特集/自立生活 職業なしでも有意義な生活

特集/自立生活

職業なしでも有意義な生活

Significant Living Without Work

Bert Massie *

新井由紀**

 1966年、英国では約25万の人が失業者として登録されていたが、1980年4月までには、その数は1,522,921 人に昇り、その約3分の1が年齢25歳以下となっている。この現在の失業の状態が愉快なものでないことは、25歳以下の失業者が1966年の失業者全体の2倍にもあたるという事実をみてもよくわかる。失業は経済全般にひとしく広がっているのではなく特定のグループの人々やある地域により大きい影響を及ぼしている。今年初めには、60,020人の失業中の障害者(登録されている)がおり、障害者全体(登録)の12.5%を占めているが、これに対し一般の失業率は5.5 %である。この数字が示すように将来に対し楽観的見方を許す材料は何ひとつない。この論文では将来にはさらに高い失業率が待ち受けており、障害者、特に若い障害者を不均衡におそうであろうと論じ、さらに、全力をあげて障害者の職業訓練を行い、仕事の正当な割り当てを受けられるよう努力しなくてはならないが、そうしてもなお、障害者の失業者の総数は増えそうであるし、その多くは長期の失業に見舞われるであろうということを述べている。もしこの議論が正しければ、このような人々のライフ・スタイルを有意義なものにするための方法を講じなくてはならない。“有意義”ということをいかように定義づけようとも。

 英国の経済が資本主義と工業化のもとに編成されて以来、失業はその本質的な現実のひとつとしてあらわれてきている。ある程度の失業は仕事をかわる人の動きや仕事と仕事の中間にいる失業者の蓄積が常にあるので避けられないことである。このような失業は実際の問題にはならないが、しばしば周期的な増加を示す。これは、いろいろな理由で商業が停滞する時におこる。商品やサービスの需要が低下するにつれて、これらを製造したり、サービスを売る人々に対する需要も低下し、かくして、失業が生じる。このような場合は、政府が国の支出を増やして需要を伸ばすよう刺激すれば、この種の政策はインフレを招き易いが、解決される。現在の失業の原因の一部は英国の製品、サービスに対する需要が低いことにある。歳出を増やすかわりに削減する政府のやり方は失業をさらに増やすことになろう。だが、失業率が上昇するばかりでなく当分の間、高い失業率の状態が続くであろうと確信するに至ったもう一つの原因がある。構造的失業というのが経済の仕組みが変わる時におきる。“産業革命”以前は、大半の人々が農業に従事し、自給と少数の農業以外の人々の食糧を作るのに精いっぱいであった。

 技術と知識の普及のおかげで、現在では農業を含む第一次産業に従事しているのは労働人口の2.5 %にすぎない。彼らだけで英国民の食糧の50%を生産している(100 %出来ると確信している人もいるが)。農業で労働力が必要なくなると、工業がすぐにこれを吸収した。今日では、その同じ工場が労働力を切り捨てており、それが今世紀初めから続いてきている。経済の中で成長してきている分野は、中央・地方政府、販売業、そしていろいろなタイプのオフィス・ワークのようなサービス産業である。この種の仕事が雇用者の60%近くを占めている。しかし、現在新しい技術がこれらの人々の多くを不必要とする恐れが出てきている。このように、造船、製鉄、繊維などの伝統的産業がその労働力を削っていっても、かつて工場が農業従事者らを吸収していったように、サービス部門は工業にあった労働力を引き取ることが出来ない。加えて、新しい産業が生きのびていくためには、より少ない人手で、しかも熟練した技術を必要とする最新構造の機械設備を使わなくてはならない。すでにロボットを使って製造する自動車が話題になった。政府がある報告書で、マイクロテクノロジーは大量の失業を作り出すことにはならないであろうと述べていても、多くの人々は納得していない。もうひとつ考慮すべき要素は、工場では労働力を削っていっているので、失業者のための余地はないということである。もし空きが出来たとしても、その工場内で無駄に余っている人を移動させることで埋められてしまう。つまり失業者が求められる空いた仕事は数少なく、若い失業者が多い理由も一部ここにある。

 完全雇用が行われている時点でさえも、障害者にとっては、仕事を得ることは大変難しく、その事実は雇用省(Dept.of Employment)も以前より認識していた。マンパワー・サービス・コミッションが実施しているサービスには、時として職業リハビリテーション・センターで行われるアセスメントも含まれている。アセスメントの結果、特定の職業の訓練が必要であるという勧告があれば、技術センターで、障害者の場合は寮制の訓練学校(Residential Training College)でその訓練が行われる。成人教育大学(College of Further Education)その他の教育施設でも訓練が行われる。障害者は訓練を受けた後、就職のために障害者雇用担当官(Disablement Resettlement Officer)の援助を受けることも出来る。20名以上の雇用者のいる企業ではその3%は(登録している)障害者を雇用しなくてはならないと定めている雇用割当制度に加え、マンパワー・サービス・コミッションは、障害者のために設けた規定を採り入れている雇用主に対して補助金を下付している。

 このようなサービスがあるにもかかわらず、障害者が職を得るは難しい。これにはいろいろな理由がある。ある雇用主は障害者は普通以上の休暇が必要であろう、事故をおこし易い、能率的でない、生産性が低いなどのことをおそれて雇用することをきらう。Kettle氏の障害者の生産性、出勤率、事故歴などについての最近の調査報告を見れば、この疑いも少しは晴れるだろう。障害者は仲間の健常者らのような学業的、あるいは商業上の資格条件に欠けるために職に応募する時には不利である。障害者が直面しているもうひとつの不利な条件は年齢である。障害者の63%が50歳以上の年齢と推定されている。障害者が引き続き国家の経済生活の中で積極的な役割を果そうとするならば、マンパワー・サービス・コミッションは現在行っているサービスを維持するばかりでなく、向上させるようつとめなくてはならない。障害者の中には、有能で働く意欲のある人々もいるが、その生産力は標準の人のほんの一部にしかならない。標準の3分の1以上の生産力があれば、保護雇用の授産所やRemploy の工場のようなところで働けるだろう。Remploy やその他の保護雇用の授産所では約13,500人の重度障害者が雇用されて働いているが、ここも仕事口が足りず、当然資格があっても職に就けない人がある。

 たとえもっと多くの保護雇用の場所があったとしても、なお職を得られない障害者のグループはなくならないであろうと思う。仕事の基準や量にかなう実力のない人もあろうし、賃金があまりにも低いために失業していた方が経済的には得策だと考える人もあるかも知れない。若い障害者たちは、技術に欠けるかあるいは就職の競争が激しいので、まず職を得て労働人口の仲間入りをすることからして難しい。いかに嘆いても、多くのそのような人達が長期の失業に直面しているのであり、そういう人々のためにこそ、職業についていなくてもなお有意義な生活が設計されるべきである。これは障害者の働く権利を傷つけようとするものではない。そのような権利があるとすればそれはまもられるべきである。しかし、全ての障害者が働くことが出来ると偽るのはばかげている。そして働くことが出来ないものも有意義な生活を送る資格がある。

 長期の失業への懸念から、専門役職員協会(Institute of Careers Officers )は3月にDurham大学において、“職業なしでも有意義な生活”に関する会議を開いた。会議は障害者問題に限定したものではなかったが、その議題を「……いかにして職業のない生活を受け容れるか、そしていかにその準備をするかという問題が高度の頭脳をもちながら重度障害をもつ人々を含む、いろいろな種類の障害をもつ人々の前に控えている。」というWarnock 氏の報告書から引用している。その報告書はさらに、「障害者にとっての有意義な生活の秘密は、お互いに支え合う以上のことをしたり、障害者でなくても孤独で弱い人のために援助をさしのべることの中にあると確信する。」と述べている。Warnock 氏は問題の一部をとらえてはいるが、その見方は不完全である。フルタイムで奉仕活動をするというWarnock 氏の提案は現実的ではない。そのような活動が出来る人は、一般市場で就職が出来るはずだからである。Durham大学で提示された解決案の多くも不適当である。というのは、職業なしでも有意義な生活というものを用意していないし、活動プログラムが職業にとって代っているだけである。実に提案されたもののほとんどが報酬のない仕事なのである。その他には政府や政府関連機関に申告されていない経済活動であるblack or informal activityに従事することなどがあげられている。障害者の中には、そのような提案のものが役に立つ人もいるかも知れないが、重度障害者の大半にとっては出来ないことであり、他の方法が考えられなくてはならない。

 Durham大学で何人かの講演者が失業に備えて訓練をするという提案をし、Watts 氏は、失業中の人の役に立つような生活技術のリストを作った。そのような技術はもちろん有効であろうが、特に障害者にとっては失業に備えての訓練をするということは、大きな危険をもはらんでいる。その最も顕著な例は、子供が未だ小さいうちに教師やその他の専門家がその子供が就職に適しているかどうかを決定し、従ってその後の教育もこれを反映したものが行われるというケースでその結果は自己満足的な予言を行うことになり、教師の目標や障害児の成績は下向きのら旋状進行過程をたどるようになる。子供が幼いうちに将来の職業についての見通しをたてることは多くの場合不可能である。身体的、知能的な能力は正確に測り、知ることが出来るが、10年、15年将来のテクノロジーの発展を誤りなく予測する方法はない。1980年には全く就職に向かない人も、テクノロジーの発展のおかげで、1990年にはフルタイムで職業に就くことが出来るようになるかも知れない。いかなる場合にも、単に身体障害者という理由で“就職不可”という扱いをするべきではないのである。Warnock 氏が頭脳優秀な障害者のために職業に就いていなくても有意義な生活を送る方法を語る場合、障害者のもてる技能を最大限に活用するべく訓練し、自活し、GNPに貢献出来るよう必要な援助をしていくということをいうべきなのである。

 もし長期の失業の生活を送ることになったら、普通であればかなりの貧困の生活が待ち受けているということでもある。失業している人には職に就いている人ほどの収入源はない。政府は失業者は職業にある人ほどには経済的に豊かであるべきではないという見解をもち、これに従って、社会保障額も一般の平均収入以上を支払うことは許可しない。故に、失業は異るライフ・スタイルを余儀なくするばかりでなく、有意義な生活を送るための少々の物質的ゆとりや必需品まで得難いものにしてしまうのである。

 失業者が自分の生活に満足出来るようになるためには、一般社会の姿勢にかなりの変革が必要である。将来全ての人が働けるほどには仕事がなくなり、従って失業が各々の努力によって是正されるような個人的現象ではなく社会の機構を変えなければ修正出来ない社会的現象であると考えられるようになれば、職業を得られない人も、職業に就いている人と同様の社会的地位を認められるであろう。勤労は徳であるという考え方も捨てなければならないであろうが、従来の報酬のある職業に代わるものが、単に報酬のない仕事というだけでは、そのような仕事も本物の代用にすぎないと見なされるであろうから、そう簡単には起こりそうもない。そのような徹底的な変化が社会の姿勢の中に起こらない限り、職業に就いている人々が消費と社会的な影響力を支配し、失業している人々にとっては自分達の生活が最小限にしか自由にならない2つの層をもった社会が出現することになりそうである。

 それでは一体職業についていなくても有意義な生活とは何か? それは人それぞれに異るであろうが、共通する要素をあげることは出来ると思う。生活が有意義なものであるためには、当人にとって、その生活が積極的な意味をもっていなくてはならない。ということは障害者の場合には、各々の人が可能な限りの復帰をなし、建造物の障害や人々の偏見のない社会で生活すること。このこと自体は“有意義な生活”ではないが、そこへ向けての第一歩である。

 有意義な生活のためにはさらに障害者に平均所得に見合う程の収入が必要である。補足的な給付金で暮しながら、有意義な生活を送ることは明らかに不可能である。わずかな収入の上に、障害者であるために必要な出費があり、娯楽のための資金はほんの少々になってしまう。このような乏しい収入をもってして重度の障害者が自身の生活を支配するなどということを論ずるのは全くナンセンスである。ほとんどの娯楽の施設はお金がかかる。たとえ重度の障害者に適当な収入があったとしても、有意義な生活の保証はない。ただ選択の範囲が広くなるだけである。

 現役を退いて後、時間の最も有効な使い方をクラスで学んでいる人々があるが、この方法は障害者にも応用されるべきである。地方自治体のデイ・ケア・センターなどでは戸外での時間を役立てることを指導するとよい。いろいろの活動を行うのにグループを組織しなければ出来ない場合が多い。障害者のための乗馬がその一例である。しかしデイ・ケア・センターが積極的な役割を果し、彼らの期待を盛り上げていけば、障害者が個人で、あるいは仲間と一緒に出来る活動はたくさんある。“職業がなくても有意義な生活”というのは矛盾した言い方だということもでき、私もその見方に共感を覚えるところもある。しかし失業は増えつつあり、障害者の職業を求めるために全力を尽しても、なお一方では職業を得られない人々はなくならないだろう。社会にはこのような人々の生活を出来る限り生きがいのあるものにする責任がある。私はこの論文の中で解答を出したとは言わないまでも、奉仕活動をすることによって有意義な生活を送ることが出来ると提案したWarnock 氏の考えをさらにすすめた議論をしてきた。奉仕活動は生活の一部ではあっても、全てではないと思う。職業を得られない障害者の人々が各々の生活を楽しむことが出来るような方法を見い出し、又それを実行出来る収入が得られるようにしていかなくてはならない。

(CONTACT/Summer 1980 )

参考文献 略

*RADAR会長補佐

**身体障害者雇用促進協会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション協会」
1981年3月(第36号)21頁~24頁

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