精神病者の権利擁護

精神病者の権利擁護

Advocacy and the mentally ill

Ruth Willetts

高島和子**

 アメリカ社会は過去15年から20年の間に、幅広い体験を通して市民権についての問題意識を呼びさまされるようになった。少数派住民の多くは─たとえば、人権・民族的少数派住民、女性、身体障害者等─新しい意味のアイデンティティや力を見い出した。沈黙によって苦しみを耐えてきた歴史をもつこのような人々は、彼らの人権及び市民権が社会的に認められることを要請しはじめたのである。

 このような動きの中で、精神病者の権利というものも支持を得るようになってきた。以前精神病患者であった人々は、かつてない組織だった力強い口調で、精神病者の虐待的な扱いを非難した。精神病者も権利を保持しているという考えの種を彼らはまき、その種は精神衛生分野の専門家や弁護士、立法者たちの間で根づき始めたのである。

 これらの動きの結果として生まれた多くの制度上の改革の中には精神病者のための正式な擁護システムの実験的な始まりも含まれる。患者の権利の擁護という考え方の生まれいづる時がやって来たのである。

 「擁護」という語は、目的のために嘆願し、弁護し、支持し、信奉する行為として定義づけられてきたが、擁護の対象となる人が自分自身のために嘆願できない場合には、特別の意味がそれに加わることになる。しかし患者の権利運動のめざましい伸びによって思い知らされるのは精神病患者が多くの場合、自分自身の権利を守るために自分の意見を述べることができるという事実である。結果的にみると、患者の権利擁護には2つの利点があるといえよう。つまり権利が犯される恐れのある人々を保護できることと、精神病者に対する一般の人々の受けとめ方が変わることである。

 精神病者の権利について云々する裏には、1つの基本的な仮定がなされている。精神病患者の権利は他の人々の権利とは異なる。あるいは精神病患者は他の人々とは異なる、ということである。たとえば歯の治療を受ける患者のことは誰も云々しない。当然のことながら、特権も有していなければ、異なった種類の人々でもないとされているからである。彼らは他の人々と同じ権利をもつ人間である。まず人間であり、その次に歯の病気の患者とされるのである。したがって患者の権利について云々するということ自体、精神病患者が他の人々とは異なった人間であるとするシステムを継続させてしまう、という人もいるわけである。このような人々にとれば、すべての人々の権利が等しく保護され、精神病患者の権利というような考えを思いつくことさえも必要がない社会こそが理想なのである。

 しかしながら精神衛生の問題について考えたり論じたりする者のほとんどは、表には出さないが、精神病患者は他の人々と異なり、特殊な権利を有し、その権利を保証するために特別な注意が払われる必要がある、ということを前提に考える。この前提が受け入れられるやいなや、患者の権利にまつわる各種の問題が表面化する。第1に考えられる基本的な問題は、2大勢力の専門分野―「医学」対「法律」―の衝突である。

 精神衛生の専門家、特に精神科医は、常に下記の立場を保持してきた。

 (1) 精神科医の主な仕事は患者を治療することにある。

 (2) 患者がどのような治療が必要かをみきわめうる立場にいる者は彼ら以外にいない。

 医師が必要と考えるもの以外は、治療計画を邪魔するものとして強く拒否された。精神科医の特別な訓練、技術、知識に対するどのような挑戦も、常に専門家たちの用心深い抵抗にあってきたのである。

 一方、弁護士たちは異なった価値基準をもっている。彼らの主な関心事は、個人の自主性と自由であり、法の下ではすべての人々が平等に保護を受けられるということであり、また、正当な前進をする権利である。この価値観は、「個人の個人としての価値と、自主的決断者としての価値に重きを置く」アメリカ社会によって強化された。一方には、患者にとって入院が必要であり、患者自身一番それを望んでいると信じる精神科医がおり、もう一方にはその同じ患者が入院を望まず、その代弁者となることを任務と考える弁護士がいる。両者の間に生じる衝突を想像するのは難しくない。入院して自由を失うのと、自由になって手当や治療を受けられなくなるのとでは、どちらがより悪いといえるであろうか?

 何年もの間、精神病患者の立場というものは無視されてきた。多くの州で非自主的に入院した患者は自分自身で決断する力がないとされてきた。外界と病院や施設の雰囲気が混じり合って、患者に他に頼らしめ、決断力をとりあげてしまう。虐待が起こった場合には、患者たちには自分たちに代わって訴えてくれる擁護者が必要となる。しかし、患者はほとんどの場合貧しく、法的援助を受けられるということについては無知であり、施設の中で起こりつつあることによって臆病になっている。このような立場にいる患者だからこそ、社会は患者の声が聞こえるようにする義務があるのである。

 社会がコンシューマーリズムへと進み、最初は品物の供給者を追求し、最近では高い地位にいる専門家さえをも含むサービスの提供者を追求するようになった。怒り、錯乱した患者たちは、医師を動かす動機と、その医師が提供するサービスに対して疑問を投げかけるのである。治療が実質的に受ける側のためになるものと明らかに保証できるものであれば、不快や一時的痛み等を正当化することは容易である。しかし精神衛生サービスの結果を調べると不明確なものが多い。治療が与えられても、それによって違いが生じたかどうかが疑問になる。不本意に入院させられた精神病患者の権利を侵害するかもしれない表われとして、患者の訴える不快や一時的痛みに目を向けるべきだとする何よりの理由はまさにここにあるのではないだろうか?

 精神病患者の権利に関して優先的に考慮しなければならない事柄の中では、まず第1に、患者自身が普通ことの発端となった事件とする施設への不本意な収容があげられなくてはならない。治療を受ける権利や治療を拒否する権利に焦点があてられてきたが、入院患者の権利というものは、もし入院というものがなければ的はずれのものになる。患者が収容されるまでの過程にみられる非難に値する点は数多い。

○患者は権利がありながら法的抗議を行っていない。多くの場合、収容聴取に先だって患者に弁護士が任命される。しかしその弁護士は依頼者と十分に話し合う時間をもたず、また精神衛生法には疎く、依頼者の望む方向を意欲的に追求するだけの資質に欠けている。

○精神鑑定は表面的なものである。精神科医は弁護士と同じく、それまで一度も面識のない依頼者に任命される。そしてほんの数分の面接で診断が下されるのである。精神科医は疑わしい患者を入院させても失うものはなく、後になって人に危害を加えるような者を手放した場合には失うものが多い。したがって、入院を勧めることの方が圧倒的に多くなる。

○精神科医の勧告が、収容聴取の際疑問を投げかけられることはめったにない。精神衛生法に疎い弁護士は、この場合の専門家の意見にいやいやながらであれ従わざるをえないことを感じる。たとえ精神科医の診断が信頼できないものであるとの悪評が高くとも、患者が危険であるかなど、行動を予測する能力が精神科医に全く無くとも、これが通常のなりゆきである。

 いったん不本意にも病院に収容されると、それが直接であれ、保護者の下に一時置かれた後にせよ、たちまちのうちに潜在的な権利の侵害という泥沼に沈み込んでしまう。このような事象に対してこそ精神病患者の権利の問題は論議されなければならない。

 擁護の問題

 患者の擁護に関する基本的課題は、誰が擁護者になるべきかという点である。近年精神病患者にかかわる画期的な法律の制定や裁判の動きが多く見られるようになり、法の役割が前面に出されるようになった。そして弁護士が長や職員となるような擁護システムが多く立案された。しかし弁護士の起用には非常に経費がかかり、社会の資財を患者の権利擁護訴訟のために使うのが妥当かどうかという点には論議の余地が残されている。弁護士はちょうど大砲を使ってハエを殺すような不必要な力を使うことが度々ある。弁護士たちが擁護システム全体や精神病者全体に焦点をあてるようになれば、より多くの人々のために役立つものを勝ちうることができるであろう。

 患者からの苦情のほとんどは、弁護士でない人々でも、様々な分野の人々と話し合うことによって満足のゆく解決がなされるものである。反対に弁護士は当然の進展を求めるあまりに敵意に満ちた手段をとりがちで、そのために単なる話し合いや折衝で問題が解決される機会を逃がしてしまうことが多い。衛生ケアの分野では、職員と患者の関係が信頼の上に成り立ち、患者の最上の利益がお互いの共通の目標であることを理想とするので、敵対的手段は相応しくないのである。

 弁護士が精神衛生法の専門知識を得ることに時間を費やしていれば、その弁護士を擁護者として起用することは明らかに利点がある。彼らは法的システムの中をうまく通り抜けることができるし、虐待が起こりうる部分をも十分承知している。施設への収容や移動、退所、法廷で決められる他の事柄に関する権利の侵害に対抗するには、特に彼らの手腕が重要となる。いくつかの擁護システムを見てわかることは、様々な専門分野をもつ職員が同等の立場で働き、それぞれが独自の専門知識を提供できるようなメンバー構成が最良であるということである。これに関連して、内部の擁護者が果たして外部の擁護者より効果的であるかという問題がある。内部の擁護者は外部の擁護者にはできない面に効果を示し、同時にその反対も言える。内部の擁護者には特別な利点がある。彼らには情報が手に入り易く、精神衛生システムとその働きについてより良く知っている。また外部の擁護者よりも内部の擁護者の方が管理者に対して敵対的な印象を与えることが少ない。

 内部の擁護者に関する問題点は、利害の衝突をいかにすれば避けられるかというところにある。これはもしプログラムの職員が擁護者の役割につく場合、特に重要な問題となる。患者の権利擁護者として個人かグループとプログラムが契約を結ぶ形をとると、より安全ではあるが利害の衝突が起る可能性も残っている。

 利害の衝突を防ぐ方法には、擁護者が別の、しかし関連ある精神衛生プログラムの職員―たとえば、州の職員ではあるが地元から資金が出ているプログラムで働いている者―である場合が考えられる。または別の、関連ない部署―たとえば公選弁護人事務所―の職員であってもよい。

 他方、外部の擁護者には独立しているという利点があり、弱点としては情報不足や担当分野に不慣れである点があげられる。システム内の人々が抱く不信感が、外部の擁護者にとっていらだたしい壁となることもある。外部の擁護者として比較的よく知られている形を2つあげるとすると、1つには、州の予算を財源とした州レベルの部署があり、もう1つには民間の独立したグループか団体がある。このような民間グループは定着した組織から切り離されたものであり、それが利点であるとともに弱点でもあるといえる。

 時折提案される方法に立法政府任命の委員(オンブズマン)から成る委員会が調査チームを結成する方法がある。たとえばこのような委員会の構成員は、精神衛生専門家や弁護士、病院管理の経験はあるが問題となっている施設又は公共衛生システムとは関係していない人々などとする。そして「無通知調査を行い、発見した違反行為を通報し、方針や運営方法の改善を求めるかまたは命令する」。このような考え方は好ましいが、患者に自主的に不満を申し出る手段を与える方法ほど効果的であるとはいえない。しかしこのグループは専従の擁護者にはなりえないが、補足的なものとしては役立つかもしれない。

 資源は限られており、アメリカ社会では精神衛生サービスが優先されているわけではないので、問題は擁護者サービスがどこに財源を求めるかということにかかってくる。資金を出すのが誰であれ、擁護者の活動を左右することになるので財政的独立は擁護者にとって管理運営上の独立と同じ位大切である。もし資金が州の保健局から出ている場合、擁護者が局の政策に対抗することは奇妙なわけである。同じようなことは、そのグループが公立の精神衛生システムと地元のレベルで契約を結ぶ場合にも言える。州レベルの擁護部門は立法機関の予測不可能な動きに頼るしかない。完全に独立したグループは、常に団体や興味を示す寄付者などから資金を集め、何とかやっていかなければならない。このようなつながりの中にも利害の衝突の可能性はひそんでいるといえる。

 資金集めと同じく、既存の力関係の中で擁護者がどこに位置しているかということは、擁護者が受ける政治的圧力をも左右する。擁護者の力に危険を感じたり、挑戦されたと感じる人々は常にいるもので、いかに注意深く企画された擁護プログラムも身に危険を感じた役人から攻撃されることをまぬがれない。ここで注意しなければならないのは、「施設を解体しようと法廷で争っている擁護者は、同時にそれが属している政治的関係者をも攻撃していることになる。このような敵対意識を伴う政治的要素が働いて、州が支援する擁護団体はシステム内のうまく機能していない部分を批判することを忘れ、個人の問題にのみ焦点をあてがちになる」

 ボランティアの擁護者を起用する方法というものも難しい。保健教育福祉省主催による実験的なオンブズマン・プロジェクトでは、ボランティアの訓練に投資した額の資金に見合う効果が実際に見られなかった。訓練の必要ない専門家の起用の方がより効果的であることがわかった。

 しかしボランティアの人々は、施設から出て社会で生活している患者の擁護者となることはできる。これは病院や他の施設にいる患者の擁護者が果たす役割とは大きく異なってくる。

 擁護システムについて論じる場合にもち上る課題に、患者側の考え方というものがある。擁護者や企画者、プログラム、機関等は、患者をいかにうまく助けるかということに焦点をあてすぎる。そのために、古くからある型にはまった医学的な前提、すなわち患者にとって何が大切かを自分達は知っているという考え方でことを運ぼうとする。患者を擁護システムの中に参加させるという試みは今だかつてなされたことがない。

 患者や以前患者であった者を擁護に参加させるやり方に関連して、当たりまえのことでありながら見逃しがちな点は、彼ら自身にどのような擁護サービスを望むかを尋ねてみることである。無力な、人に頼るというような患者のイメージは棄て去らねばならない。患者の多くは、もし機会さえ与えられれば、自分たちの必要とするものを主張することができる。機会が与えられれば、患者たちの関心事が次の2点であることが明らかになるであろう。「第1に自分たちの住む地域に病院に代わる精神衛生情報センターがないということ、第2にそのような情報源をまず活用して入院を最後の手段と考えるような職員が少ないということである」患者のこのような感じ方をもう少し考慮すれば、擁護サービスを改善するのに大きく寄与できると思われる。

 一方かつて患者であった人々も擁護者になりうる。彼らがシステムから得た直接の経験や患者の側に立てるという事実は、特殊な意味で資格があるといえる。精神衛生専門家としての訓練を受けていないというだけで資格がないとは言えないのである。擁護者を雇うにあたって、、ミシガン州の患者の権利擁護プログラムは次のようなことに気づいた。「成功の最大の鍵は、個人がもつ患者や依頼者の権利に対する感受性であり、特別の主義主張の背景をもつということよりも組織やサービス提供プログラムの中の民間団体を通して経てきた経験である」

 カリフォルニア法

 患者の施設への収容という問題に関心が寄せられるようになり、実際に収容された人々に対して十分な治療が与えられないという事実が加わり、カリフォルニア州立法府はコミュニティ精神衛生サービス法(1969年7月1日より施行)を生み出すにいたった。この法令は、カリフォルニア州内の患者の不本意な取り扱いを生み出す原因を3つのカテゴリーに分け、同州における民間施設による精神病者の収容はなくなった。患者の権利に対する立法府の関心は他の形でも表された。この法令の下では入院患者の権利というものもいくつか認められ、その後立法府はこの権利をコミュニティの施設にいる患者まで拡げるようになった。

 患者の権利に関する条項の核になる部分は1969年に制定されたが、その施行は遅々として進まず1976年6月になった。その間、患者の権利の条項の部分に改正が加えられ、擁護に関する行政規定もどうにかつけ加えられた。

 擁護に関する規定

 カリフォルニア州行政規則(California Administrative Code)の下における患者の権利擁護のための行政規定は一般的なものである。どの行政官も独自の解釈によって規定を施行するので、カリフォルニア州の規定のもつ一般的な性格は行政官に柔軟な解釈の仕方と施行の仕方をとる余地を残しているといえる。

 カリフォルニア州では各郡の精神衛生プログラムと各州立病院が患者の権利擁護者を置いている。擁護者は職員であったり、ボランティアであったり、外部の契約人や他に資金源をもつ個人であったりする。法は擁護者に支払う資金までも保証したわけではないので、常勤の擁護者を見つけるのは困難であった。また州は職業には特に条件をつけなかったので擁護者の経歴は様々であった。

 権利の侵害や拒否に関する苦情は各郡の患者の権利擁護者にもちこまれ、擁護者はその件について調査し、問題を解決しようとする。決断が不可能な場合には、サクラメントの患者の権利事務所(Patiens, Rights Office)が協力にのり出す。

 この擁護システムの構造を検討してみると、下記のようないくつかの欠陥がみられる。

1)カリフォルニア州の擁護システムの重大な欠陥は、ほとんどの郡の擁護者に見られる明らかな利害の衝突である。すなわち彼らは郡の職員であり、彼らが監視しなければならないシステムそのものに雇用される立場にいる。

2)多くの郡では擁護者としての仕事はパートタイムであり、他に職をもつ人がなっている。したがって擁護の仕事は付加的なものとなっている。

3)擁護者が他に職をもっている郡では、その業務と擁護者としての業務との間の衝突というものがありうる。自らを基本的には行政官として任じている擁護者は、臨床的な問題を含む論争においては資格がないと感じるであろう。中には半日を収容ホームの運営者から訴えのあった問題患者のために使い、残りの半日を同じ運営者に対する患者からの苦情処理に費やすソーシャルワーカーもいる。また、郡のソーシャルワーカーであり同時に擁護者である人は、擁護者を辞めない限り、他の郡にいる仲間のソーシャルワーカーを監視する立場に立たされることになることもある。

4)擁護者は服従を強制する力はもっていない。目的は法律への服従でないのと同じように、加害者を罰することでもない。擁護者は、手に負えない違反者に道徳的圧力をかける以外にないのである。極端な例以外には役立たないが、唯一の拘束力を与えるものとしては地域の認可事務所を巻き込んで、その施設の運営許可を違反者からとり上げるという方法がある。

5)擁護に関する法の重大な欠陥は資金不足である。今まで述べてきた問題の多くは、内部の者であれ独立した外部の者であれ、常勤の擁護者を雇うだけの予算がありさえすれば避けられる。

6)擁護者の起用にあたり、訓練や社会化教育は少ししかなされていない。最低限の訓練は行われているが、時折開かれる一日だけのワークショップではもちろん十分でない。それも擁護者は個別に訓練を受けるわけではなく、地域別に分けたグループのワークショップで行われる。したがってもし擁護者の中に変更があった場合、新人は擁護者としての正式な訓練を受けるためにその地区の次のワークショップが開かれるまで待たなければならない。さらに重要なことは、擁護者という役割の考え方にはっきりとした基準がないことである。文字で説明した擁護者用のガイドラインは明確でなく、その役割について各人各様の解釈が可能となっている。それは便利なことであるかもしれないが、患者の権利、患者にとってその権利は何を意味するか、または擁護の重要性などに対するはっきりとした姿勢を示すことにまったくというほど努力が払われていないといえる。結果として、問題は法律の紙面上では解決されてもその精神では解決されていないということになる。

7)特にガイドラインが不完全な場合、新しいプログラムを施行する際に問題が出てくるのはまぬがれない。郡ではあるものには従い、あるものには反発するなど様々な形で指示される事柄に対応してきた。施設が服従を申し出るその仕方には改善の余地がある。施設はあらゆる権利の拒否を書類で提出しなければならない。しかしそれによって権利が幾度にわたって拒否されたかが明らかにされても、権利の侵害に対する苦情がいくつ解決されたか、あるいは潜在的侵害がいくつ未然に防がれたかは明らかにされない。このシステムは施設が自らのことを告げ口するような奇妙な状況を生むことになる。適切な申告システムを生み出すには複雑な難しさがある。

8)擁護者の行動を評価するのも重要な仕事である。どのような基準で評価されるべきか? 誰が評価するか? 幾度評価するか? これらは基本的な課題である。現在は患者の権利事務所の人が58の郡を回り、数日づつ滞在し、その場で評価するということが行われている。事務所でかかえている他の業務の量を考えると、この評価作業が予定よりずっと遅れているのは当然といえる。

9)郡当局と州当局との間の関係は不明瞭である。たとえば各郡の擁護者は地元の精神衛生局長に対して責任をとるべき立場にいる。州の患者の権利事務所は訓練を施すと同時に擁護者のコンサルタントになり、彼らの評価もする。しかしその事務所は、満足のゆく働きを行っていない擁護者を辞めさせる力はもっていない。その地区の精神衛生局長のみがその権力を有している。

10)カリフォルニアの擁護システムは、たとえば治療を受ける権利というような患者の権利に関する幅広い問題を取り扱う構造にはなっていない。誰かがどこかでこのような幅広い意味の権利を擁護しなければならない。既存の擁護システムは狭い限られた部分にしぼられているので、その意味では適切であるとは言えない。しかし擁護という概念には個々人の擁護以外に明らかにシステムの擁護というものが必要であろう。

 擁護者の役割

 1978年の初め、筆者は幾度かにわたりカリフォルニア州内の8人の擁護者と話し合った。これは単なる話し合いで、正式な調査研究ではないということの了承を得ておいた。下記は筆者が彼らから受けた擁護者としての意識の印象である。

 まず話し合いは施設の外部に対する内部の擁護者の賛否から始まった。8名のうち6名までが郡の職員であり、彼らは内部の者であるということについては何の問題はないとしていた。他の2名ははっきりとした利点として2点あげた。─第1に内部の人間は各患者の記録や患者自身に近いということ。第2にシステム自体のことがよくわかっているということ。外部の擁護者のうち1名は、擁護者は絶対に独立したものであるべきだとしながら、記録が手に入り易いことは認めた。

 8名のうち6名は、擁護者以外の仕事に就いていた。何人かは本稿の最初の部分で触れた役割の衝突というものをあげたが、筆者が受けた大体の印象は、時間の不足が擁護者としての任を十分に果たすことを妨げているということであった。

 この話し合いの主な目的は、各擁護者がその役割というものをどのように受けとめているかということを知ることにあった。結論として得たことは、それぞれが独自の解釈をしているということであった。狭い解釈の仕方もいくつかみられた。「私は明記された事をそのままやるだけです─苦情を調査し、相談を受け、サクラメントの患者の権利事務所との間の連絡係として働くこと」「私は必要な所にだけ出て行きます。擁護者は施設に直接出かけて行くべきではないと思います。施設の中に入って行き、患者に会ったり、記録を調べることを要求できる力を法によって与えられているわけではありません。私達は施設の独立を認めるべきです」。

 他には幅広い解釈の仕方もみられた。すなわち擁護者は調査員ではなく、「抑制と均衡」を行う者であり、「コミュニティの中で目につくひとつの象徴」であるとする。

 ほとんどの擁護者は、苦情調査と報告書の提出など必要とされている最低限のことしか行っていないことを認めた。しかしそのことについては満足していないようであった。彼らから幾度も聞かされた発言は、もっと患者に手をさしのべたいということであり、患者や職員、コミュニティの教育の必要性である。この点は特に強調された。擁護者は自分自身の擁護ができるような教育を受けるべきであり、職員もまた、患者の権利について学び、必要なときすぐに患者のための擁護者になれるようにするべきだという。

 この教育の必要性という発言は、基本的な考えから出てきたというより、擁護者が堆積した仕事をかかえ、同時に色々な事はできないといういらだった気持ちを常にいだく実際の経験から出てきたものだといえる。入ってくる苦情の量からすると外に出回ることはできない。もし彼らが外に出かけ、その結果注意を向けるべき苦情が増えたら、彼らの仕事は増々困難なものになるであろう。

 ここで気がつくのは、1960年代の市民権運動、人権運動、患者の権利運動に参加した人々を動かしたものと、筆者がインタビューした擁護者たちのその日その日に対処していくというやり方との間に見られる対照的な違いである。この擁護者たちは、1960年代の初期の擁護運動者たちや立法関係者がもったと同じような自由に関する価値観をもっているにはいるが、そのかかわり方のレベルが異なる。筆者が受けた印象は、今以上に何かやりたいと思っている悪意のない人々でありながら、多すぎる量の仕事をかかえ、常により重要なものを優先するよう強制されていることである。患者の権利擁護の問題は、擁護という仕事が常勤の仕事とならない限り優先されないであろう。

 患者の権利の問題に対する法的な対処の仕方と医学的な対処の仕方の違いは、各擁護者の意見の上にも反映されていた。中には医学的見地からの対処の仕方を支持するものもあった。すなわち、現在ある治療プログラムを認め、精神科医を追求することをよしとしない人々である。他の擁護者たちは、どちらかというと「権利と義務」を中心に考え、各自の追求するという責任や、患者、職員、擁護者など、関係する人々全員の行動を規制することを強調した。したがって、患者の権利についての見方が精神科医や弁護士で異なるだけでなく、擁護者も2つの見方のどちらかを選んだことになる。

 筆者は擁護者が患者の権利について宣教師のような情熱を示すことを期待したわけではないが、擁護という仕事に対して平均的な情熱も見られなかったのは印象的であった。たとえば、患者の権利の道徳面や患者自身の決断や発言する能力についてはほとんど何も発言がなかったのである。

 興味深いことに、「擁護」という語がかもし出す闘争や敵意というイメージについて、擁護者の1人として言及する者はなかった。1人は、「初めのうちは、相手が自分に対して敵意をもっているのではないかという先入観が強かった」と述べ、しかし、そのような感じ方をとり除いていったとも述べた。それ以外は彼ら自身と施設の職員との間のぶつかりあい、不信感、または明らかな敵対感情についてはふれなかった。これは擁護者がその役割をどのようにとらえ、どのように対処しているかを反映しているかもしれない。

 次に擁護者はどのように評価されるべきか質問し、彼らから多くの評価基準が提案された─対応の仕方について、擁護に対する苦情が出ていないか? 誰をも動揺させず、どの位迅速に患者の苦情が処理されたか? 擁護者は人々とどのような接し方をしているか? どの程度施設のことを知っているか? 施設の職員は患者の権利について知らされているか? 苦情に応える以上のことをしているか? 苦情を申し出た人々はその擁護者に満足しているか? 彼らは自分の言うことを聞いてもらえたと感じているか?

 結論

 州による擁護プログラムは全国に拡がりつつある。各州は独自のプログラムを企画しているようであり、2つとして同じものはない。しかし長期的に存続したものがないため、効果について最終評価はできていない。本稿で説明したカリフォルニア州のプログラムに対抗して、「精神衛生擁護サービス」は1つの案を出した。しかしそれは立法府で検討されたが承認されなかった。またそのすぐ後で別の擁護案が提出され、現在立法府で審議中である。この案によって、現在あるシステムのもつ問題のいくつかは解決されるであろうが、各州や国の精神衛生政策の歴史的変遷を考えてみると、どのような調整も一時的なものにならざるをえないものと思われる。最近の傾向は「脱施設化」に向かっている。すなわち、病院は閉鎖され、コミュニティによるケアに焦点があてられるようになった。この傾向が続けば、患者の権利擁護の性質も当然変わるであろう。おそらくそこでは「不本意な収容の動きが減り、人身保護令状等による釈放の申し出も少なくなり、不適切な施設や市民の自由権[剥]奪に関する苦情の絶対数に減少がみられるであろう」

 より多くの患者がコミュニティに住み、通院治療を受けるようになると、弁護士の擁護者を必要とすることも少なくなり、もと患者であった人やコミュニティ・ボランティアなどを含む他の種類の擁護者が増えるであろう。これが現在できる精一杯の予想である。

参考文献 略

 カリフォルニア州チャボット大学ヒューマンサービス部教官、ソーシャルワーカー
**(財)日本児童問題調査会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1981年7月(第37号)35頁~42頁

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