国際障害者年とマスコミの役割 21世紀をめざす「ことば」の問

国際障害者年とマスコミの役割

21世紀をめざす「ことば」の問題

野原政雄

 国際障害者年までの障害者問題、特に「ことば」の問題について、私の感想を述べてみる。

 春、4月である。胸に名札をつけたピッカピカの1年生、毎年のことながら、この風景は見ているだけで嬉しくなる。どの家庭でも子を持つ親の一度は通る、希望と期待と桜の季節である。この経験のある者にとって「入学」とは、どんな形容をもってしても、はずむ心とその軽やかな嬉しさは、端的には表現できない。私は、「入学」ということばには、一種の行進曲にも似た響の音色を感ずる。子育ての一つの節目として、来し方の一つの反省として、わが子の成長をじっと見る。そこには、この子の親であるという実感がある。

 同じ時期、ある親達にとっては、鉛を飲み込んだような、胸につかえている、そんな思いと共に、重い響のすることばがある。「収容」がそれである。収容とは、何と非人間的な、人格を無視した、灰色の空に重い霧が立ち込めている、いつ晴れるとも知れない、一寸先が闇という感じのすることばである。私は、「収容」ということばに、いつも葬送曲という響の音色を感ずる。子育ての一つの節目として、来し方、そして行く末を思う時、子のもつ人間の条件に、胸晴れぬ思いで、じっと我が子を見つめる。時に、虚無感に襲われたりもする。

 「収容」ということばには、人格的な、ことばの響というものは全くない。まことに恐れ入った「ことば」である。たとえ、その子が人間の条件として、障害をもっていたとしても、一人の人が、これからそこに住み、暮して行く生活の場所なのに、「容に収めおく」、「収め容ておく」、といわんばかりの「収容」という用語、用字、ことばには、本当に、これで対象児をもつ親に、未来に希望を持て、といえるのであろうか。親の切ない思いに、一縷の光明を与えることができるのであろうか。私には、絶望という強烈な印象を植えつける、極めつきの最たる「ことば」としか思えないのである。

 一人の人間が持っている天与の生命を、精いっぱい生きて行こうとする、幼な児の暮している、その場所を、「施設」というのもいやだが、「収容」と、それにもまして、「障害」ということばほど、生命ある人の人格を無視した響のことばはない。要するに、施設とは、生活している場所ではないのか、家庭と同じような機能をもったもの、又は、家庭により近い状態の生活の場ではないのか。若しそうだとするなら、私は、「収容施設」ではなく「生活施設」といってはいけないのか、と思うのである。生まれながら知能の状態が、どんなに薄弱であっても、その子は、そこで暮して行くのである。その子は幼なくして親元を離れ、一人の人間として、与えられた人間の条件をもちながら、その子なりに発達し、成長もして行くのである。その幼い生命のためにも「収容施設」という表現では、心も体も成長しないものを感じさせて仕方がない。あまりにも酷である。暮している場所という意味で、「生活施設」といってやりたい。それが、ささやかな私の願いである。

 次に、「障害」である。私は、障害とは、人間が生まれながらにして持っている、精神的、肉体的な個人差とでもいうべき、人間の条件であって、生まれる前、生まれた後の、ある時点、成長、発達していく中で、何らかの原因によって、その人個人に付着した、ある遮ぎり、とどまり、停滞とでもいうべきものを指しているのではないかと思っている。つまり、他の人と比較してみて、その人との間にある「開き―個人差―状態像」のちがい、「能力差」など、その程度差の大小を、劣っているという捉え方をして、それを障害といっているように思えてならないのである。考えてみると、能力差とは、知能、体力共に個々に違うものであって、全くの個人差に他ならない。この個人差の大小、高低の、小さいか、低いかの方を「害」と捉えて、「障害」と規定しているのである。しかし、これは誤りである。個人差は決して障害ではない。害ではない。単なる個人差である。一人の人間が、その人個人として持っている人間の条件なのである。条件は年齢と共に次第に付着してくるものであり、年と共に、その度合が大きくなるものである。したがって、条件は害ではない、「障しさわって害」と書く障害ではない。ある状態での、遮ぎり、とどまり、停滞とでもいうべき現象に他ならない。老化による障害は、障害ではない。加齢に伴なう条件の付着である。その意味で、人間はすべて「条件者」である。

 別の観点から見てみよう。大体、「害」の字のもつ「音、訓」と、その意味には、人格というものを感じさせない。日本語として、ことばの語感、響からして、存在する人間に、かりにもつけるべき「用語、用字」ではない。それは、害の字のつく用例を見ればよくわかる。

危害、公害、災害、殺害、自害、阻害、迫害、弊害、妨害、有害、薬害、損害、加害、障害

害虫、害鳥、害獣、害意、害心、(障)害児、(障)害者

障害児、障害者などは、害虫、害鳥の例と同じ用い方である。

 このように、人間にとってきびしい文字と意味、「害」は、「死文字」ということができる。死文字は、生命ある人間に対して、存在している人間に対して使ってはならない。

 「生命の尊さ」、「人の生命は尊いもの」などとは、よく世間のいうところであるが、若しこれが本当であるなら、私は、生命ある人間に、それが例え、手がなく、足がなく、目が見えなく、耳が聞こえない、知恵が遅れている、としても、障害児だの、障害者だの、害児、害者とは、決していわないはずだ、と思う。生命が尊くて、どうして人間に「害」の字をあてはめるのか、生命が尊くて、どうして「障しさわって害」の者なのか、不思議でならない。

 大体、障害ということばには主体性がない。障害とは、誰に対して、障しさわって害なのか、自分に対して害なのか、他人や家族に対して障害なのか、それとも社会や国に対して障しさわって害なのか、この辺のことについての解説を関係者から聞いたことがない。

 生命が尊くないから、障害児だの、障害者だのと、平気でいえるのである。私は、ここで、ことば遊びをしているのではない。それは前掲の害の字の用例を見ればよくわかるからである。

 漢字は表意文字である。ひとつのものを表現することばのイメージは、その対象のものの意味を強く規制する。「害」の意味は、ますます害悪の害の意味に規定される。それがことばというものである。

 不思議なことが一つある。障害者団体で「障害」ということばの問題について、「人間の集団に、害の字を使うなど、もってのほかだ!」と、反発した、という話を一度も聞いたことがない。団体を指導している進歩的な指導者からも、そういう指摘はない。むしろ、「われわれ障害者は!」とか、「われわれ障害者団体は!」という、デモンストレーションの呼びかけの中で、「害」の字に勝る立派な表現は他にない、といわんばかりに「害」の字を愛用しているように思える。不思議というほかはない。私は、この人達は本当に「害」の字の意味を知っているのだろうか、とさえ思っている。

 害の字は小学校4年の国語の時間で習う。害悪の害という意味で習う。害の字が、ある特定の人達につく時、障害児、障害者という用い方の時は、良い意味の害だ、とは習っていない。

 害虫、害鳥の人間に与える影響については、小学校3年の理科の時間で習う。人間にとって危害、迫害を加え、強いては、人間の生存をもおびやかすそういう恐ろしいものとして教えられる。害虫、害鳥は、「悪いヤツですね!」というタッチで先生に教わる。害虫、害鳥という時の害は、悪い害で、障害児、障害者という時の害は、良い害だ、とは教えられていない。「害」の意味に二面性はない。そして当然のことながら、将来、必ず差別性を帯びてくる。何故なら、早い話が、「障害者」に対して、「健常者」という対立概念が出てきている。「害の者」と「健の者」、この二極対立の概念は、向こう10年の国際障害者年行動計画期間中に、必ず差別語化する。現に、精神障害の世界では、「正常」に対して「異常」ということばがあるが、異常という表現、ことばは、精神障害の世界で極端に嫌われ、差別語ときめつけられている。

 日本の福祉政策の中には、実によいことばが沢山ある。第1に「厚生」がそれである。「生を厚くする」、そしてその「省」、厚生省とは、まことに有難く、立派な表現である。又、「衛生」という表現も嬉しい。「生を衛る」、この命名をした人に感謝の念を捧げたい。

 問題は「害、障害」ということばの用い方である。私の考えでは、よくないことば「害」などは、厚生行政で使うはずがないのに、現実には沢山の「害」の字を使っている。しかも、厚生行政は、「害」の字のつく者を、宝物のように、手厚く保護してくれる。施設をつくり、手当を出し、医療で面倒を見てくれる。障害児・者の問題は、第1級の福祉問題として真剣に考えていてくれる。さすがは「生を厚くする省」ということができる。

 文教政策の面でもそうだ。文部省は特殊教育というが、最近、日本の各地で、障害児教育といういい方が増えてきている。そして、特殊教育というより、障害児教育という、いい方の方が、上位概念にあるかの如き発言をする人も多い。「害」の字を使って、「障しさわって害」の児の教育という表現の方が上等だ、という理屈はどこにあるのか、不思議な現象といわざるを得ない。

 日本の農政を担当している農林水産省へ行くとどうか、「害」の字のつくものは、すべて抹殺される。「害」と聞いたら、それだけで国民生活にプラスにならないと、ただちに駆除を考え、抹殺する。即ち、「害虫」であり、「害鳥」であり、「害獣」である。

 同じ日本の行政官庁でありながら、「害」の字のつくものに対して、厚生省は保護し、農林水産省は抹殺する。厚生行政で使う「害」は良い害で、農林水産行政で使う「害」は悪い害だ、などという理屈はどこにもない。

 障害児教育とか、心身障害教育などという表現はもっとおかしい。「障しさわって害の児」なら、教育などする必要は全くない。害児を教育して何になる。害の字は、どこまで行っても害悪の害の意味である。

 国際障害者年は、向こう10年間の行動計画がある。この計画は、障害者問題のあらゆる分野の中で、「参加と平等」を実現するために、総力を挙げて考えて行かなければならないとされている。しかしこれを実現するための市民啓発、一般の人達への啓蒙は、何によってなされるのか、人々の意識の変革はどうしても必要であるが、その意識の変革は、何によってなされるのか、どういう方法によるのか、もっと真剣に考えなければならない。いうまでもなく、─理解と啓蒙─市民啓発─は、「ことば」によってなされる。言語によってなされるのである。日本人は、日本語によってものを考える。その意味で「ことば」は、極めて大切なものである。とすると、「害」の字は、死文字であるから、尊い生命ある人間に対して使ってはならない。この表現は、どうしても再検討されなければならない。

 ことばは、一面麻薬である。害児、害者という規定である限り、害的な存在としての中でものごとを考える。従って、これからは、「ことばの意味の福祉」、「ことばの意味そのものの福祉」をも考えて行かなければならない。用語の福祉が重要な所以である。

 何故なら、人間の社会は、所詮、「ことばの社会」である、言語社会である。ことばは人間の精神であり、態度であり、時代の文化でもある。そして対人関係の基本でもある。世の中の人達の間違った意識をなおすのも、ことばでするのである。言語によるのである。ことばの問題が解決すれば、障害者問題の半分は解決する、と私は思っている。

 聖書には、『はじめにことばあり、ことばは神なり』とある。いや、その前に、われわれ日本人は、日本人として、日本語社会の中で、ことばの美意識の問題として、「害」の字の使用の可否について、再検討しなければならない。あと18年で21世紀に入る。昭和75年は西暦2000年に当たる。その時のためにも、又、向こう10年間の国際障害者年の行動計画期間のためにも、絶対に検討の必要がある。

NHKチーフディレクター


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年3月(第39号)40頁~43頁

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