障害者のための政府内の権利擁護の役割

障害者のための政府内の権利擁護の役割

The Role of Advocacy in Government for Disabled People

Eunice K.Fiorito

対馬節子**

 障害者のための政府プログラムは急増しており、彼ら障害者は急速に登場しつつある組織化された障害者権利運動と結びついている。この政府プログラムの急増の結果、コーディネーション(調整)、情報、移送等の諸サービス、そして最も重要なものとして、政府の全てのレベルにおける権利擁護のサービスへのニードが生まれてきた。障害者団体(the disabled community)が、政治的に活発になり、複雑になってくるにつれ、この分野に影響を与える計画や論争に関する包括的な政策をうちたてようとする政府に対する圧力が増大してきた。この圧力によって、しばしば地方と州レベルで、障害者大衆を代表することを意図して権利擁護機関が生まれている。そしてその範囲は、政府がかかわる、あるいはかかわるべきである広い範囲に及んでいる。

 権利擁護

 しかしはじめに我々は障害者団体を代表している権利擁護というものの現在の使い方をよりよく理解するために、歩みを逆にたどり、権利擁護の概念を吟味すべきであろう。権利擁護は“1つの主張に対する積極的支持”と定義されるし、権利擁護者は“1つの主張を弁じる人で、支援者か、防禦者”として、あるいは“他人のために弁護する人、調停者”として定義される。権利擁護はもちろん形式的には、数多くの方法で現れてきた。最も一般的なものは、もちろん法律の中に見い出せる。法律は権利擁護者あるいはその派生語を法律家とほとんど同義語に使っている。他の形式的用法は、どのように組織化された状況も含むことができる。そしてその状況では、個人や個人からなる集団は、ある特定の主張、集団、問題、政策や行動を弁護して明細に説明する。

 我々を取り巻く世界は、権利擁護の実例に満ちている。ほんのわずかな例を挙げるとしても、組織化された権利擁護を、国際連合、出版とメディア、市民権組織、消費者・環境団体、労働組合、議会、行政部、宗教界などの中に見ることができる。私は政治的行動、調査、公教育、消極的抵抗あるいは悲しいことだが誤った形で、暴力やテロリストなどのように異なった明白な方法を用いることができる。我々は権利擁護や権利擁護者たちの行動によって、日々、我々の生活に実際的影響を受けているものとして存在している。

 それならば障害者のための政府内の権利擁護は、いかに独特に機能するのであろうか。

 政府の組織内での第1の主要な権利擁護は、政治的方法で機能し、政治的指導性を認めて機能し、明確に構成されたか、あるいは少なくとも暗示された規則に添った問題の中で機能する。政府外の権利擁護者と政府内の組織され、確認され、公認された権利擁護者との間の、この本質的相違の十分な裏の意味を理解することは重要である。

 政治組織は部分的にはそれ自体の存在と存続を永続させるために存在する。1つの実体であり、かつその組織の代理機関である政府は、法律と政治的指導の双方に責任を持ち、不安定な平衡を保とうとする行為の中に存在する。本質的に政府は時に矛盾する方法で“シーザーのものは、シーザーヘ”返さねばならない。特定の主張や住民のための独立と自律と重要な指導力等が、これに加わる。そして全ての熱心な権利擁護者が、究極で衡突と共生するのを学ばねばならない可能性のあることを人は気づき始める。

 要するに政府内の権利擁護者は、厳しい不自然な制限の下で働く。障害のある市民のための権利擁護者に関する大半の例では、彼ら権利擁護者は、政府の行政部内で選挙された行政官が、高官によって任命される。このため彼ら権利擁護者は、彼らが権利擁護すべき団体やそのリーダー同様に政府の役人にも責任を負っている。

 このように“きわどい綱渡り”をすることは、“2人のおふくろ”に仕えつつ依然として公正で正当な仕方で、手近な問題を解かねばならない専門家としての義務を持つ個人に、政治的かつ道徳的な難問をもたらし得るし、またしばしばもたらしている。

 多分以上述べたことの中で、キーワードは専門家(プロフェッショナル)という言葉である。障害者のための伝統的プログラムは、多分ある意味で専門家ということを考えないかもしれない。というのは政府内の権利擁護者は、まだ自分達の役割と活動方法を定義する過程にいるからである。むしろキーワードは、専門性(プロフェッショナリズム)という言葉である。それは政治的な政府の関係から生じる手段、組織、計画、法律を利用して現実の意味ある変革を実行する必要性から生じたものである。

 すなわち組織を効果的に働かせるために組織の操作、必要ならば組織を最新の現在も通用するものにするために改革を含む組織への根本的介入であり、権利擁護者のすべての努力が結集されるべきものである。

 上記の例としてあまり理論的とは言えないが、次の例を調べてみたい。生命にかかわるような緊急問題に直面した地域障害者の一部の人々が、この問題に対するよく研究され吟味された解決案を権利擁護者達と共に担当の行政官に示すことができる場合である。提出された解決案の存在は、この問題にのしかかっている時間の圧力故に、彼ら障害者が独立して十分に達成しないかもしれない結合力と合法性を地域の特定の集団に与えることができるし、また与えるであろう。その提出された解答は権利擁護者に、技術者かつリーダーとしての信頼性を与える。それはまた、政府が動かそうとしているが、力強く動かそうと少なくとも試みている選挙区の選挙民の中に信頼の念をしみ込ませてゆくのを助ける。そしてその解答は彼ら障害者のために働くのである。

 以上で概略を述べた簡単な例は、障害のある運転者のためにガソリン税の免税をするかしないかという問題に関して、1974年にニューヨーク市で起こった。

 障害者のための地方事務所は、誰が免除を受けるべきか、いかにその過程が作動し、何故このことをすることが重要かを列挙して、包括的ガソリン配給計画を準備した。特定の地域集団(コニュニティ・グループ)が、その事務所の手助けで作られた。そして行動の組織化された計画が、交渉の基本的枠組として同意された解答を携えて、特定の州役人を動かすために展開された。この作戦の結果、既に活動を始めている州のガソリン配給計画の中に、障害のある運転者と他人の車に頼っている障害者を含めることになった。要約すれば組織が操作され、改変され、そして数千数百の個人に影響を与えていた重大な緊急事態を解決するため使われるようになった。

 しかしながらいかに政府の役人の心を捉え、納得させて行動させるかは、政府の権利擁護者にとって、別の基本的原則を含んだ例になる。その原則はこの実例(ガソリン免税)では、政治組織とメディアを含む。もしその原則が誠実さと、正確さに駈け引きを持ってなされるならば、私の意見では、メディアはどの権利擁護者にも正当で必要な兵器工場となる。

 権利擁護者と、地域障害者の双方によって同意された基本的な戦術は必要とあれば、交通マヒと無抵抗の抵抗を命じる偶発事件を含む行動を十分に備えて、州知事の地方事務所前で大きなデモをすることである。その状況は重大であり、その状況を変えるには法的に力のない地方の選挙された役人によってすら認識される程の緊急事態であるということを、再び思いおこさねばならない。この状況は、選挙の年であり、選挙にたよっている知事が立候補しているという事実によっていっそう誇張された。

 明らかに公式の地方政府の権利擁護者は、不法なことには参加できなかった。明白なことだが、これら同じ権利擁護者は、即座に打ちかかるかもしれないような挑発的な行動の危険について、彼らの地域障害者に忠告する責任があった。しかし全ての中で、最も明白なことは、一度行動への同意が得られたら、彼らの地域を支持し、守る責任であり、彼ら全てが一致する目標に達するようこの状況を利用する責任である。

 デモの事実上の成果は倍になる。無抵抗の抵抗を用いたので、交通は混雑した主要道路でマヒし、特定の委員会や地方の権利擁護者は、州のエネルギー担当の役人と翌日には会合を持った。そしてそこで前述の解決案に到達した。

 政府内の権利擁護者が、いかに振舞うべきかの合法的実例としての上記の例にショックを受け立腹すらするかもしれないいくらかの人、いや実に多くの人々がいるだろう。しかし政治的無関心の現実という事実を抱えてきた我々の中のそれらの人々に、あなた方が余りに厳しすぎないように、どうか次のような簡単な教訓を思い起こすよう努めて下さい。

 *政治的組織というのは、政府の一部分でありながら、また政府から分離したものである。政府は政治組織に依存し、影響を受ける。そして伝統的方法が失敗した時は、政治組織は作戦の合法的領域となるべきである。

 *政府内の権利擁護者は、たとえどんなに正当化されるように見えても、非合法行動を大目に見て、積極的に支持することはできない。しかし権利擁護者は、常に主唱者間の調停者、緩衝器、コミュニケーションの絆であることによって独立的に一連の行動の進行に同意する時は、権利擁護者としての一貫性を積極的に維持しなければならない。

 *権利擁護者は、心の中に明確な確定している目標を保持しなければならない。

 前に挙げた例を思い出してほしいが、それはまたかなり劇的な例である。ある意味ではその例は、前述したように極めて明らかに政治的で道徳的な難問を反映している。別な意味でそれは障害者のための政府の権利擁護者が、従事している日常的な種類の行動を決して代表していない。

 この点で合衆国には、今日ハンディを持った障害者個人のために250以上の地方機関がある。

 地方機関の役割

 「障害者雇用のための知事委員会」のような類似の事務所は、多くの州において、州レベルで存在している。これらの代理機関に加えて、合法的に委任管理された「保護と権利擁護」の機関は、発達障害のある市民のために全ての州に設立されている。そして連邦レベルでは、権利擁護計画は「リハビリテーション行政局」において、障害のある市民に影響を与えるような広範囲の問題を取り扱うために開発されてきた。他の連邦分野では「障害者雇用に関する大統領委員会」の既に確立された長期的仕事や、より最近設立された「建築及び交通障壁応諾評議会」と「住宅都市開発省(HOD)」における「自立生活事務所」等が、彼らの責任の一部として重要な権利擁護機能を担っている。

 これらの政府の権利擁護の例が、その演ずる権利擁護のタイプにおいて幅広い偏差を持っていること、誰のために彼らが奉仕し、どんな問題領域で彼らが仕事をし、彼らが彼らの自由になるどんな権限を持って、どのような構造の中にいるかを記述することは重要である。

 地方の機関は多分最も興味深く最も創造的である。概してそれらは、以前は障害者の最も重大なニードに歴史的に関与してきた幅広い問題、プログラムに責任を持ちつつ発達してきた。雇用が可能になり、教育を受け、自立しつつある多くの障害者が、より伝統的な医学的及び健康への関心以上に、市民権、住宅、交通、職業、エネルギー、犯罪防止、選挙権、生活様式の自由を含む諸問題に今や、いっそう真剣に関心を持っていることは、主に合衆国におけるリハビリテーションの努力への賛辞となろう。

 今日まで地方自治体は、広範囲のプログラムと問題の領域に熟達しなければならなかった。事実上、これらの機関の職員はこれまで専門家に専有されていた分野で、ジュネラリストにならなければならなかった。同様に彼らはまた、誰も以前には存在しなかった領域で、専門家にならなければならなかった。もし全くの必要性以外に、この種の接近に対する基本的で哲学的な土台があるとすれば、それは障害のあるアメリカ人は他の全ての市民同様に幅広い複雑な一連のニードを持っているということである。加えて我々の国民生活の十分豊かな機構への障害者の統合は、生活の全ての面が、さまざまな度合で、障害者を受容し、彼らが成長発展するのを許すよう順応し、適合せねばならないということを意味している。

 これらの地方機関の典型的で、作戦的で、計画的な活動は、次のような項目を含む。即ち地域の504条関係のコーディネーション機関、個人教育計画のような分野における消費者への技術的援助、建築障壁の除去、交通のための移送計画、特殊な努力のための計画、地方の1662の車のコーディネーション機関、立法上の分析と提案、公教育への努力、CETA雇用計画の実施、情報、移送、個人の問題解決と危機介入、犯罪防止、エネルギー計画、地方政府と私的部門内での肯定的行動計画の開発、レクリエーションの技術的援助計画、サービス、その他もっと多くの項目を挙げられる。

 上述した活動を取り巻くほんの1つのプログラムの中でさえ、提供されているサービスの水準と質は、明らかにこれらの機関が手に入れることのできる財源に直接的に依存している。ある者が多様な部門の計画の資金の受け取り人である一方で、ほんのわずかの率の人々が、一般的サービスに対する重要な連邦資金を受けており、しかもデモンストレーションプログラムという形式のもとにである。機関の大多数は、職員不足であり、また地方税収入から常に不足した状態で、貧しい資金を受けている。CETAのような雇用プログラムが、厳しい財源の問題を相殺するためにひんぱんに利用されてきている一方では、このような種類の解決法ですら、職員の実地訓練に要する期間の長さ、計画の合法的期間、そして低賃金水準に関しては構造的問題をかかえている。

 1979年の5月に多くの地方の機関が、テネシー州のナッシュビルにおいて、情報を分けあい、共通の問題の解決を討議するため初めて会合をもった。これらの地方の権利擁護者が、専門技術と創造的エネルギーの新しい源泉になってきていることは、この会議から明らかである。彼らはこの分野で今までは、人目を引かなかった政治的常識を持って、幅広く定義される地域障害者の増加しつつあるニードについての幅広い包括的展望を結合させてきている。

 3日間の間に提供されたさまざまなワークショップやセミナーに参加することは、魅惑的なことだった。各々の機関の問題、方法、優先順位は、互いにかなり矛盾なく一貫していた。これらの新しい専門家は、これまで多くの例において、なんらの計画的あるいは、合法的な解決を持たなかった現実の人々の現実の問題に今日まで取り組まねばならなかったのは、はっきりしていた。助言指導(コンサルテーション)の過程から、権利擁護者にとって別の重要な役割が生じる。

 一方か両方の集団が、互いに相手に対して基本的に違う新しい考えを持つということを示すような問題が生じる時は、地域障害者と政府両方に対して権利擁護者は、通訳者として振舞わねばならない。一度このことがなされ、基本的事実や問題が詳細に確認されると、権利擁護者はそれからその問題を特定の党派の展望と、政府、地域障害者や政治的環境に関する彼のより大きな展望の両方からその問題を分析することができる。これらの分析によって、実践的解決を提出できるのである。

 この点で、助言指導、説明、分析の後、権利擁護者は、論争を試み、好結果を得るため、調停者として振舞うことができる。そしてこの結論に、彼ら権利擁護者は直接的手段を通して仕えてきた。

 直接的に働きかけられた地域障害者は、どんな形のサービスの小売りも認めないという立場を素早くとった。そのかわり、彼らは家庭介助人を雇い訓練するための資金を障害者個人に直接与えるようにすべきだと提案した。

 市当局は、このような取り決めは、地方、州、連邦の手続きと規制の下では、明らかに非合法であること、そしてどんな窮境が後に続くかを返答した。

 障害者のための地方事務所は、論争に介入し、そして論争の各々の側に別個に会い、話を聞いた。それから彼らは各々の側の立場のより深い説明がなされるように双方を一堂に集めた。この後、地方の権利擁護者は、各々の側がどんなことをしたいと望んでいるかだけでなく、各々の側が何をしようとは望んでいないか、そしてそれは何故かということを説明するのにかなりの時間を費やした。

 この過程の別の良い例は、重度の障害者で、しかし自立指向の人々のための、メディケイド(Medicaid)の家庭介助員サービスの「行商」(vendorization)の問題についてニューヨークで再び起こった。

 サービスの「行商」

 地域障害者は、「行商」が、彼らが市の直接サービスプログラムの下で獲得してきた家庭介助員を雇う、解雇する、または訓練するという控え目の権威を彼らから奪うであろうと感じた。彼らはこの行商方式になると、サービスが、消費者である障害者を、どうような意思決定からも完全に除外する伝統的な保健プログラムになるであろうと感じた。

 「人的資源行政局」は、さまざまな理由でサービスの「行商」を望んだ。本質的には彼らの第1の関心は、お金を節約し、慢性的な管理上の問題を除去し、家庭介助員を望むクライエント人口へのサービスの質を徹底的に改善することだった。これらの問題は、部分的には、過度に多いケースの量によってひきおこされ、全ての適切な規制の調整や管理的秩序と正確に同一視されてきた。そして、もし各々がとってきた立場が、合法的かつ計画的に正当化されるのなら、「行商」の問題は分析され確かめられる。それからいくつかの概念上の折衷案が提案され、それらの概念上の歩み寄りが、交渉の焦点として進展した。

 3年半後の結論は、権利擁護者の立場に本質的に適合するものだった。うまく消費者の要求を満たす「行商」の下での計画は、独立と自己決定に注意を払っている。

 長い骨の折れる解決へ到達する過程で、権利擁護者は行き詰まってしまうような重大な問題については、双方が不正確であったことに気づいた。必要なことは、双方が新しい事実や情報を反映するチャンスを持つことであるということが明らかになった時、常に権利擁護は、その取り次ぎの役割から引退した。

 政府は次のような人々から構成されているということを思い出さなくてはならない。すなわち彼らは、彼らと共に、彼らの良心、無意識の態度、偏見と感情を、彼らの義務の執行に持ち込む。それ故、政府それ自体が、論争や問題や人々についてある態度を持つことができ、また現にある態度を示していると公明正大に言える。

 障害のある市民は、基本的に異なったサービスを求めて基本的に異なった方法で今や政府に接近しつつあるので、権利擁護者は役人と政策作成者の態度が、地域障害者を尊重しているということをはっきり気づかねばならない。権利擁護者の政府内の助言指導が、重要になるのは、この点でなのである。

 この助言指導過程は、権利擁護者にとって公式の政策に影響を与えている個人的信念から生ずる誤解や偏見を攻撃し変えるには、最も基本的で建設的な方法である。

 上述の例での現実の問題は、市当局がこの状況の結果、劇的に異なった光の中で、その地域障害者を認めたという事実にある。この地域障害者は直に政府の大問題とその限界について、学ぶ番がきたのだ。このようにして両者は、互いに未来に向けて、より現実的で、より敵対的でない関係を求めて一段階を設定しつつある。

 そうすることによって各機関は、自ら未来に向けて、協議事項を明瞭に表現しはじめてきた。それらは504条の応諾及び実行の機関への連邦の投資、地方権利擁護機関に代わる直接的な州と連邦による援助、アメリカ障害者法(The disabled American Act)を通して、障害のあるアメリカ人への広範囲の包括的な新しい国の政策の創造、障害者のための地方事務所の永久的で、全国的な連合の確立、独立と生活プログラムの進展と拡大、そして最後に最も重要なものである地域障害者への政治的影響の進展を含む。

 この最後の領域は、特別に重要な時期というにふさわしい。というのはそれは、権利擁護者がかかえてきた政府の全てのレベルに存在した深刻な長年の問題であるからである。今日、地域障害者は、依然として大きな問題に取り囲まれた極端にこま切れにされたコミュニティである。それより前の他の少数派集団のように、障害者もアメリカの政治過程に巻き込まれることに向けて、ためらいながらのろのろした運動を始めてきた。

 現在まではこの努力の大半は、全然党派に属さないものであり、教育的な国内の政治的活動によって中断されたこともある。このことの一部は理解できるし、予想できる。それは、私が“無気力の政治”と呼ぶ、症候群の一部である。そして歴史は、ここに列挙するにはあまりに多くの実例を持って停滞している。

 この背景にある基本的な原因の要素は、しかしながら確認するに値する。それらは異なった方法で、異なった理由のために、一般社会の本流から組織的に切り離されてきた一群の個人の自然な本能の本質的な表明である。彼らが彼ら自身の生活の制禦の方法を獲得するにつれ、彼らや彼らのニードにとってかけ離れて、相容れないように見える社会や世界に、彼らは直面しなければならなくなってくる。同時にメディアや他の方法を通じて、他の同時代の市民権運動に直面する。その運動の目的は全て基本的には同じである。すなわち正義、尊厳、自己決定、機会均等である。アメリカ人の争いは、統一と誇りの源泉として、年齢、肌の色、家柄、学歴などの背景、性等の共同団体を強調する心理的自動装置を利用することが困難な点にある。これらの要素と組織的な分離をまぜてみなさい。そうすれば、その結果、より広い世界での組織や行動を犠牲にした論理と説得力を備えた偏見が生まれるのである。

 このようなことにかかわらず、次のような微候は明らかに明白である。やっとのことで地域障害者は、彼らが政府に望む種類の反応や行動を引き出すために、彼らが率先して行動し、アメリカ人の政治生活の本流に彼ら自身口をさしはさまねばならないことに気づきつつある。

 私は政治への進展は避けられないもので、うまく進行していると主張する。その進展が進行するにつれ、政府の権利擁護者の権威と責任も進展する。しかし最も重要なことは、自国の忘れられた人々のもう1つの集団をやっとのことで抱きしめようとする合衆国の社会構造が発展することであろう。

アメリカ連邦政府リハビリテーション局専門官
**日本女子大学大学院生


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1981年7月(第37号)29頁~34頁

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