社会保障制度の現代的課題

社会保障制度の現代的課題

―障害年金制度を中心に―

エリック H.バックス*

松井亮輔訳

1.戦後のオランダ社会保障の動向

 オランダの社会保障制度の歴史は、19世紀後半にはじまったが、制度が主に発達したのは、第2次大戦後である。1874年に児童の労働に関する最初の社会法が制定された。この時期の主要な業績は、1901年の産業災害法の制定である。さらに、第2次大戦以前には、ごく限られた社会扶助制度が導入された。障害年金制度および社会扶助制度による給付は、最低水準であった。イギリスやドイツとくらべ、1940年以前のオランダの社会保障制度は、むしろ最低限度のものと見なしえよう。

 19世紀初期のナポレオン時代から第2次大戦後までオランダは、外国の軍隊によって占領されたことがなかった。1940-45年のドイツによる占領が、国民感情に強いインパクトを与えたばかりでなく、1945年にドイツの占領から解放された後もオランダは、戦争行為とドイツの略奪による大規模な国の下部構造の荒廃という現実に直面させられた。1945年から60年までは、国家的努力による国家再建の時期と特徴づけることができよう。これには50年代と60年代におけるほぼ完全な近代化が含まれる。新たな近代的郊外都市が出現した。学校制度が発達した。労働の需要が供給を上まわったため、60年代には産業分野に外国からの労働力が吸収された。特にオランダ西部の都市に地中海地域からの労働者が入ってきた結果、文化の多様化がすすんだ。オランダは、前例のない経済成長期を経験した。こうしたことに伴って、社会・経済生活のすべての面で国の影響力が確実に増大した。

 戦後の経済成長によって国民所得がふえ、それ故公共支出に新たな地平線がひらかれることとなった。そのうえにさらに付け加えるべき要素は、天然ガス資源の発見と開発である。

 前例のない経済成長によって、国の社会構造面で重要な変化がもたらされた。実収入が増加したため個人が伝統的な社会的ネットワークにそれほど依存しないでもすむようになり、社会生活における家族の役割の重要性が従来より少なくなった。そして、神の代理人としての教会の影響力が低下した。一般的には、近代化にあわせて世俗化現象が生じた。その結果、社会組織の多くの部門で社会的規制力が弱まり、個人がより自由になった。

 戦前のオランダ社会では、教会と家族が社会的扶助の手をさしのべる主な機関であった。これらの組織の社会保障機能は、国家レベルでの社会保障制度に徐々にとってかわられたが、同制度の創設は、経済成長によってこそ可能となったのである。こうした構造的要素にくわえ、第2次大戦後社会保障制度の発展を刺激した2つの文化的要因についてふれる必要がある。これらの要因は、必ずしもオランダの状況だけに関連しているわけではなく、他のヨーロッパ諸国でも同様に重要な役割を演じたのである。

 第1番目の要因としては、40年代以降ジョン・M・ケインズの思想が普及したことである。オランダでは、ヤン・ティンバーゲンがケインズ派経済学の最初の提唱者の1人であった。公共部門、特に直接的所得移転が、市場部門の安定化に資するとみなされるようになった。したがって、社会保障は同胞への思いやりといったことがあまり強調されなくなり、経済的支配階級の利益にも仕える経済政策の手段となったのである。それ故にこそ、戦前期には、保守派や使用者は社会保障制度の拡大に抵抗したにもかかわらず、第2次大戦後はすべての政治団体が社会保障制度の拡大に参加することとなったわけである。

 2番目の要因は、1945年にオランダが解放されて以降、あらゆる階層の間に新しい社会建設への信仰が幅広くひろがったことである。この「福祉」社会は、極めて大きな苦しみの原因とされた戦前期の「戦争」社会とは全き対照をなしている。

 第2次大戦後、オランダが戦前の遅れをとりもどすことを可能にした有利な条件としてさらにあげうることは、経済成長、ケインズ経済学の誕生ならびに国民の間に新たな出発への意志があったことである。これらの要因と、オランダが同時に社会再建に伴なう新たな社会的問題に対処しなければならなかったという事実とが重なりあったことから、どうして60年代にオランダの社会保障制度が給付水準、給付対象事項の数ならびに種類の点で世界で最高水準の1つにまで発達したのかが、説明されうるのである。

 しかしながら、公共部門は直接的所得移転制度が発達したためばかりではなく、社会福祉、住宅、教育、保健、公共交通機関および美術等の分野における種々の国庫補助による間接的所得移転の発達によっても拡大をみた。

表1 OECD6か国の政府支出の伸び対GDP比率
  1950―1960 1960―1973 1973―1979 1950―1979
フランス

6.3

4.9 6.4 17.6
西ドイツ 3.0 7.8 3.3 14.1
日  本 1.1 2.0 9.2 12.3
オランダ 9.3 13.0 8.4 30.7
イギリス -1.3 8.6 1.4 8.7
アメリカ 5.4 4.1 1.1 10.6
平  均 4.0 6.7 5.0 15.7

 OECD(経済協力開発機構)の主要5か国とくらべ.第2次大戦後のオランダにおける公共支出の伸びは、極端である(表1参照)。1950―79年の時期にオランダは30.7%の政府支出増を示したのに対し、同時期の5か国全体の公共部門支出増加率は平均15.7%であった。さらに、表1からは、イギリス、西ドイツおよびオランダでは、政府支出の伸びは1960―73年の時期に最高に達し、1973年のオイル危機以降は減少していることがわかる。しかるに、フランスでは公共支出の伸び率は60年代に減少し、1973年以降はやや増加している。日本では50年代以降政府支出は、たえず伸びており、しかも公共部門支出の伸びは、1973年以降むしろ加速している。

 多くの産業社会と同様、オランダでは1973年のオイル危機が、戦後の発展の転換点となった。経済成長は大幅に低下し、公共支出を引き続いて増加させることは困難となった。60年代にはオランダの世論ではなお、よりよき社会づくりをするのに、社会保障制度の漸進的拡大は可能かつ必要と見なされていた。しかし、70年代にはオランダの政策策定者たちは、成長の限界に直面させられた。近い将来の社会保障制度の財政をまかなう上での問題が生じたのである。

 1975年には社会保障給付と所得移転が、全体ではオランダ国民所得の29.7%にのぼった。オランダの社会保障給付のほとんどは、インフレ調整され、かつ、最低賃金水準ともリンクされているので、オランダの社会保障支出には、成長傾向が組み込まれている。社会政策が何らかわらず、経済成長が最少限という条件下では、社会保障制度は将来財政的にまかなえなくなる。したがって、1973年までは、主要政党の政策には制度の発展が望ましいと言及されていたにもかかわらず、1973年以降は制度の縮少が提唱されるようになったのも、驚くにはあたらない。

 しかしながら、70年代の後半には、オランダの社会保障制度の費用を削減するために実質的努力は何らなされなかった。選挙民のこうした政策への抵抗が、あまりにも大きかったからである。その結果、1981年には社会保障給付と所得移転の総額は、国民所得の33.7%にまで増加した。

 オランダの社会保障をまかなう上でのこれらの問題は、経済危機に起因する他の社会問題によって一層悪化させられた。失業者数が増大した結果、給付申請者数に増加した。女性の社会的地位についての世間一般の考え方が変化した影響で、いまは就業の機会が乏しい時代であるにもかかわらず、仕事につくことを望む女性がこれまで以上にふえている。彼らは失業者として登録され、社会保障給付の有資格者となる。経済的危機の結果、制度を維持することが財政的に困難となったうえに、受給者数も増加したのである。

 低経済成長下での社会保障支出の増加は、70年代後半以降のオランダにおける赤字財政の主因の1つである。80年代以来政府は、何らかの手をうたなければならないことに気づいているようである。政治家の多くは、いまや制度をかえ、給付水準を下げることによって社会保障支出を削減することに賛成しており、現政府もその方向で努力している。

 社会保障における所得移転制度のなかで、障害年金は主要な構成要素である。1981年には国民所得の24.1%が社会保険に費されたが、それを社会保険のカテゴリー別にみると、国民保険の4.7%が障害給付、2.1%が疾病給付、そして6.6%が医療費として費されている。他のOECD諸国とくらべオランダは、疾病および障害の場合、保健ケアと所得保障支出の領域でも極端な立場をとっている。

表2 OECD6か国の保健・疾病給付制度(所得保障)政府支出対GDP比率
  フランス 西ドイツ 日  本 オランダ イギリス アメリカ
1954 1977 1954 1978 1954 1979 1954 1978 1954 1979 1954 1978

保   健

2.3 5.6 2.5 6.3 1.0 4.5 1.1 6.2 2.9 4.8 0.8 2.6
疾病給付・所得保障制度 1.3 1.9 1.1 1.0 (0.0) 0.3 0.7 6.2 0.7 0.4 0.1 0.1

 当初は、医療ケアに大きな投資をすれば、国民の健康が向上し、その結果、疾病および障害給付に費される金額は減少するものと期待されよう。しかし、おかしなことには、オランダではそのとおりにはなっておらず、異常な形を示している(表3参照)。1954―79年の時期6か国すべてで、疾病および障害給付は増加を示しているが、オランダではこれらの支出は極瑞に多いばかりでなく、保健ケアの支出をも上まわっている。

表3 1954年~1977年におけるOECD6か国の対GDP保健・疾病給付制度(所得保障)政府支出の伸び
保  健 疾病給付制度
フランス 1954―1977 3.3 0.6
西ドイツ 1954―1978 3.8 -0.1
日  本 1954―1979 3.5 0.3
オランダ 1954―1978 5.1 5.5
イギリス 1954―1979 1.9 -0.3
アメリカ 1954―1978 1.8 0.0

 それでは、オランダは住むのに不健康な国なのか、といった疑問が出てこよう。われわれが保健の定義を医学的な意味に限定するならば、そうではないというのが、筆者の意見である。なぜならオランダでは寿命はなおのびているからである。オランダにおいて疾病および障害給付への公的支出が極度に多い現象は、経済、社会・文化ならびに制度的要素がおりまじった結果として説明すべきであるという立場を筆者はとっている。この仮説の説明をオランダの被用者への障害年金制度に限定して行うこととしたい。

2.被用者への障害年金制度

 疾病の場合、オランダの被用者は、すべて「疾病法(Sickness Act)」に基づいて給付を受ける資格を有する。この疾病給付制度では、被用者は最高12か月の療養期間中、収入の80%の給付を受ける。しかし、実際には給付率は100%となる。というのは、使用者が疾病給付と当該被用者の通常の給与との差額を補てんするからである。12か月たっても疾病が回復しない場合、当該被用者には、障害年金制度が適用される。

 オランダの障害年金制度は、完全な労働能力の少なくとも15%に相当する障害を持つ、民間部門の被用者に適用される。障害は7等級に分けられており、その給付額は、被用者が認定される障害等級ならびに被用者が障害者となる以前に受け取っていた収入によって決まる。少なくとも80%の障害を有する最重度障害者に対しては、収入の80%が年金として給付される。障害法(Disability Act)の被適用者全体のおよそ80%が、最重度と等級づけられている。給付は物価とリンクされており、労働能力が回復するまで継続される。もし被用者の能力が回復しない場合、給付は定年年齢(65歳)まで支給される。定年年齢後は、障害をもつ被用者も通常の老齢年金制度の適用を受ける。

 オランダの障害法で定義されている障害の概念は、複雑なものである。というのは、医学的な意味での労働能力の喪失と、障害による労働市場での機会の喪失とがおりまぜられているからである。つまり、機能的な意味での労働能力と稼働能力で表現される労働市場での機会との両方を考慮して障害程度は判定される。そして、年金は、保険医による医学的評価と、労働市場での稼働能力に関する労働専門家の評価に基づいて支給される。障害の医学的側面がまず評価されなければならないが、障害等級を決める中心的基準は、障害によってひきおこされる稼働能力の低下である。この基準を適用するのには、障害をもつ被用者の労働市場での機会が考慮されなければならない。その結果、不況期には、75%の労働能力を有する障害被用者であっても、雇用の機会をみつけることができないとしたら、障害程度100%の障害者と認定されることもありうるのである。このような場合、稼働能力はゼロとなり、75%の稼働能力をもつにもかかわらず、最高の障害等級に基づく給付をうける資格を有することになる。オランダの障害年金のこうした制度的特徴から、障害年金受給者全体のおよそ85%が、最高の障害等級となっている事情が説明されうる。そのことからオランダでは、障害者のなかにかくれた失業者が多数いるという仮説を導き出しうる。

表4 1973年~1982年のオランダにおける労働人口、登録失業者数、及び障害被用者数

労働人口 登録失業者数 障害被用者数 失 業 率 労働人口における障害被用者比率
1973 4,802 109.0 285.0 2.27 5.94
1974 4,824 134.0 313.0 2.78 6.49
1975 4,991 195.3 349.0 3.91 6.99
1976 5,036 210.8 377.0 4.19 7.49
1977 5,090 203.6 404.0 4.00 7.94
1978 5,152 205.6 469.0 3.99 9.10
1979 5,233 210.0 496.0 4.01 9.48
1980 5,348 248.0 522.9 4.64 9.78
1981 5,464 385.3 541.9 7.05 9.92
1982 5,570 532.3 558.2 9.56 10.02

 表4には、オランダにおける労働力、失業者および障害者に関する数字が示されている。失業者の増加と障害者とが、直線的な関係を有するということはありえない。1973年以来、障害者数はほぼ倍増したが、80年代はじめ以降、オランダの失業者は加速的に増加しているのに対し、障害者の増加率はむしろ低下している。

 しかし、産業を部門別に分析すると、一定の部門では、雇用状況の悪化と障害年金申請数の増加との間には、重要な関連があることを説明することができた。これらの部門は、経済的には伝統的分野と特徴づけうる。つまり、肉体的重労働が占める割合が異常に高く、労働者の教育水準は低い。そして、一般的には高齢者に属する者が多い。したがって、発見された統計的関係は、見せかけのものではないかと疑う者もあるかも知れない。というのは、仕事の性質や本人の個人的特徴から、これらの労働者は、若く、教育的水準も高く、労働条件もよい近代産業で働く労働者よりも一層疾病にかかったり、障害をこおむりやすいことが予期されうるからである。

 失業と障害との関連性について疑問点があるとはいえ、オランダの障害年金制度によって失業が隠されているという仮説が、否定されなければならないというわけではない。前述したように、障害被用者の稼働能力が、本人の障害等級をきめる中心的基準である。したがって、労働の供給が需要を上まわる時期には、大部分の給付申請者は、実際の障害の程度よりも重い障害等級に認定されることとなろう。労働能力と稼働能力との差が、隠れた失業量である。合同医療サービス局(Joint Medical Service)では、この仮説に基づいて、障害被用者全体の70-75%が、ある程度まで隠れた失業者と見なしうると推計している。

3.70年代のオランダ障害被用者数増加理由

 オランダの障害年金制度には、隠れた失業傾向が組み込まれている。しかしながら、このことは、どうして70年代に障害被用者数の増加が極めてぼう大であったのかの説明とはならない。オランダが生活するのに不健康な国かどうかという疑問には、まだ答が与えられていない。筆者はその答をあくまでマクロのレベルから求めることとしたい。

 まず、われわれは、障害の現象をより広い概念枠から考えなければならない。障害は、労働休止の一形態である。それは、労働市場をはなれる一方法である。したがって、それは、失業や早期定年といったものとくらべることができる。この概念枠は、暗に障害の経済的、社会学的原因を強調する。次に、筆者は、障害を経済、社会・文化的に説明することとする。

3.1 経済的討論

 経済的議論には、2つの要素がある。それには労働者が労働市場をはなれる動機の説明と、使用者が労働者を追い出す動機の説明が合まれる。

 労働者の行動は、新古典主義(経済学)からでてきた給付・賃金率仮説(benefit-wage ratio hypothesis)によって説明しうる。要約すれば、議論は次のようになる。賃金水準と給付水準との差が極めて小さいならば、余暇の機会費用は、やすくなる。被用者が合理的な人間であるならば、本人にとって給付で生活するのが魅力的となる。

 オランダの障害年金制度では、給付率が極めて高いので、被用者の同制度への流入を予期しうる。したがって、オランダの障害年金問題の解決は、極めて簡単である。つまり、賃金と給付との差が、妥当なところまで給付水準を下げることである。そうすれば、多くの労働者は、給付よりも賃金を選ぶであろう。

 社会学的観点から、人間の動機についての経済学的考え方は、批判しうる。経済学は、労働の機能を生計をたてることに限定してしまう。労働社会学で明らかにされているように、個人にとって労働の意義には、大きな社会的、心理的意味も含まれる。余暇の機会費用は、金銭のみに限定されえない。社会のなかで失業者とか障害者といったラベルや、経済的に役立たずといった汚名は、多くの人にとって深刻なものである。そのうえ、給付・賃金率仮説に有利な経験的証拠は、むしろ弱い。さらに、70年代に障害年金受給者数は、大幅に増加したにもかかわらず、年金給付率は、同時期全く変更されなかった。

 しかしながら、われわれは、給付・賃金率仮説を完全に否定すべきではない。われわれは、それを2つの方法で修正したい。

 まず、給付率が高いことは、障害者が労働市場を離れる主要誘因であるとはあまり考えられないが、労働市場へ再復帰するうえでの障壁となるということは十分にありうることである。特に、オランダの障害年金制度のように、給付が定年年齢まで物価指数にリンクした水準で保障されるような場合には、健康な人びとでさえ職を得ることが困難な労働市場では、障害者が年金給付の安定を投げ出すことは期待しえないであろう。

 次いで、被用者が失業に脅威を感ずるならば、彼が障害年金制度の安定と将来の失業の不安定さのいずれを選ぶかはおのずと決まってくる。もし、当該労働者が、医学的診断で正当化される何らかの軽い機能障害を持っているならば――大部分の高齢労働者の場合がそうであるが――障害年金制度は、本人の手の届く範囲内にある。長期的には失業保険制度の給付率は、障害年金制度のそれよりもかなり低い。こうした状況下では、ほとんどの労働者は、障害年金制度の方をよしとすることになる。社会保障制度内では、どうして1つの制度が他よりも好まれるかは、給付・給付率から説明がつく。

 障害年金受給者の増加は、使用者の行動による影響とも考えられる。この議論によれば、技術革新の結果として、ある被用者層、特に教育レベルの低い者の生産性が低下する。使用者は、これらの労働者を取り除こうとする。制度的仕組みからオランダの使用者にとっては、被用者を解雇する方が、本人を疾病・障害給付制度に移行するように仕向けるよりも困難である。

3.2 社会・文化的議論

 経済学的議論では、障害は選択過程の結果と強調される。しかるに、社会・文化的説明では、疾病と障害の社会的・文化的原因が強調される。それは、疾病の性質と発生を社会環境に関連づけようとする。

表5 1967~1980年の客観的および主観的疾病別年間新規障害給付受給者の疾病
1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980
客観的 58.5 55.3 49.7 47.1 45.4 44.1 42.9 41.3 39.8 37.9 36.6 35.5 31.5 31.5
主観的 41.5 44.7 50.3 52.9 54.6 55.9 57.1 58.7 60.2 62.1 63.4 66.5 68.5 68.5

 表5では、年ごとの新規年金受給者が、保険医によって判定された疾病の性質に基づき、2つのカテゴリーに分類されている。最初のカテゴリーは、社会環境とは何ら関係のない原因による疾病に関するものである。われわれは、これらを客観的疾病と定義する。2番目のカテゴリーには、社会環境によって引きおこされる疾病、つまり主観的疾病が含まれる。表5から、70年代を通じて、オランダの障害年金受給者数の増加について、社会環境の影響が著しく増大したという結論を引き出すことができる。事実、この表は、主観的および客観的疾病の分布状況が、完全に変化したことを示している。つまり、1967年には客観的疾病が、疾病全体の58.5%を占めていたのが、1980年にはこの比率は、31.5%に減少した。

 オランダ社会におけるいかなる変化が、この驚くべき現象とリンクされうるのかという疑問が残る。この疑問に答える前に、われわれは、どのようにして社会的要素が疾病をもたらしうるのかという問題について、少したち入った検討をしなければならない。

 疾病は、生体の安定状態を妨げる外的刺激の究極的結果である。疾病は、これらの外的刺激の存在と、生体の抵抗反応の不十分さとが組み合わさって引きおこされる。生体の抵抗機構または対応能力は、社会的、心理的要素によって強い影響を受ける。地位の不調和、社会崩壊、役割矛盾、規範のあいまいさならびに社会的支持の欠如は、すべて対応能力とはマイナスの、また疾病の発生とはプラスの相関関係があることがわかった。マクロレベルに焦点をあわせると、これらの要素は通常社会変化によって引きおこされる社会崩壊の過程と同一視される。このことから、急速且つ全面的な社会変化の過程にある社会においては、疾病率は上昇するという仮説を引き出すことができる。

 個人の対応能力は、本人の社会統合の程度ばかりでなく、本人の認識能力によるところが大きい。認識能力にかわるものは、教育水準である。研究結果によれば、同一の社会状況では、教育程度の高い者ほど、教育程度の低い同僚よりも対応行動がうまくいっている。ここでは、どうしてそうなのかの説明には、立ち入らないこととしたい。しかし、個人の特性が、社会環境と疾病との関係にも影響を及ぼすことを認識することは重要である。

 話題が、社会環境と疾病の問題というわき道にそれたが、再びオランダの場面に立ちもどることにする。さて、われわれは、70年代のオランダの被用者をそれ以前よりも疾病にかかりやすくしたオランダ社会の変化を見い出しうるであろうか。

 60年代以来、オランダにおける最も重大な社会変化過程は、オランダ社会の個別化であった。社会の個別化とは、個人の行動に対する、特定の社会集団が持つ規範の影響力が減少するということである。定義づければ、個別化とは、社会崩壊の一形態である。個別化過程の主な側面の1つは、教会の影響力の喪失と家族の衰退であった。もはや規範は、自明のことではなくなった。あらゆる種類の宗教グループへの所属が弱まった。そして異常行動は、一層容認されるようになり、社会はより許容的になった。

 これらの過程――それは、ある程度他のヨーロッパ諸国でも生じているが――のインパクトは、オランダでは極めて大きい。というのは、60年代までオランダは、強い集団忠誠の伝統が長く、個人主義は一般的に許容されなかった。集団の規範を犯せば、通常重い制裁が加えられた。60年代以前のオランダ社会は、イデオロギーと宗教別に集団化され、かつ、それらの社会的距りの大きい集団を基礎として構成される社会であった。これらの集団相互間の構成員レベルでの交流はなかった。つまり、全国レベルでのみ、各集団のエリートは協力した。

 教会の影響力の低下は、分化された社会構造の急激な分解を意味した。それに伴う個人主義は、経済成長によって、人びとに家族への依存度をより減少させる収入増がもたらされた結果、強化された。福祉制度が発達した結果、それが家族と教会の伝統的な機能にとってかわった。

 個別化の過程は、国民の多くにとって社会的きずなが弱まるとともに、役割や規範があいまいになることを意味した。これらの過程のもとにある人びとは、対応行動上マイナスの影響を受けたものと思われる。

 指摘されるべき他の変化要素は、60年代後半と70年代初期におこったオランダ経済の合理化である。この要素は、個別化理論と結合されなければならない。自己実現への努力が、支配的な価値観の一部となった反面、より多くの労働者が、人間の創造性を発揮する可能性のほとんどない、自動化された生産過程に従事させられた。それに伴い、社会的に規定された自己実現のオリエンテーションと、日々の労働生活の現実との間の相克により緊張がもたらされ、それは特により教育程度の高い、若い労働者や被用者にとって、疾病にいたる原因となりうる。

 生産合理化の他の側面は、労働組織の大規模化であり、意思決定構造は、複雑化する。小規模組織とくらべ、個人にとっていかなる行動が合理的か考えることが困難となる。作業場の自動化構造、しかも往々にして同僚グループの欠如は、労働者の不安定さを増し加え、その対応能力にマイナスの影響をもたらす。

 社会・文化的議論にあてはまる最後の要素は、戦後における疾病の定義の変化である。生体の異常としての疾病の概念は、社会的定義に強く左右される。何が異常で、何がそうでないとみなすべきかについての観念は、時代により、また場所によって異なる。第2次大戦前には疾病の概念は、身体的異常に限定されており、医師は、あらゆる種類の指標で異常の程度と障害の程度をはかることができた。

 第2次大戦後疾病の概念は、徐々に心理・社会的異常にまでひろげられた。心身症の概念が導入されたことで、疾病の起因と原因を発見することが、しばしば困難となった。ヨーロッパ諸国の多くでは、疾病の概念は、障害年金制度できちんと定義されてきた。しかし、オランダではそうではない。したがって、障害給付の適用は、心的異常の場合には、必ずしも神経症や精神病といった、精神医学上のラベルがきちんとついているものに限定されない。患者が障害給付に該当するかどうかの問題は、多くの場合答えるのが難しい。疑わしい場合、保険医は、医学倫理から患者に有利な方を選ぶ。このことは、つまり患者が病気でないということが確実でないかぎりは、医師は給付を認めるということを意味する。したがって、オランダの保険医が、法律で障害年金制度の入口の番をする義務を負わされながら、同制度に入れるのが適当かどうかを決める基準を示されていないことについて、しばしばぐちをこぼすのは、驚くにあたらないことである。

4.要約

 戦後オランダの公共支出は、急速に増加した。1960年代の末曽有の経済成長により、オランダの社会保障制度は、世界で最もすすんだものの1つとなりえたのである。

 しかし、1973年以降経済成長が鈍化すると、社会保障制度の財源をまかなうことについて深刻な問題が生じた。オランダの現政府は、制度をかえ、給付水準を下げることにより、社会保障経費を削減しようと努力している。

 オランダの社会保障制度内では、被用者の障害年金制度に問題がある。1973年から1983年までの間に障害被用者数は、労働人口の約6%から10%にふえた。障害程度を認定する主要な基準は、障害被用者の稼働能力であるが故に、オランダの障害年金制度には、失業を隠ぺいする傾向がビルトインされており、これは特に不況時に表面化する。

 オランダの障害年金制度の給付率は、極めて高いが、このことは、制度への被用者の流入の主な説明にはなりそうにない。しかし、給付率は、障害者が労働市場に再復帰するうえで障壁となることは確かである。

 失業保険制度と障害年金制度では、給付率に差があるため、被用者に選択の機会が与えられるとしたら、彼らは失業保険制度よりも障害年金制度の方を好むであろう。この2つの制度に、制度上の差があるために使用者は、生産に大して寄与できない労働者を解雇するかわりに、障害年金制度を利用させることによって、彼らを企業から排除しようとする。

 障害年金制度が、本人に有利になっていることから、どうしてごく少数の障害労働者しか――障害が軽い者でさえ――労働市場に再復帰しないのか。また、どうして障害被用者のカテゴリーにかくれた失業がそれ程多いのか、を説明しうる。しかし、そのことは、そもそもどうして比較的多くの被用者が、身体の具合が悪いと感ずるのかの疑問を解明することにはならない。

 診断名のパターンを分析したところ、1970年代に障害が増加したのは、主として社会的要因による疾病の数が伸びたことで説明がつく。疾病の社会的起因をざっと調べたところ、この現象を説明しうる3つの要因が明らかになった。

 まず、1960年代以降オランダ社会では、個別化の過程がはじまった。これはオランダのみの現象ではないが、そのインパクトは、極めて大きかった。というのは、それは集団への強い忠誠というオランダの伝統との訣別を象徴するからである。

 次に、他の産業社会と同様、オランダの産業の合理化によって、関連分野の労働者の福祉向上がもたらされた。個人の自己実現の思想の高まりに特に関心が寄せられたが、労働人口の大部分にとっては、それは日々の労働生活の現実とは矛盾するものであった。

 三番目に、他の国以上にオランダの障害者法では、疾病の概念があいまいに定義されてきたことである。その結果、オランダの保険医は、障害年金制度の入口を効果的には守りえないのである。

*Erik H. Bax、国立グロニンゲン大学経済学部
 1975年、オランダのエラスムス大学において「高齢者の社会サービスセンター」と題する論文により、社会学修士の学位を受ける。同年より国立グロニンゲン大学経済学部助教授に就任し、「福祉社会の社会経済学」、「障害者問題」の講義を担当。オランダにおける障害者問題、社会保障制度に熟知しているのみならず、経済、社会、家族などの動向に詳しく、ヨーロッパ型福祉社会の現状と課題に深い問題意識を寄せ、その諸問題解決の可能性としての我が国及びアジア社会に強い関心を抱いている。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1984年3月(第45号)2頁~10頁

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