は54人のアメリカのダウン症児での二つの研究に基づいている。それによれば、典型的なダウン症児のプロフィールとして、運動講号あるいは動作の表現、すなわち動作を用いて相手に意味を伝える能力は、音声構号あるいは言語の表現、すなわちことばを使って意味を伝える能力および他の聴覚─音声能力に比較して、すぐれている。この報告は、Kirk & Kirkによれば、Luriaの研究(1963)──精神欠陥は、第二信号系すなわちことばと動作の二つの局面の不一致である──を支持するように思われる。それはまた、ダウン症児は、ことばを通して意味を表現する能力と、動作を通して意味を表現する能力の間の有意な差が典型的に示されたことが、Luriaの仮説にあてはまることを示唆している。

 しかしながら、私自身の研究では、意味を表現するための動作と言語の間のこのような特別に不一致であるという証拠は見あたらないし、他の研究者たちも、イギリスの正常児の場合、文化的な差異ほど動作の表現が上手でないということを見いだしている。また私の研究では、ダウン症児の男子は女子よりも動作の表現がより有意にすぐれているというような性差がみられた。これらは、正常児において確認されている。

ダウン症児の言語障害

 ダウン症児の言語についての早くからの研究では、その多くが話しことばの障害に限られており、一般的な報告としては、ダウン症児(他の重い遅滞児と比較して)は、例えば、発声、声のピッチ、流ちょうさ(すなわちどもりの問題)において、より障害があるというものであった(Evans & Hampson(1968)のこの研究のreviewを参照のこと)。

 ダウン症児はまた言語治療に対して特に反応が遅いように思われているが、にもかかわらず、この態度はゆっくりと変容している。そのような子どもの研究は、ほんの少しであるが、報告されている。発語器官(口、舌)の障害、低調子(筋肉運動のぎこちなさ)、かつ「一般的能力」の低さなどの明らかな困難さなどが、彼らのもつ多くの話しことばの問題を引きおこし、言語治療に時間を浪費することもまた容易に仮定できる。これまでは類似した問題の追求も少なかったし、そのため、明らかな説明も少ない。

 話しことばの障害は、教育者の関心という点からは中心的な問題になっていない。これは、コミュニケーション能力において重度の言語障害が及ぼす影響、さらには話しことばの構造、また思考の特質についてさえ無視されている。私はセラピストではないが、私自身の研究で、集団における話しことばの障害の影響を研究することに集中的に努力し、明瞭さの程度について測定してみた。その結果、それと他の側面との関連性をみてみた。つまり、他の側面とは流ちゅうでないどもりなどの話し方などである。

治療の必要性

 私の研究結果では、話しことばにぎこちない話し方の高い出現率を確認した点は予想どおりであった。しかし、サンプルの中で、男子は女子よりも流ちょうな話し方が少ないことに有意差があった。もし、これがどもりと関係があるならば、男子は女子よりもどもる傾向があるという正常児や遅滞児の多くの研究報告と一致する。なぜこれがそうであるかについては、まだ一致した意見はない。理由が何であっても、ダウン症についても同じことが言える可能性があるわけである。

 会話の明瞭度では、女子と男子の間に有意な差はみられなかった。このことは、話しことばが流ちょうでないこと(反復、引き伸ばし、でたらめ、無用の音などの挿入)と、明瞭さの程度とが相当重複しているにもかかわらず、完全な一致がないという事実を示している。重いどもりの多くは、もし注意深く聞くならば、完全に理解できる。そして、理解するのがむずかしい話し方をする人はどもりではないようである。

 ここで、治療の問題を述べることが重要だと思われる。言語治療の方法は非常に限られているので、大いに必要であるものから先に行われる必要がある。非常に重度のどもりでも、その幾人かは特に困っていないようにみえるし、同輩や教師から受容されているし、適切なコミュニケーションができる(そのため、どもりとは「自己意識と自己観察」が必ずあるという一般的な定義からすると、そういう人はおそらくどもりとはよばれないにちがいない)。彼らは最初に言語治療が必要だとはみなされない。

できそうもない治療

 一方、ぎこちなく話し方の重いものは、かなりの不明瞭さによるものである。そのようなものの多くは、「年長」のグループにみられる(すなわち、成人の訓練センターなど)。そして、言語治療の効果はなかなか現れない。

 言語治療士たちによる文献でも談話でも、そのような人々に対する治療がすぐ利用できるということを示してはいない。しかし、その留保を正当化することは困難である。もちろん、つけ加えると、子どもの中には、理解することは非常に困難であるのに、どの程度のどもりも示さない者もいる。それらの幾人かには、かすかな聴力障害がある。そして、彼らの言語障害の診断は、他の要因によっているにちがいない。また、確かに彼らはさらに研究や治療を必要としていた。しかし現状ではそれらがなされていない。

 多くのダウン症児が不明瞭な話し方であることについて、次のような点が指摘される。ダウン症児は、自然な話し方の中で、名詞をかなり高いパーセントで使用している(例、Mein、1961、11人のダウン症児での研究)。これに基づいて、Penrose(1970)は、「ダウン症児は、名詞の方が具体的なので、名詞を好んでいるようにみえる」と述べている。これは、小さなサンプルから思索的に理論をたてるためのもう一つの興味ある例である。そして高度に不明瞭な話し方のある子どもはコミュニケーションの問題に直面しているということと、ダウン症児は名詞を多く使用することとが、等しくよく論じられている。McNeill(1970)は、「名詞のもつ文章上の概念は、すべての文法的関係において、それは単独で現れる点に特徴がある。なぜなら、すべての文法上の関係は、内的であるため、名詞は大人の理解に危険をもたらさずに、すべての利用できる関係に使用できる。しかし、動詞にはこのような特性がない」と指摘している。

聴力障害の評価

 先の研究において、92人から聴力障害のオーディオグラムを得ることができた。聴力障害の出現率は非常に高い。「片方あるいは両方の耳において250から8,000のどのサイクルでも15デシベル以下」という基準では、ダウン症のうちひとりも正常な聴力ではなかった。ろう学校の多くの教師は、このような基準はゆるく、30デシベルより上の聴力でさえ「正常の範囲」であるとみなすであろう。しかし、私は、非常に限定された知能の子どもたちであり、また明らかな発音障害を持っている者には、ささいな聴力障害でさえ困難をきたすのであろうと思う(そして、もちろん多くの者には重い聴力障害があった)。ダウン症における聴力障害のこの高い出現率は、ほかの幾つかの研究にもみられる。

このことは、ダウン症、特に年少の子どもに携わっている教師にとって多くの意味がある。それらは、言語行動における聴力障害の意味を相当よくわかっている必要があることと、限定された聴力を最大限に引き出すための教育技術の特殊な訓練を受けているか、少なくとも知っておく必要があることなどである。また、そういう子どもがより注意深く扱われるためにテストされる必要があると同様に、そのような子どもが教育されるときの音響学的状況も知っておくべきことである。

 私はまた、幾つかの言語テストの結果に基づいて、聴力障害の程度と種類の(話しことばと周波数の範囲)関係を求めることを試みた。しかし、明らかなつながりを証明することは非常に困難だった。というのは、聴力と言語の両方に多くの要因が含まれていたし、そしてまた、ダウン症児の聴力について信頼できる評価を下すことに困難があったからである。

 しかしながら、次のような二つの傾向があった。第一に、運動構号(意味を伝えるのに動作を使用)と聴力障害の間には、正の相関がわずかにみられた。すなわち、聴力の障害がより重い子どもは、単語よりも動作をより多く用いているようだ。第二に、聴力障害と言語表示を理解し遂行する能力テストの得点との間には負の関係が非常にわずかにあった。すなわち、聴力障害が大きくなるほど指示を理解したり、遂行したりすることが少なくなった。言語段階と聴力障害の関係をグループ全体から証明することは難しいことであるが、ひとりの子どもの例として、補聴器を使用することによって改善した結果を示すことができる(Evans、 1969を参照のこと)。

能力の発達

 遅滞児の精神能力が10代の中ごろにおいて必然的に止まってしまうということは、過去における考えであったが、今はもはや受け入れられなくなっている。遅滞児の学習能力が16歳以降に低下するということを信じている人にとって、何らの明らかな証拠もない。これは、ダウン症児の場合にもあてはまる。例えば、Durling& Benda(1952)は、スタンフォード・ビネー検査を用いて、施設のダウン症児は、同じCA(chronological ageの略、実際の年齢)、MA(mental ageの略、精神年齢)の遅滞児よりも遅く「発達のピーク」に達することを示した。すなわち、ダウン症の48%は、20~37歳の間に、彼らのピークに達したが、非ダウン症の場合は、わずかその数は26%であった。

 私の研究においても、最初に言語と認知の能力(それらは二つの知能テストに含まれている)のうちの多くが、他の何よりも先に低下していくことを示すことができる。評価点と年齢の比較により、次のようなことが明らかになった。

 視覚-運動能力(ITPAの三つの視覚テストとDraw-a-Man知能テストに含まれている)は、およそ20歳で、横ばい状態になる傾向がある。それらの能力には、一連の物体や形を記憶により再生する能力や、一つの刺激となる絵に対して、四つの絵の中から視知覚的に相対する物を選択して一致させる能力が含まれている。

 言語能力は、年齢とともに着実に上昇する傾向があったが、徐々に横ばい状態になる傾向もある。

 言語構造得点(ITPAの下位検査と同様に、文法的終止を測定する)は、最もよく年齢に伴って向上し続ける。それらの得点は、話しことばのサンプルから得られ、使用された話しことばの文法的複雑さの一部分のレベルを示す。文法的終止テストは、手がかりとする文において正確な文法的語尾を備えるかどうかで、子どもの能力を測定した。

可能な説明

 以上のような発見は重要である。第一に、言語理解からいろいろな点で、話しことばの発達の構造における方向があらわれている。これは、以前から知的欠陥に対して一般的に着目されていた。例えば、O'Connor & Hermelin(1963)は、次のように述べている。「適当な話しことばの発達における中度遅滞児のつまずきは、彼らは文法を理解することができないのではなく、多くの単語を知らないからである」第二に、それらは、CAと言語理解の間よりも、CAと話しことばの構造の間の密接な関係を示している。

 それらの現象を示すことは、どのような解釈を示唆しているのかというと、生物学的用語での説明も可能であるし、またLenneberg(1964)らの例では、一つの身体的発達と、「知能」(言語理解)の検査の結果の間を不断に運動していると述べている。前者は、かなり成熟度に依存しているし、後者は、比較的に独立している。言語発達は、その中間にあるであろう。

 環境による説明(私は賛成しているが)もまた可能である。視覚技術は特に遅滞児が16~17歳で学校を出た後には訓練がされず、落ちこんでいく傾向がある(Draw-a-Manテストはよい例である)。しかし、話しことばの能力(Devonのように、成人の訓練センターにおいては、遅滞児は、そうでないものと一緒に働いている)は、絶えず訓練され強化されており、改善される傾向にある。これら二つの説明は、もちろん成熟に対して排他的ではない。これらの発見は、成人の知的障害、特にダウン症の成人の教育に対して、興味ある示唆を与えてくれる。これらは、知的障害を持つ子どもが学校を卒業したとき、教育の効果を継続させる(終わらせるよりもさらに強化する)必要があることを指摘している。これは次第に、年少者と成人の学校、センターの間の運営の関係に興味ある示唆となる。

 例えば、成人訓練センター内では、職業教育を必要としない者と職業的訓練を要する者の間、個別の教育の必要があることとセンターのために生産する必要があることとの間の関係(ときとして争い)の問題がある。幾つかの成人訓練センターの教育的な設備は非常に限られている。訓練を受ける若い者に対して、学校の教育的技術を成人の訓練センターがどのくらい与えることができるかという疑問もまた持ち上がっている。また、親や障害児の世話にあたる他の人々の態度など重要な問題もある。教育心理学者として、私はしばしば障害児の将来についての予言を問われる。私の読書や研究に基づけば、過去におけるダウン症児への見解よりも私はより元気づけられる。

結論として

 このように大規模で時間をかけた調査をしめくくるにあたり、「それでどうしたというのか」という疑問を投げかける必要がある。もし、ダウン症児が独特の言語プロフィールを持つとするならば、私の主目的は果たされたことになる。私が非常に困難な作業を見いだしたことをダウン症児に携わっている教師のだれも驚きはしないであろう。これはテストした多くの能力のほんの一部であるし、また、私は言語行動のほんとの少しの要因のみをテストしたにすぎない。各々の子どもは人間としての関係においても粗点という点でも、依然として一人一人の人間個人として残っている。

  しかし、私の研究では、次のことを示唆している。例えば、多くのダウン症児は聴覚障害がありそうだし、また男子は女子よりも話しことばの流ちょうさに欠けていることがいちじるしいことは他による発見と一致する。年少者と年長者の能力パターンの間の比較は特に興味があった。学校を出たあとの子どもに対して教育および治療面にもっと力を入れるべきであるという感を強めた。

参考文献 略

*Exeter University教育学部講師

**秋田大学教育学部附属養護学校教論


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1975年7月(第18号)33頁~37頁

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