国際障害者年と私 またとない勉強のチャンス

国際障害者年と私

またとない勉強のチャンス

佐藤エミ子

 丁度2年前の今頃、“来年は国際障害者年である。それを、私達難病患者としては、どう受け止めるべきか”と話し合った。私自身、障害を持つ難病患者である。しかし日常生活の中では、やはり障害者という意識よりは、病人としての意識が先行する。私をとりまく周囲の人も、私が身体障害者手帳の所持者であることを知らない人の方が遥かに多い。それは日本における障害者の概念が肢体不自由を主として考えられた歴史的背景によるものであり、個人の責任ではない。視力障害者、聴力障害者という言葉すら、一般社会の中にはまだまだ思想として定着していない今、まして内部障害者という存在はほとんど知られていない。そうした現在を考えた時、どの様にしてこの障害者年を迎えるか、当事者である私自身とまどいを感じた。

 しかし、日頃難病患者の厳しい訴えを聞き、医療と福祉の谷間にいる人々により良い制度の確立が急務、と運動を続けてきた身にとっては、この年を契機に実情を訴えることこそが、最も大切なことではあるまいかと考え、障害者年を逃して再び弱い私達の立場を効果的にアピール出来るチャンスは無いのでは……というのが実感でした。そこで民間団体の国際障害者年日本推進協議会に加盟し、2年間ともに運動に参加して参りました。

 協議会結成総会の日から私達の存在は異質で、ある時は先進的運動を進めている障害者団体の足を引張る形になったり、場違いなものを感じたりしながらも、運動の一応の終幕の日、私が最も強く感じたのは、協議会の中の特殊学級生だったということです。当初集まった人々の中には「障害者の権利宣言」にある定義には余り関心がなく、見逃がされている様に感じました。しかし私達にとっては、この定義こそ最も重要なものであり、定義にそって現行法が見直されることこそ、今日までの運動の成果に結びつくキーポイントでした。

 この障害者年に、いかにして、難病患者もまた障害者なのだ、ということを位置づけてゆくか、難病患者の代表として協議員となった私の二年間は、ずっしりと荷の重い歳月でした。必死にムチうち可能な限り協議員総会にも出席し、資料を読み、内部に伝達し啓発することも仕事です。しかし推進協の専門家の中にも私達の問題を深く理解していただけそうな方は見当らず、又厚生省も社会局が中心で、公衆衛生局は対岸の火事ほどの意識も持ってはいない。私達は難病対策課にも働きかけ、特定疾患事業研究班の先生方の参加依頼も幾度かしました。しかし全ては徒労に終わりなぜだろうと考え続け、その一つの結論として、行政の縦割りと同じ位、現在の医療システムが専門化し縦割りになっていることと諦めました。障害という言葉を使うのは外科、整形外科、リハビリ科等であり、続いて眼科、耳鼻科。私達が最も多く受診する内科においては、ごくまれなことです。しかも相当の障害をもっていても、それは症状の悪化、重篤となり、その治療の如何により改善するか、或いは不幸な終末を迎えるかであり、あくまで治療を必要とする病人なのです。そしてこの国際障害者年に関心を寄せられたお医者様が全て医療機関の中で、一体どの位いたのでしょうか。そのことが、大きな今後の問題として、私の心に深く残りました。

 病人であり、障害者である私にとって、2年間の推進協への参加は、日常の運動が更に過重になることであり、会議の数は少なくとも、厳しい出席の連続でした。冬は乾燥した暖房の部屋に、声はかすれ、「頭温足冷」に悩み、夏は冷房の冷たい風に体は痛み、お茶を飲んで胃を暖める。翌日は体温調整が狂い、熱が出たり、血圧が上がったり下がったり……。我ながら情けなくなることもありました。それも多くの患者さんのためにしなければならない大切なことでした。

 障害者団体から次々に出される要求を聞きながら、私達の障害者年は今がスタート、これからの10年間に、この人達の様な要求が出せるようにならなければ……と、先進諸国の会議に出席した発展途上国の立場にも似た想いを痛感しながら、多くを学びました。その意味で、私にとっての障害者年はこれからであり、全難連が昨年行った「身体障害者福祉法の対象範囲を拡大すること等」の国会請願署名運動はその第一歩であり、これを皮切りに幅広い運動の展開をねばり強く進めてゆく以外、残された道は無いような気が致します。

 現在の福祉政策のボーダーライン以下にある難病患者にとって、まずは医療であり、次が生活環境の改善、雇用、教育問題と続く現実は、同じ要求であっても、障害者団体とは順位が違うことはいかんとも仕難いものを感じましたが、接点を近づけてゆくことこそ、真の社会保障制度の向上につながると信じています。しかしその中でも、私が敢えて生活環境部会を選んで参加したのは、生活環境の早期整備こそ、障害者となる者を、病人をつくり出さない最も重要な問題だと、日頃の相談活動の中で感じていたからでした。しかしこれは、全く私の理想主義的発想であることに気付きピント外れな出席であったと、残念に思いました。

 住宅、交通などを含む日常生活の中の多くの問題は、いわば社会環境の問題であり、その解決はまず身近かな日常生活の環境改善からと考えている私は、難病患者の環境改善のため、福祉制度の拡充を訴え続けています。テレビからテーマソングが消え、マスコミは忘れようとも、10年の行動計画の中に私達の存在を位置づけてゆくことこそ、障害者年を実りあるものにする事だと思います。

 1年のお祭り騒ぎに終わらせるも、終わらせぬも当事者である私達の意識の問題であり、マスコミが取り上げようが、取り上げまいが、自らの力で運動を続けなければならない地味な運動、それが患者運動である、私はそう自覚しております。

 去年1年の、各種の報道を通して障害者という言葉は、社会一般の人々の中にも浸透したことと思います。しかしその実態を理解するところまでは遠いでしょう。私達障害者同士でさえ、本当の意味でお互いを理解しはじめたところと、私は受け止めていますから、自分を理解して貰うことはまず相手を理解することから始まる。その意味でこの2年間は私にとっては、またとない勉強のチャンスでもありました。難病イコール障害者、障害者イコール難病者ではないというこれまでの差別意識を少なくともこの2年間で、私達は乗り越えられたと思います。過去の行政や制度が、障害者、病人、老人と分断してきたものを、共にハンディを背負った者として理解しあい、連帯協力してゆくことによって大きなエネルギーとなり、より良い医療体制と社会環境づくりに発展することを願う現在です。それがこれからの長期行動計画の中で、いかに実践してゆくかにかかっていると思います。同時に、この様な私達の運動が「個」「己」の為の利益獲得運動ではなく、広く国民に支持されたものとして展開されなければならないことは自明のことです。戦争と貧困が障害者を産み出すという国際環境の中で、文明もまた多くの障害者を産み出してきました。国内的には急速な産業の発展に伴い、物質文化が先行し、心が蝕まれ、疲れ果て、むなしさと孤独に陥り、病気とともに心の障害をつくり出している現状も、もっと冷静に受け止め、競争の原理に基づく自由経済社会の歪みをいかにうずめてゆくかも、残された9年間の中で問い、医療も含め、発生の予防と生活環境づくりと共に、私達の使命であると思います。

全国難病団体連絡協議会


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年3月(第39号)36頁~37頁

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