心理 障害をもつ人の家族─専門家間関係の促進

心理

障害をもつ人の家族─専門家間関係の促進

Facilitation of Family-Professional Interaction

Elaine L. Goolsby, ACSW*

武藤安子**

 どのような組織が利用者の要求に対応しうるか、あるいは、どのような専門家が、患者や家族を擁護することができるか(私は擁護すべきだと思っているのだが)を考える場合、抽象論から、いきいきと血のかよった当事者のものへと一歩すすめる必要がある。私はソーシャルワーカーであり(私は人々への私の偏向というものをこころえているつもりだが!)、障害により何らかのかたちで影響をうけている人々自身と、そしてサービスを与える側の人たちに関心をもっている。これらの人々の間のコミュニケーションがどれだけうまくなされているかが、与えられるサービスの性質を規定する最もきわどい変数であると私は信じている。この理由から、私は、このようなコミュニケーションの現象をよりきめ細かにとらえていきながら、障害をもつ人々やその家族の基本的ニードを再検討し、最後に、コミュニケーションを促すためのいくつかの特別な方法を提起することをしていきたい。

 だれかほかの人とかかわりをもち、理解することははたして大層ややこしいものだろうか? コミュニケーションの技法を発展させようとすることよりは、その事実を体得していく方が、はるかにやさしいものである。みかたによれば、コミュニケーションとは、自己をすりへらし、あやうい状態におくことも意味する。また、他のみかたをすれば、私たちはみな、さまざまなレベルで、同時にコミュニケーションをはかっているといえる。コミュニケーションの三つの明確なレベルは、次のようである。1)私たちが何を話すか──言語表現。2)私たちが何を感じるか──情緒反応。3)私たちがどのようにふるまうか──身体言語、身づくろい。

 一般に、これらのレベルが統合されるほどコミュニケーションは明瞭になる。私たちはだれでもコミュニケーションがうまくいっていない例は思いつくものである!「いいえ、私は気にかけておりません」といいながら悲嘆にくれている母親。あるいは、「あなたのこれまでを、あるがままに話してみなさい」とぶっきらぼうに、性急にたずねる専門家。コミュニケーションについての、もうひとつの一般的な説明をしよう。私たちはみな、他の人が、たとえば、「あなたは本当に苦しい日々を過ごしてきたのですね」とか、「あなたはジョニーのことを、とても心配していらっしゃるようですね」とか、「それは、きっとなぐさめになるにちがいありません」などと私たちが口に出してのべるのと同様に、私たちが感じていることに十分に反応してくれると、理解されているなとか支持されているなと感じるものである。

 私たちが、ここで問題にしているのは、ある特殊な種類にはいるコミュニケーションについてである。つまり、特別なサービスを必要とする障害をもつ人々、その家族(同じくサービスを必要としている)、そして専門家あるいはサービスを提供する側の人たちの間の相互関係についてである。このような治療的な相互関係にかかわっている人たち、考え、感じ、期待し、悩む人たちについて、簡単にみてみよう。

    図1 相互関係の構成要素
図1 相互関係の構成要素

 この関係における、すべての参加者は、対等にあらわされていることに注目してほしい。さらに、それぞれの参加者は、権利と責任結果を規定するところの彼自身の役割とをあわせもっている。

図2 相互関係のプロセス
図2 相互関係のプロセス

 参加者同士は、その相互関係において、共通の目的を共有する(図2の中央に黒の部分で示されている)。それと同時に、参加者各々は、めいめいの役割、見通し、関係の認知というものを、いぜんとして持っている(図2に白の部分で示されている)。関係自体は、力動的、流動的であり、各々の参加者の独自の性質により、かたちづくられていくのである。さらに、重要なこととしてすべての参加者は、相互に依存していることに気づく。彼ら──私たちは、おたがいに必要としている! コミュニケーションの破壊は、私たちが、共通理解しうる領域(図2の黒の部分)を、実際よりも大きく想定する時に起きるのである。 

 上述した相互関係の目的は、必要とされるサービスを一致させることであり、それらが提供されるよう保障することである。障害をもつ人々とその家族は、サービスが有効に実施されれば認識できる基本的なニードをいくつか持っている。これらのニードのうち、最も問題とされるものについてあげると、次のようである。

 1.教育─これは明白であり、強調する必要もないのだが、不幸にしてとりあげることになる。人々は、自分たちの問題について、できうる限り多く知ることを欲しており、知る権利がある。たとえば、実際の情報、ことばの定義、わかっていることと、そうでないことの明瞭化、期待するものなど。Matheny とVernikは、「知恵おくれの子どもの両親─感情を支配されるか、さもなくば情報を失うか?」と題した論文の中で、この点を雄弁にものがたっている。不明であることほどおそろしいことはないというのは真実であると私は思う。

 2週間ほど前に、ある両親が私に言った。「あなたから、私たちの子どもが知恵おくれだと告げられた時に、私たちがどれほど救われたおもいがしたか、ことばではいいあらわせません。」母親は、子どもの問題について、はっきりした答えが得られない時に、自分たち二人が感じる、不安、恐れ、いらだちについてのべた。このことが、特に興味深いというのは、専門家である私たちが、スタッフ会議で、解釈を主とする相談面接(interpretive interview )をした子どもの、はかばかしくない進歩を問題にしあうことで、すっかりくじけてしまったり、不安になったりするからである。もちろん、この母親は、遅れた子どもをもって幸せではないのだが、彼女は、何が問題なのかを知ったことで幸せであり、救われたのである。

 2.情緒的な支え─これは、同情を意味するのではなく、感情が表明されやすく、かつ支持が与えられやすい雰囲気をつくり出すことを意味する。ほとんどの専門家にとって、これが、彼らがしなければならない最もむずかしいことなのである。専門家のあやまった再保証は、たとえば、よくない状態に対する率直なおそれから、傷つけたくない、苦しむ人たちの反応に耐えがたいなど、いくつかの根拠があるのかもしれない。

 ここで強調したいのは、感情が表明され、受け入れられる支持的な雰囲気において、問題を教育と結びつけることが、きわめて重要なのである。

 3.現実的な選択への同一化─問題に対する専門的な知識に即して、専門家は見通しをたてる。情緒的なかかわりあいが、いかに論理を不明にするかを私たちはみな知っている。いろいろな考えが検討され、その特定の経路をたどっていった先で予想される結果に、フィードバックがなされるような批判の場(forum )が、真の助力となりうる。この助力があれば、患者─家族は、何が可能なのかを知るだろうし、彼らにとって何が最上のプランであるかを、理性をもって決めることができる。

 現実主義がつらぬかれねばならない。「残されたものは何かより何が残されるべきか」という本を最近、私は読んだ。擁護することや、必要とされるサービスを要求していくことは肝要であるが、一方、今、適当であるものを十分に使いこなしたり、間にあわせに工夫したり、創造的なこたえを求めていくことなどは、少なからず重要なことである。

 4.必要とされるサービス─長期的な問題というものは、継続したサービスとともに、時折、集中的(たとえば、診断をくだされるというような一時的な危機の時点で)ではあるが、それも平素の継続的援助の基盤をもつサービスの用意を要することは知られている。理想的なサービスシステムは、患者の変化するニードに柔軟的に対応できることにおかれるであろう。

 

 最後に、コミュニケーションを促すのに役だつと思われる、特徴的な示唆を2~3のべたい。

 1.他の人のふるまいを善意にうけとめること。

 関係を結ぶにあたっては、その関係を新しくしておくこと。現在おきていることを支持すること。私たちは、だれも、過去の経験に基づいて機械的に反応してしまう。否定的な経験からもたらされる傷跡や苦痛とか、肯定的な経験からの過大な信頼。しかしながら、新しい関係においては、相手に、彼が何をすることができるかを示すチャンスを与えるようにすること。

 2.他の人の個性と多少の欠点を許容すること。

 相手に、自分自身であらしめること。患者についても、専門家についても、グループとして概括的に論じることは危険であり、不当でもある。また、相手が、多少のあやまちをおかすことを許容すること──いずれにしても、それはささいなあやまちなのだ。大目にみることがむずかしかったり、できにくいという人がいることはわかる。しかし完全な人などいるはずはないことを思い出すこと。

 私は、最近、16歳の息子と、この課題を復習していたところで、私が「相手の多少のあやまちは許しなさい」というと、彼はそれに対していった。「そう、あなたもね!」そこで、私もつけ加えた。そう、おまえもだ!

 3.特定かつ十分に熟した目標を決定すること。

 具体的かつ適度な表現で、お互いの期待するものは何かを知り合うことは大切である。このことが、プログラムや責務、結果の首尾を決定づけるかぎである。直接的に対話して、あるいは、間接的に書かれたものを通しての接触が、その時々で役だつ。

 4. フィードバック機能を発展させ、持続させること。

 もし、連絡事項だけはうまく伝えられているのなら、次は、いつ、どのようにしてお互いが出会うかを考えること。私が、相互関係をうちたてていくことを強く訴えようとしているのだということに気づかれたい。

 5. 最後に、コミュニケーションを促す技法の進歩を学ぶこと。

 たとえば、非防御的な誠実さを実践すること。いかに完全にコミュニケーションを促すかを会得したものは、かつてだれもいない。それは、私たちのだれもが、生きている限り学んでいくものである。私が、いま示唆しようとしているのは、私たちは、コミュニケーション促進の技法の進歩のための意識的な努力をしつづけるのだということである。

 それを可能にするいくつかの方法がある。たとえば、研修コース、参考書、ワークショップなど。私たちのプログラムでは、「解釈を主としたワークショップ」とよばれる、年2日のワークショップを行う。そこでは、専門家と、障害児をもった両親がロールプレイを使ったり、架空の問題状況を設定しながら、小グループで、コミュニケーションの実践がなされる。お互いがお互いに答えて、貴重な経験が、両親と専門家により共有されてきている。

 昨年、ある親は、ロールプレイで、専門家の役割を演じたのち次のようにいった。「私は、あなた(専門家)が、このような体験をしていようとは夢にも思わなかった!」 私たちすべてが、まず人間として、そして次に、特定の役割と責任を遂行するものとして、お互いに出会おうとすることを、私はのぞむ。 

 終わりにあたって、私の個人的な経験を、共にしていただきたいのだが。最近、私の母が卒中にかかり、大きな障害が残ってしまった。私の反応はといえば、書物に書かれているとおりであった。拒否、怒りなどなど。私は、いまだに受容の段階に至っていない! 私の最初の反応は、たえず、母についてまわりたい強迫的な欲求であった。リハビリテーションの仕事をしている私の友だちがいってくれたことが、私にとって何より役にたった。「あなたは、それをどうにかしなければいけないなんて思わないことですよ」 何と簡単明瞭かつ意味深いことばであろう! うまくいっていないそのことについて、できる限り学びとること。治療的介在が生じる過程において、すべてを可能にしていくことが大切である。しかし同時に、私たちに何ができて、また何ができないかということを認識することも大切である。このことにより、私たち、つまり、患者と専門家のとほうもない重荷がとりのぞかれるのである。患者と家族はこれを知る必要がある。そして専門家もそれを知る必要がある。二つのグループの間の、緊張、責め合い、葛藤は、しばしば、お互いの非現実的な期待からもたらされるのである。

 私は、専門家─患者関係における、可変的な雰囲気に勇気づけられる。開放、共感、理解が、所定の目標であり、それにいつも到達するとは限らないが、しかし、それでも目標なのである。したがって、私たちは、みな、共通の目的のもとに結束し、お互いに手をさしのべて、私たちの共通領域を広げていこう。

(Rehabilitation Literature, Nov.,-Dec., 1976から)

*ノース・カロライナ大学発達・学習障害者部のサービス副部長及びソーシャルワーク課長。本論文は米国ケンタッキー州のルイスビルで1975年6月開催された、全国イースター・シール肢体不自由児・者協会年次会議に提出されたものである。
**日本肢体不自由児協会中央療育相談所児童指導員


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1978年3月(第27号)24頁~27頁

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