教育  障害児を持つ親と教師との関係

<教育>

障害児を持つ親と教師との関係

Special Parents,Special Relations

Rod Ballard は特殊学校における親と教師との関係について、複雑でこわれやすい性質を有するものとして分析した。Rod Ballard はダウン症の少年の父親であり、Exeter大学のソーシャルワークの講師である。

Rod Ballard

大石勝代*

 教育目標が達成できるかどうかは、家庭と学校との関係によって大きく左右される。たいていの学校は、学校内で親と教師が非常によく協力しているか、あるいは教育の場から親を排除してしまっているかの両極端の間に位置づけられる。

 しかし、進歩的な考えを持っている人たちは、この親と教師の教育での協力の内容を、次のように考えている。つまり、教室内で親が教師の手伝いをすること、教師が家庭訪問をすること、活発なPTAを作り教育について論じあうこと、子どもたち(親も含めて)に役立つ、その地方の地方色豊かな知識や技術を利用することなどである。こういう進歩的な考え方を実現するには、親が学校へ来て、自分の子どもの教育に参与することを教師が許可する場合、十分に納得していることが必要条件である。

 コミュニティモデル対伝統的モデル

 こういう方法で成功するためには、多くの親たちに討論の機会を与えることである。子どもの成長や発達についてのいろいろな問題を活発に討論させ、当面している困難に立ちむかわせ、実際に処理させることが必要である。このことがうまくいけば、多くの子どもが持っている学習上の困難や、成長する力、創造性などは家庭内の人間関係に多く依存していることが、親に認識されるようになる。もし、教育の「コミュニティモデル」が広く採用されるならば、子どもたちやその親のための社会的意識を高めることに役立つであろう。

 もし親が積極的に学校へ行ったり、教師が家庭訪問したりしないと、親や教師が子どもたちを責任感の強い、成熟した成人に教育していくことが難しいであろう。こういう前向きの姿勢でなく、子どもの教育に親と教師が手をたずさえて取り組まないのがこれまでの、父母と教師の会のふんい気であり、英国の教育界に支配的な空気であった。これをここでは伝統的モデルと名づけることにする。この伝統的モデルには有意義な方法で親を教育に参加させる試みはみられない。教師と親のそれぞれの集団間の関係は形式的であり、親たちには、学校で自分の子どもにどういう教育が行われているかわからない。PTAはあっても、その主な活動内容は、学校の設備の改善のための寄付集めであり、子どもの教育をどうするかという問題についての討論はあまりなされていない。教師側にとっては、学校で起こる困難な問題について、親といっしょに考えてみる機会は作れそうにない。さらに、子どもの教育についての、親たちの関心は、教師といっしょに考える機会がないために、だんだん薄れ、欲求不満にも陥っている。教育に直接関係ないように見える団体や集会に、参加する機会はないし興味や関心もあまりない。

 このような伝統的モデルが、現教育体制の中で存続しているのには多くの理由がある。親と教師の間には、いろいろな問題が横たわっている。というのは、長い間家庭内で養育されてきた子どもが、初めて出会う外部の公的な人が教師であり、しかもその人に自分の子どもを委ねなければならないという事実がある。つまり核家族という形で孤立し、その中で親(特に母親)と子どもの関係、結びつきが強くなりすぎている現在、親は教師に対し、ねたみや嫉妬の感情を持たされてしまう。

 ある母親が5歳になった子どもを「手離さなければならなく」なったとき、教師というものが、子どもについてよく知っていると頭では理解していても、母親というものは自分のよく知らない人に子どもを預けてしまうことに、無念の感情をいだく場合が多い。しかし、こういう感情を持っても、その体制を受け入れ、子どもを学校へ送り出している。この感情はそのままの形で表されないで、母親の生活に歪んだ形で表れる場合がある。他方教師はこういうことを感覚的に知っていて、親との関係に不安を感じ、さらに親との結びつきの強まりを恐れ、それから自分を守ろうとする。そのために、教師と親は互いに安全でいられる距離を保ちながら、関心を持ち合っていることに無意味さを感じ、教育の伝統的モデルの存続を許しているのである。

 もう一つの問題は、教師と両親との関係について専門的な面からみた場合のそれである。例えば、医師などのような専門家が、患者と人間関係を持つわけであるが、それは医師が患者の人間としておかれている状況を患者よりもよく知っているという、そういう関係のことである。患者は、一方では自分の持っている問題を他人に知られたくない気持ちを持っているため、不安や緊張を高めている。というのは、専門家がその問題を解決するための仕事をすすめているのかどうか、患者には知る方法がないからである。こういうことがあるので、専門家は社会的承認を得なければならないことになっているのである。つまり、専門的な技術を行使する人を統制することによって、患者を保護するのである。この社会的承認によって専門的な技術を完全に行使できるのである。各々の専門家が適切な専門機関に所属し、資格が与えられ、専門的な活動に従事できるようになっているのである。専門的な援助を求めている人は、その専門家の個人的考えや欲求が、混入してくることのないことを願っているのである。そのため弁護士などの場合、訴訟によって個人的利益を得たりすると、「除名され」仕事が得られなくなってしまう。これらのことは、すべて専門家と患者との間に、基本的に一定の距離をおいておくという効果をねらっているのである。

教師と親の関係

 教育活動は「半専門的」である。というのは、教育活動が、教育課程の内容として、教授法、人間の成長・発達などの領域を有しているけれども、他の分野と比べると知識があまり複雑ではない。多くの専門家と同様に教師もまた、給料や地位などを高めることに関心がある。

 前述のような専門的関係のかかわりあいは明瞭である。親たちとの「過度のかかわりあい」は、個人としておびやかされるようになる。なぜなら、そのようなことはわざわざ苦労するためにかかわりを持つようなものだし、かかわりを持った人との関係にはある一定の距離をおこうとする専門的倫理にさからうようなものだからである。職業としての専門性を確立するために、信頼されるイメージや考えを社会の人々に示そうとしたり、親-子-教師の創造的な関係をつくりあげていこうとするには、非常に大変な努力がいるのである。

 このような感情が普通教育や特殊教育における親と教師間の関係を狭めてしまうのであるが、特に特殊教育においてはお互いに過敏になっているので、恐れなどが生じやすい。

 どんな家庭でも、障害児がいることが様々な情緒的問題を持っている。障害児がいることで体験する共通の情緒には、混乱、当惑、怒り、絶望、フラストレーション、苦悩、悲嘆などがある。もちろん報いられる面もある。今できなかったことがようやくできた!やった!という感情がそうである。もちろん、悪い経験や悪い時の方が多い。困難がたちふさがったり、突然もうだめなんだと思う感情、さらにもう何をやっても失敗するに決まっていると思う感情などが満ちているのである。我々にはここに、障害児を持つ親にとってアウトサイダーの援助─つまり教師の援助─を必要とする理由があると思われる。

否定的感情の表現

 以上述べた親の感情は非常に強力なものであり、ある時には破壊的な方法で表れるような時もある。そのような感情は社会的に受け入れられないので、はけ口をどこに求めたらよいか悩む。健全な親の場合、他人に話すことで解消している。

 障害児がいることで自分たちの生活が破壊されると、ソーシャルワーカーや教師などを不満のはけ口にすることも珍しいことではない。親に援助を与えようとしている人の議論の中心は、何が「合理的であるか」何が「可能であるか」である。彼らにとっては、親にはいろいろ要求が多すぎて困惑しているに違いない。親は子どもを扱うのに「過保護」になってしまったり、子どもにとって必要な「刺激をうまく与えない」でしまったりする。また「他の正常な兄弟を犠牲にして、障害児を特別視してしまう」。もちろん、また、「調教師」であったり、「献身的な親」でもあったりする。正常な社会生活をおくれないので、社会に対して我々の持っている感情をいつわり隠してしまい、そのため、それが歪んでしまい、出口を求めてさすらう情緒と懸命に戦っている時間が多すぎる。

 これらの感情について、この論文の著者の息子が入っていた三つの特殊学校では、彼の知る限りでどんな実際的な働きかけも試みられていなかったということは、何も驚くべきことではない。PTAの会合で給食設備の宣伝をしたり、基金を募ったり、バザーを組織したりする方が安全なのである。実際、障害児がいることで起こってくる感情等の、本当は最も関心がある面についての話し合いの機会は、今までになかったし、現在でもないのである。

 それでも、我々は次のような経験をしている。特殊学校の教師は、この学校は家族が自由に来てもいいようになっていて、いつでも相談に来てほしいと言って、親たちの感情にこたえている。教師たちは、PTAが発達してうまくいけばいいと、ベストを尽くしているなどとも述べている。

コミュニケーションの質

 親と教師の間に起こるコミュニケーションの質と、内容について考えてみよう。親は子どもたちが受けている指導計画や教育目標についての話し合いの仲間に入った方がよいが、教師は親たちに頼りすぎてはだめであると思う。もちろんこれは一般的原理であるが、より重要なのは、障害児に関心が向けられた時に、親が他の人の態度に敏感になっているので、情報やアドバイスを受けるのは、かなり困難であろうということなのである。

 障害児を持つ親が、社会の期待する人間像(成熟して、独立した大人)に育てることができなかったという、失敗や敗北の気持ちを持っているということを、教師は見過ごしてはならない。したがって、親はすでに障害によって発育が阻止され、壊されている子どもの発達に関して討論を重ねることは、また失敗するのではないかと心配しいやがっているのである。だから、親は討論を自分への批判として、受けとってしまうのである。

 障害児がいることで、親のセルフイメージ(人として、自己について持っている見方や感情)がおびやかされるので、人々がどんなことを言っているのか敏感になっているのである。このように、親は批判に用心深くなっている。子どもについて人人がどんなことを言っているのか歪んで受け取り、罪の意識を感じてしまうのである。そのような感情から守ってやろうとすると、ある親は非常に自己防衛的になったり、内向的になってしまったり、なげやりになったりして、次のかかわり合いから逃れてしまおうとするのである。

 このコンプレックスを扱う最もよい方法は、何も干渉しないことである。すなわち危機がやってきたことがはっきりするまでは、それらの感情に探りを入れないで、そっとしておいてやるのがよい。

進んで困難とたたかうこと

 他の人の意見を理解するために、他人とのかかわり合いでいらいらすることは、非常に苦痛なことであるけれども、さけて通ることはできない。我々の住んでいる社会では、このような不愉快な感情は、食い止めるべきであると思われている。しかし、実際そのような感情は事実存在し、「正常な」親にも潜在しており、障害児がいることでそのような感情が顕在化してくるのである。我々とコンタクトを持ちたいと思い、援助をしたいと思う専門家は、共感的に理解する必要があり、親の持つ感情に敏感になるべきである。我々が、何かに対して非合理的に怒った時、現象面だけをみるのではなく、背後に目をやり、障害児に関係のある我々の苦痛な面を、表現しようとしているのだと理解してほしい。しかし、それは簡単なことではないかもしれない。なぜなら、我々は、そんなふうになっている自分たちの反応を、認めることができないかもしれない。しかし、それは試みる価値があるものである。

 障害児、特に知的障害児は、学校でも家庭でも、注意や刺激をより多く必要としているのである。子どもとどういう関係に立ったらよいか、子どもの学習に何をしたらよいかなど、専門家に助けてもらわなかったりすると、親は子どもにどのようにして注意や刺激を与えたらよいか、迷ってしまうだろう。例えば、手の器用さとか、排泄訓練とか、食事訓練などに、注意を向けて、「何が得意なのですか?」とたずねてくれたりする。いつも、このようなことをすべきなのだろうか。子どもというものは、いやいや学習するのである。いやいやするのをなくすには、どうしたらよいだろうか。あるいは家族の外の者にも同じ注意を与えるために、子どもをそのままにしておいていいだろうか。

 このようなことについて、親は何をしたらよいか、言ってもらった方がいいとは思っていない。何をしたらよいかを言われた時などは、多くの親は腹をたててしまうかもしれない。我々が必要としていることは、対人関係で自己防衛になってしまわないで、楽な自由な気分で、教師と語り合いたいことなのである。子どもたちとの生活について、深く語り合うことができるならば、親は障害児との生活の諸相をうまく処理することができ、あまり悩まなくてすむだろう。

 ところで、このことは心理療法などでみられるように、苦痛な感情を積極的に表現するために、親が教師を必要としているとは限らないのである。我々は「治療されること」を欲しているのではなく、我々のいろいろな感情や悩みを、聞いてくれる人がほしいのである。コミュニケーションによって、我々の中に潜んでいる隠れた意味に注意を向けて、表現したいと思っていることを受けとめてくれる人がほしいのである。関心のあることを話し合おうとする励ましや、楽な気持ちにさせようという配慮は、特殊学校ではなされていないのが現状である。親を話の仲間に引き入れる必要がある。このようなことは、障害児を生んだことのない人には、いらいらすることかもしれない。我々は彼らに、我慢してほしいと頼もう。彼らがそういうことを知らないのだから。

 早晩、現状から離れられないにしても、子どもとの生活がうまくいっていない現実を、少しでも援助するために何らかの予防措置が必要である。障害児が、学校でうまくいっているかどうか─気持ちよく学習しているかどうかなど─をみるために、家族関係などの障害児の要求に対する家族の情緒的反応を調べてみることは重要であろう。この種の援助は、法によって定められた機関が行っているわけだが、これはまことに少ない。地方の保健センターのサービスも低下している。それでも、ある地域では知的障害児のいる家庭を、ソーシャルワーカーが訪問している。しかし、広く行われているかどうかは疑問である。

 我々は、更に多くの人々と接触を持ちたいと思う。言っていることが矛盾しているようにみえるかもしれないが。一方では我々の申し出に対し、あまり如才なくないやり方で、更にあまり批判的でないような人─そういう人は注意深い人たちであるが─がいてほしいし、他方では話し合いの機会をつくってほしいし、我々の否定的な感情を見つめる手助けをしてほしい。それは非常に困難であるけれども、多分、我々の混乱を受け入れてくれるだろうし、我々を受容してくれるにちがいない。我々が、言おうとしていることを拒否しないでほしい。学校の給食室の装飾ももちろん大事だけれども、そういうことだけを話し合いのテーマにしないで、我々が言いたいことも取り上げてほしい。ほかの人が、そういうことは不快であるからといって、本質的に安全な話題だけにしぼらないでほしい。

 このような調子の意見は、否定的で批判的に聞こえるかもしれないが、この社会に住んでいる人人が自己防衛的にならないで、オープンで、友好的で、競争的にならず、正直に生きていけるように願っているのである。競争のない社会で、人を利己的にもしないで、不幸にもしないで、生きていけるために、我々がある点で少しでも障害児のようだったら、この世は住みよい場所となるであろう。いっしょに人間らしくやっていこうという弁解を聞くのはすばらしい。我々は、そのような弁解を必要としている。この世は価値を気にする世の中であるが、障害児は学校で注意深く保護され、養育される必要がある。そうなれば多分、我我はお互いに、少しでも心にかけるようになるだろう。

四つのすすめ

 我々は、四つの提案をお勧めしよう。

 (1)家庭に、子どもと親を訪問する取り決めを作ろう。例えば、教師が巡回訪問をしている間に、学校での子どもの指導を、親にしてもらったらどうだろうか。

 (2)子どもや親たち自身について、グループで話し合う機会をつくろう。

 (3)子どもの進歩について、規則的に調べよう。できれば、年1回、教師、医師、ソーシャルワーカー、その他の人々によって、医学的検査などをしてほしい。親を、社会保障のチームに組み入れよう。

 (4)親から、規則的に教室に来てもらい、援助してもらおう。

 これらのお勧めはたやすく効果をあげるだろうし、お金もかからない。主な難点は教師と親を説得することができるかどうかである。これらの勧めを達成しようとすると、困難がおこってくるかもしれない。というのは、今まで生活してきた態度を変えなければならないからである。どんな人でも、何年間もしてきたことを、急に変えねばならないというのは、おもしろくないことだ。我々は、障害児を、学校で養育した方がよいという考えを述べたいが、躊躇しているのが実状である。なぜなら、時々プライバシーを無視しているといって、非難されるからである。我々は親として、また同様に教師として、お互いに不完全さを持っているのだが、この不完全さをお互いに認め合い表現し合うことは、中々できないことなのである。

 親と教師の二つのグループが、お互いを理解し合い、協力し合ってすすんでいくことを、熱望してやまない。我々は障害児がいることで、暗く、冷たく、不愉快な面を持っているのだが、そういうことも信じ合い、許し合いながら、すすんでいくことを、また熱望してやまない。

 本論文は障害児のための幼児行動グループが、ワーノック委員会に提出した論文であり、著者はそのグループの幹事である。

(Special Education,Sept.,1975から)

山形女子短期大学講師


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1977年1月(第24号)27頁~31頁

menu