国際障害者年と私 感想 「国内長期行動計画」のことなど

国際障害者年と私

感想 「国内長期行動計画」のことなど

宮尾 修

 はじめに

 去る55年4月から今年3月までの2年間、私は総理府の中央心身障害者対策協議会に設けられた国際障害者年特別委員会(以下「特別委」と略す)委員として、国連勧告に基づく国内長期行動計画についての意見書をまとめる審議に参加した。それは私がそれまで障害者運動などに多少かかわっていたからであったが、しかしそこで私が経験しかつ学ばされたものは、むしろ個人的な意味で教えられるところが大きかった。

 とくにそこがたんに福祉関係に限らず、各界の代表や専門家が集まっての討議の場であっただけに、そうした社会のリーダー層の人たちが障害者問題をどう考えているかということを通して、その人たちの現実認識や社会観のようなものまで知り得たことは貴重であった。というのも、それによって障害者である私が現に生きている社会の実相と、そこに働いている構造的原理ともいうべきものに触れたからである。以下「国際障害者年と私」という課題にもたれることにより、そのようにして感じたことのいくつかを書いてみたい。

 差別・偏見について

 第1に差別・偏見の問題がある。

 差別と偏見は除去しなくてはならぬものであり、それがあっては「完全参加と平等」の実現もないということは、特別委の全員が一致して認めていたところである。だが、その差別・偏見の原因がどこにあり、現在どういう差別が実際にあるかという点になると、何故か事情は微妙に変わってくる。

 たとえば行動計画の意見書には、「まだまだ障害者に対する認識は、歴史的・伝統的偏見や医学的無知に基づくものが根強く残存しており」(注1)という言葉があるが、これを審議した場で議論された「認識」の原因はそれだけではない。「歴史的・伝統的偏見や医学的無知」のほかに差別のもとになるものとして、“能力主義的人間観”と“現代社会特有の他者に対する無関心”があると私は発言している。それが陽の目を見なかったのは異論があったからだが、「能力主義は社会の進歩発展を図る上で必要な面もあるのではないか」というその異論は、事柄が本質にかかわるだけに重大な意味があったといえよう。

 ここでいう差別・偏見とは、社会の側にある差別・偏見のことであり、それは除去しなくてはならぬことが自明の前提になっている。とすれば、その差別・偏見の主な実体はどういうもので、それによって障害者がどういう不利益を受けているか、具体的に明らかにされなければならない。また、そのように差別し、偏見を持っている社会の在り方は間違っており、根本的に改められねばならないということを、はっきりと指摘しなくてはならない。それが明らかにされ指摘されないままでは、たとえ除去すべきであるといっても、その方策について提起することができないからである。

 したがって、能力主義の問題にしても、それの社会的評価がどうであるかではなく、そのために障害者が不利益を受けているか否かが、現実の検証を通して先ず問われるべきである。不利益を受けていることが明らかであれば、かりに能力主義が社会的に有用な面があるとしても、障害者にとっては差別の一因になっていることを認めなければならないであろう。そしてそうであるにもかかわらず、何らかの理由のためにそれを認めないとすれば、差別・偏見を除去して初めて可能な「完全参加と平等」の実現に、内実において異議を唱えたことになってくる。

 紹介したような異論の提起者が、どのような意図からそうした発言をしたかは不明である。しかし、そこで異論が出され、その結果“能力主義”も“無関心”も、差別素因として取り上げられなかったことは事実である。私はそこに建て前としての理念では一致しているように見えても、その理念に対する認識としての本音になると、むしろ大きな隔たりがあるという厳しさを感ぜずにいられなかった。

 実のところ私は、特別委の委員になるような人たちの場合、ここに書いたようなことは、極めて当然の先験的原則と考えられていると思っていたのだが、どうやらそれは違っていたらしいのである。

 意見書の矛盾について

 第2に上述のことに関連して、今回の意見書自体のなかにある総論と各論の矛盾の問題がある。

 いうまでもなく総論は、長期行動計画の基本となる理念について述べているが、それを見ると「障害者も、一市民として社会の普通の構成員であり、当然に市民権が保障され、社会活動の主体になり得るのである」(注2)というような文言があり、「障害者福祉の理念は、障害者が社会において、一般市民と同等に生活し、活動することを保障することにほかならない」(注3)ともいっている。ところが、この総論に対して各論になると、そうした理念的方向性が急にうすれてくるだけでなく、見方によっては相反した考え方に立っているのではないかとすら思える記述まである。

 たとえば障害児教育の在り方として、「完全参加と平等」の社会を実現するには、「心身障害児に対してその障害の種類・程度、能力、適性等に応じて適切な教育を行い」「特殊教育諸学校の一層の充実を図る必要がある」(注4)と述べているが、「障害の種類・程度、能力、適性等に応じて」というような障害者の分類と選別は、「一般市民と同等に生活し、活動することを保障すること」と同一の理念に属した考え方であるといえるのだろうか。

 また、雇用のところを見ると、「障害者の職業的自立を図るためには、その前提として障害者の職業能力を開発し、向上することも重要である」(注5)という言葉が出てくるが、ここに「前提として」という表現が挿入されているのはどういう理由からであろうか。障害者福祉の理念は、他の市民と同等の生活の“保障にある”と規定した総論の趣旨からいえば、職業的自立の「前提として」必要なのは、障害者の職業能力ではなく雇用者側の受け入れ努力ではないのか。

 とくに審議の過程で気になったのは、雇用にしても、教育にしても、それを考える議論の基本に障害者の権利の視点が著しく欠けていたことである。したがって、労働者として雇用に就き、児童として教育に就くということが、本来的に保障されるべきこととしては捉えられずに、現実の条件に対する障害者の適応問題に置き換えられてしまっている。折角、総論では高い理念を打ち出しているのに、それをフォローし肉づけするはずの各論が、逆に多くの足かせをその理念にはめたかたちになったことは否定できない。

 障害者の側に立ってどう現状を変えていくかよりも、変えた場合に生じる責任や負担が先ず問題になる。そこにも社会の側の本音を見せられた思いがして、ひとくちに行動計画といっても、その実際は容易でないことを感じざるを得なかった。

 行政の対応について

 第3として、行政の対応の問題がある。

 今回の計画の実施については、国、地方、そして関係各省庁の総合的で重層的な対策が必要であるとされている。ところが、労働省や文部省など各省の行政担当者は、自分の省の行政カテゴリーをあらかじめ設定し、いわゆる福祉行政はそのカテゴリーの[埒]外にあるとする。

 たとえば道路の段差解消は建設省、交通施設改善は運輸省の仕事であることは認めても、それは本来の意味での建設行政や運輸行政には入らないとしている。労働省でいえば労働行政とは、通常の雇用形態における労働問題の行政をさし、そうした雇用形態が困難な重度障害者などの就労対策は、福祉行政という別のカテゴリーに属するというのである。

 このように一般行政と福祉行政を分離し、福祉行政の領域を特定化した考え方は、これまでの行政におけるひとつの特徴であるが、それが今回の計画でもなくなっていない。その結果、ここでも障害者のための改善施策は権利にならず、たんなる福祉サービスとして位置づけられている。また、関係各省が同じ考えに基づいて、共通の目的に当たるという意味における総合行政の実現も、これでは容易なこととは思えない。

 以上、感じたことの主なところをあげただけでも、各論に含まれている前進的部分の意見がどこまで実現できるか、その具体化の最大の力は、何よりも障害者など当事者の運動にあると改めて思ったことであった。

(注1)「国内長期行動計画の在り方」第1部第2章

(注2)「      〃      」第1部第1章の1

(注3)「      〃      」第1部第1章の2

(注4)「      〃      」第3部第1章の1

(注5)「      〃      」第4部第1章

障害者団体「羊の声」代表


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年3月(第39号)27頁~29頁

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