特集/障害者の10年にむけて DPI(障害者インターナショナル)の哲学

特集/障害者の10年にむけて

DPI(障害者インターナショナル)の哲学

―リハビリテーションの概念の転換―

久保田 哲

「われわれ障害者は、この場及び他のすべての国際会議において、われら自身のために発言する権利を要求する―」

 1980年6月、カナダのウィニペグで開催されたRIの第14回世界会議で、障害者自身による国際連帯組織づくりが始まったとき、ヘンリー・エンズ氏(カナダ障害者連合代表、車イス)が述べたこの言葉は、その後の世界の障害者運動の展開のモットーとなった。それからおよそ1年半たった1981年12月、シンガポールで第1回障害者世界会議が開催され、DPI(Disabled Peoples' International)が結成された。そこでこのモットーは、更に新しいものに書き替えられた。

「われわれは、発言の機会を要求していくのではない。われわれは、発言するのである―」

 これは、アメリカの盲目の婦人がフロアから発言した言葉であるが、DPI結成のために集まっていた世界の障害者運動のリーダーたちの気持を最も端的に語ったものといえよう。しかもそれは、たんに“発言する”権利や機会の問題にとどまらず、DPIの哲学を象徴するものであるといっても過言でない。あらかじめ誰かの手でしつらえられた場での発言権という限定されたものでなく、むしろそうした権利を有することを自明のこととして行使していくという。これは目覚めの宣言なのであり、運動の自立の声明でもあった。国連のIYDPの前置詞がforからofに変更された、その意味を、国際的な場で具現化してみせてくれたとも言えるだろう。ともあれ、シンガポールに集まった50数か国400人余の障害者は、様ざまな違いを乗りこえ、新しいモットーを得て各国に帰っていったのである。では、このモットーによって象徴されるDPIの哲学とはどんなものか。

 DPI結成の動きは、直接的には1980年6月のウィニペグでのRI世界会議の中で始まったが、その時突然始まったわけではない。というよりもむしろ、ウィニペグでの出来事はそのきっかけを与えたに過ぎず、その源となる地殻変動が、70年代を通じて各国で進行していたことを見逃してはなるまい。この10年間の特色は、障害者自身が運動の前面に躍り出してきたことである。さらに、それ以前から障害者による全国組織を作っていたスカンジナビア諸国等に続いて、アメリカやカナダでも障害者自身による全国組織が結成された。わが国においても、障害者自身による街づくり運動などが活発に行われ、横断的な全国組織の結成には到らなかったものの、情報交換や相互協力は盛んに行われた。このように障害者が運動の前面に出、自らの組織を持つことは、その進度に違いはあっても、70年代の世界的な傾向であった。こうした運動と組織のリーダーたちがウィニペグにやってきたのであった。ヘンリー・エンズ氏は次のように語る。

「これらの組織の哲学が多くの点で共通していることは特筆に値する。このことが世界各地から来た人々を統一させる絆となった。リハビリテーション・サービスの計画立案と実行への実質的参加をはばまれているという不満、大会運営が、“何がベストであるかを知った”専門家達に牛耳られているという実感は、誰もが同じであった。これらの人達は、自分達の最もよき代弁者は自分自身であり、自己発展と機会の創出にむけての組織づくりにより、“我ら自身の声”をあげることが必要だと確信するに到った―」(注1)

 かくして、障害者自身が運動の前面に出、自らの組織を持つことが国際的なレベルにまで広がったのであるが、それは運動の形態の面にとどまらず、運動の内面で、より大きな、より質的な進(深)化をともなっていた。その重要なもののひとつは“障害”観の転換である。IYDPを迎えるにあたっての国連勧告でも「障害という問題をある個人とその環境との関係としてとらえることがずっとより建設的な解決の方法であるということは、最近ますます明確になりつつある」(パラ63)と述べているが、このことは各国における障害者自身による建築物の障壁除去の運動が、その実践の中できわめて具体的に明らかにしてきたことである。わが国の場合を例にとってみよう。各地で起こった“福祉の街づくり”運動は、当初は、いわば点と線の運動であった。役所、病院、福祉会館、デパート等々の点と、それらをつなぐ街路とが中心課題であった。つまり障害者が街に出ていくにしても、それは“日曜日的外出”が念頭におかれていたのである。しかし一定の段階まで運動が進むと“金曜日的外出”が念頭におかれるようになり、その対象も面的に広がっていき、さらにそこに介在する人間を合めた意味での“生活環境”として意識されるようになった。このプロセスを運動の発展として見ることもできるが、障害者主体から見ると、自身の行動の自由をはばんでいるのは自分の持つ障害ではなく、社会環境の側なのだ、という事実を発見していくプロセスにほかならなかった。だからこそ、ノーマライゼーションという言葉が、社会とその環境を指さして用いられるようになったのである。

 もうひとつ重要なことのひとつに“自立”観の転換がある。昨年秋、国際リハビリテーション交流セミナーに来日したアメリカのエド・ロバーツ氏(ポリオによる四肢マヒに加え呼吸障害を伴っている)は「私は機能的なリハビリでは失敗作であるが、本当のリハビリは、私が大学に行って学ぶことを決意した時から始まった」と述べていたように、身体の機能的な面、あるいは経済的な稼得能力といった問題としてではなく、人生に対する姿勢、その選択、判断、決定を自分自身でなすことが、自立の基本であると考えられるようになった。わが国においても、脳性マヒによる障害者の運動を中心に、かなり以前からこのような主張がなされてきた。今日、所得保障制度確立を要求する運動がくり広げられているのは、現状において稼得能力を有しない障害者が、自己の人生を親や施設に委ねるのではなく、自分の意志にもとづいて生活を築いていこうとするものであって、経済的依存型の運動に見られがちであるが、実は“自立”運動の、形を変えた表現なのである。

 このような“障害”観と“自立”観の転換は、障害者運動だけが単独で達成したものではないし、また、すでに完了したともいえまい。しかし、DPIに世界各国の障害者運動が結集するための重要な共通認識として十分に踏まえておかなくてはならない点である。そしてこれらの観点の変化は、障害者の“リハビリテーション”観も変えずにはおかなかった。それまでのリハビリテーションは、概して次のようなものであった。再びヘンリー・エンズ氏の言葉を借りよう。

「一般的に、収入のあがる職業を遂行する能力乃至はそのための備えの不十分さという観点から問題が規定される。その場合、問題は個人に内在するという前提に立っているのである。変わる必要があるのは個人である。こうした発想は“障害者を責める”哲学の特徴をなすものである。障害者は、それぞれの問題を克服するために医師、職業リハビリテーション・カウンセラー、その他の専門家の助言や指導に従うことを期待される―」

 70年代、リハビリテーションに対する専門家や行政の考え方も、職業に就くことを最重視したものから、重度障害者のニーズを満たすべきものとする考え方へと大きく転換した。しかし、上記のような特徴はその内部構造として色濃く残されていた。それは医師やカウンセラー等の専門家のチーム対患者乃至はクライエントとしての障害者、という関係の枠の中にいる限り払拭することは困難であった。これに対して新しい方向づけを導き出したのは“独立生活運動”であった。アメリカのCIL(Center for Independent Living)運動はすでによく知られているが、重度障害者が地域社会の中で生活することを目指す運動や試みは各国で広がっていた。それらの多くは草の根的な活動であったが、リハビリテーションの流れの中に障害者を位置づけるのではなく、障害者の生活の流れの中にリハビリテーションを位置づけるという発想の反転をもたらした。その結果、リハビリテーションは、時として解決策ではなく問題の一部とさえみなされるようになった。なぜなら、リハビリテーションのプログラムが、しばしば障壁の多い環境をそのままに健常者社会に障害者を無理矢理適合させようとするものであったり、障害者の内発的な動機を考慮しないものであったりするためである。こうした中で、アメリカやカナダの障害者運動は、独立生活運動から得た規範を、伝統的なリハビリテーションの考え方に対するアンチ・テーゼとし、自らの立場を、患者乃至はクライエントとしてではなく、消費者として位置づけることとなった。そしてリハビリテーションの概念も、従来、障害者のニードに対応するすべてを包括する“傘”としてとらえられていたのに対し、社会の環境的要素によってさまたげられているためにその必要が生ずる諸サービス等についてはリハビリテーションの一部とすべきではなく、その社会の統合された供給システムを通じて提供されるべきものであるとして、リハビリテーション自体については、医学的、心理学適応、技能習得、技術的自助具等にその定義を限定したのである。

 リハビリテーション観のこのような転換は、各国の障害者運動の明確な指針となった。というよりも、各国の障害者運動がそれぞれに持っていた新しい意識の芽ばえが、共通の言葉を与えられたというべきかもしれない。運動の前面に出、自らの組織を持った障害者が、自らの人権に目覚め、自らの運命を他者に委ねるのではなく、自分の主体的な決断に従って切りひらこうとしたとき、そこで得られる結論が、根底において共通するものがあったことは決して不思議なことではない。ウィニペグからシンガポールに到るDPI結成のプロセスの中で、それが見事に証明され、そのことが、各国の障害者運動を勇気づけ、一層の確信を与えたのである。そればかりか、障害者問題に関わる専門家の考え方をもつくりかえつつあり、国連の「世界長期行動計画」の草案にも、障害者自身の運動が導き出した上記の哲学がとり入れられている。

 DPIの哲学は、運動の過程の中で具体的に検証されながら築かれてきたものである。しかも、国際的に多様な状況にあてはめられ、確かめられてきた。それだけ明確な根拠と普遍性とをあわせ持つといえる。この哲学は、個人の主体性を重んじながら、障害を環境との関係としてとらえることを通して、社会の成り立ち、あり様に対して鋭い視点を持つことも見逃せない。その視点の帰結のひとつは、平和の問題であり、いまひとつは、南北間題である。この2つの問題は分かちがたく結びついているが、最も具体的には、発展途上国の障害者の状況に集約されて顕在化している。DPIは、いかなる支持も援護も受けられずにいる場合の多い発展途上国の障害者の状況に大きな関心を向け、組織構成の面でも、発展途上地域の意向が十分に反映されるよう工夫している。こうしたグローバルな問題に直面することは、そのこと自体、各国の障害者運動の視野を広げ、質的な高まりをもたらさずにはおかない。個人レベルにおいても、国家レベルにおいても、真に自分の問題から出発することによって、真に全体の問題を考えることができる、という論理構造がそこにある。

(注1) ヘンリー・エンズ氏が1981年5月にラテンアメリカ・リハシンポジウムで行った講演記録。寺田純一氏の訳によった。

参議院議員八代英太秘書


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年3月(第39号)13頁~15頁

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