社会 障害者に関する社会的障壁とコミュニティの対応

社会

障害者に関する社会的障壁とコミュニティの対応

Social Barriers & Community Attitudes Concerning the Disabled

Mrs. Neera Kuckreja Sohoni*

飯笹義彦**

リハビリテーション思考の発展

 障害者のリハビリテーションは、施設という観点からみると,19世紀の初頭に初めて起こったといえる。施設での障害者に対するリハビリテーションの内容としては、主に医学的ケア、機能訓練、教育、職業訓練などがあり、時には施設中にある保護作業所や農耕などの作業も行われていた。そして30~40年前から、リハビリテーションは徐々に、専門化の傾向を帯びるようになり、ほとんどの国ではリハビリテーションそのものを医学、教育、職業に区分し、更に、施設をいわゆる、盲、ろう、精神薄弱、精神病、運動機能障害等の障害別に区分し、それぞれ設置してきた。

 リハビリテーションの動機や理論は、初期の純粋慈善的な立場から、非生産的な障害者の経済的負担や介助等に必要な経費及び生産活動に従っている障害者の経済的見返りに留意するという経済的判断をするようになったり、最近では、障害者にリハビリテーションを受けさせることは本質的には社会の責任において、経済的利潤を度外視しても実施すべきだというように変化してきた。

 リハビリテーションに関するこの新しい考え方は、1971年に行われた第1回国際障害者法制会議で次のように示されている。「障害者に関する法制の究極的な目的は、障害者がコミュニティに完全に統合され、生産力に関係なく通常の生活がおくれるようにすることである。」

社会計画におけるリハビリテーションの統合的立場

 過去においては、リハビリテーションの成果とは、障害者の雇用の成果に直接結びついていたものだが、現在では、コミュニティのなかで、障害者の統合化がいかにすすんでいるかという点がより重要であり、かつリハビリテーションの成果を示す基準となっている。

 これは喜ばしい変化であり、障害者問題に対する大きな理解とアプローチが存在してきているゆえんである。障害者の問題をほかの社会問題とは区別するといった、因習にとらわれた狭い概念は、徐々に打ち破られ、社会福祉政策の統合的立場に障害者問題を組み入れ、社会全体として生活状態や労働条件の改善に努力される傾向にある。つぎにあげる二つの概念的な要素はこれらの変化によって創出されてきた。

 1) 医療・社会・教育・職業の諸分野が相互に関連しあって障害者のリハビリテーションにおける、統合過程に重要な役割を演じている。2) 障害者のリハビリテーションは障害者がコミュニティと経済生活に統合されるといった本源的目的を実行するすべての手段を内包している統合的な表現である。

 こうしてみると、社会リハビリテーションは、各分野の端にあるというよりはむしろ、医療リハビリテーションと職業リハビリテーションを伴った総合構成要素であると言えよう。

 しかし、現実にはこういった点をふまえて実施されていない発展途上国と同様に先進国でさえも、リハビリテーションが、主に理学療法、職業カウンセリングや準備及び職能訓練であるととらえている。またリハビリテーションの最終目標を社会に復帰するということよりもむしろ、職場に戻るとか無理をさせても自立させるという点においている傾向がみられる。こういう状態から考えると、身体的障害はある程度まで克服されてはきたが、社会及びその態度の障壁は依然として何ら手がつけられていない状態だといえる。前述のように、リハビリテーションを身体機能の自己克服という形でのみとらえていまうと、単に障害の種類の羅列や、最低限の基礎的技術の収得に奔走するだけであり、1人格をもって社会生活に完全に復帰できえない。

 社会化の過程それ自身、身体機能回復の技術の発達に重要な役割を演じているわけである。従って社会リハビリテーションは、身体的なリハビリテーションを補足しているのである。

 しかし歴史的にみてみると、リハビリテーションは初期の段階では障害者の雇用という点に大きなねらいが置かれてきた。人々を労働力として復帰させることがニードであり、そこに重点が置かれていたわけである。これは西欧諸国のいわゆる労働に対する倫理意識が原因であったと思われる。生活が労働指向型であり、インテグレーションのひとつの分野であるリハビリテーションが作業あるいは労働とみなされていたわけである。その他の社会、家族、地域生活、性、結婚等の統合の問題は、非常に遅れている。これは個人が経済的利益と身体機能を得ることができれば、その他の問題も解決したかのようにみえるだけである。

 発展途上国においては、西欧からのリハビリテーション思考がそのまま持ち込まれ、労働の認識と迷信や障害に対する非科学的な知識とが混合され、本質的な障壁が存在しているといえる。

社会インテグレーションに対する構造上の壁

 リハビリテーション理念の発展そのものが社会インテグレーションを押し進めていく上で、いくつかの落とし穴を生み出している例もある。現在の進め方には以下のような制限がある。

 a) 医療・教育・職業・社会等に機構を区分すると、しばしば対象者のニードや興味の総体までもその機構に分別してしまうといった区画主義に落ち込むことがある。例えば、初期のリハビリテーション過程の中では、原理であり、不変だということで医療と職業があげられ、それによって対象者にあきらかに、自己克服を強いてきた。

 b) リハビリテーション事業の実際は保護または治療であり、予防という面には関心や資源がほとんど寄せられなかった(一般的にいってこの欠点は公衆衛生問題にも共通して言えることである)。しかし、経済、人道的配慮及び疾病の治療というものは必ず予防よりも経費がかかる。

 しかし現状は、障害の予防よりも保護的介護及び障害の治療最小限化を中心に回転してきている。従って、これにより地域を基盤とした広範なリハビリテーションのプログラムの根を立ち切っているといえる。障害予防によって、治療や克服の方法と同様に、自動的にある種の疾病が少なくなるということをコミュニティに知らしめていくことができるのである。

 c) コストのかかる治療的アプローチを遠隔地や、各地域に普及するのにはおのずと限界がある。公衆衛生サービスの場合では近郊都市、農村及び後進地域の住民よりも、都市等の進んだ地域がその基盤であった。これは一方では現行のサービスの最大限利用を阻み、他方では増大する要求の変化を切り捨てていることにもなる。これら二つの要素が治療と介護というコストの高いものを生みだしている。従ってサービスを必要とする人々は、障害を回復または軽減させる過程で費用がかかりすぎるため、リハビリテーションサービスを求めなくなってしまうのである。

障害になる過程

 最近のWHTの報告の中に、ある疾病の三つの側面と疾病を持つ社会的に統合されていない患者の三つの状態を比較した興味深いものがある。それは次の通りである:

医学的側面 社会的側面
原因 損傷
病理 機能的限界
症状 障害

 病理学的な症状というものは、外傷のほんの一部であって、病人のような場合は、症状がなくなり、治ゆが可能である。人間の習慣によって治療上、明白でかつひそやかな変化が起こると、患者は疾病の治療や対策が普通に準備されがたいことに気づく。治療上でのこのような変化が全くないとすると、社会的不適合や障害が患者の気持ちのうえにおかれていまう。障害は、個人、家族、社会の3者に影響を及ぼす。

 個人のレベルでは、生活や治療のために身体的、心理的及び経済的に他人に対する依存度の高まり、余暇活動に参加する際の移動や機会の減少及び社会的地位からの後退により社会との関係に溝を生じ、差別や孤立化、障害を持ったことに対する恥辱等が生じる。これらのすべてが個人破壊に結びついている。

 家族のレベルでは、家族が汚名を着せられているために、家族の社会的地位が後退し同時に社会─経済的ボイコットも受け、家族構成員の障害者の治療及びケアの費用が経済的重荷となることと同時に、一家の生計を支える者の収入が減ってしまい、個人の場合と同様にかなり厳しい状態にある。

 社会のレベルでは、家族に対する依存度やリハビリテーションケアを受けるための経費により、障害者が経済的な圧迫をかけることになる。そしてさらに、現在のリハビリテーション施設の不足が追い打ちをかけている。また障害者の機能の点から必要とされる大衆啓発や物理的な利用しやすく(利用不可能な階段、特殊な輸送手段及び住宅等)するためにもさらに費用がかさむことと同時に、家族の一員である障害者は収入も無いこともさることながら、介護費用がかかるということも起こってくる。それゆえ感情的または心理的に負担を負うことになる。

態度の障壁

 社会─文化的態度は、障害者に関与する社会態度と指導を決定する、特別な文化価値に関連している。

 社会─文化的態度と文化価値の衝突は遺憾ながら事実である。例えば、らい患者は完全にないし部分的にも差別され、盲人は職業、仕事を奪われ、目に先天的な欠陥のある女性は、結婚への期待をそがれるといった事実がある。

 コミュニティの態度は障害者に事実上、社会、経済的な根絶やボイコットを通してこのように不公平な政策を与えることになりうる。従って何年にもわたって、あるいは世代が変わってまでも、障害者に一番近い家族または友人たちの生産性や社会同化にこのようなことが悪影響を及ぼしていくことになる。障害者のリハビリテーションの恐るべき障壁となるコミュニティの態度は、疾病の無視に基づいている差別や、物や人間に対しても、見慣れない、アブノーマルな存在に対する人間の心の本能的な拒絶感に根ざしているのである。

 特殊な障害の真の性質に対する知識の欠如から生じるダメージがさらに混同されてしまう。それは、次の四つの事実による。

 i) 障害者の立場がどれほど教育をうけ、医療ケアによって身体の回復がなされたとしても、多くの社会では、彼らの社会的参加を認めようとしない。

 ii) 障害者にさらによい、対策を保証するには不十分な法律しかない。

 iii) 潜在的な経済的、人的資源としての障害者に関する認識の欠如。

 iv) 障害者への予防的なケアの価値の認識が十分ではない。

 これらの事実によって、障害者のごく近くにいる人々でさえ、彼らを援助することができないし、積極的に助けようともしない。さらに初期の回復可能な段階に医療及びリハビリテーション専門家に相談もしないことになる。

社会の要求という圧力

 上記の事実は、障害者にもっとも個人的に影響を与えている。経済に動機づけられた生産性においては、個人が絶えず気を配ったり、身体的にも精神的にも活動的でいるためには、想像以上の圧力がかかる。こういった立場におかれると障害者または、「準標準的人間(sub-standard individual)」に圧力がかかることになるのである。

 こういった社会要求の圧力によって起こるダメージは社会の要求が無い場合でも結果においては同じことである。

 例えば文化的価値が個人の将来をあきらめさせるような点に置かれている所では、個人または協同で障害者のために何かをしようとする重要な動機を失わせてしまうことになる。

改善する上でのアプローチ

 まずリハビリテーション思考そのものの概念と実施上の弱点を訂正することである。こうすることによってリハビリテーションの社会的側面は現在では、ようやく強調されるようになってきた。さらにリハビリテーションの予防面は初期の治療行為を伴った、事実上排他的な職業前教育よりも強調されてきている。このことはリハビリテーションケアの実施場面を高価で限定されたほんのひと握りのサービスやセンターから、コミュニティそれ自体に移行するということに基づいている。

 総合的なアプローチは、上記の点を引き継ぎ病理的及び社会的面といったあらゆる障害の側面を通して、障害者のすべてのニードに合致するよう努力がなされるようにしなければならない。これはまた、いわゆる医学・教育・職業・社会リハビリテーションの全体の規則の中で各々がより良い調和を導きだすものとなりえる。

(International Rehabilitation Review, No.1, 1977から)

*Mrs.Sohoniはボンベイにある国際社会福祉協議会アジア・西太平洋地域事務所の専門家である。女史は同国際社会福祉協議会及び国連のUNICEFで、すでに10年以上にわたって青少年、婦人及び障害者のために社会開発調査や計画事業に携わっている。本論文は1月に開催された全国障害者法制会議(National Conference on Legislation for Disabled Persons)で発表されたものである。
**社会福祉法人日本肢体不自由児協会、医療社会事業員


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1978年3月(第27号)37頁~40頁

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