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<教育>

軽度精神薄弱児に対する特殊学級入級措置に代わるべきもの

Alternatives to Special Class Placement for Educable Mentally Retarded Children

Robert H.Bruininks & John E.Rynders

細村[迪]夫*

1. 軽度精薄学級に代わるべきもの

 公立学校は、軽度精神薄弱(EMR)児の通学制学校プログラムを、1896年に初めて、ロード・アイランド州(Rhode Island)のプロビデンス(Providence )に設けた。知恵遅れの子供に特殊教育サービスを行うこうした最初の試みは、特殊学級の形態をとった。これらの特殊学級は、本来、公立学校から典型的に締め出されていた子供たちに教育の機会を与えようとして出発したものであるが、知恵遅れの子供たちに、普通学級プログラムの子供たちと正常な社会的交流を可能にしたので、制度的入級措置というよりも、もっと弾力的な教育を具体化するように思われた。

 知恵遅れの子供の最初の特殊学級の開設は、1896年においてさえ議論の的と考えられていたので、プロビデンスのコラムニストによって、「ばか学級(The Fool Class)」というタイトルの皮肉たっぷりの記事で報告された(Kanner, 1964)。最初の、広く用いられている一般知能尺度の発明者であるビネーとシモン以外のだれも、「特殊学級の一員となることは決して差別のしるしであろうはずがない。そしてそれに値しないようなものは、登録を差し控えられなければならない。」(Binet & Simon,1965,p.82 )とは述べなかった。たとえ、当時の当局がこうした入級措置の限界を認識していたにせよ、特殊学級は、知恵遅れの子供たちに特別の教育援助を与える主要な手段として発展し続けた。

 知恵遅れの子供に対する特殊教育は、主に親のグループと専門的諸団体の支援によって刺激され、過去75年間のうちに、特に過去20年間に劇的に拡充してきた。1966年までに、540,000人以上の子供が精神薄弱児のプログラムに在籍した(Mackie,1969)。統計によれば、1963年までに、特殊学級プログラムにおけるほぼ90%の精神薄弱児が固定式特殊学級で教育を受けていた(Mackie,1969)。

 1963年以降、他の教育形態によってサービスを受ける知恵遅れの子供の数が疑いなく増加してきたにもかかわらず、固定式学級は軽度精神薄弱児にサービスを行う特殊教育における優勢な教育形態であることを続けている。

 最近、特殊教育の諸実践についての迷夢が、広範囲の個人や諸機関の活動によってさまされてきている。例えば、数多くの著者が、精神薄弱と分類された子供の多くが、特殊学級入級措置を講じられることの不適当性を論じている(Christophos & Renz,1969;Deno,1970;Dunn,1968;Johnson,1962;Lilly,1970 参照)。(これらの議論の大部分は、IQがおおよそ70と85の間にある境界線児の特殊学級入級の問題に主に焦点を当てている。これらの著者は、この分野の議論や問題の多くが、もっと重い知恵遅れの子供たちにサービスを与える問題に等しく適用できると信じている)。最近の諸論文に反映された、特殊教育において広く行われている教育実践についての「迷夢からさますこと」は、知恵遅れの子供の特殊学級入級措置の有効性を探究する実験的研究の失望すべき研究結果及び少数社会集団に属する子供が、異常な割合で特殊学級に入級していることに起因している(Chandler & Plakos,1969;Dunn,1968 ;MacMillan,1971;Wright,1967)。

 ダン(Dunn,1968 )の論文は、知恵遅れの子供に対する特殊学級入級の問題について、特殊教育関係者の間の多くの議論や反省のきっかけとなった。ダンの論文の中心的主張は、特殊教育関係者が軽度精神薄弱児、特に、低い社会・経済的地位の少数社会集団出身の子供に特殊学級入級措置を講じるという罪を犯してきたということである。彼は更に、特殊教育関係者が、行政制度及び教育課程の面で軽度精神薄弱児特殊学級に代わるべきものを開発するのに失敗したと告発している。〔ダン(1968)とその他の者によって明らかにされた問題点に対する実験的な支持と理論的説明は「Focus on Exceptional Children」誌の前号で、MacMillan (1971)によって十分に考察された。〕

 実験的研究結果、理論的圧力、社会の意識が、特殊教育の分野は知恵遅れの子供のニードにいかに応じるべきかという問題についての白熱の論争をまき起こした。表1には、軽度精神薄弱児の特殊学級入級に関しての一般的な賛否両論のいくつかが要約されている。この論争のどちらの立場の主張も、あるものについてはその妥当性は議論の余地がないようにみえるが、我々の主張は、知恵遅れの子供の特殊学級入級についてのこの議論の多くが、極端な立場――現在の実践の不当な保証か又はそれらの全廃を叫ぶ耳ざわりな要求か――をつのらせる結果を生じる傾向があるということである。

表1 軽度精神薄弱児の特殊学級入級についての見解の抜粋
賛成 反対
1.調査研究の証拠は、普通学級の精神薄弱児は通常より能力のある学級仲間によって拒否されることを示している。 1.特殊学級入級は、精神薄弱児を普通の学級仲間から孤立させる。
2.普通学級の精神薄弱児は、より能力ある学級仲間と競争することができないため、自尊心を傷つけられたり、失ったりする。 2.特殊学級再入級は、精神薄弱児に焼印を押し自尊心の損失と他の子供たちによる受容の低下に結果する。
3.能力又は学力差を考慮しないで子供を授業に割り当てることは論理的にばかげている。 3.精神薄弱児又は普通児の能力別編成の実践を支持する証拠はほとんどない。
4.特殊学級の有効性についての証拠は、たいていの研究が研究計画において重大な欠点があるので決定的でない。 4.軽度精神薄弱児は普通学級の教科学習において、特殊学級と同じか又はそれ以上に進歩する。
5.特殊学級の批判は、明らかに、不十分に実践されたプログラムの例に基づいている。 5.特殊学級を改善するために、これ以上のエネルギーを費やす意味がない。というのは、特殊学級制度は、子供の社会的・教育的ニードをあまり満たすものでないからである。
6.現在の実践に対する代案は望ましいものではなく、それは軽度精神薄弱児の取り扱い方法として社会的助長(social promotion)にもどるであろう。 6.特殊学級を補い又はその代わりとするために他の、もっと弾力的な行政上及び教育課程上の制度がつくられるべきである。
7.適切に経営された特殊学級は、知恵遅れの子供の主要な学習問題を取り扱うのに最適である。 7.特殊学級制度は、教科学習の失敗の責任を、学校や教師によりも子供に不当に押しつける。
8.特殊学級制度は、診断や入級措置の誤りのために不当とされるべきではない。 8.特殊学級の存在そのものが、多くの子供、特に少数社会集団出身の子供の誤った入級措置を助長している。
9.民主的教育理念は、すべての子供が同一の教育的経験をもつことではなく、すべての子供がそのニードと能力に応じて等しく教育の機会を与えられることを示している。 9.特殊学級入級措置は知恵遅れの子供を普通児から隔離する(その逆も同じ)ので、民主的教育理念に一致しない。

(注)この表に要約された見解のほとんどは、Dunn(1968)、Milazzo (1970)、Kidd(1970)、Johnson (1962)、Lilly (1970)、Christophos & Renz(1969)による最近の論文に基づくものである。

 今や、特殊学級の問題の問答について、専門的エネルギーの不必要な浪費を断ち切る時である。急激な変化を求める議論の不当な保証又は伝統的なパターンへの完全な従属は、すべての子供に等しく教育の機会を保証するという現在の困難な問題を解決することにほとんど寄与しない。

 子供へのサービスの進歩は、一つの弾力性のない制度的形態から、別の同様に硬直した形態にとり替えるべしという要求から生じることはほとんどないであろう。必要なことは、単に特殊学級の子供がこれまで以上の援助なしに普通学級にもどされるということではなく、むしろ多様で弾力的なサービス制度、指導内容・方法、援助体制が障害児とその教師の両者に資するように計画されることである。軽度精神薄弱児特殊学級に代わるべきものに焦点を当てることは、変化しようとする力と保守しようとする力とをより密接に並置させることによって、当面の[葛]藤を減少させることができよう。

 この論文の主な目的は、軽度精神薄弱児の教育的・社会的ニードを満たすための、実行可能な特殊学級に代わるべきものを概観し、論ずることである。様々な行政制度上及び教育課程上の代案を説明するとともに、特殊学級制度によって現在利用できるものよりも、もっと広範囲に、子供と教師が自由に選択できる教育課程を提供するプログラムのいくつかについて述べることにする。しかし、その前に、特殊学級入級措置に対する行政制度上の代案の議論の背景を知ってもらうために、次の節では、知恵遅れの子供の特殊学級入級についての論争に関係する研究結果及びいくつかの仮説について簡単に述べてみよう。

2. 一般的研究結果及び仮説

 ジョージ・サンタヤナ(George Santayana)は、かつて、「過去を記憶していない者は、それを再び体験させられる運命にある。」と書いた。特殊教育関係者は、軽度精神薄弱児特殊学級の研究と実践の歴史を調べることによって、過去のプログラムの発展を妨げてきた障害物の多くを将来避けることができるであろう。この論争に関する研究結果と存続している仮説について、以下、簡単に論述する。

(1) 証拠

 過去40年間を通じ、多様な研究計画、方法、標本を使用した20以上の研究が、軽度精神薄弱児の特殊学級入級措置の有効性に関する研究結果を報告している。〔この分野の研究結果について十分な論議をするには、Cegelka & Tylor (1970)、Goldstein (1967)、Guskin & Spicker(1968)、Johnson (1962)、Kirk(1964)、MacMillan (1971)の論文を参照のこと〕

 最初の研究努力は、同一学校内の特殊学級在籍児と普通学級に在籍する知恵遅れの子供とを比較することに集中した。これらの研究は、特殊学級在籍児は普通学級在籍児に教科面では劣るが、学級への適応やパーソナリティにおいては、同等か又はわずかながら優れているということを見いだしたのが特徴的であった。

 子供たちは、典型的に、学習困難ばかりでなく異常な行動問題のために特殊学級にまわされてくるので、普通学級の知恵遅れの子供が学力においておそらく優越したのであり、学業に関連した課題に成功する、より高い動機をもちえたのであろう。普通学級の子供に有利な、この選別の偏りが、学級適応やパーソナリティを測定するのに用いられた不十分な方法と相まって、これら初期の研究結果を価値のないものとした。

 その後の研究は、特殊学級のない教育区の普通学級を比較集団として用いることによって、標本抽出の偏りをコントロールしようと努めた(Blatt,1958;Cassidy & Stanton、1959)。これらの研究結果はあいまいなもので、一つの研究は普通学級と特殊学級の間に学力において有意差のないことを報告し(Blatt,1958)、一方、他の研究は普通学級標本に有利な差異があることを報告した(Cassidy & Stanton 、1959)、そして再び、普通学級の知恵遅れの子供に有利な標本抽出の偏りがあった。というのは、普通学級標本は、特殊学級があったとしても、そこに入級紹介されなかったであろうと思われる多数の子供たちをおそらく含んでいたからである(Goldstein 、1967)。

 ゴールドシュタイン、モス、ジョーダン(Goldstein,Moss,Jordan,1965 )は、第1学年に入学する時に、知恵遅れの子供を普通学級又は特殊学級に無作為に割り振って入級させることによって、抽出の偏りの問題をコントロールしようとした。また、この研究では、研究方法の改善、特殊学級の教育課程の標準化、資格をとってから間もない特殊教育教員の採用などを行うことによって、これまでの諸研究の欠点から逃れようとした。4年後、二つのグループの間には、IQの伸びにも、教科の学力にも何ら有意差がみられなかった。少数の低IQ(81以下)児と高IQ(80以上)児のその後の分析では、低IQ児は特殊学級入級によって、教科面ではより多くの利益を得、他方高IQ児は普通学級において、学力がより向上したことが示された。

 特殊学級の有効性に関する諸研究からの証拠は、大部分決定的でないし、入級措置が子供に及ぼす影響について、ほとんど情報を提供していない。その上、入級措置が知恵遅れの子供のパーソナリティの発達や個人的適応に及ぼす影響についての研究結果は、特に矛盾しており、マクミラン(MacMillan,1971)は次のように結論するに至っている。

 ……我々は、入級措置がパーソナリティに及ぼす影響をまだ理解していない。我々は、一方では、子供が特殊学級で悩んでいることを示す証拠を見いだし、他方では、証拠は彼が普通学級において悩んでいることを示している。……言い換えれば、……その子供は勝つことができない――しかし、証拠のすべては、標本抽出の偏り、入級措置前の経験のコントロール欠如、基準となる尺度の疑わしい性質などの点からみると、妥当性が疑わしい。

 軽度精神薄弱児特殊学級の有効性を確かめることに関する諸研究の研究計画の不十分さと研究結果を解釈する諸問題のために、「利用しうる証拠は、決定的といえず、基本的に解釈不可能である。」という結論に導かれることは避けがたい。ネルソンとシュミット(Nelson,Schmidt,1971 )が述べたように、「特殊学級の有効性に関する論述は、だれのための有効性か、どんな状況における有効性か、どんな時期における有効性か、どんな目標に向かっての有効性か……というような数多くのそれに先立つ論述を前提とするのである。」(P.382 ~383 )。ネルソンとシュミットによって引用された問題が、特殊学級の有効性の研究において考慮されるまでは、利用しうるデータの標本人口をこえた一般化は危険である。特殊学級の有効性についての知識が、この論争を解決する方向にほとんど貢献していないことも同様に明らかである。利用できるデータは、そのような入級措置の廃止を勧める議論に対しても、また特殊学級の維持に賛成する議論に対しても、等しい妥当性をもって適用され得るのである。論争となっている議論は、教育的というよりも、より政治的なもので(Engel,1969)、約40年の間に報告された研究からの支持をほとんど又は全く集めていない。

 過去の研究努力をよく調べてみて明らかになる一つの欠落点は、現にある特殊教育制度が個々の子供に様々な方法で影響を与えるかもしれないという可能性を無視しようとしたことである。それのみならず、まだ残存している研究結果の妥当性は、特殊学級プログラムの性質に関する数多くの証明されていない仮説に基づいている。以下の節は、知恵遅れの子供に対するサービスの発展を促してきた2~3の存続している仮説を検討する。

(2) 存続している仮説

 過去60年を通して、特殊学級の本質や目的に関するいくつかの存続している仮説が、プログラムの発展を擁護するためのよりどころとされてきた。現在の論争についての見通しを広げるためにも、また障害児のためのプログラム開発に含まれる問題点の理解を深めるためにも、これらの仮説を検討することは有益であろう。

 ① 等質集団編成

 知恵遅れの子供のための特殊学級プログラムは、指導目的のために、子供たちの集団内差異を狭める一つの方法と考えられた。仮説は、特殊学級に入級措置されたIQ得点が50と80の間にある子供たちは、極めて類似した教育指導上のニードを有するということであった。

 IQ得点の範囲が特殊学級において狭められるという主張に異議を唱えることはできない。しかしながら、重要な教育的特性に関しては、特殊学級における個人差の範囲は、必ずしもそれ相応に狭められていない。大都市地域の調査において、著者たちは、いくつかの特殊学級に読めない程度から第6学年程度にわたる読みのアチーブメント得点をもった子供たちがいることを見いだした。これらの特殊学級については、他の教育に関係する諸特性もおそらく同様に異質であり、結果的には、狭いというよりもむしろ広い範囲の個人差をもった子供たちの集団となっていたようである。他の研究は、多様な学習課題の遂行において、普通の子供たちの間によりも知恵遅れの子供たちの間に、より大きい集団内変動性があったことを報告している(MacMillan,1971)。したがって、特殊学級は極めて類似した学習ニードや特性をもった子供たちを、必ずしも含んでいないように思われる。

 診断の概念は、多くの場合、特殊学級の子供たちを等質集団とみなして、個別指導を与える意図を打ちくだく原因となっている。図1は特殊教育における診断や検査努力の多くの根底にある類語反復の推論を描いたものである。

図1 特殊教育における典型的な診断順序

図1 特殊教育における典型的な診断順序


 この図は、学習又は適応における特殊な問題のために、子供たちが最初に特別なサービスに照会されることを示唆する(子供の問題の原因については何の仮説も立てられていない)。最初の照会に次いで、知能と学力の面において子供の評価がなされる。もし子供が知能検査では十分低い得点をとると、彼は通例、特殊教育援助を受けるために照会される。しかしながら、診断順序の終わりまでに、精神薄弱が子供の問題の原因説明として出てくる。相関する事象にもっともらしく原因を帰することは、類似したIQ得点をもった子供たちの問題が同様な原因から生じるという結論にしばしば導く(Reynolds,1970 )。一たん特殊学級に割り当てがなされると、子供を個人的基準よりもむしろ集団的基準に基づいてみる強い傾向がある。

 特殊学級は類似した教育的ニードを示す子供たちを含むという主張、又はそうした入級措置はより徹底した指導の個別化へ導くという主張を支持するいかなる証拠も得られない。不幸なことには、類似した知能指数をもった子供たちは、また他の行動特性についても相互に類似しているという仮説が、プログラムの開発と実践においてめったに問題にされなかった。

 ②特別のカリキュラム

 特殊教育におけるもう一つの存続している仮説は、特殊学級が知恵遅れの子供に特別なカリキュラムを用意する機会を与えるということであった。特殊教育関係者は、公然と「水増し」、カリキュラムを手厳しく批判したのに、実際には、特殊学級のプログラムは、普通学級の子供に用意される経験のタイプに、極めて似かよっているのである。精神薄弱児のための250 以上のカリキュラム・ガイドを検討して、シムチェスとボーン(Simches & Bohn,1963 )は、以下のような結論に到達した。

 ……特殊教育関係者は、洗練性については不十分であるが、現にあるものは本質的に異なったカリキュラムであると感じている徴候がみられる。……まさに現にあるものは、普通児のために用いられる学習指導要領の言い換えや強調のしなおしにすぎない。それは、標準的なカリキュラムの開発と関係する形式、構造、系統に益するところがない(pp.86,115 )。

 シムチェスとボーンの結論は、精神薄弱児のための個別化された、慎重に系統化されたカリキュラムの仮説が、特殊学級プログラムにおいて実践されているのはまれであるということを示唆している。

 ③特別に養成された教師

 特殊学級の発展につれて、教師のための免許基準がたいていの州で定められた。特殊学級教師のための州や大学の養成基準は、子供を教えるのに必要な能力よりも、むしろ免許状取得のコースに典型的な特性を持たせた。知恵遅れの子供を教えるのに必要な能力を決定することに関する唯一の真に包括的調査は、マッキー、ウイリアムズ、ダン(Mackie,Williams and Dunn,1957 )によって発表された。しかしながら、ある知られざる理由のために、特殊学級教師がどんな能力を身につけるべきかという問題は、特殊教育の専門文献や教員養成プログラムにおいて、ほんの申し訳程度に考慮されているにすぎない。

 特殊教育における教員養成プログラムが、被養成者がどの程度規定された指導技術をマスターしたかということを、計画的に評価してきたという証拠はほとんどない。そうではなくて、教員養成プログラムにおいては、表向きは、養成の質によりもむしろ利用し得る教師の数を増やすことに重点が置かれてきた。それは、デービス(Davis,1970)が特殊教育における「需要-質の低下し得る教師基準」の状態として特徴づけたものに帰着する。特別に養成された教師が、特殊学級の知恵遅れの子供を教えるのに必要であるという仮説は、検証されないままになっている。更に、特殊教育関係者が、特別な教員養成プログラムを確立したという証拠もほとんどないし、また、有免許の特殊教育教師が知恵遅れの子供を教えるのに必要と思われる技術をどの程度有しているかを、特殊教育関係者が評価したという証拠もほとんどない。一般の教育関係者もこれらの問題については告発される立場にあるかもしれないが、知恵遅れの子供を教育する特別に養成された教師の仮定された有利性はいまだに証明されないままである。

 ④まとめ

 特殊学級が、知恵遅れの子供に対する個別指導のための、特別のカリキュラムを用意するための、また特別に養成された教師を採用するための最適の場を提供するという存続している仮説は検証されないままである。目標と実践のあいまいさのために、特殊学級プログラムの効果的実施は一般に失敗に終わっている(Brown,1968;MacMillan,1971 )。更に、たとえ適切な実践がなされようと、特殊学級が軽度精神薄弱児に対して個別指導、特別のカリキュラム、特別に養成された教師を用意するのに最も適しているのかというかなりの疑問が存在する。

 特殊学級の歴史的発展は、知恵遅れの子供に対するサービスの将来の発展を導く教訓を与えている。第一の教訓は、複雑な教育的問題を完全に解決する便利な特効薬をつかもうとする傾向は打破されるべきであるということである。第二のそして同様に重要な教訓は、プログラム実施を成功させるには、プログラム開発の根底にある仮説が証明できるものであること(Nelson & Schmidt,1971 )、及び仮説が適切に実行されているかどうか評価するために、プログラムを絶えず調べることが必要である。第三の教訓は、特殊教育のプログラムが明白に述べられた目標や健全な哲学的概念の恩恵なしに発展してきたということである。特殊学級の発展の根底にある仮説が監視されてこなかったために、サービスの制度は普通学級の教育プログラムと極めて類似したものとし示されてきた。要するに、知恵遅れの子供の特殊教育について、「特別の」とか「特別化された」と考えられ得るものはほとんどないであろう。

3.教育的代案

 過去75年以上の間、特殊学級は知恵遅れの子供に教育の機会を与える主要な手段として存続してきた。不幸なことに、この期間を通じて我々は特殊教育サービスが子供に及ぼす明確な効果についてほとんど何も学んでこなかった。 軽度精神薄弱児を援助する効果的なモデルの探究は、不明確な目的や仮説を例証するプログラムの実施によって、また特殊教育関係者が、受け入れられた哲学的原理に基づいたサービス・モデルを開発することに失敗したことによって、著しく妨げられてきた。

 軽度精神薄弱児のための発展し得る教育的代案の探究は、一般的な哲学的原理をプログラム開発の努力に適応することによって促進されるであろう。「普通化(normalization )の原理」は、精神薄弱分野の専門家の間にますます受け入れられつつある。プログラムの計画と実施の問題に適用されるとき、この概念は、かなりの潜在力をもった一つの哲学的原理を具現するように思われる。この概念はスカンジナビア諸国で発展したが、「普通化の原理は、社会の主流(mainstream)の規範やパターンに可能な限り接近した日常生活のパターンや状態を精神薄弱児に利用できるようにすることを意味する(Nirje,1969;p.181)。」普通化の原理の特殊教育プログラムへの適用は、知恵遅れの子供が一般に普通児に用意された教育的・社会的活動を経験すべきであるということを意味する。

 知恵遅れの子供のための教育的サービスを計画する問題にこの原理を適用することは、現存するサービス制度の変化と子供を特殊教育プログラムに配置する実践の変化へと導く。もし採用されるならば、この普通化の原理は、軽度精神薄弱児の普通学校課程への有意義な統合(インテグレーション)を最大限に行うように計画されたサービス・システムの整備拡充を促進するであろう。この原理の下では、子供が特別の援助をもってしても、普通の場でサービスを受けることができないということが証明されない限り、隔離されたサービス制度の中に直接に置かれないであろう。

 プログラム開発を導くのを援助するもう一つの概念は「個別化(individualization )の原理」である。個別化は、特殊教育の存在理由と考えられるが、他のどんな語よりも特殊教育を象徴化するのに役立ってきた。この概念は、「個々の生活について、彼の学習ニードと学習者としての特性に適合するように注文あつらえされた勉強や日々の授業の一般的プログラムを計画し、指導すること」から成ると定義されたとき、特に有用である(Heathers,1971,p.1 )。

 「普通化」と「個別化」の概念への委託は、子供たちが特殊教育サービスに割り当てられる方法の変化に導くであろう。現在、子供たちは表面的には障害のカテゴリー、すなわち、精神薄弱、ろうなどに基づいて、特殊教育サービスに割り当てられる(Reynolds,1970 参照)。精神薄弱のような障害のカテゴリーの指定は、教育的問題の指標として役立つけれども、子供たちの教育プログラムを計画するための価値ある情報をほとんど提供しない(Reynolds,1970 )。単に子供たちを精神薄弱と診断することは、ほとんど益するところがない。その代わり、指導を計画するためのカテゴリー的方法は、子供たちの間の量的差異よりもむしろ質的差異を明らかにする実践を促す。適切な指導法や制度についての教育的決定は、対照的な指導上の代案の中から特定の代案を予測する適切な行動変数に基づかなければならない。

 プログラム開発において「普通化」と「個別化」を強調することは、教育的代案及び子供を代わるべき、特別のプログラムに配置する際の判定方法を明確にするであろう。代案の問題についてある見通しを得るためのよい方法は、おそらく、学校を、個々の子供の発達に役立つ様々な可能な影響力をとり囲んだものとしてみることである。これらの影響力は、(1)行政制度、(2)教職員の指導上の役割、(3)教材・教具の形をとる。図2に示されたように、教育力の子供の発達への衝突は、学校プログラムにおけるサービスの突きを示すものとして概念化することができる。

図2 知恵遅れの子供の発達に及ぼす教育的影響力

図2 知恵遅れの子供の発達に及ぼす教育的影響力


 図2においては、子供によって経験される教育的困難は、子供の特性、指導内容とその質、行政制度を含むいくつかの要因の複雑な相互作用の結果として生じるという主張が示唆されている。〔生徒の失敗の原因に関する優れた議論としてSzasz (1970)とClark (1970)を見よ。〕もしこの図に示された指導上の代案が育ち得るもので、継続的で、子供のニードに敏感であるならば、知恵遅れの子供は成長するであろう。他方、もし選択して利用しうるものが制限され、子供の個々のニードに鈍感であれば、知恵遅れの子供の教育的発達はほとんど阻害されるであろう。このように、子供の教育的発達は彼が接触する教職員の個人・社会的特性との相互作用において彼が表す個人・社会・認知的特性に依存する。

 特殊学級に対する教育的代案の拡大された概念が表2で明らかになる。普通教育及び特殊教育の両プログラムにおいて利用できる資源(resources )を通じて、障害児のニードにますます敏感になる必要性が示唆されている。この表及び図2は、特殊教育援助が単に行政制度によってだけでなく、また、指導上の役割及び特別のカリキュラムによっても定義される必要があることを示唆している。特殊教育関係者による経営管理上の制度の不当な強調は、カリキュラム又は専門的役割の交代による子供のための真の個別化された指導を実現する豊かな可能性をぼかしてきた。

表2 軽度精神薄弱児のための教育サービス
個人的役割 指導上の資源 経営管理上の配置
1.準専門家-学級担任教師の能力を援助し拡充する。 1.プログラム学習教材や他の自学自習プログラム。 1.無学年、オープン・スクール制-自己指南学習、個別に計画された指導など。
2.ケース・マネージャー-子供の弁護役、サービスの調整などに当たる。 2.教育工学-
a.ティーチング・マシン
b.コンピューター援助による指導(CAI)
c.閉回路テレビ(CCTV)
d.リスニング・センター
e.ランゲージ・ラボラトリー(LL)
f.その他
2.普通学級-学級担任教師の特殊教育援助。
3.児童発達の専門家-多様な個人差に応じる学級担任教師の能力を拡充する。 3.教材・教具センター。 3.普通学級-学級担任教師への特殊教育援助、子供への短期間の補助的サービス(個人指導、診断など)。
4.指導の専門家-普通教育及び特殊教育教師に相談役として援助する。 4.診断・処方指導センター。 4.普通学級-子供と学級担任教師への集中的援助。
5.リソース学習の専門家-直接に子供にサービスし、学級担任教師と相談する、特定の発達領域(言語発達、算数など)を専門とする。 5.特別のカリキュラム教材と治療教育システム。 5.特殊学級-普通学級における基礎教科のいくつかと実技教科。
6.診断の専門家-教育的問題を診断する、適切な教材を処方する。   6.特殊学級-普通学級における実技教科のみ。
7.特殊教育個人指導員-子供に対して短期間の援助を与える。   7.特殊学級-普通学級の子供とほとんど有意義な交流なし。
8.特殊学級教師-重い教育的障害をもった子供の非常に小さな集団にサービスを行う。   8.知恵遅れの子供の通学制特殊学級-普通学級の子供と有意義な交流なし。
    9.在宅訪問指導-登校できない子供のための個人指導。
10.寄宿制学校-近隣社会のプログラムにおいて生活と交流。
11.寄宿制学校-地域社会のプログラムにおいて生徒との有意義な交流なし。

 この節では、選ばれた哲学原理、指導法と教材、指導上の役割、及び経営管理上の制度が、知恵遅れの子供のための特殊教育プログラムを開発し、実施するための主な要素して提示された。次の節では、特殊学級に対する興味ある対照的代案となるいくつかのプログラムが検討される。

4.プログラムのプロフィール

 (1) 個別に処方された指導(IPI)

 IPI(Individually Prescribed Instruction)は診断用具や教材と結びついた、特殊な目標に基づく指導方式である。それは、子供の能力の評価と子供の進歩の継続的観察を重視する。子供が新しい学習場面に入ると、教師は学習単元の中の目標を表す入級検査器具やアチーブメント・プレテストによって子供の能力を診断する。この最初の評価と子供の学習特性についての教師の知識に基づき、教師はプログラムのためにつくられた一連の目標と補充教材を用いて学習の処方を書く。IPIプログラムにおける教師の役割は、指導を施すというありきたりの教師の役割とは対照的に、進歩の分析者、個人教師、指導マネージャーの役割となる。

 子供の役割もまた伝統的な場におけるのとIPI学級におけるのとでは、いくぶん異なる。子供は、標準的学級にいるけれども、彼のために処方された目標の達成に向かって勉強することによって、自分自身の指導者のように振る舞う。子供が自分の満足のいくように一枚のワーク・シートを終えると、彼はそれを補助教師に渡す。補助教師はそれを採点して、教師に子供の進歩を知らせる。それから教師は、その成績に見合った課題を再び処方する。適当な時期に、教師は内容の習得を決めるための単元テストとある目標への進歩を測定するテスト(curriculum-embedded tests )を行う。

 IPIは強化理論の原理に基づき、目標の慎重な特殊化、指導のゆっくりした進み、習得への報酬を通して学級における学習を促進させるために計画された指導方式である。この方式は、前もって必要とされるある学力水準への到達度は問題としないので、その実施には等質集団編成を必要としない。IPI学級においては、知恵遅れの子供は、集団指導の場でしばしば増幅される学業の不十分さを暴露することなく、普通児の仲間と一緒に、自分自身のペースで学習するであろう。

 (2) ダウンリバー学習障害センター

 ダウンリバー学習障害センター(The Downriver Learning Disability Center)は、指導計画を立てる方法として子供の評価を重視する別のプログラムの一例である(ワイアンドット市教育区〔ミシガン州〕、1971)。このセンターは、12の教育区の組合立であり、特別に養成された職員が個々の紹介を受ける学習障害児のための外来施設である。IPIプログラムが、事前の評価、指導計画作成、管理、評価の完全なプログラムを含むのとは対照的に、ダウンリバーの職員は事前の評価のみを行い、指導については子供の家庭教師(home teacher)や学校にまかせる。

 学級担任教師は、地方教育区の特殊教育サービス部に要請して、センターへの紹介を始める。その教育区の学校心理担当者は、子供の学習障害サービスへの適性を判定するために、いくつかの予備テストを実施する。各教育区内の全児童生徒から、地方教育区又は私立学校は、センターに送られるべき割り当て数の子供を選定する。この選定は、通常子供のニードとセンターの経験を活用できる教師の能力に基づく。

 指定された日に、子供と担任教師はセンターにやってくる。教師はこの事例の予備的討議に参加し、診断テストが説明される一般的なオリエンテーションの会に出席するため、子供より早く到着する。教師は子供がテストを受けるのを観察し、子供のために勧められると思われる教材のスライド・テープによる映写を見る。

 午後の終わりごろ、センターの職員は学級担任教師、施設長、読みの治療教師、言語矯正士、教育区診断担当者やその他子供にかかわる者を含む事例研究会をもつ。この事例研究会を通じて、指導上のヒントを含めた助言に特別の注意が払われる。センターは、教師に推せんした教材の使用法を指導し、教育区で手に入らないときには、教材を提供する。

 事前の評価の10週後、センターの職員は子供の進歩について話し合い、助言を新たなものにするために教師を追跡訪問する。センター職員はまた常に教師の相談に応じる。

 ダウンリバー学習障害センターは、普通学級教師の事前の評価技能及び指導法の知識を増大させる有望な方法を提供する。したがって、特殊学級サービスの必要性を減少させる。

 次の二つのプログラムは、教師の役割と教材の使用の構造化を強調する代案を例をあげて説明したものである。

 (3) 教育モジュレーション・センター

 このプログラムは、子供が普通学級にとどまることができるように、子供の特殊な教育的技能の発達を目指している(Adamson & Van Etten,1970;Van Etten,1969 )。このプログラムの創始者によれば、適切な教材の選定は重要かつ複雑な問題である。そこで、このセンターは、子供の学習特性と特殊な内容のために分析された教材の属性をぴったり合わせる補償方式を開発した。仮定の事例を用いて、この方式がいかに機能するかをここに示す。子供が評価され、6歳児に匹敵する知的水準にあることが見いだされる。その評価はまた、その子供がアルファベット認知の障害のあること、及び彼が聴覚教材に反応するのが観察されたことを明らかにした。

 必要な教材を補償するには、どんなステップが必要か。第一に、診断者は処方された教材補償方式を利用して、子供の特殊な障害であるアルファベット認知のための記述カードを選ぶ。第二の選ばれたカードは、6歳児の知的水準にふさわしい記述カードである。第三の選ばれた記述カードは、アルファベット認知の目的に適したテープ教材のためのものである。これらの記述カードがライトボックスの上に置かれると、照明過程によって使用者を、これらすべての記述カードをマッチングさせる教材に注目させる。様々な記述カードを変え又は除去することによって、多量の教材が短時間のうちに求められる。教材の処方が、このプログラムの主な推力であるが、教師と協力して、子供の能力を評価し、指導法を研究するために学級内で仕事をするコンサルタントも用意されている。他のサービスは、処方された指導技術や指導法・教材の使用を研究するプログラムを用いたい学校に対する相談援助を含んでいる。

 教育モジュレーション・センター(The Educational Modulation Center)は、長い間、特殊教育関係者を悩ませてきた大きな問題の一つの解決への食い込みを示している。すなわち、子供の選ばれた特性に教材を適合させることである。

(4) ハリソン・リソース学習センター

 このプログラムは、ミネソタ州ミネアポリスの市街地にある一つの学校に置かれている。このセンターは、ミネソタ大学特殊教育学部とミネアポリス公立学校の共同後援によるもので、二つの目的をもつ。すなわち、(1)普通学級に在籍する知的に低い子供に対して、直接に処方された指導を行うこと、(2)大学の特殊教育専攻学生に対して、処方的指導技能の訓練を行うことである。

 ハリソン・リソース学習センターは、学校の指導プログラムの不可欠の部分となり得る教育的代案を設けることによって、学校は指導スタッフの役割をどのように変えることができるかということの一例である。リソース教師は、最も大きな教育的ニードの分野で、子供の毎日の指導の一部を直接担当するとともに、適切な教育的経験を計画することにおいて、子供の学級担任教師を直接援助する。

 おそらく、簡単な事例をあげれば、リソース教師の役割を説明するのに役立つであろう。チャールズ(IQ=68)は、ほとんど1年間、知恵遅れの子供の特殊学級に入っていた。リソース・センターが開設されると、チャールズはリソース教師からの援助を得て、普通学級にもどるよう勧告された最初の子供たちの一人である。最初は、チャールズは学校の一日のほとんどをリソース学習センターで過ごした。リソース教師は、まず彼に自信をつけさせるために計画された経験を強調することから始め、次第に、基礎的教科の学力充実のための彼への要求を増していった。

 2か月以上の間に、チャールズが普通学級で過ごす時間の長さは、教材が彼の技能の程度を超えている普通学級の授業時間を除いて、徐々に増大した。この期間を通じて、彼は、読みにおいて一つの学年レベル、算数においてはほとんど二つの学年レベル以上進歩した。彼の教師と母親は、また彼の学校に対する態度の著しい改善を報告した。

 チャールズは現在、1日に45分間を、リソース学習センターで主として読みの指導を受けながら過ごしている。彼のリソース教師と普通学級教師は、普通学級教師の過度の留意なしに、彼を進歩させる指導内容を選定することによって、更に普通学級外の時間を減少させることを望んでいる。

 このプログラムの第1年次のうちに、8人の特殊学級の子供が普通学級へもどり、さらに特殊学級入級待機名簿にのっていた28人の普通学級の子供のうち12人がセンターで指導を受けた。これらの子供のうちのだれ一人として、センターでの2年間に特殊学級入級の勧告を受けなかった。

 (5) まとめ

 上述のプログラムは、軽度精神薄弱児の特殊学級入級に代わるべき興味ある、対照的な代案を提供しているので、検討のために選ばれた。しかしながら、これらのプログラムを広く普及させることは、現在その効果を判定する証拠が不十分のため、思慮不足である。とはいっても、これらのプログラムは、知恵遅れの子供と普通児の教育的経験の間の認められた差異を最小限にする代案を用意することによって、「普通化」の原理を採用しようとしているように思われる。そしてこれらのプログラムは、学習者のニードと特性に適合するように、指導上の役割、教材、経営管理上の制度を慣行化することによって、「個別化」の原理を具現するように思われる。

5.要約

 この論文の主題は、軽度精神薄弱児の特殊学級入級措置に対する賛否論争が、特殊教育関係者を一般に行われている実践の不十分さに敏感にさせるという、意図された目的を達したということである。今や、一連の育ち得る代案の開発、実施、評価という骨の折れる仕事を始める時である。特殊教育の分野を握っているこの論争への解毒剤として、障害の分類が効果的な教育的取り扱いに翻訳される場合以外は、障害のカテゴリーによって、障害児の教育的困難を概念化することが強調されないことが更に示唆される(Reynolds,1970 )。

 もし、普通化と個別化の原理が、軽度精神薄弱児の教育に実現されるべきであるならば、一般教育もまた、子供の個人差により適合するようにならなければならない。幸いに、この適合が行われている例がある。すなわち、(1)テンプル市の職員役割分化プログラム(the Differentiated Staffing Program of Temple City)、(2)学年のない学校(ungraded schools)、(3)オープン・クラス(open classroom)などである。職員役割分化プログラム(Stoner,1969 )においては、教師は、子供の特殊な指導分野を扱う能力や子供の特定の学習属性を扱う力のために異なった役割を果たす。学年のない学校は、生活年齢ではなく、学力に基づいて子供たちを進歩させる。オープン・クラスでは、子供たちが教育的経験を決めるのに主要な役割を演ずる(Silberman,1970 )。

 特殊教育関係者は、一般教育が障害児の教育的・社会的ニードによりよく適合する能力を高める努力の中に、より大きな資源を投入しなければならない。おそらく、この点は特殊教育を発展途上の資本と考えることによって鮮明にされ得る(Deno,1970 )。デノは、特殊教育が一般教育制度をそれ自身との競争状態に置き、創造的緊張を生み、持続させるであろう内部のチャレンジを生み出す手段として役立つことを示唆した。彼女は次のように述べている。 

特殊教育制度は、すべての公教育における努力の効果を高めるための……発展途上の資本として役立つ独特の立場にある。特殊教育制度は、普通教育と協力的競争に入り、教育の主流のいわばふるいの底から半ば落とされ、押し出された子供たちの弁護人として振る舞うべき動機も正当性も有する。

 障害児のための現在のサービスを改善する試みは、健全な哲学的原理にしっかりと根ざさねばならない。特殊教育プログラムが目的の叙述や仮説の検証なしに発展してきたことが余りに多い。目的のあいまいさや仮説の妥当性の検証の失敗が、プログラム拡大の簡単な、便宜的な尺度によるプログラム効果判定の実践へ導いた。特殊教育サービスは、一般教育で子供に与えられるサービスとの近似度及び子供の発達への効果によって判定されなければならない。

 このような時点で、特殊学級を廃止しようとするせっかちな試みは、賢明ではないし、時期尚早である。そうではなくて、軽度精神薄弱児の特殊学級プログラムは、特別の援助をもってしても、普通学級に留まることのできない子供のみにサービスするよう構成されるべきである。

 一つの大きな警告がプログラム開発において考慮されなければならない。すなわち、「特殊教育関係者は、特殊学級にとって代わる代案の性急な実施を避けるべきである。」。目的の評価という必要な保護なしにプログラムを突然に実施することは、不可避的に、その効果を確認しないでプログラム・モデルを制度化する方向へ導く。多くの地域で特殊学級の代わりにリソース・ルームを設置する動きの急激の増加は、特殊学級を廃止すべしという、しつような勧告と同様に時期尚早であり、また賢明ではない。いかなる特殊教育プログラムであれ、それが実施される前には、あらかじめ数多くの問題が熟考されねばならない。すなわち、(1)プログラムの目標は何か、(2)プログラムは、だれにサービスするのか、(3)プログラムの主要な構成要素は何か、(4)どんなサービス(カリキュラム)がプログラムに用意されるべきか、(5)プログラムはどんな仮説に基づいているか、(6)プログラムにおける特殊教育及び普通教育職員の役割は何か、(7)プログラムの効果を判定するためにどんな基準が採用されるべきか、(8)どんな条件の下に、このプログラムは効果的か。

 とりわけ、特殊教育関係者は特殊学級問題についての先入観を除去し、障害児のサービスの質、多様性及び利用性を増すために計画された包括的な調査研究と発展的プログラムを開発しなければならない。軽度精神薄弱児の特殊学級の指導上の代案を用意する試みは、もし、そのような努力に慎重な計画と評価が伴わないならば、つまらない結果に終わるであろう。これから先の調査研究は、教育に関連した行動の多様性を示す子供たちの集団への治療効果に焦点を合わすよりもむしろ、個々の子供のためのサービスの有効性に関する情報を産み出すことによって、プログラムの開発に貢献することが、子供の利益のために要求される。特殊教育における調査研究と評価へのこの方法は、どんなプログラムでも、すべての子供に最善ということはなく、プログラムの効果は子供の特性、場、職員によって変化するということを仮定している。集団の特性よりもむしろ個人差へ焦点を合わせる調査研究法は、障害児に対する知識の増大とサービスの改善をもたらすであろう。

Special Education in Transition から抜粋)

参考文献 略

*文部省初等中等教育局特殊教育課教科調査官


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1977年4月(第25号)17頁~28頁