余暇時間の体系化に関する見解

余暇時間の体系化に関する見解

H.W.Weiss *

 「余暇時間とリハビリテーション」という課題について論じるときは、障害に特有というよりもむしろ明らかに一般的ないくつかの基本的問題に注意を向けることが適切であると思われる。障害とは特殊な性質のものではないので、対象とするグループを考えるとき障害は欠陥ではなく好機であると理解することを出発点とすべきである。障害と非障害の一致している面を明らかにすることは、この対象とするグループを社会生活に溶け込ませる機会となる。この仮定は以下に明らかにして行きたいと思う。

 余暇時間を処理するという概念は、多くの論議の中核を成しているが、消極的な響きにおいては、使い切らなければならない生活時間を示している。このように定義されると、この生活時間は強制されたゆえのはかなさに堕してしまうきらいがある。このようにこの概念は、時の中における人間の状態を示しているのではなく、人間が操ることのできる対象物に時を置き変えているのである。さらにこの概念は、時を恐ろしい対象物に変えてしまうので、人間はそこから危険な部分を取り除いてから扱わなければならない。

 これに反して、私は余暇時間の体系化という概念を選択している。そしてこうすることにより、否定的な特徴を除去しようとしつつ、時のもつはかない面を時の中における人間の存在を受け入れることに置き変えたいと思う。この相違を単なる言葉のあやと取り違えないで戴きたい。これらの二つの概念には、明らかに正反対の二つの主要な思想が別々に含まれている。もし私が、「余暇時間の処理」と「余暇時間の体系化」に特別な意味を持たせるとしても、「暇つぶし」と「もっともよい暇つぶしの方法」といったようなとり上げ方はやめたいものだ。余暇時間の体系化とは、もっともよい暇つぶしの方法と同義に使われているのではなく、一般に認められている生活時間をすすんで、喜んで体系化することと同義に使われているのである。

 この再定義は明確でわかりやすいかもしれないが、なおも重要な問題を背後に秘めている。私は体系化行為を論議の主体として、広い意味で体系化行為の可能性を開いて行きたい。そしてこのようにして、余暇時間の中でできる行為を望ましい方向に発展させたい。しかしながら、実際の状況による方向づけがこのように先行していても、動機づけの面が十分に考慮されていないことになる。そして技術的な過程を重んじる固定観念により、人間自身が無視されているようである。

 動機づけの問題は、この一連の課題の中でもっとも重要であると私には思われる。この問題にとりかかるには、体系化行為の原因と結果について探るほかはない。この状況においては、単一の現象のうわべだけに注目してはならない。たとえば医学的見地により、ある特定の運動行為を解明することである。そうすることは、因果関係の代わりに現象を論じることを意味することになるであろう。また「知覚の弁別」、「伝達能力の発達」などと大雑把な範疇を作りあげ、自己満足すべきでもない。たとえこれらの範疇が、世間的にまことしやかに思われていてもである。後にこの極念について論じようと思うが、私は「自我の発展」というスローガンも避けたいと思う。というのは、そのような範疇を参考にして、ある種の余暇的行為に動かされる人々がいるはずがないということに誰でも同意するであろうし、私はまたそう願っている。そしてもし動機づけの源を必要としたとしても、何人もそのような範疇を参考にすべきではない。そうすることは、自発性の完全な喪失につながるであろう。

 では体系化行為とは、それを行なう人々にとって何を意味するのであろうか。動機は何であるのか。結果はどうなのであろうか。この一連の疑問について今まで十分に論議されたことがないことは明らかである。そして思うに、これは余暇の論理学者の単なる不注意によるものではなく、この疑問を解明する可能性が非常に限られているためであろう。このようなわけで、私もまだまとまった考えは述べることができない状態である。

 構造主義者や形態心理学者が明らかにしたように、すべての体系化行為は「世界」を体系化し、無差別を無くし、無秩序を無駄のない関係に変えようとする人間の基本的欲求に根ざしている。余暇の分野で言えば、これは無計画の時間を短期間であろうと長期間であろうと、自然のあるいは規定の方法で任意に構成することを意味している。どのような形としてでも存在し続ける機会のない無秩序から逃れるために、誰でも時を構成するのである。すべての堕落の形態は、医療文献に強調して述べられているが、体系化行為によって無秩序を減らすことができないことに根ざしている。時を体系化することは、生物学的必然性の現われなので、精神機能障害のケース以外は、すべての人間にとって必要欠くべからざることである。

 周知の通り、われわれが対象としているグループは精神か身体の障害者であり、非障害者より精神機能障害になる危険にはるかに多くさらされている。そのためより強固な目標が不変的に必要であることがわかっている。しかし、しばしば弱まったり欠落している失物学的刺激をとりもどすことが主な問題となってしまっている。さらにこれは「人生の意味は何か」といったようなここで論じるには哲学的に複雑過ぎるような問題点へと発展して行く。しかし結局のところ、余暇時間を体系化するということは、それがどのような意義であろうと、有意義な存在を受け入れることに基づいていると考えることができる。

 したがって動機づけの範疇は、今日誰もが口にしているスローガンによって仮に定義することができる。しかしこのスローガンは今まで述べられた特徴を一般的な方法で説明しているに過ぎない。すなわち自己開発の概念である。この少々使い古されたスローガンを欠点があるにも拘かわらず使う理由は、ある意味での自己開発とみなされる動機づけと、ある意味での外部からの決定とみなされる動機づけの行為を見分けるための補助手段とするためである。こう区別することは、余暇時間の性格づけと、余暇時間教育における論議のために役立つと思われる。

 労働時間と余暇時間を対照分析することは、自己開発という概念で全体的に抱括されているすべての現象に対するよい研究方法であるというのが私の考えである。労働の分野の第一の特徴は、行為の位置づけであり、労働の過程は目的のみによって決定される。しかし余暇の分野は、過程そのものを優先させている点において、まったく異質の可能性を提供している。ほとんどすべての人々は、特殊な目的に根ざす行為に圧迫されずに過程の中に自分自身を投じる機会を与えられている。労働の分野では、期待される結果によって意図が限定されるが、余暇の分野では、意図と過程そのものが一体となっている。つまり、余暇の分野では、体系化する行為に参加することが特殊な技術を発達させるのにもっとも重要だということである。

 これはそれほど新しい考え方ではないが、われわれはこれを念頭においておかなければならないし、さらに細分化しなければならないと思う。なぜなら、これが愚の骨頂につながる単純なスローガンに変えられてしまいそうな懸念があるからである。たとえばオリンピックや障害者のオリンピックに関してさえもである。もし余暇時間の価値が、方向づけられた行為の基準から人間を開放することにあるとするならば、行為の方向づけの範疇を再び持ち込むことは、かなり問題である。

 多くの人々は次のことを否定するであろうが、経験により正しく判断することができるようになるであろう。すなわち、余暇時間における行為は、すでに芽生えている特殊技能を発達させる意図によってしばしばひき起こされ、このことはよく検討しなければならない事実であるということである。さらに、障害者の訓練を彼の余暇時間に行ない、特殊な分野で彼にもっと能力をつけようと望むことは、いつどこにでも存在する方向づけられた行為の基準を反映しているということである。

 余暇の分野は、労働の分野の補強の場として形作ってはならない。というのは、「補強」とは結局のところある種の劣性を認めることを意味するからである。労働の分野においては、人間は彼の社会的能力によって評価される。しかし、われわれはこの基準を余暇の分野では認めるべきはない。これらの考えの欠陥に気付いたならば、余暇の分野ではどうしても禁止しなければならない。特に「自我を向上させる」という概念は、補強の思考につながるもので、「行為」、「成功」、「自我」という、因果関係を使っている点で、この概念のマイナス面の特徴を表わしている。

 このように、自己開発という概念は、強制された行為による技能の発達を意味しているはずはなく、個人の特性、感覚、性向を表現することを意味しているのである。この意味において、余暇時間を体系化するということは、補強のために努力することとはほど遠いもので、この自己表現という動機づけは、障害を克服するための真の機会であることがわかる。なぜならここには方向づけられた行為の基準のかせがないからである。比喩的に言えば、もし労働の分野の基準を無視できず、また特にもし動機づけが社会的地位の向上を優先して決定されるとするならば、非障害の人々のほとんどが障害者に変わり得るのである。

 身体障害者に関しては、身体に関する余暇時間の行為は、彼らが障害と同時に存在そのものに関心がある限り、特別の価値を持つことは明らかである。さもなければ、こういう行為は障害者と非障害者を区別している面を強調することになるので、過大評価されるべきではない。スポーツ行為が優先的になると、時には身体障害者の社会への調和を妨げることになることも私は肝に命じておかなければならない。なぜなら、障害に対して常に固執し、それを克服しようと常に努力し続けることは、身体の範疇において排他的に思考し行動する危険性を含んでいる。そうなると劣性と自我についての考えとともに、行為の規準が再び働くことになる。

 スポーツ行為と関連して論じられるべきである理性による動機づけは、われわれの課題にとって非常に重要であろう。これは性向による動機づけとは、強制と自然発生という対照においてまったく異質のものであるが、建設的な面も持っている。第一に、理性による動機づけは特殊な余暇行為の過程の中で性向による動機づけに変化し得る。第二に、理性による動機づけとは、単なる生存状態を超越する感覚と意志を受け入れることを意味している。この点において、余暇時間に体系化行為を行なうということは、身体障害者にとって特別の意味を持つことをわれわれは、はっきりと悟るのである。すなわち、彼らは身体やそれに関する行為の方向づけによって動機づけられるばかりでなく、感性や知性によっても同様に動機づけられる。これらは、障害者と非障害者を区別する面ではなく、結びつける面に重きを置いているので、障害者が社会に調和しようと努力することの真の基礎となるようである。

 余暇時間の体系化において個人の特性を表現するということは、感情の可能性を如実に見せることを意味している。そのような機会は、身体的、精神的な両方の分野で実現するはずである。そこでは真の動機づけが単なる特殊技能の修得や発達にまさっている。余暇時間は、もし単に社会的地位の向上のために好みを無視して文化的行為に関わることを自らに強制するならば、恐怖の時と変わり得る。そうなるとそのような行為は義務的なものとなり、真の個人の特性の自発的表現とはかけ離れている。たとえば、情報を求める強い衡動は、その情報がその人自身だけではなく、他の大勢の人々に関っている限り社会性を示している。同様に、集団のスポーツ行為は社交性の面を示している。この事は、多くの場合コミュニケーションを求める衡動に関連がある。

 そしてこの集団のスポーツ行為は、さらに分析することができる。すなわち、コミュニケーションという概念は、言葉で表現される内容ばかりでなく、楽しさ、喜び、悲しみ、苦悩、情愛といったような感情によっても定義される。すべての種類の感情は伝達されるはずであるし、余暇時間における伝達行為はおもにこれらの感情を表現している。楽しさには特別の場合はないかもしれない。それならば伝達行為に必ずしも結びつける必要はない。しかし喜びは特殊な場合に湧き上がるので、伝達状況そのものの絶対欠くことのできない部分である。特別なニュースを聞いたときの喜び、感動したときの喜びは、もしそれを他の人々に伝えることができるならば、より大きくなることさえある。すなわち、伝達による満足感は重要であるばかりか、同時に感情を解放する手段でもある。

 自己開発という動機づけは、行為の体系化のもっとも重要な誘因であり、生物学的刺激と直接関係があると説明させて戴きたい。こうすると、余暇時間教育学の分野が多いに注目すべきものとなる。この教育学は、動機のない、あるいは動機の弱い人々を対象としていて、結果的にはどのような自発性も殺してしまう恐れのある外部からの決定の一種である。概念化という作業も危険である。というのは、専門的なやり方をしていく内に、基本的な必然性である表現を外部の事実に合わせて変えてしまう危険や、外部の事実を失敗や成功の基準とする危険がある。このように余暇時間教育学は、方向づけられた行為の再導入と、自発性そのものを少なくさせることに終始するかもしれないという一連のきざしによって危くされている。

 もし「余暇時間の意識的体系化」というスローガンを検討してみるならば、これが自己開発という自然発生的動機づけを弱めることを意味するはずのないことがすぐにわかる。このように余暇時間の意識的体系化とは、状況の流れの中における個性の発展の可能性を考察することとは一致せず、体系化するための時間の必要性と、状況の流れを無視しての体系化行為における自己表現の動機づけの重要性を考察することと一致しているのである。

 余暇時間教育学における困難な仕事は、自己表現を通じて他の人々を動機づけることである。満足感、意見、思想、意図を告げることによってではなく、あなた自身が参加することをはっきりと示すことにより、初めてあなたは自然に生まれる衡動を与えることができる。すなわち、あなたの個人的熱意をみせることが、外部からの決定により自己開発への衡動を引き出す唯一の方法なのである。

 余暇の分野はもはや補強の分野とみなされていないので、行動や感情表現の代替として見過されていた領域が興味によって堀り起こされるかもしれない。そのよい例が想像の領域であり、そこには異なった表現様式の想像文学ばかりでなく、あらゆる種類の実践的行為も含まれている。後者に関しては、自己表現の動機づけは即興の可能性、すなわち規準から逸脱した表現の仕方により外部からの決定から逃れるという可能性から来ている。前者に関して言えば、どのような体系化の過程も、知的な見方や、新しい、すなわち感情的方法による特殊な感知力を体系化する機会をわれわれに与えてくれるのである。

 私は自己表現の一面に未だ隠されている感情的、知性的な精神的行為の重要性を強調することをためらわないし、それらが不注意に扱われていることを遺感に思っていることもためらわずに言おう、ちょうど身体障害者を扱うときには、この精神的行為の分野は特別役に立つと思われる。なぜなら、ここでは障害と非障害を分離する要素より、関連づける要素を重視しているからである。

 自己表現という基本的動機づけを主張し、方向づけられた行為の基準と何も使わずに済ませようとするためには、余暇時間の行為に関する教育学の内容と手法を再考しなければならないことを私は指摘したい。そして動機づけの望ましい方法として、無用の概念を有用な概念に変えて行く熱意を教育学に求めることが適切と思われる。

*ワルター・ワイス氏は、現在西ドイツ身体障害者リハビリテーション協会理事で、リハビリテーションの専門家として世界的に有名である。本年4月愛知県で行なわれた第1回国際障害者レジャー・レクリエーション・スポーツ大会に出席した機会に論文をとりまとめたものである。
 氏は、今から20年前のパラリンピック東京大会には、西ドイツ選手団の団長として35名の選手団を率いて来日している。当時は、日本身体障害者スポーツ協会会長の葛西嘉資氏とともに国際ストークマンデビル競技委員会の委員として、身体障害者スポーツの運営にも当っていた。また、1972年の西ドイツのハイデルベルグで行なわれた第4回パラリンピックには、大会運営委員会の委員長として同大会を成功に導いた原動力だった人である。


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1985年3月(第48号)43頁~47頁

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