特集/アジア・太平洋地域のリハビリテーション ネパール

特集/アジア・太平洋地域のリハビリテーション

ネパール

Sushila Pandey*

 ネパールはインドと中国に囲まれた国であり、憲法によって「ヒンズー教国」である規定をされている。国土は54,517平方マイル(約141,200km2)であり、地形は、南部は肥沃な低湿地帯で、中部はヒマラヤの低い山や丘が並び、北部は世界一高いエベレスト山とともにヒマラヤの高峯がそびえている。農業国であり、最近の国勢調査によると、ネパール国の人口は1,500万であり、人口増加率は年2.7%である。

 ネパールは発展途上国であるので、経済的な問題とともに、数多くの社会的問題に直面している。従って、政府および非政府諸機関は、問題の解決に努力しているが、社会的諸問題解決への関心はまだまだ十分ではない。

 変動する世界においては、数多くの問題が山積しているが、発展途上国においては、住宅、食料、教育、保健、水の供給などが、基本的必須事項であり、これらのニーズを満たすことに努めている現状である。これらの基本的ニーズの中でも、とりわけ、保健が最も重要な課題である。今日では、保健をどのような概念で捉えるかや、どのような医療設備がなされているかによって、その国の発展レベルを知ることができる。保健と障害は、お互いに密接に関連している。障害は老齢者の問題であると考えられ、ネパールでは、「障害」についての関心は非常に低い。無知・文盲や、超自然力を信じていることなどによって、「障害」は前世の罪による神ののろいであると捉えられており、ネパール国民は、障害に対しては、できるだけ関わりたくないという姿勢を持ってきた。障害は疾病や事故の結果である、と客観的に考えられる人はほんの少数でしかない。社会は障害者やその家族をさげすみ、憎しみの目で見るので、障害者が家族の中にいることは、家族にとって汚名であると考えられている。このように、家族は障害者が身内にいることを恥だと考えるために、障害者はできるだけ家の奥に隠されてきた。

 従ってつい最近まで、障害者のリハビリテーションのための科学的なプログラムに着手せず、政府も国民も、障害者に衣食住を与えるだけの慈善的施設を設けるだけで満足してきた。しかし、この衣食住の提供さえ十分ではないのである。政府は法的措置を講じ、障害者を安全に保護する責任を地方自治体や公的宗教機関(Guthi Sansthan)にゆだねてきた。

 ビレンドラ・ビクラム・シャー・デブ国王が1977年に「社会事業連絡調整協議会」を設立し、女王陛下がその委員長に就任したが、これは、ネパールの障害者福祉にとっては大きな前進であった。女王陛下のダイナミックなパーソナリティー、指導性及び激励のもとで、すべての社会事業団体が前進している。

 この社会事業連絡調整協議会の中に「障害者サービス連絡調整委員会」が結成され、その会長はシャンティ王女である。障害者に関係するすべての協会や団体は、この障害者サービス委員会のもとに結集しており、ネパール全国の各種協会・団体が実施する障害者のための福祉活動を促進・調整・指導する責任をもっている。

 1980年にネパールIYDP委員会が「全国障害者実態調査」を実施したが、これは6つの地区における12の村協議会(Panchayat)に居住する8001世帯、45,348名を抽出したものであるが、これによると、人口の3%が障害者であると推計された。

 実態調査報告書によると、全人口における障害者数は40万人であり、男子62.62%、女子37.38%となっている。

種類別・性別障害分布(%)

障害の種類

男 子

女 子

視覚障害  15.60  10.10

  25.70

聴覚障害  20.46  12.92

33.38

上肢障害  4.93  4.03  11.96
下肢障害  12.28  5.94  18.22
頭部、頸部、脊髄  2.88  1.40  4.28
精神薄弱  3.65  2.81  6.46

合 計

 62.80  37.20  100.00
単一障害  54.77  33.33  88.10
重複障害  7.86  4.04  11.90

合 計

 62.63  37.37  100.00

 この全国障害者実態調査結果によると、ネパールの障害者人口は、通常国際的に言われている全人口の10%という障害者率よりずっと少ないことになる。これはたぶん、ネパールでは障害者の定義が古いということと、この実態調査の対象地域・人口が限定されていたためであろう。1981年の国勢調査の時に、もっと現実に即した障害者像を捉えるための対策が取られたが、この国勢調査の結果はまた公表されていない。我々としては、今回の国勢調査によって、ネパールの障害者の正確な統計が出されることを期待している。

ネパールにおける障害者対策

 ネパールで特殊教育が初めて具体化されたのは全国教育計画制度(1971~1976)によってであり、これによって、盲・ろう・肢体不自由児のための特殊教育が緊急に必要とされていることが明らかにされた。その結果、専門職者、教育当局、ソーシャルワーカー等によって構成される特殊教育委員会が文部大臣の下に設置され、全国に特殊教育を普及・強化するための努力がなされた。1981年にはネパールIYDP委員会によって着手された拡充計画によって、多額の財源が特殊教育第5次計画に割当てられた。

ろう学校

 バルマンダ一におけるろう学校は、ネパール児童機関(Cussentty)の率先によって1966年に設立され、児童数は142名である。教師は19名おり、海外で教育を受けた者もいれば、ネパール国内で教育を受けた者もいる。

 この学校では、編物、洋裁、木工、電気の職業訓練も行っており、10年間の教育課程である。またここでは、教員の養成も行っている。このろう学校は「障害者サービス連絡調整委員会」の指導・監督のもとに置かれた「専門家委員会」によって運営されている。学校の中にワークショップも完成し、現在は、カトマンズ谷以外の地域から通ってくる生徒のためのホステルを建設中である。なお当校では、教材や教育設備を強化・拡充する必要がある。

 仏陀が生まれたルンビニ地域のバイラハワにあるろう学校は1976年に設立され、生徒40名、教師4名であり、7年間の教育課程である。この中に、ろうの生徒によって運営されている洋裁店も設置されている。当校は地域委員会によって運営されており、地域の人々の支援と協力を得ている。また、特殊教育委員会から財政的援助を受けている。

 最近、カトマンズの東方にあたる辺境地域であるスルケットに、ろう学校が開校された。借家を使っており、生徒34名、教師2名であり、ネパールIYDP委員会行動計画のもとに実現されたものである。

盲学校

 カトマンズのカーティプルにある実験学校内に、1964年に盲児部門が設置され、これが盲教育として最初の学校である。現在は34名の生徒がおり、そのうち22名は入寮しており、12名が通学している。男子26名、女子8名である。40名の生徒を受け入れることを目標としている。この実験学校(Laboratory School)の敷地内にホステルが完成されれば、生徒数、特に女子の生徒が増員されるであろう。ここの生徒は、普通児との統合教育の中で教育を受けている。一般教育のほか、竹細工、木工、編物などの職業教育も行っている。また、教材を点字にして使用している。この学校では、食費、入寮費、教育費、交通費ともすべて無料である。6名の教員は全員、十分な教育を受けているが、設備・教員の拡充が必要とされている。

 ダラン地区にはもう一つの盲学校がある。これは、ネパールの東部にある工業都市にあり、1977年に地区の率先により設置されたものである。設置後に特殊教育委員会の承認を受け、財政援助も受け始めた。現在、生徒40名、教員4名おり、5年間の教育課程になっている。この地区の盲生徒をもっと沢山受け入れるために、校舎及び寮の拡充が行われつつある。

精神薄弱児学校

 精神薄弱児のために、海外の援助機関である「人間・国家開発サービス(Human and National Development service、略称HANDS)」がカトマンズのタンガルにHANDSセンターを開設した。ここでは精神薄弱児とアルコール中毒児を対象として、教育的予防・治療措置を行っている。また、研究部門ももっている。最近HANDSが実施した調査によると、ネパールには100万名の精神薄弱児がいる。IYDP事業の一つとして「障害者サービス連絡調整委員会」は最近、カトマンズのタチャチャルに精神薄弱児センターを設置した。

肢体不自由児学校

カゲンドフ・ニューライフセンター

 これは、肢体、盲、ろうおよび精神薄弱児が訓練を受けられるリハビリテーションセンターである。1970年にリハビリテーションセンターとして設置され、ネパール障害者・盲人協会(Nepal Disabled and Blind Association、略称NDBA)によって運営されている。

 ネパール障害者・盲人協会は1969年、自ら中途障害者であった故Khagendra Bahadur Basnyat氏を委員長として設立された。同協会が設立されてすぐに、カトマンズの一軒の借家において、“New Life Centre”という名のセンターを設立し、11名の障害者を受け入れた。Basnyat氏が亡くなった時にこのセンターは同氏の名前をとって、“カゲンドラ・ニューライフセンター(Khagendra New Life Centre)”と名称が変更された。開設当初は、男子だけが対象であったが、ビレンドラ・ビクラム・シャー・デブ国王の戴冠式と1975年の国際婦人年を契機に、女子も対象者として受け入れるようになった。

 現在当センターには、ネパールの41地区から140名の生徒がおり、その大多数は身体障害者である。センターの職員は教師や管理職員などであり、総勢25名である。

 このセンターでは2種類の教育が行われており、それは以下のような一般教育と職業教育である。

1)政府の新教育計画に基づき、中等教育レベルまでの一般教育を実施する。

2)職業教育として、次のような7つの訓練分野がある。

(a)カーペット織(手と目の機能が正常な障害者が対象)

(b)籐・竹細工(盲人が対象)

(c)織物(手と目の機能が正常な女性障害者が対象)

(d)洋裁

(e)メリヤス加工

(f)編物

(g)タイプ

 これらの職業訓練のほか、当センターでは医療サービスも実施しており、センターの中にある義肢センターやネパール補装具センターを通じて、義肢の製作・交付も行っている。

 現在の教育方法は、盲生徒は点字、ろう生徒はイヤフォン、肢体不自由生徒には理論教育・実践教育を実施している。レクリエーションについては、文化プログラムが毎金曜日に実施されている。訓練期間は4年間である。センター独自のシェルタードワークショップがあり、また、国際人間援助プログラムの援助と協力により、もう一つワークショップが完成した。センターには医療チームのいるクリニックがあり、嘱託医、保健婦、看護婦がいる。理学療法士はフィリピンのマニラで教育を受け、センターの肢体不自由者に理学療法を行っている。義肢センターには、バングロアで養成された2人の職員が働いている。やはりマニラで教育を受けたソーシャルワーカーがおり、生徒の保護者や他機関との連絡調整の役割を果たしている。国際人間援助プログラム(International Human Assistance Programme、略称IHAP)と世界リハビリテーション基金(World Rehabilitation Fund)が、訓練施設、基本的な機械、設備、カウンセリングなどを提供してくれた。当センターでは一切のサービスが無料で提供されている。ここでの教育・訓練が終わると、企業に就職したり、自営を開業することになる。成績の優秀な生徒は、地区の学校に進学している。これらの生徒には、児童基金や民間機関の協力によって、奨学金等が支給される。

 そのほかの国際機関も当センターを援助している。例えば、ライデン・チェシャーホームやSOS国際オーストリアなどである。

 ライデン・チェシャーホームは、当センターの敷地内にまもなく完成する予定である。このホームが完成すると、32名の重度障害者が入所できることになる。

 SOS国際オーストリアは、4つの家族用住宅と体育館の建設を援助している。各住宅では、8人の障害児を受け入れることができるので、更に、32名の障害児を受け入れられるであろう。SOS国際インターナショナルは従来、孤児のための援助プログラムを実施してきたが、このように障害児を対象とした援助は初めての試みである。

ネパールの障害者問題

 「障害」は世界共通の現象であるが、その問題の大きさは、各国異なっており、その国の社会・経済的状態によって左右される。障害児が生まれると、親や社会の人々は「罪人が生まれた」と考える。従って、障害児が成長すると社会的に受け入れ難い経済的な重荷と考えられ、情緒障害も併せもち、身体的にもほとんど動けない状態になっている。障害者は無視され、社会的に孤立し、屈辱感に満ちたものとなる。重度障害者の問題は更に厳しい。カゲンドラ・ニューライフセンターで実際に働いた私の体験の中で、非常に興味深く、心の痛むことがたくさんある。ここにいくつかのケースを紹介したい。

 1)リマはネパール西部のゴーカ出身の美しく、チャーミングな若い娘である。彼女は既婚であるが、ある日、村の山の中で草刈りをしているとき、転落し、大腿骨を骨折した。彼女はカトマンズのシャタバーバン伝道病院に運ばれ、切断手術を受けた。このセンターに入所したのは16歳の時であった。入所中の4年間に、7学年までの教育を受け、メリヤス加工の課程も修了した。その間にリマの夫は再婚してしまった。ネパールでは、障害をもつ娘を友だち、仕事の同僚、被用者として受け入れることができても、結婚相手としては受け入れられないのである。センターでは、彼女の就職先を探し、現在、カトマンズの精神薄弱児学校で寮母として働いている。

 2)マイナはラプティ川近くのチットワン出身の小さな少女である。彼女の両足は動かず、骨がもろく、ベッドから起き上がることもできない。彼女の父親はへびにかまれて死亡し、母親は若い男性と再婚した。そのため、マイナは5歳にして天涯孤独となってしまった。マイナという名前は私がつけた名前であり、本名はわからない。赤十字の洪水救済班が彼女を当センターに連れてきた。彼女は常にチャーミングであり、笑顔を絶やさない。彼女は現在10歳なので、まだ将来の希望を語ってはいない。

 3)ランジャン出身のガヤトリはいつも身ぎれいにしているが、盲・ろうの重複障害者である。彼女が10歳のとき腸チフスにかかり、言語、聴覚、視力を失った。彼女とのコミニュケーションの唯一の方法は触覚によるものである。教師や友人が彼女の手を取り、手のひらに要件を指で書くのであり、訪問客があることを書けば、立ち上り、客に挨拶をし、笑顔で応じている。

 当センターの中には、以上のような障害者がたくさんいるのである。

障害者の雇用

 「障害者は最後に雇用され、最初に解雇される」とよく言われる。確かに、障害者の雇用の場を探すことは非常に難しい。障害者の基本的問題の一つは、適切な雇用の場がないことである。高度な訓練を受けた障害者に対してさえ、雇用主は消極的なのである。センターで現在までに訓練を受けた49名のうち、31名は更に自分の出身地で進学している。4名が小企業に就職し、1名は教師となり、2名は教員養成課程中であり、1名は寮母として働き、残りの31名は雇用の機会を待っている状態である。他の養護学校の生徒が卒業の時期を迎えるようになれば、雇用の問題はもっと深刻になるであろう。自営業を開業するには資金が必要であり、家族はそのような投資のかけをすることを躊躇し、社会的機関も十分な資金援助をできない。ネパール障害者・盲人協会とIYDP委員会は共同で一つの経済ユニットを設置しようとしており、訓練は受けたのに就職できない障害者が恒久的な仕事に就くまでの間、そこで働けるようにしようとしている。教育・保健省、労働・社会福祉省、通産省は、障害者の雇用の問題がもっと深刻になる前に、雇用について真剣に取り組まなければならないのである。

結論

 障害者に対する社会の伝統的な考え方を変えなければならない。障害者は適切な訓練を受ければ、家族の重荷ではなく、経済的に貢献できる存在になれるのである。もっと早くに適切な訓練を受けていれば、障害も治り、普通の生活を送れるはずの障害者がネパールにはたくさんいる。適切な時期に小さな矯正手術をし、義肢を装着したり、歩行補助器さえあれば、障害者も歩行ができ、日常生活ももっと容易になるであろう。

 一言で言えば、我々ネパール国民の前には大きな課題が横たわっているということである。現在我々が障害者に提供しているサービスは、ほんの少しでしかないのである。ネパールの社会福祉とにかかわっている関係者の責任は非常に大きいと言わなければならない。

(奥野英子訳)

*Khagendra ニュー・ライフ・センター所長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1983年11月(第44号)21頁~25頁

menu