教育 重度障害児のための教員養成

教育

重度障害児のための教員養成

-新たな開拓分野-

Training Teachers for the Severely and Profoundly Handicapped ; A New Frontier

Susan Stainback*, William Stainbaek** and Steven Maurer***

高山佳子****

 要約:最近の訴訟や法令の制定によって、重度障害児を、地域社会をベースにした公教育プログラムの中に組み入れるということがなされている。その結果、このような人々の成長をはかるために知識と技術を持った教師が必要になってくる。この責任を果たす義務は、資格を持った教師を養成する大学にある。本論文では、重度障害児に対する適切な教員養成のために、現在の教員養成プログラムの構造の中にくり入れていかなければならない基本的な資格について検討する。

 

 重度障害児とは、一般に最近まで大きな州立施設の奥の収容室に入れられていたような一群の人人である。彼らはしばしば限られた刺激提示に対してもほとんど反応しないでベッドに寝ているだけだった。Sontag, Burke & York(1973)はこのような子供たちを、自虐的である、食物を嘔吐反芻する、他者に対して攻撃的である、常同的行動(ロッキングやハンドウェービング)を表す、持続的で強力な発作を示す、重篤なてんかんを持っている、極端な虚弱体質である等として記述している。この中には、吸乳、嚥下、咀嚼、模倣、歩行、会話、凝視、排泄自立、簡単な言語的命令に対する反応等ができない者や重複障害を持った者が含まれる。彼らは訓練不能、重度遅滞、重症障害、重複障害、寝たきり患者、保護対象というように呼ばれてきた。

 行動主義者(Bensburg, Colwell & Cassel, 1965 ; Fuller, 1949 ; Rice & McDaniel, 1966)が重度障害児に対する指導的な研究を行って、初めて彼らの教育の可能性が認識されるようになった。このように欠くことのできない初期の研究が行われつつあった一方で、この子供の親たちは全国精神遅滞者協会(National Association for Retarded Citizens, NARC)のような強力な親の会を通して法案の通過運動を始めた。彼らはこのような子供の可能性を十分伸ばしてやれるように、教育と訓練の機会をつくるよう働きかけたのである。親のこの圧力は結果的にいくつかの大きな判決をもたらした(たとえばペンシルヴァニア州対ペンシルヴァニア精神遅滞児協会事件、1972)。それは重度障害児を組み込むために公教育サービスを拡大するというものであった。

 このような人々の教育権の主張に沿って、公教育の管轄区域の中で彼らに対して平等の教育が行われるべきであるという「脱施設化」の原理が展開してきた。教育は公教育関係者の仕事であって、施設の社会的サービスの仕事ではないということが注目される。このような原理や判決や親の圧力の結果、多くの州で重度障害児の教育と訓練の責任を公立学校に置くという法律が通過した(Education Commission of the States, 1972)。

 その他以下の事情が彼らの教育を拡大していくことになった。

 1. 1975年3月~4月にNARCは重度障害児の教育について全米の訓練集会を用いた。

 2. アメリカ重度障害児教育協会(American Association for the Education of the Severely and Profoundly Handicapped)が新しく結成された(Haring, 1975a)。

 3. 障害児教育局は重度障害児の教育をその最優先項目として述べている(Martin, 1975)。

教員養成の必要性

 重度障害児の保護的ケアーから教育と訓練へと焦点が移るにつれて、十分に教育を受けた教師が公教育の中で必要になってくるだろう。

 ここで、重複の重度精神遅滞児をもっと伸ばしてやるために、そのための人材を養成することを特に目的とした教員教育プログラムを立てて、それを実行するのに責任をもっているのは教員養成機関である(Smith & Arkans, 1974)。

 養成するのに必要な教師の数は、もし教師対子供の割合を1:5ぐらいとすれば相当な数になるだろう。この割合は重度障害児の学習や行動や身体的特徴を考慮した場合、合理的な割合である。

 必要な教師の数を見積るときには、子供の早期教育の必要性も考慮しなければならない。より重い障害を持った就学前の子供でさえ、特に視聴覚的意識、頭部及び体幹の運動統制、語いの初歩的理解等に対して学習の可能性を持っている。早期教育は長期間の就床による異常な身体構造の発達を妨ぐことができるということも注目されるべきである(Luckey & Addison, 1974)。多くの場合、早期に正しく身体を位置づけると、しばしば年長障害児に見られる身体的な奇形を妨ぐことができる(Robinault, 1973)。

 生涯にわたるもう一つの目的として、生産作業と日常生活のスキルを保持し拡大していくために、成人期を通じて教育と訓練が継続的に行われることが大切である。顕著な障害を持った子供でも、かつてはその子の能力を越えていると考えられた作業活動に参加することを学習できるということが、最近示された(Gold, 1973)。

 本来、教師対子供の割合を1:5にするということと長期的な生括指導のためには、高等教育機関に、このような重度障害児の成長を援助するのに、資格を持った教師を養成するということが求められるであろう。さらに次のような事柄に注目しなければならない。

 (a)最近の医学の進歩は他の方法では生きられなかったような多くの重い障害児を救っている。

 (b)今日実質的には、重度障害児のための教育を受けた教師はいない。

教育すべき必要条件

 大学は軽度障害児及びある場合には中度障害児の特殊教育に教員養成の焦点をあててきた。特殊教育の潜在的な教師は、普通学級の教師よりも多くの診断的技術や治療的アプローチを受けている。ほとんど例外なく、軽度障害児の教師やいわゆる「正常児」の教師が教えられた基礎的技術や用具は、違いはあるにしても強調するところは主に同じである。

 重度障害児の機能水準は、大学の教員養成で支柱になっているものからは広く逸脱したものであろう。教員養成に必要な若干の要素の内容の批判的評価を促すために、次に重度障害児の将来の教師の養成に必要な事柄を検討する。ここで検討される事柄は、(a)診断的評価、(b)カリキュラム、(C)方法論、(d)相互教育的チームワーク、(e)実習経験、(f)親の教育、(g)補助具についてである。

 診断的評価

 レディネス・テストや学カテストのように、現在軽度の障害児に用いられている標準的な診断や評価の手段は、一般的には重度障害児の教師にはほとんど使われないだろう。就学前レベルの社会成熟度テストでさえ、訓練目的のために多くの重度障害児の機能水準を正確に評価するには、しばしば非常に高度であったり、スキル間のギャップが大きすぎたりする。

 このような子供のある者は、乳幼児的機能レベルにあり、時間を超過してまで行われる学力の成果は少ないので、重度障害児の教師は、基礎的なレディネスや早期の教科学習過程と同様に、誕生から就学前教育開始までの、人間の成長発達パターンについての十分な職業的知識も持っていることが大切である。目で追ったり、刺激に反応したり、首をすえたり、物に手を伸ばしたり、物をつかんだり、ふりむいたり、というような乳幼児的段階の子供の発達に対して、高度の洞察が必要である。というのは、教師が重度障害児の多くを見つけるのは、このような働きの範囲内で行われるからである。

 このような診断的評価のニードには、現在の教育学の文献を超えてすすんでいくことが求められる。つまり教師は乳幼児発達に関する心理学的・医学的情報を知るようにならなければならない。Gesellの発達スケジュール(1947)、Cattellの乳幼児知能検査(1940)、Bayleyの乳幼児発達検査(1969)、Denverの発達スクリーニングテスト(1970)、Piagetの理論に基づいたAlbert Einsteinの感覚運動知能検査(Corman & Escaloma,1969)などの発達検査を詳細に検討しなければならない。たとえば,歩行のようなスキルを評価したり教育したりするために、発達順序を知っている教師はほとんどいない。

 我々が知っているような軽度障害児や普通児に対する教育上の診断と評価は、重度障害児の教師には変容する必要がある。ある特殊教育者や心理学者(Balthazar, 1971 ; Sailor & Mix, 1975)が,すでに重度障害児のための診断評価検査を開発しはじめていることは注目されよう。

 カリキュラム

 どんな教育場面でもそうであるように、重度障害児のカリキュラムの目標も、各人をより高次の発達水準に高めることである。しかしこの場合の大きな差異は、子供に対する配慮の発達的な機能水準の程度と関連している。つまり軽度障害児や正常児の教育の大きな焦点は、読み、書き、計算、社会的スキル等のためのレディネスとその達成に置かれるが、重度障害児のカリキュラムでは、環境的刺激に対する反応、頭部及び体幹のバランス、吸乳、嚥下、咀嚼、把握、身体各部の運動、発声、そしてより高次のレベルでは、摸倣、言語獲得、食事の自立、歩行、着脱、トイレット・トレーニング、社会的レクリエーション的行動、さらには教科的な機能的スキル等に重点があるのである。

 だれでもそうであるように、職業的スキルは重要である。このレベルに達した者には、ゴルフ球座の袋詰とか、荷物の止め金付けとか、14ピースの自転車のブレーキの組み立てのような、もう少し複雑な課題(Gold, 1973)をカリキュラムにつけ加えることができるだろう。

 カリキュムのニードは、軽度障害児や普通児よりもはるかにばらばらである。この領域は新しいが、カリキュラムの開発に対する考え方や資料は手に入るようになってきている(Ball, l971 ; Meyers, Sinco & Stalma, 1973)。

 方法論

 教育者や心理学者たちは,行動変容の方法論が最重度の障害児の教育に対して多くの示唆を含んでおり,中度及び重度の障害児に非常に効果があるということを見い出している(Haring & Phillips, 1972)。

 担任教師がこの行動変容の方法を用いる場合には、反応の強さ・持続時間・頻度を増減させるために、反応の後で刺激を提示するという操作に強調を置いている。

 重度障害児の教師は強化の法則をたえず適用しなければならない。これらをもっぱらより綿密にすることが必要である。強化サンプリング、弁別訓練、汎化、刺激統制、シェーピング、バックワード・チェイニング、結合嫌悪刺激、暗示、フェーディング、モデリング等の概念が理解されなければならないだけでなく、日常の授業の中にもこれらを具体化させていかねばならない。加えて先行刺激の操作も大切になるだろう。というのは、重度障害児の反応を形成するだけではなくて、引き出すことをもしなければならないからである。

 強化法則を適用するために、ある特別な反応が生起するのを持っていては、教師は多くの貴重な学習時間を労費することになる。また行動を変容するための最も効果的な方法を知ることは、難しい取り扱い上の問題をコントロールしなければならない場合には、避けられないことである。指を吸ったり、頭を打ちつけたり、他者を攻撃したり、糞便を投げつけたりすることは、急速かつ完全に教室の学習をこわしてしまう。

 正確な行動の測定は新たな重要な問題を呈するだろう。すなわち重度障害児の進歩は、いつでも容易に認められるというわけではない。教師の士気も次回の授業計画とならんで、進歩の正しい評価に依存することだろう。

 多分教師が持たなければならない最も重要なスキルは、行動分析を行う能力であろう。順序立った小さな段階に課題を分解してやることは、重度障害児の反応獲得のスピードと質を高めるということが見い出されている(Brown, 1973)。

 相互教育的チームワーク

 相互教育的チームワークの重要性か明らかになるのは,重度障害児の日常生活を検討する場合である。多くの重度障害児は医学的に極端にもろい存在であるので,しばしば彼らは医療スタッフの監視のもとで生活している。時にはチューブで食物を摂取したり、導尿管を用いて排尿したり、たえず薬を飲んでてんかん発作を減らして生きているのである(このような子供は「全くの不合格者(zero reject)」という文字通りの意昧に挑戦するだろう。ここで我々が言っているのは、特殊学級や特殊学校それに寄宿舎センターと同様に、病院や学校の中における地域社会をベースにした教育のことである)。

 重複障害のために、興奮性とか骨や筋肉の異常とか身体位置の問題を持っているので、これらの人々の活動は、OTやPT同様内科医によっても注意深く配慮されなければならない。個人のニードを誤解したり見過ごしたりすることは、とり返しのつかないダメッジを引き起こすだろう。さらにこのような人々は、一部もしくは全体的な盲やろうやマヒを持っているが、このことは眼科医、耳鼻科医、ならびに言語治療士が、それぞれの専門的知識をとりかわすことのできるコミュニケーション過程をいっそう複雑なものにしている。盲やろうや脳性マヒでも、ある重度の遅滞児の発達を促すために求められるあらゆる専門的知識を持つことは、だれにも期待できない。

 重度障害児の特徴をよく知らない補助職員がいるかも知れない。たとえば、学校カウンセラーや副主任や巡回教師などは、以前に、クレヨンを食べたり、自虐的であったり、何時間も左手を見つめていたり、みさかいもなく泣いているような子供たちを取り扱ったことは決してないだろう(Sontag, et al, 1973)。

 薬物を服用している重度障害児はしばしば見られるが、ある日には油断なく反応に敏感だった子供が、翌日には扱いやすく敏感に反応しなくなるということがある。重度障害児のための教員養成の過程の中で、教師はある種の薬物が適用される結果とその副作用を知っておく必要があるだろう。

 こういったことは、教師が彼らに対してどのように働きかけるかということに関連がある。ただし、教師には教育プログラムを計画することは求められるが、教師が唯一の関係者というわけではない。相互教育的なチームワークという原理が統治者なのである。

 このチームワークに必要なために、教師が十分かつ効果的に他の教育方法に通じるよう教育されることは重要である。たとえば、言語獲得に関する課程や心理学などが必要であろう。また身体障害の状態の臨床的な症候群や医学的側面を教えることも、教師のコミュニケート能力を高めることになろう。

 結局のところ、教師は彼ら自身の役割とチームの他のメンバーの役割を、十分知ることが大切である。彼らは他の専門家が持っている能力を知ると同様に、自らの専門領域の能力を知る必要があり、その点において、彼らの義務を遂行することができなければならない。

 広範な実習経験

 重度障害児の教師は、以前には訓練不能と考えられていた人々に直面することになろう。成果はわずかかも知れないし、あきあきするほどそれがやって来るのも遅いかもしれない。このことは、成果をもたらすのに必要な正確なスキルの応用と結びついていて、子供に実際に働きかける一方において、直接的なフィードバックと援助が必要なことを強調している。

 実習経験は、将来の教師が要請される能力と態度とを持っているかどうかを彼らに決定させるだろう。子供を教育する過程で求められる非常なまじめさということは、ある人にとってはとても難しいことだろうし、妥当しうる態度の発達が不可能な人もいる。たとえば、正常な危険を冒すことを許す態度は欠くべからざるものである。すべての子供に対するのと同様、重度障害児にも少々の衝突や打撲傷の危険にはさらしても、自己発見の喜びを経験させてやらなければならない。実習経験は過保護を避ける態度を将来の教師に育てることに役立つ。

 カリキュラム、方法論、さらには実習経験を含んだ教員養成プログラムは、軽度及び中度障害児のために行われた初期の教員養成で、我々が経験したいくつかの失敗を避けるのに役立つだろう(たとえば、定義とか特徴などの知識についてであって、教育する上でのスキルのことではない)。幸いにも我々は、しばしば起こる教師第一日目の症状、つまり「私は定義と特徴は知っているのだが、何をしたらいいのか?」という問題を少なくすることができる。

 親の教育

 重度障害児を持った親や親に代わる人々を教師が教育することは、重要なファクターである。必要な情報や支援がなければ、ホーム・ケアーは多くの親の能力と忍耐とを超えたものになるだろう。

 教師は、日常の全体的な計画や訓練にもっとも密接にかかわりあっているので、彼らが親もしくは親に代わる人々に対して、情報と支援を与えてやることが要求される。学校と家庭の間のコミュニケーションの強い糸で一貫した、包括的な24時間プログラムを工夫し実施することができる。

 教師が親を教育するという役割を引き受けるためには、彼らはいろいろな領域の知識に通じるようにならなければいけない。このことは、以前の多くの教員養成プログラムには強調されていなかった点である。親あるいは親に代わる人々の教育に効果があって、教師に必要とされるいくつかの特別な能力は次のような事柄である。

 1.過少保護もしくは過保護や不適切な期待(極端に高かったり低かったりするもの)の問題を親が克服するのを援助するために、子供の能力と進歩とを説明すること。

 2.適切な運動反応や言語行動と同様に、爆発的、常同的、自己刺激的な子供の行動を取り扱うことができるように親を教育すること。当然このことは、障害児とその同胞と親の三者にとって、家庭生活をより現実的な別のものにするだろう。

 3.健康ケアー、社会関係、レクリエーション等を提供できる地域社会の資源について、情報の源泉であること。この中には、現在の家族構成の中では、障害児にうまく対応できない親にとってかわるベきグループ・ホームや養育上の知識も含まれる。

 4.ホーム・ケアーの問題の軽減を援助し、子供の独立と自立とをさらに促進することのできる特殊な衣服や設備の資料について、知識を親に提供すること。

 5.歩行できない子供を持ち上げたり、運んだり、位置づけたりすることを親に教えること。

 6.感覚的意識、運動発達、コミュニケーション、食餌、排泄、入浴、着衣等養育のための技術を親に教えること。

 7.歩行できない子供をベッドに寝かせておくよりも、抱き上げたり、一日のある時間はたとえひもでくくりつけておくにしても、イスに正しく座らせてやることが大切であることを親に説明すること(運動発達を高めることに加えて、子供は天井以外の環境の刺激を見たり反応したりできる)。

 補助具の使用

 重度障害児を上手に取り扱うために、教師は補助具のような補正道具を用いることに十分精通していなければならない。補助具は個人もしくは環境を変容するために用いられる道具で、これによって以前に受けた障害の状態を、ある一定の状況のもとで迂回させたり除去したりするのである。Smith & Neisworth(1975)は補助具の広範なカテゴリーを五つ挙げている。すなわち、移動、生命維持、身づくろいと衛生、コミュニケーション、及び家庭補助具である。これらのカテゴリーを見ると、補助具の使用が呼吸から歯みかぎ、さらにはレクリエーションにまで、生活のほとんどあらゆる側面、にわたっていることかわかる。

 重度障害児には、重複障害の頻度が高いので、彼らの多くは日常生活で、いくつかではないにしても一つの補助具は使っている。こういった子供の教師は、はいはい着、歩行器、立テーブル、安全皿、副木、自動ベッド、車イス、工夫したスプーンやフォークやナイフ等が教室にあるのを知るだろう。さらにこの子供らの幾人かは、特殊な補助具を学校の行き帰りに使用するだろう(たとえば、調節可能のベース・リフター)。教師が運搬車に子供を乗せ降ろしする際、できるだけ事故を起こさないように、こういった車にも親しんでおくことは必要である。重度障害児の教師になろうとする人は、補助具の操作について十分に知る機会を与えられなければならない。教室でこれらの道具が十分効果的に働くよう、これらの用い方や維持の方法を知らなければならない。

 盲、ろう、マヒ、音声、筋肉、骨などの異常といった障害の結果を変えようとする新しい道具が開発されつつある。

 このような道具の研究、開発、利用が続くにつれて、これらに教師が精通している必要性も増加するだろう。

専門的知識の源泉

 我々は、重度障害児の教師が、なぜまたどのような分野で教育を受けなければならないかということについて論じてきた。今や問題は、重度障害児の将来の教師を養成するために、大学はどこで専門的知識を得るかということである。

 教育者は重度障害児に対して、教育と訓練を提供すべく法的権利を急速に得つつある。この専門的知識があろうとなかろうと、公立学校は、もっとも重い障害児のために学級を設置するであろうし、単科大学も総合大学も教員養成を始めるだろう。そこで我々は、重度障害児に教育と訓練を与えるという課題を果たそうと思うが、もし我々がもっとも効果があって十分な仕事ができるとすれば、それは目下教育方法の知識が欠如していることを認識し、それを正していかなければならないということである。

 Blatt & Garfunkel(1973)、Bricker(1972)、Brown(1973)、Gold(1973)、Haring(1975)、Hayden(1975)、Lent(1975)、Sailor & Mix(1975)、Tawney(1974)らの最近の研究は,重度障害児の教育に効果的であるとされる用具や技術や方法等を知るため、第一次的な文献資料として活用すべきである。またすぐれた施設職員のりっぱな研究(Azrin & Foxx, 1971 ; Bensburg, et al, 1965 ; Gardner, Brust & Watson, 1971 ; Luckey, Watson & Musick, 1968 ; Watson, 1967)も詳細に検討されなければならない。

 手に入るこのような専門的知識に注目することは、現在知られている事柄を摂取し拡大させていくための、いっtそう進んだ研究の必要性を小さくするものではない。相対的に初期のこのような努力が無視されないことを保障しているだけなのである。

 我々が重度障害児を取り扱うときにはほとんど経験しないけれども、公教育はこのような子供たちに真の利益を提供している。公教育を通して、重度障害児は組織的な準備の性格によっては、地域社会での生活とか、学校の行き帰りの移動とか、一日中多くの正常な活動に接触すること等により、かなり大きな環境的刺激を受けるであろう。たとえば、学校の中であちこち運ばれるという単純な活動も、広範な経験を与えるのである(たとえば、人々との能動的あるいは受動的相互作用)。しかし、このようなことは我々の現在の専門的知識の中ではなく、規則的な日常生活(常態)の中において、困難ではあるが、このような日常生活が、重度障害児のための地域社会をベースにした公教育の正当性を証明するのである。

結  論

 重度障害児の教育権を命じている法律や判決は、示されてきたし今も示されつつある。

 教育権は、もしそれが履行されるとすれば、かつては教科的な能力の必要性を持っていないと考えられた者とか、社会生活のための基礎的な生活スキルの獲得すらできないと考えられていた者とか、伝統的に規定されている教育を受けるに十分な年齢ではない者等を、我々の特殊教育の範囲内に引き入れるであろう。多くの特殊教育者は、以前には決して彼らを見い出さなかったが、それは彼らが見えなかったのである(Goldberg & Lippman, 1974, p.331)。

 重度障害児を教育するために養成された教師は少ないし、このような子供の教育にあずかる教師を喜んで指導しようという特殊教育の大学教授も少ない。このことは我々が仕事ができないということを言っているのではない。我々はやれるし、しなければならない。しかしながら、もし我々がこのことに新たなチャレンジをしようと思うなら、注意深い計画を立てなければならないだろう。

 重度障害児のために公教育を保障するための法律が通過しつつあるにもかかわらず、職員の養成に関してはほとんど資金は用いられない。当然このことは、我々が最初余り重度ではない障害児のニードに応じようとし始めたとき、不適格で覚悟のない教師の採用という点で犯した同じような失敗をくり返す危険性を高めてしまう。軽度及び中度の障害児に特別なサービスを与えることが緊急だったために、多くの教師は自分たちの仕事の覚悟ができていなかった。不幸なことには、特殊教育の一般的な世評にも苦しんでいる障害児たちがいる。2~3の州では軽度及びある場合には中度障害児にとって、養成認定された教師がさし迫って不足している状態を克服しようとし始めているが、重度障害児のためにも、教育を受けた職員を新たに要求していかなければならない。

 もし職員の養成のために適切な支持がなされなければ、重度障害児の学級には特別な訓練を受けていない教師たちか配置されてしまうことになるだろう。もしこのようなことが起これば、この子供たちは教育的環境の中での十分な進歩はできなくなる。教育を受けていない教師が、たとえベビーシティング・センターや水増しカリキュラムをつくったとしても、進歩は望めないだろう。重度障害児はこのような種類の教育プログラムを求めているのではなくて、厳しい教育を受けた特殊教育の教師によって開発され、十分計画され練られたプログラムを必要としているのである。

Exceptional Children, Jan. 1976から)

参考文献 略

*ノース・アイオワ大学特殊教育学部助教授
**ノース・アイオワ大学特殊教育学部準教授
***ノース・アイオワ大学大学院助手。本論文作成にあたり、部分的にHEW(保健教育福祉省)特別プロジェクトから援助を受けた。承認番号451AH50558
****東京教育大学大学院


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1976年10月(第23号)10頁~17頁

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