二分脊椎:その心理学的側面

二分脊椎:その心理学的側面

Spina Bifida : Some Psychological Aspects

Derek Fulthorpe*

山下皓三**

 肢体不自由児の仕事にたずさわっている人々は、かれらの示す情緒的問題によく気づいていることと思うが、この問題を生起させる要因には種種なものが考えられる。一般に障害児が自らの置かれている状況にいかに適応するかは、両親のかれらに対する態度いかんに多くかかわっているものであり、両親の過保護ないしは拒否の態度が、かれらを精神医学的障害へと導く可能性をもっている。またかれらは、よく社会の態度として、かれらを不安にさせるような態度に遭遇するものであるが、この社会は正常な身体であることの重要性を過度に強調する傾向にあって、かれらをあたかも健常者のごとく行為するよう求めてきた。このような態度は、しばしば障害児を葛藤に導くことになり、その結果罪の意識、攻撃的感情ないしは恐らく環境に対する恐怖といったものを抱かせることになる。

 ところで肢体不自由児が、可能なかぎり早期に、自身のハンディキャップを認識する術を学び始めることは、最も重要なことである。このことはかれらすべてにとって、長く、困難なプロセスであると言えるが、特に重度の二分脊椎児は、肢体不自由であるばかりでなく、脳水腫と失禁を伴う傾向にあり、これがパーソナリティの発達に悪影響をおよぼし、自己の評価と社会的資質を得ようとのかれらの努力を妨げることにもなりかねないからである。

 

予想をこえる諸障害

 現在は医学的処置が効果的に施されるため、二分脊椎児のほとんどが生命を維持し、特殊教育を受けることができるが、既に就学し、数年間教育を受けている二分脊椎児に関して、やや不安視する報告がなされている。それによればかれらは、当初なされた診断以上に諸障害を有する傾向にある、ということである。例えば二分脊椎児は、上肢を正常に使用することができる、との仮説であるが、かれらの多くに視―空間知覚の障害がみられるばかりでなく、指の微細な運動や協応にも障害がみられるとの研究結果が報告されており、現在のところ必ずしもこれを断定するにいたっていない(Tew, 1973)。

 また脳水腫を伴う多くの年少二分脊椎児が、ときに“cooktail party”症候群、すなわちひっきりなしによく話しをするところから、初めはかなり知的に高いのではないかとの印象を与えるが、事実はそのおしゃべりが単なるおしゃべりにしかすぎない、といった症状を呈する(Fleming, 1968;Tew, 1973)こと、さらに多くの二分脊椎児が、遂行できると期待されたことを遂行せず、知能テストで予測される水準以下の成績しか達成できないこと、そしてかれらの健康や人生に関して楽観的な予測をたて得ないことが知られている。

 さて、著者(Fulthorpe, 1973)は、二分脊椎児が教育的、社会的に失敗する理由について、その発表資料がいまだ少ないところから、かれらの知的、社会的、情緒的発達を妨げる要因を知るため、知的能力、社会的適応、社会的資質およびパーソナリティ特性に関する調査を実施した。対象児は、8歳~15歳の男子16名、女子17名で、すべてが脊髄髄膜瘤をもって生まれた子どもたちであり、うち21名が脳水腫である。なお18名は失禁をコントロールするため尿器を装着していたが、3名は正常な排尿コントロールが可能で、残りの12名は全くの失禁のままであった。かれらはSouth Walesの寄宿学校に通っており、著者は、そこで数年間教育を担当していたのである。

 ところで使用した精神測定のためのテストは、ラーベン漸進性マトリシーズ Raven's Progressive Matrices, ブリストル社会適応ガイド the Bristol Social Adastment Guide,マンチェスター社会順応尺度 the Manchester Scales of Social Adaptation, カッテル児童用および中学―高校生用パーソナリティ質問紙 Cattell's Children's Personality Questionnaire and JuniorSenior High School Personality Questionnaire である。

 

知的能力と社会的資質

 対象である二分脊椎児は、平均以下の知的能力を示し、非常に水準の低い社会的資質を有する傾向にあった。脳水腫でない3名の子どものみが、ラーベンのマトリシーズで50パーセンタイル以上の得点をし、14名は5パーセンタイル以下であった。後者の子どもは、ラーベンの規準に従えば「知的欠陥」があると考えることができる(Raven, 1965)のである。

 脳水腫を伴う子どもは、そうでない子どもに比して知的能力が有意に低かった。確かにラーベンのマトリシーズテストは、総合的な知能指数を得るよう意図してつくられてはいないが、パーセンタイルを知能指数に換算することにより、おおまかな値を得ることができる。これは、本研究での指数と先行研究におけるそれとを比較するためになされたものである。

    脳水腫の平均IQ 非脳水腫の平均IQ
Stephen(1963) 75 95
Lorber(1971) 79 87
Lorber(1972) 79 92
Parsons(1972) 84 92
Fulthorpe(1973) 78 90

 本研究での結果は、上表のごとく先行研究とよく一致し、脳水腫が子どもの知的能力に好ましくない影響を与える傾向にある、との考察を補うことになった。これについては、TewとLaurenceも同様の結果を報告している(1971, 1972)。

 マンチェスター社会順応尺度の結果では、脳水腫児は、非脳水腫児に比して社会的資質で有意に低かったが、本研究におけるすべての二分脊椎児もまた低得点であった。わずかに非脳水腫児の4名が、10パーセンタイル以上の得点を得たのみである。

 さて先行研究を追試した上記の結果は予期されたものであったが、ここでの関心事は、性、年齢、脳水腫の有無、および失禁または尿器装着の有無に関して有意なパーソナリティ特性の差がみられたということである。

 

性差

 グループとして考察すると、女児は男児に比して内向的、神経症的徴候をより示し、他方男児は攻撃的、独断的であり、Stott(1971)のいう「過反応 overreacting」といった行動を顕著に示した。

 著者が、授業の中で観察したところでは、女児は男児に比し概してはにかみ屋で、従順で、引っ込み思案であったが、この行動特性は校外の場においても同様に言うことができる。なお男児は、他の子どもたちとの活動に積極的に参加しようとの意欲がみられた。この理由、すなわちなぜ女児が男児に比して内向的であるのかは、以下に述べる事実で説明されるであろう。

 子どもの一般的な発達過程を概観すると、女児は男児に比して自己の容姿により関心を抱くものであるが、ハンディキャップにより容姿がそこなわれていることを意識している二分脊椎の女児は健常児の存在でこれを強く意識することになり、周囲の関心が自己に向かないようかたくなに振る舞うようになる、ということである。

 他方多くの二分脊椎男児が過反応行動障害を示す、といったことに対する説明を仮定することも可能である。一般に子どものハンディキャップを認識する学習は、長く、困難な過程であり、多くの子どもがフラストレーションに直面するものである。しかも男児は女児に比しチームを組んで争うゲーム、戸外の活動、運動競技に関心を示すところから、二分脊椎男児は、この意味で女児よりも「フラストレーションの危機」をより経験することになり、いまだ自己のハンディキャップに対して心理的適応をしていないとするならば、かれらのフラストレーションは、仲間や大人に対する攻撃的態度となって自己を表現する、ということが十分に考えられるのである。

 もちろん女児もフラストレーションに苦しむのであるが、男児が自己の悩みを外向的行動として「外に向けて行為する」傾向にあるのに対して、女児は自己の不安を内部神経症的葛藤へと転換してしまうように思える。

 ただ攻撃性とか外向性といったパーソナリティ因子は、障害男児と同じく一般の男児においても支配的なものであり、同様にはにかみとか、内向性といった因子は、一般の女児においても男児に比してよく観察されるものである。しかし本研究で得られた統計的有意差といった観点から言えば、両性におけるパーソナリティ特性が、二分脊椎児においてみられることが示唆されるのである。

 

失禁および尿器の影響

 研究者、とりわけZachary(1968)とField(1970)は、年少の二分脊椎児童を普通小学校へ入学させることに関する討議で、失禁があることによって児童を情緒不安定にしてしまう可能性を強調した。これについては、多くの普通小学校で失禁を処理することが不可能であり、このことが二分脊椎児を特殊学校に入学させている理由である以上確かなことかもしれない。

 TewとLaurence(1971)は、二分脊椎児のみを扱った研究で、失禁をする子どもとコントロールの可能な子どもとの間に、社会適応に関する得点に有意差のみられないことを報告しているが、著者の研究でも同様の結果がみられた。しかしコントロールが可能な子どものうち、18名が尿器を装着することで失禁をまぬがれていることに留意すべきであり、また21名の失禁をしないグループと12名の失禁グループとの間でパーソナリティ特性に有意差がみられないとはいえ、興味ある有意差が男・女児の個々の得点分析から得られたことを銘記すべきである。

 

男児に及ぼす心理学的影響

 尿器を装着した男児は、失禁する男児に比し、行動が有意に抑制されることが知られた。また研究で明らかに示唆されたことは、尿器で失禁をまぬがれている男児が予想もできない社会的行動を示しやすく、このような行動が尿器を装着していない失禁男児にはみられないということである。Stott(1971)は、予期できない行動を、本質的には自己主張の欠陥にみられる気質の障害であり、これは新しい場面や課題に直面して、その理解への失敗を結果することになる、と述べている。この障害を受けている子どもは、このような場から逃避し、率先して何かをしようとすることはほとんどなく、Stottによれば、かれらが愛情へのニードを正常に有しているところから、その「引っ込み思案」は、愛情関係によるというよりは、むしろ見知らぬ、複雑な課題により生起したものである、ということになる。

 このような傾向を説明する理由として、直截に、明白に断定するものはない。それは失禁をコントロールできる子どもよりは、失禁をしてしまう子どもの方に、より上記の行動がみられるであろうと仮定することが、より理に適っていると考えられるからである。そこには考察しなければならない複雑な心理的・性的要素というものが存在するのかも知れない。二分脊椎男児は、すべて身体的に変異があるわけであるが、尿器を装着している子どもが、自己の身体に関心を向ければ、かれは、失禁をする仲間よりもより醜いと実感することになる。このような男児による観察が、損傷を受けており、しかも不具であるとの感情を生み、他と異なったものであるとの感情を強めることになり、その結果子どもに対して、随伴した、不自然な障害が関心を引かないよう、社会的行動を抑制させることになるであろう。

 本研究によれば、上記した問題は、子どもの成長につれてより激烈なものになる傾向をもまた示している。これは二分脊椎男児の思春期を通じて経験する、身体的変化や感情というものが、完全な性的不能であることを強調する以外の何ものでもないところから、確かに当然のことと考えられる。Neustatter(1972)の、「肢体不自由者は、性的に阻外されていることで苦しんでおり―これが疑いもなく慢性の心理学的障害、たとえば神経症、精神病、精神的呆け等を生起するのである」との記述からも、二分椎脊男児の心理学的問題が、年齢につれてより生起することを示している。

 

女児に及ぼす心理学的影響

 本研究では、尿器を装着している女児が、失禁をしている女児に比してより適応しているとの結果が示された。他方後者の女児は、顕著な不安徴候を示しているが、これは劣等感情を抱き、日常生活の要求に遭遇すると容易に気落ちし、しばしば後悔と罪の意識にとらわれ、権威からの強制によって情緒的に混乱してしまう傾向にあることからも理解できる。しかもかの女らは、孤独を好み、人々に対して物静かであり、困難に対しては大げさに反応し、多くの励ましを必要としているのである。

 また失禁のある女児は、男児以上にそれによって生起する社会的問題により気づいており、その実感が、不適応や恐れの感情を生むことになるのであろう。

 

年齢差

 対象児のうち、11歳以下の二分脊椎児は、年齢の高い子どもに比し利己的で、統制のとれない、社会的ルールに無頓着な傾向を有意に示した。この徴候は、社会化の過程に熟達することが困難であることから由来するもので、恐らく年少の多くの肢体不自由児にみられるものである。社会化は、学習される技術であり、しかも学習は、実践なくしては生じ得ないものでありながら、あまりにも多くの二分脊椎児が、他の子どもと交じわる機会を拒まれている、ということができる。肢体不自由児のための就学前施設は少なく、しかも遠方にあり、就学年齢に達しても相応の時間内には学校が無く、たまたま就学することができたとしても仲間や大人との親和関係をつくる困難さを経験しなければならないのである。

 他方、年長児と年少児との間には逆の傾向がみられ、11歳以上の男児は、それ以下の子どもに比しより抑制された反応を有意に示し、しかもこの傾向を助長する主要因とみられる抑うつ状態を伴うものであった。

 ところで本稿の初めに、障害を受容するよう指導することの重要性を述べたが、年長児が、現実的に自己の障害を受け入れることができずに、果たしてその障害の程度を実感することができるのであろうか―あまりにも自己に課せられた制約のみに心を奪われ―闘志を失い、希望のない態度を受け入れているのではなかろうか。これは、障害児にたずさわる者にとって重大な関心事でもある。

 

脳水腫の影響

 脳水腫が、二分脊椎児の知的機能を阻害することは既述したが、脳水腫児が非脳水腫児に比して従順であり、容易に導かれ、親切であることも顕著にみられた。そしてこの何でも受け入れるという特性は、知的に低いということで説明されるであろう。さらにかれらは、重々しく、無口で、しかも生真面目である。Cattellら(1969)は、これらの特性がしばしば心身の慢性病にみられることを報告しているが、このことは、非脳水腫の二分脊椎児より障害の重い脳水腫児が、なぜこのような顕著な徴候を示すのか、に関した説明を補足することになるであろう。もちろん脳水腫の知的劣等さも、パーソナリティ特性の有意差を十分に説明するものである。

 

結論とその意味するもの

 本研究の結果は、二分脊椎で生まれた多くの子どもが、就学後、ある不適応ないしはパーソナリティ障害を示すことを示唆しているが、かれらがいかに社会的、情緒的に発達することで援助されるかを考察し始めるのは、概してかれらの問題の無法さが表面に出てからである。

 子どもに対する非公式の教育は、かれの誕生日から始まるのであり、母親との密接なスキンシップが、子どもの最初の社会的関係を発達させ、それに伴う暖かさ、心よさ、愛といった感情を同化させるのである。ところが二分脊椎の子どもは、脊椎の損傷を閉じるための手術を生後数時間の中に受けなければならず、また後にはSpitz-Holter弁の挿入や尿の迂回路つくるための手術を必要とする(しかし、ここで指摘されなければならないのは、二分脊椎幼児の外科的治療が地域により様々であるということである。あるセンターでは、数年前まで外科的手術がほとんど必要であると考えられていたものが、現在では選択的であるし、Spitz-Holter弁の挿入も、必ずしもより早期に行われてはいない。しかも失禁を軽減するための手術を施さない、という地方もあるほどである。)

 さて母親から離れての長期入院は、情緒不安の要因となるものである。仮に本研究での子どもたちが、この階段で手術を受けていなかったと仮定するならば、生命にかかわるほどの影響があったと言えるのかもしれないが、取り返しのつかない心理的損傷を受けたことについても疑う余地はない。ところで二分脊椎幼児の外科手術に必要な専門家を用意している病院は、比較的少数ではあるが、このような病院では、子どもの心理学的ニードを理解し、長期入院のある期間、子どもと母親を一緒にさせるといった配慮が必要である。

 

援助と就学前教育の必要性

 自己の不能、尿器および失禁に対する二分脊椎児の態度が、両親のそれにより多くの影響を受けることは避けられない。一般に子どもの情緒不安やパーソナリティ障害のある要因と考えられるものが、子どもの出生後可能な限り早期に、両親に対してより以上の援助が与えられるならば、それを軽減することができるということは疑いもないことである。二分脊椎に随伴する問題については、両親と率直に話し合われなければならず、不安となる多くの疑問が、可能なかぎり専門家により正確に、正直に答えられるべきである。

 さて年少の二分脊椎児に、ある社会化の技能が欠けていることを本研究は示唆しているが、未就学の子どもたちへの諸設備はあまりにも不足している。Leishman(1973)の研究によれば、二分脊椎幼児のための幼稚園に通った子どもたちは、そうでない子どもに比し、学校への移行がより容易であったと報告されている。従って二分脊椎とその現れに対する一般人の認識が増大し、これら子どもたちへの対策が適切になされるよう当局への働きかけがなされることを望むものである。

 二分脊椎児は、自己の障害を早期に受容し、自分に何ができるかを知ることにより、何ができないかを徐々に受け入れることが大切であり、そのためにも自我意識と身体認知を発達させなければならない。ただ自己の限界を受け入れることは、かれらにとって困難なことであるかもしれない。だれでも実現できそうにない事柄について白昼夢をみることは正常なことであるが、二分脊椎児のそれは、健常児に比しより現実を帯びたものになり、深い逃避の場になっているように思える。これは自己と自己の限界を受容することができず、不適応やパーソナリティ障害の一因となりはじめたことを意味するものである。このような子どもに対して熟練した教師であれば、精神科医といった専門家の援助を得て、上記の徴候を診断し、成就しないであろうことを優しく指摘しながら、励ましをもって成就できるものを用意してやるであろう。

 就学前における二分脊椎児の環境は、たとえば長期間の入院、家族が戸外に連れ出さないといった理由や、子どもの直接的環境を制限してしまうほどの両親の過保護といったことから、しばしば非常に制約されたものになってしまうものである。従って学校では、可能なかぎり多くの活動を行うことができるような機会を準備することにより、これらの欠損を補償するよう意図しなければならない。仮にかれらが、生き生きとした、変化に富んだ環境にさらされるとしたならば、社会的にも、また情緒的にも必ずやより幸せな発達をするに相違ない。

 ところで二分脊椎児の将来については、比較的知られていない。過去あっては、学校を卒業するまで生命を維持した子どもはわずかにしか過ぎなかったが、現在は多くの卒業生たちが、失禁ないしは尿器、不能、脳水腫、そして車いすの存在といった重荷を背負っていかねばならないであろう。人々が、幼児や年少児の学級でこのような子どもたちに会い、非公式な遊びを通して互いに社会的連がりをもつような場でかれらに会ったとしたならば、Dylan Thomasの以下の言葉を想起するであろう。

 「おお、かの努力のままに若く、気楽であったものを、時は私を青ざめさせ、滅びさせた海のごとき束縛においてさえ歌を口ずさんだのに」

(Special Education, 1974, Nov.から)

参考文献 略

*Nottinghamshire MansfieldにあるThieves Wood School 治療部長。

**東京教育大学附属桐が丘養護学校教諭。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年1月(第20号)2頁~7頁

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