特集/最近の障害児教育をめぐって 国際障害者年後の障害児教育

特集/最近の障害児教育をめぐって

国際障害者年後の障害児教育

三沢義一*

はじめに

 障害児教育を取巻く環境は、今なおいたって厳しい。国際障害者年の真価は、これから長期間にわたって問い質されていかなくてはならないが、ともすれば退潮ムードに閉ざされることがあるとしたら、甚だ由々しき事態といわねばならない。折角盛り上りをみせた昨年の諸行事なども、人々の脳裡からは、次第に薄れ去って、数年後にはあまり痕跡も残らない状熊に逆戻りするようなことになれば、一体何のための国際障害者年であったか、疑いたくもなろう。

 国際障害者年後(ポストIYDP)は、まさに国際障害者年の真価を問われる正念場である。これからが本当の評価の対象である。ポストIYDPにおけるさまざまな課題の解決は、きわめてねばり強い努力と熱意を必要とする。

 筆者は国際障害者年日本推進協議会その他に関係して、長期行動計画の作成に加わったひとりであるが、その経験も踏まえて、これからの障害児教育についていささか論述してみよう。

1.教育問題の発展方向

 今まで言い尽されてきたように、「教育は人なり」という言葉は、真実を衝いている。物や金銭をいくら豊かにしても、また制度をいかにいじっても、それで教育が成り立つことはあり得ない。最も核心的な問題は、教師、親、社会の人々のあり方、ものの考え方である。この点を曖昧にしてよい教育を期待しても無理である。したがって、教育問題の進歩・改善には、まず第一に時間が必要であり、2年や3年で目立った改善効果が得られるとは思えない。ポストIYDPが10年を一応の区切りとしても、10年で人的な面での充実がどこまでできるかという点になると、楽観を許さないと考えるのが常識というものであろう。教員養成だけを取上げてみても、過去30年間に、どれだけ障害児のニードに応えられる変革がなされたか疑わしい面が多いことは事実であろう。まして教育の中身については、果たして進歩してきたかどうか、率直にいって確信がもてないと言えば言い過ぎであろうか。たしかに特殊教育制度の拡充は、過去30年間で飛躍的な前進が図られ、不就学児童は激減した。この事実は十分に評価してよいが、教育の中身がそれに伴って進歩したかどうかもう一度反省する必要は十分にある。

 リハビリテーションの専門家といわれる人々の教育に対する理解の浅さ、認識の不足などもこの際大いに問題にしなくてはならないであろう。議論が[噛]み合わなかったり、チームプレイに齟齬を来たすような要因は、初めから厳然としており、制度だけをいじれば教育問題が解決するように考えている人々もまれではない。統合の難しさは、子どもだけではなく、大人の場合の方が遙かに深刻で困難である。専門職の如何を問わず、およそ障害児に関係する専門家の人々は、障害児教育の何たるかについて、基礎的な事柄の理解が欠くべからざるものであろう。

 今後の障害児教育の方向については、国の長期計画をはじめ、地方公共団体、民間(推進協)などの関連文書で指摘されているが、次のように要約することができよう。

(1)共に学ぶことの重視

 いわゆるノーマライゼーションの理念が、いたるところで強調されている。常態の生活、常態の教育は、教育場面でも最も重視しなくてはならない基本的視点であり、完全参加と平等の目標の達成は、これを措いて他にはないともいえよう。「障害者における社会への統合を図り、障害者が他の市民と平等な生活ができるようにしようとする考え方」(国際障害者年推進本部)、「①閉鎖性から脱皮して、努めて開放性を備える、②地域社会により密着した性格をもたせる」(推進協)、などの表現は、ノーマライゼーションの理念の具体的な現われである。この観点から、交流教育や統合教育の発展を求める原動力が生まれてくるが、後述する通り、いわゆる統合教育については、多くの議論があることも事実である。

(2)多様な教育形態の発展

 心身障害児のすべてが教育の対象に組み込まれた現在、個々の子どもの障害の種別、程度、発達状況などは極めて多様なものとなっている。したがって、教育はその基底においてまず画一主義的な発想を排除しなくてはならない。一人ひとりのニードに対応した教育の確立は、これからの至上課題である。しかもそのニードの把握は、より科学的、合理的になされる必要がある。教育科学の効用と限界については、慎重な検討がなくてはならないが、少なくとも勘で行う教育は、これからの社会では歓迎されないであろうし、難しい障害の子どもに対しては、いっそう通用しない。

 一般学級、特殊学級、訪問教育などのあり方については、検討課題が多いが、特殊教育学校それ自体のあり方にも十分メスを加え、障害児教育の多様な形態の発展に、きめ細かな工夫がなされていくことが期待される。

(3)質的側面の充実

 1970年代の終わりまでは、いわば障害児教育の質よりも量的拡大の時期であった。特に精神薄弱児、肢体不自由児、病弱児を対象とする養護学校は、1979年の義務制の実施を控えて急膨張し、とも角これらの障害児の教育の受け皿が一応整備された。しかし教育の中身の問題については、それ相応の充実が果たされたかどうか、疑問視される。教員の資質という面だけを取上げて考えてみても、経験の浅い教員の大量採用が行われ、しかも大都市及びその周辺においては、今なお教員の入れ替わりが激しい。また学校規模という点に関しても、中にはかなり飽満化したものも多く、教育実践の円滑な遂行に支障を来たしている場合が少なくない。多様な障害の児童・生徒の教育には、それだけ高度の専門性が必要なことは明らかであるが、いわゆるベテラン教員の不足は、今なお大きな問題である。今後、指導法の充実を初めとして、教育全般にわたり、内容の充実をぜひとも実現しなくてはならない。

(4)一般学校及び隣接領域との連携の強化

 特殊教育諸学校が一般学校から遊離して孤立化したり、周囲に対して閉鎖的な立場を保っていくことは、もはや時代の精神に受入れられないものである。特殊教育諸学校が、心身に障害をもつ子ども別の類いの学校という誤った認識は、今後努めて打破していかなくてはならない。学校それ自体は異なっても、一般の教育とその目的を等しくする普遍的普通教育の一環であるという基本的性格を、もう一度確認する必要があろう。

 また、障害児の問題の前進には、医療をはじめ福祉、労働などの諸分野とより以上の密接な連携を必要とする。教育はもっとこれらの隣接領域との交流を心掛ける必要があろう。行政の縦割りの弊害は積極的に是正する努力が必要であり、その手段は、強力なコーディネーションということに尽きよう。リハビリテーションは、いわば総合科学であり、チームアプローチである。この観点を教育の分野により深く浸透させていくことも、今後の課題の1つである。

2.特殊教育機関の責務

 昭和56年5月1日現在で、特殊教育諸学校数は表1の通り877校に達しており、本務教員数35,182人、児童・生徒数94,000人余りとなっている。さらに、一般の小・中学校に設置されている特殊学級は、14,622学級、教員数24,187人、児童・生徒数87,499人となっている。この数値を各々合計したものが、わが国の特殊教育の量的な全貌であり、本務教員6万、児童・生徒18万が大ざっぱな数字である。

表1 特殊教育諸学校の現状
  校数 本務教員数 児童・生徒数
盲学校 72 3352 7,830
ろう学校 110 4749 11,308
養護学校 精薄 428 27,081 74,931
肢体 175
病弱 92
合計 877 35,182 94,069

(昭和56年度文部省特殊教育資料より抜すい)

 盲学校及びろう学校の在学者数は、昭和40年代以降減少気味で、前者は昭和30年代後半の約3分の2、後者は約2分の1にまで低下しているのが最近の実情である。これに対して養護学校在学者数は、昭和30年代後半から爆発的な増加を示し、数字で見る限り、わが国の特殊教育の振興施策は、養護学校教育に重点がかけられてきたといってよい。

 このような状況を踏まえて、次にこれらの特殊教育機関の現状における問題と、今後のあり方などについて、いささか指摘してみよう。

(1)養護学校

 精神簿弱、肢体不自由、病弱の養護学校それぞれにおいて、設立の経緯、教育方法、内容、立地条件などに違いがあるが、最近の傾向として、共通的にいえることは、児童・生徒の障害の重度・重複化の問題がある。一人ひとりの子どもに適切な教育を施すための、より好ましい教育の場として養護学校の存在は、これからも充実が図られなくてはならないが、特に重度・重複化に対応した斬新な指導技術の開発が必要であり、今後そうした面での研究と実践が期待される。また子どもの通学条件などにも改善を要する点が多いので、国の行動計画にも、「養護学校の適正な配置を確保する等の観点に立って特殊教育諸学校の施設の整備に努める」と述べられているように、この問題の前進には引続き努力が必要である。養護学校のあり方や運営をめぐって、他にもいろいろと問題は多いが、“魅力ある養護学校づくり”に努めることが不可欠で、同時に地域社会との連帯も一層強化すべきであろう。

(2)盲学校及びろう学校

 児童・生徒数の減少という事実もさることながら、学校のあり方、教育のあり方をめぐって検討すべき問題が多い。

 盲学校は、盲児の減少により、実質的には盲・弱視学校になっているが、今後は地域の視覚障害センター的役割を果たす方向が強化されるであろう。

 ろう学校においても同様な気運にあり、すでに非公式ながら聴覚障害乳児に対してまで、指導プログラムのサービスが拡大されている向きもある。また障害補償という観点からみても、圧倒的に優勢な口話法がこのままの状態でいつまでも推移すべきものかどうか、アメリカにおけるトータル・コミュニケーションの成り行きとも関連して、指導のあり方に今後何等かの修正を迫られるものがあろう。

 児童・生徒数が減少したがために失地回復をするという動機からではなく、歴史と伝統に培われた教育的サービスを、地域社会に広く開放してニードに応える中心的な機関としての位置づけが、今後両校の課題となるであろう。

(3)特殊学級

 一般の小・中学校に設置されている特殊学級(障害児学級)の児童・生徒の実態も、極めて多様なものとなっており、本来、特殊教育諸学校に入るべき子どもまでも入級させている場合も少なくない。また一般学級で指導の困難な子どもを集めているというような実態もあって、精神薄弱特殊学級とはいっても、実質的には多様な障害の子どもを集めた混成集団の傾向すらみられる。教師の力量等が多様な障害児に十分であれば、問題は小さいかもしれないが、現実は必ずしもそのようにはなっていない。またいわゆる学習障害児の出現は、アメリカほどではないにしても、わが国においても独自の対策を迫られることになろう。地理的条件等から、子どもの障害の種別・程度にかかわりなく近くの学校の特殊学級へ、というニードは依然強いので、今後は特殊学級のあり方を根本的に検討すべきものと思われる。

(4)訪問教育

 訪問教育は昭和40年代の前半から徐々に各地で拡げられてきた特別な教育形態であるが、養護学校教育の義務制の実施にあたっては、その補完的な役割だけにとどまらず、全員就学の陰の力となっている傾向が強い。しかしその第一線は相当に厳しいものがあり、教師の立場としても不安定な要素が多い。これをよりよい状態に改善するにはどうすればよいか、指導方法・内容等も含めて十分に検討すべきものであろう。安上りの義務教育の手段とはいわないまでも、この教育を実りあるものにするための工夫の余地は大きい。

 訪問教育は主として養護学校教育の延長線に位置づけられているが、長期欠席(年間50日以上)の子どもに対する対策も訪問教育の対象とすべきであろう。昭和55年度で長期欠席の学齢児童・生徒は、全国で57,551名に達したが、これを特殊教育制度の下でカバーするか否かは別として、訪問教育のニードは大きい。学校ぎらい、病気などの理由による長期欠席は、今や教育の谷間になっており、教育における“欠席”そのものの意味の問い直しが迫られている。

3.義務教育以前の問題

 心身障害児のうち、先天性もしくは幼少期に障害を発生するものに対しては、とりわけ早期対策の充実が不可欠である。また障害の発生予防という問題についても、短絡的な批判はあるにせよ、長期的な観点から十分な対応が必要であろう。早期対策は学校教育よりもまず母子保健、児童福祉及び早期療育などの力にまつところが大きい。0歳からのフォローは、予後を左右する上に重大な影響をもたらすので、早期発見に始まる一連の対策が一層充実されるべきである。同時に親の指導という面でも、早期対策の充実は重要な意義が見出されることはここに強調するまでもないところであろう。

(1)早期教育

 早期療育、早期教育は、将来の障害の予防と軽減、発達の促進、二次的障害の防止などの観点から、今後さらに徹底を期す必要があるが、一般の保育園、幼稚園等における混合保育、児童福祉施設における早期療育体制をさらに充実させていく必要がある。また養護学校については、幼稚部の設置促進に努めることも今後の課題である。ろう学校に設置されている幼稚部にあっては、2歳児保育までも実現すべきであるという要望があるが、どこまで下限を延長するかについては、今後の検討課題の一つであろう。特に幼児の言語発達については、早期対策に一つの焦点があるが、同様なケースは脳性マヒ児の治療にも当てはまるので、行政制度的な分担を最大限に調整の上、早期サービスに万全を期する体制の確立が急務であろう。

(2)就学指導

 義務教育に向けての就学指導は、極めて重大な意義を有している。まず子どもの発達の状況や心身の障害の実態の把握と、鋭い科学的洞察を伴った教育的予測とが前提となることは明らかであろう。適切な教育や治療のあり方を示唆すると共に、その場をいずれに求めるかの選択を伴う就学指導においては、地域の教育的資源の実情を勘案しつつ、最善の結論が導き出されるよう努める必要がある。

 そのため第一に要望されることは、就学指導委員会そのものの体質改善と、その機能の充実である。形式的な意見具申だけではなく、内容のある指導方針の決定のためには、専門家の慎重な判断を必要とする。形骸化した委員会というそしりを免がれないような実態があるとすれば、問題であろう。専門家の偏在などの理由から、委員会の構成にも問題点が指摘され得るが、今後は努めて歪みを是正し、あるべき姿を追求する構えがなくてはならない。

 わが国の義務教育の根幹をなす就学校措定の問題については、今なお議論の多いところであるが、いわゆる学校の選択権という制度上の論争は別として、子どもの就学校の決定には、保護者の意見も十分に尊重し、慎重な態度がなくてはならない。特に、親の考えが制度上の問題と対立するような場合には、真に子どもの教育的ニードに照して、合意が得られるよう最善の努力を傾けるべきものと思われる。また時としては制度の弾力的な運用も考慮する必要があろう。

 就学指導は単に就学校の指定のためだけにあるのではなく、一たん就学した児童のその後の経過をチェックする役割も、当然負うべきである。これをなおざりにすることは、就学指導そのものの生命を危くすることにもなりかねない。

4.義務教育における問題

 義務教育の意義については、今さらここで述べるまでもなく、教育の重みが一段と大きい。就学義務及び学校の設置義務の両面は、より完全な姿、より適切な形態において、果たされなければならないものである。しかしこのことが、特殊教育制度の硬直化を招くとしたら、十分に反省の余地はあろう。

(1)教育方法・内容の充実

 養護学校教育の義務制の実施に伴って、ますます多様な障害の児童・生徒の教育がより望ましいかたちで推進されなくてはならないが、特に重度重複障害児の教育の目標、方法、内容等については今後の検討にまつところが大きい。児童・生徒の実態に即したさまざまの教育課程の編成が意欲的になされる必要性もある。また指導計画や指導形態等についても、努めて斬新さを追求していかなくてはならない。

 現在、世界的に障害者の自立が強調されているが、学校教育も、将来の自立に向けての意図的な努力を強化し、その線に沿った教育の見直しを必要とする。漫然と教科を教える、という態度では、自立のニードに応えることは難しい。児童・生徒の実態に即した指導法の開発と、その実践が何よりも必要であり、教師の創意工夫にまつところが大きい。

(2)交流教育の推進

 心身障害児の理解推進と、社会性を養い好ましい人間関係を育てる上で、交流教育は今後ともできるだけ拡充することが望ましい。今まで特殊教育諸学校の存在すら明確でなかった一般の児童・生徒にとっては、交流の成果は顕著であり、また心身障害児に対しても自信と希望を培って、将来の自立や社会参加の基盤を育成する上で重要な手だてとなっている。今後この試みをさらに発展させるために、交流の方法等について工夫と研究を重ね、障害児と健常児との一体感を養って、将来の社会的統合に向けての教育実践を強固にすることが要望される。

(3)いわゆる統合教育への発展

 現代の障害児教育の潮流の最たるものは、統合教育へ向けての意欲的な取組みである。いわゆる分離教育は、理論的にも理念的にも明らかに弱みをもっている。また障害児教育の目的等からみても自己矛盾に陥る可能性がある。

 統合教育の理念、方法、形態等については、今なお十分なコンセンサスを見ているとはいえないが、少なくとも交流教育それ自体もレベルの浅い統合教育であるという規定は誤りではない。周知の通り、長期行動計画にあっては、その策定の過程で国、地方、民間を問わず最も論議が集中し、一つの焦点となった感があるが、統合の形態は多様であって、二者択一的な論理や短絡的な発想とはもともとなじまないものである。理念レベルでは明らかに統合教育を否定する根拠に乏しいが、方法論、制度論の立場では、事態は単純ではない。まして特殊教育諸学校の存在そのものを否定するような論理は、論外というべきであろう。

 統合教育の推進はこれからの長期的な課題であるが、制度的立場はもとより、第一線の実践のあり方や教育を取巻く社会的条件の推移なども踏まえて、吟味と研究を重ね、可能かつ適切な方途の選択に努めていくべきであろう。

5.後期中等教育

 義務教育を終えた心身障害児にとって、特殊教育諸学校高等部の拡充・整備はもちろん、身体障害者職業訓練校など後期中等教育の場の拡充は、これからの大きな課題である。後期中等教育は多くの障害児にとって、いわば社会への出口であり、移行期の教育を司どる重要な意義を有している。

 特に後期中等教育は直接心身障害児の進路をきめる大切な責務を有しており、そのあり方にも見直しや拡充を迫られる問題が多い。イギリスのウォーノック委員会報告にも指摘されているように、社会への出口として、いわばそれまでの教育の成果を問われる重大な使命がある。

(1)進路指導の充実

 ともすれば誤解される傾向として、進路指導を単なるあっせん(placement)のための教育活動と考える向きがあるが、あっせんは進路指導の一部に過ぎず、むしろ就職、進学、施設入所というような方向づけそのものの過程こそが大切である。アメリカで強調されているようなキャリア教育(career education)を導入するまでもなく、教育は人生経路(life career)に対して、十分な支えとなるものでなくてはならない。生徒一人ひとりのライフサイクルを見通し、職業的発達の成長を図り、それぞれの人生をよりよく開花させる役割を担う進路指導は、教育実践の場でもっと重視しなくてはならない教育活動であり、その充実が望まれる。生徒理解、相談、啓発的経験などの手だては、もっと工夫される必要がある。また重度児であればあるなりに、その生き方への援助に独自性をもたせる必要があるので、その教育的な対応を考究することも忘れるべきではなかろう。

(2)高等部の拡充と職業教育の充実

 特殊教育諸学校のうち、歴史の古い盲学校、ろう学校については、高等部の整備状況は比較的よいが、逆に生徒や時代のニードにそれがマッチしているかどうかという点では少なからず問題がある。高等部の専門学科についても時代遅れのものが指摘できよう。新たな視野の下に職業教育の充実が必要である。

 また肢体不自由養護学校高等部の状況も、今なお低迷している感があるが、自立の困難度の大きい生徒が多いだけに、それぞれに対応した教育をより徹底させる努力が必要である。精神薄弱養護学校については、高等部の設置状況が十分ではないので、現行の学校教育制度の下では若干の論理の矛盾はあるにしろ、拡充を急ぐべきものであろう。病弱養護学校も対象とする生徒の病気によっては別な対策が必要な場合もあるが、高等部の整備はやはり必要である。

(3)職業訓練校等の整備

 全国に合計18校存在する身体障害者職業訓練校は、障害児のニードにより応えるために、そのあり方を再検討する必要があろう。訓練種目、指導方法などに改善を要する面が多いので、今後鋭意それに取組み、後期中等教育の機関としての存在を明確にすべきである。また一般の職業訓練校においても、障害者の受入れにもっと積極的な態度をとるべきである。同様に専修学校、各種学校についても障害者の自立に果たす役割を強化すべきであろう。

6.高等教育

 わが国の障害者に対する高等教育の普及は、先進諸国の中では、最も見劣りがする状況にある。たとえばアメリカでは、聴覚障害者だけについてみても1974年までに43大学・短大が高等教育プログラムをもち、約3,000名の聴覚障害者がそこに在籍したという。精神簿弱を除く他の障害者にあっても高等教育の普及は目ざましいが、わが国ではむしろこれからという面が大きい。教育の機会均等という観点からみても、相応の能力のある障害者に大幅にその門戸を開くことは、これからの大きな課題の1つといえよう。

(1)大学入試制度の改善

 現在までに視覚障害者に点字受験を認める大学は徐々に増加し、また共通一次試験にも障害者にある程度の特別な措置が図られているが、二次試験のあり方も含めて、さらに検討を重ね、その方法・内容を改善する必要がある。

(2)学内環境

 障害者の受入れについて、従来あまり考慮されていなかったので、建物・設備などを早急に改善することは財政の上でも大きな負担となるが、できる限りそこに意を用いることが望ましい。

①盲学生――点字ブロック、点字標識、その他安全のための配慮

②肢体不自由学生――エレベーター設置、段差の解消、トイレの改造、車イス通行のためのスペースの確保など

③ろう学生――交通安全の配慮など

学生寮についても、障害学生の受入れを容易にする対策が必要である。

(3)教育方法

 講義、実験、実習などにおいては、専攻する学問分野によって若干の違いはあるが、細かな障害者向けの配慮が必要である。たとえば、講義ノートをとるコンパニオン制度、手話通訳者、点字器及びテープレコーダーなどの持込み、リーディングサービスなどについて配慮すると共に、教官の意識や認識の改善を図り、効果的な教育・研究ができるように努める必要がある。また実技を伴う科目についても、指導上の工夫が不可欠である。大学等における研究条件の整備についても、教育条件の整備と同様、十分な配慮を行うことが必要である。

(4)福利厚生

 障害者を受入れた大学等では、福利厚生面についても、行き届いた対策が必要になる。大きな大学等では、いわゆる障害学生サービスセンターの類いのサービス機関を設置し、ニードに応じてすべての障害学生の勉学を支える体制をつくることが望ましい。

 さらに重度肢体不自由者や盲人などの場合、できれば大学キャンパス内、もしくはその近くに学生寮をもち、優先的に入寮させて、通学の不便を解消することが望ましい。

 また、障害学生は経済的にも負担が多くなりがちのため、特別に奨学金を給付するような制度の創設も考慮する必要がある。

(5)進路の問題

 高等教育を受けた障害者が少ないので、大学側の就職開拓などに関する経験も一般に未熟である。中には、進路に不安があるために、進学を思いとどまるケースも多いことと思われる。したがって、障害学生のための進路の開拓に、大学側の努力の蓄積が必要であり、高校側に対しては、その実績を保証することが大切であろう。車イスの肢体不自由者、盲人、ろう者などが高等教育を受けて、社会に出ることがけっして珍しくない事態であるという認識を、内外に普及すれば、障害者の高等教育は一段と前進するであろう。

(6)障害者のための短期大学

 わが国には障害者のための短大などは、今まで存在していないが、高等教育の拡充方策の一環として現在その構想が練られている。周知の通りアメリカでは、1864年に聴覚障害者のために創立された有名なギャローデット大学、1968年聴覚障害者に工業・技術分野の高等教育を授けるために設けられた国立ろう工科大学があり、その他いわゆるコミュニティ・カレッジなどもいくつかの聴覚障害者用プログラムを有している。わが国で聴覚障害者や視覚障害者を対象とする短大の設置については、一部に批判もあるが、長期的に見ればそれが広義の職業教育を行うものである限り、推進してよい方策であろう。この短大を創設すること自体が、一般大学等への障害者の進学の阻害要件にはならないものであり、またそれが特定の目的に限られた性格のものであれば、必ずしもノーマライゼーションの理念には矛盾しない。なおこの短大の設置については、推進協の長期行動計画には、作成の過程で慎重論があったため盛られていないが、国の長期計画には明記されている。

7.教員に係る問題

 いうまでもなく、障害児教育の質的水準の向上には、優れた教員の確保が不可欠の要請である。そのため、教員養成制度をはじめ、教員の採用及び配置、研修などについて格段の努力が必要である。また、直接障害児教育に携わる教員以外の一般教員に対しても、障害児教育の理解の普及は重要な問題となるであろう。

(1)教員養成制度

 現在の特殊教育関係教員養成課程(大学・学部)には、なお不十分な面が多いので、その拡充・強化に努めると共に、大学・学部の中におけるそれらの位置づけについても、もっと改善されなくてはならない点が多い。特に、養護学校教員養成課程については、障害児教育の多様なニードに即応し得る教員の養成のために、格段の整備・充実が果たされなくてはならないわけであろう。

 また小学校教員養成課程や中学校教員養成課程においても、教員免許状の取得にあたって、障害児教育関係の単位を必修もしくは準必修に指定し、一般の教員が漏れなく基礎的な知識をもって教育の現場に赴くよう考慮されるべきであろう。

(2)研 修

 現職教員の研修の機会はこれまでもある程度は確保されてきたが、これをもっと充実させることが必要である。大学への派遣は機会はもちろん、国立特殊教育総合研究所などにおける研修も重視される必要があろう。さらに都道府県特殊教育センターの設置促進や研究・研修体制の充実も、今後の重要な課題の1つになる。

(3)教職員定数及び学級編制

 重度・重複障害児のすべてを教育対象としている現状においては、教職員定数の改定がぜひとも必要である。同時に学級編制基準を改め、一人ひとりの児童・生徒に十分な指導ができるよう改善していくことが必要である。教育は人なり、といわれる通り、人的な面を手厚くすることが障害児教育の水準の向上には不可欠であろう。さらに、特殊教育諸学校における介助職員の数及び処遇などについても併せて改善していく必要があろう。

(4)教員の自覚と意欲

 障害児教育には、一般の教育に比べてなおさら教員自体のあり方を問われる面が多い。一部でささやかれるような無気力な教員がかりに存在するとすれば、由々しい事態といわざるを得ない。たえず新しい課題に向けての意欲的な取組みと、使命感に燃えた専門的技りょうの発揮とが、特に要望されるところであろう。

8.福祉教育と社会教育

 完全参加と平等の目標を実現するためには、一般社会の障害者に対する正しい理解と、それを可能にするいわば意識の改革とが不可欠である。このため、一般健常者における対障害者観の改善・変革を迫る対策が不断に推進されていかなくてはならない。

(1)福祉教育

 この概念は未だ必ずしも成熟したものではないが、ここでは一般小・中学生などに対する心身障害児の理解・啓発を目的とした教育とかりに定義づけておこう。通常副読本を作って授業に使うなどの手だてを想起するが、かたちだけの手段よりも大切なことは、一般の教員の意識の改革がまず重要な問題である。これが不十分であると、折角の副読本や体験学習なども成果を期待することはでき難い。また幼児段階から健常児と障害児が接触する機会を豊かにすることは望ましいが、大人の社会に障害者に対する差別感が強いと、幼少期の段階で相互理解が発展してもやがて次第にそれが薄れて、考え方の基盤は大人の社会に同化していくことは明白である。社会的態度の学習は、大人の社会をモデルとして行われるもので、けっして幼児期のものが純粋に保持されるものではない点に留意する必要がある。

(2)社会教育

 障害者に対する理解と啓発のために、成人学級、公民館活動、ボランティアの育成などの対策を重視することはいうに及ばず、会社などの組織を通じての働らきかけも大切であろう。企業等における障害者雇用の促進にあっても、最近は一般従業員の障害者問題に対する関心が高まっているが、可能なあらゆる機会をとらえて、福祉思想の普及に努める必要があろう。また障害者自身の社会教育についても、十分な配慮を行うことが必要である。随所に触れ合いの場を設けて自然なかたちでの相互理解を実現するよう期待される。

終りに

 ポストIYDPの課題は、山積しているが、いわば障害者のための新しい社会の創造は、これからの最も基本的な国民的課題である。教育はその中にあって重要な責務を有するものであるから、大局的な見地から現状の見直しを図り、英断をもって施策の実現が可能となるよう真剣な取組みが望まれる。

参考 略

*筑波大学教授


(財)日本リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年7月(第40号)2頁~10頁

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