特集/聴覚障害者のコミュニケーション 難聴者コミュニケーションの諸問題

特集/聴覚障害者のコミュニケーション

難聴者コミュニケーションの諸問題

入谷仙介

 最初にお断りしておかねばならないのは、本企画の他の執筆者の方々は、それぞれその分野のご専門で、十分なご造詣をお持ちであるが、私はそうではない、ということである。私自身の研究分野は、当面の問題とは全く無関係であり、私は難聴者である一市民として、難聴者の福祉運動にかかわっている人間で、その関係により、多少の知識を持っているにすぎない。そういう意味では本稿のようなテーマで執筆を引受けるのは大それたことかもしれないが、みずから難聴という障害を背負い、いわば問題の現場にいる人間という立場からの発言にも意味があるであろうという気がしたので、あえてお引受けしたしだいである。

 1 難聴者という障害

 難聴者というのは、聴覚障害者、耳の不自由なもので、二次的な障害としての言語能力の障害を持たない人間、つまり、その社会でふつうに使用されている言語、私たちの日本の国ならば日本語を、自由に使いこなし、聞くことは困難であるけれども、話し、読み、書くことには不自由しない人間のことである。ことばとのかかわりで主として問題になる概念であって、残存聴力の程度とは直接にはかかわらない。“本規約において『難聴者』という用語は、部分的な、あるいは全体的な聴力損失を持ち、そうしてふつうの場合、日常的なコミュニケーションの手段をことばに頼っており、かつ、ことばを獲得したのちに聴力障害となった、すべての人々を包含しているものと見なされるであろう。”私たちも、実際の運動の中で、まったく同じ認識に到達していた。ただし、これから見ていくように、実際生活の上では、私のように残存聴力の若干はある者と、ほとんど残存聴力を持たない者とでは、区別が存在するので、必要な場合、前者を狭義の難聴者とし、後者を中途失聴者(中失者)と呼ぶ。厳密を期する時は、難聴者・中失者と連称する。以下、特に断らない時には、中失者を含んだ、広義の難聴者である。

 健聴者は、日ごろ音の洪水の中におぼれ切って、音が人間に持つ意味について、気づこうともしない。しかし、我々の周囲には、何と多くの音が満ちあふれていることであろう。風のひびき、谷のせせらぎ、といった、自然の物音、人の話し声、自動車のクラクション、呼び鈴や電話のべルなどの人工的な音、ありとあらゆる音が我々をとりまいている。それらの音の多くは、何らかの情報を人間にもたらすために、意図的に発せられる。呼び鈴の音を聞いて玄関へ出ていき、ベル音に受話機を取りあげる。人間の行動のどれほど多くが、音による情報に依存していることか。

 音による情報の、最大のものは、話しことばである。いかに活字やワープロなどの文字文明が発達しても、ことばの主流は話しことばである。日常の会話だけではない。テレビもラジオも話されたことばを広く流す設備である。演劇、落語、漫才などは話しことばを主な素材とする、芸術ないし演芸である。“石焼いもー焼いも”といった呼売りの声も、まだまだ少なくない。講演や演説、学校の授業といった、知識を授けるための話し声も、重要な役割を、我々の生活で果している。人の集まる場所へ行くと、そこで必要な情報が、場内アナウンスとして流される。乗物の中などであれば、時として生命にかかわる内容を含んでいる。我々の日常生活における電話の重要性に至っては、今さらいうまでもない。

 私が、こういうわかりきったことをくどくどと書いたのは、耳に障害があって、これらの情報が入りにくくなった、あるいは一さい入らなくなったら、どういうことになるか、を考えていただきたいからである。一口で言えば、人と人、社会と社会とを結びつけているのが、音であり、話しことばである。話しことばが耳に入ってこないかぎり、人は人々の間で孤立しており、社会の中で一人ぼっちで仲間はずれにされる。耳の障害は、まさに、コミュニケーションという、人間生活の急処に襲いかかる障害なのである。

 難聴者は健聴者の社会、話し声による情報の海にひたりきった社会の中に、ただ一人で投出された存在である狭義の難聴者にとってすら、情報は今やちぎれちぎれの断片としてただよってくるにすぎず、それを引寄せるために、満身の力が必要とされる。一度はその海に身をひたしており、そこから投出された中失者にとっては、事態はもっと深刻となる。今までその存在が当然のことと思いこんでいたものが、実は計り知れない恩恵であったことを思い知らされ、悔恨に身を切られる。

 このようにして、難聴者にとっては、まず、失われたことばの回復が最大の課題となる。その手段として、二つの方法が考えられる。その一つは残存聴力を何らかの方法で補強することで、狭義の難聴者には、主としてこの方法が用いられる。第二の方法としては、ことばを目で見える形に置きかえることで、中失者は、もっぱらこれに頼らざるをえない。狭義の難聴者にとっても、やはりこれは重要な方法である。

 ここで、念頭に置かねばならないのは、どちらの方法を取るにしても、これから見ていくように、相当に高度の技術水準、経済水準、知識水準が実現している社会の存在を前提としていることである。難聴者の国際組織である国際難聴者連盟(イフホー)に結集しているのは、圧倒的に西ヨーロッパの先進国であるのは、主としてこのためと考えられる。紙が貴重品であり、国民の90パーセント以上が文盲であるような社会で、難聴者が失われたことばを取りもどす可能性は、ほとんど存在せず、社会の中に埋没して疎外されたままであるしかない。日本においては、難聴者のコミュニケーションを保障しうるような水準の社会が実現したのは、高度成長期以後の、きわめて新しい時期であり、技術的手段は、今日においても飛躍的な発達を続けているが、社会と難聴者自身とに、まだそれらを使いこなして、難聴者を社会的なコミュニケーション体制に組みこむシステムが完成していないのが現状であり、また、新しいコミュニケーションシステムをめざして、難聴者、行政当局、情報関係の各種機関、市民ボランティア等の努力が続けられつつある。

 2 各種のコミュニケーション手段とその問題点

 A 残存聴力を補強するための諸手段

 (ア) 補聴器 残存聴力のある難聴者の場合、音声を拡大すれば聞きとりやすくなる。ことに、中耳炎を原因とする、伝音性、あるいは混合性の難聴の場合は、きわめて有効である。そのためのもっとも素朴な方法は、話し手自身が声を大きくすることで、家族に難聴者がいる場合、あるいは難聴者にどうしても伝えねばならぬ用件がある時は、自然にそうする。しかし、不自然に大声を出し続けるのは、話し手にも苦しいし、周囲に健聴者がいる時は迷惑な場合もある。難聴者にとっても、大きな声を聞かされるのは、心理的な圧迫感の原因となる。そのために、個人用の話し声を拡大する装置、すなわち補聴器が必要とされる。

 戦後、ミニチュア真空管を利用した小型補聴器が普及し、さらにトランジスターを用いた、より小型、高性能のものが、比較的安価に出まわるようになって、爆発的に広がり、難聴を訴えるほとんどの人が使用するに至り、これを活用して、一般健聴者とほとんど変らぬ活動をしている難聴者は数多い。私は大学に入学した年から使用を始め、今に33年になる。大学教育を終了し、現在、大学の教師として、教育、研究の職責を全うできるのは、補聴器のおかげである。

 しかし、補聴器は、難聴者のニーズを完全に満たした、というにはまだほど遠い。というのは、補聴器というのは、要するに音量を拡大する機械であって、それ以上のものではないからである。したがって、伝音性難聴には、有効であるが、内耳や聴神経系統の損傷に原因のある感音性難聴には効果が薄い。不幸なことに、伝音性難聴は、治療法の進歩によって減少しており、感音性難聴が増加している。老人のために子どもが補聴器を買い与えたが、使用しないで放り出されるというケースが多いのは、このためである。

 第二に、近距離の、静かな場所での小さい話し声を聞きとるのには有効であるが、遠距離の、あるいは騒音の多い場所での話し声の聞きとりには不十分である。したがって、多人数の会議、電車の中での会話などは難しい。遠距離から来るぼやけた音は、ぼやけたまま拡大してしまうし、不必要な雑音も拡大するために、話し声がそれに消されるばかりでなく、拡大された雑音が非常な不快感を与える。人間の耳は雑音の中で、必要な声だけを選択して聞きとる機能を持っているが、補聴器には、それはできにくい。

 なお、補聴器の問題点として、生活器具としての有用性が要求される。使用感が少なく、人目に立ちにくく、日常行動のじゃまにならないということが望ましい。人目にたたないことは、体裁上の問題もあるが、周囲の健聴者に、難聴者を特別視させず、自然にとけこめるために必要である。音響上の効果がすぐれているにもかかわらず、ボックス型補聴器が好まれないのは、このためである。急な動作をする時にコードが何かに引っかかって耳栓がポロリと取れるのは、いやなものである。

 これらの欠点を改良するための技術的な努力は積み重ねられて相当な成果をあげている。しかし、まだ完全とはいいがたい。ことに、感音性の難聴者は聴力損失の状況が百人百様であって、眼鏡と同様に、その人の耳に合わせた調整が必要である。欧米では、補聴器の販売業務にたずさわる者は、この調整技術を修得した者が当るのがふつうになっており、西ドイツのリューベック市にはそのための養成機関がある。わが国では、調整技術者は非常に少ない。補聴器の知識を持たない電気店等で買い求めて、機能に失望してあきらめてしまった難聴老人が実に多い。補聴器の効果は訓練によってもある程度は高められるから、そうした指導もきちんとなされなければならない。補聴器は、かならず使用する本人が専門店に出かけて、十分に時間をかけて聞きくらべ、聞きやすい機種を選択する、ということが最低実行されれば、補聴器の有効利用度はもっと高まることであろう。本人も、周囲の者も、補聴器の限界をわきまえた上で、上手に使いこなすように努力すること、そのための啓蒙活動と、耳に合った補聴器が難聴者の手に入りやすいような、技術者の養成と販売とを含めた体制作りが必要である。

 わが国では、身体障害者福祉法によって、補聴器の支給がなされているが、難聴者の側から見て二つの点で問題がある。一つは支給される難聴者の範囲がきびしく限定されていて、もっとも補聴器の有効な、軽度難聴者が支給対象から外されていること、給付される機種が指定されていて、必ずしも耳に適合しないことである。難聴者は自ら好んで難聴者になったのではない。自らの責任によらない損失は、社会的に保障するというのは、社会福祉の基本原理のはずである。また、難聴者が補聴器を活用して、有用な社会活動を行うことは、国家及び社会の利益であり、そのために国家が費用を負担するのは、不合理とは言えないのでないか。利用されない不適合の補聴器を支給するのは、難聴者本人に迷惑であるばかりでなく、国費の浪費である。

 (イ) 磁気ループ 補聴器の弱点を補い、多人数の会議のために使用される。FMマイクとアンプとワイヤーとを組合わせ、ワイヤーから漏れる磁波を補聴器に組みこまれた電話回線を利用して受ける。雑音にわずらわされず、明瞭な話し声が聞きとれるので歓迎される。移動用のものもあるが、近来は公的な会議場建設に当り、最初から設置しておく所がふえてきている。すべての公的集会場に設置されるのが望ましい。劇場、映画館にも設置されれば、難聴者が劇、映画を楽しむために助けになる。ヨーロッパでは同じ目的で赤外線ループも用いられる。これは複数チャンネルを使用できるので、国際会議など二つ以上の言語の使用される場所で有効である。

 (ウ) 難聴者用電話 補聴器を電話の受話器に押し当てることによっても、電話を聴くことができる。耳かけ式の補聴器は、このために便利であるが、聞きとりやすいように強く押し当てると滑りやすいし、電話音も補聴器音も電流からの再生音であるから、ひずみがあり、それが増幅されるから、快適度が落ちる。じかに受話器を耳に当てて聞こえたら、それに越したことはない。そのために音量を増幅する難聴者用電話が使われている。工事料、使用料が比較的安いから、あまり大きな不満にはなっていないが、難聴者ゆえになぜ特別の料金を支払わねばならないかという疑問はわだかまる。工事料は、地方自治体で助成している所もある。公衆電話にも使われていて、しだいに増加しているが、ターミナル、大型店、ホテル、官公庁など、必要度の高い所に少ない。難聴者用の特別な機器でなく、音量調節機能をそなえた、高次の機器として普及していくべきであろう。

 B ことばを視覚化する諸手談

 ことばを目に見える形にする方法としては、文字に置きかえる、すなわち筆談と、それの変形といえる要約筆記、ノートテーキング、文字電話などと、それ以外の読話、手話などの方法がある。

 (ア) 筆談 もっとも基本的な方法であり、幕末、明治期にも筆談のみに頼ってすぐれた知的活動をした中失者がいる。しかし、能率的でなく、多人数が同時に行うには無理がある。現代の技術水準では、電子工学を利用した、小型の能率的な筆談器を作ることができるが、市場性に問題があるために、実用化されていない。

 (イ) 要約筆記(要筆) ふつうOHP要筆をさして要筆といっている。写真に見られるようにオーバーヘッドプロジェクター(OHP)のシートに話されたことを健聴のボランティアが簡単に内容を要約してスクリーンに投影、難聴者がそれを見て、おたがいの発言の内容を知り、話し合う。残存聴力のある者も発言を確認したり、耳を休めたりするために利用する。昭和30年代の終わりに、東京の難聴者団体が使いだしたのが最初といわれ、これを用いると難聴者が円滑に会議をすることができるので、難聴者運動の武器として広まってきた。昭和56年から公費による筆記通訳奉仕員の養成が始まり、奉仕員の登録もなされるようになった。59年からは公費派遣も認められている。ペンと紙を使った1対1の要筆奉仕も行われていて、難聴者が健聴者に交って会議に出席するような時に用いられる。ヨーロッパではタイプライターと連動させて、タイプされたことばをOHPにかけるのが主流で、手書きは補助的にしか用いられないが、日本語はタイプ化が難しいのと、漢字かなまじり文が読みやすいため、手書きがほとんどであるが、ひらがなタイプと連動させる方法が研究されている。将来はワードプロセッサーの導入も考えられる。

 要筆は、内容を正確に、早く、読みやすく書くことが要求される。内容を100パーセント書き取るのが理想であるが、実際は熟練者で20パーセントが限度だといわれる。したがって、発言者が要筆の速度を考慮して発言することも必要となる。難聴者の大規模な集会のためには、磁気ループと要筆とは欠くべからざる手段である。健聴者の大規模集会で試験的に行って好評を博したこともある。今後、要筆技術のいっそうの進歩と、奉仕員の拡大とが望まれる。

 (ウ) ノートテーキング 主に学校の授業の時に難聴の生徒・学生に代って、講義ノートを取ることをいう。難聴児・者は聞取り、あるいは読話に専念できるので、効果的に、授業を受けられる。アメリカの大学で難聴学生教育の方法として開発され日本でも行われている。アメリカの場合、学校側の用意したボランティアが当るが、日本では同じクラスの学生、あるいは聴障問題研究サークルなどの形で行われる。難聴学生のために制度化してほしいものである。

 (エ) 文字電話 テレメール・スケッチホンなどの手書の文字を電送する方式のものとミニファックスとがある。テレメールは高価であるために、ほとんど普及しなかった。相互の会話をスムースに進行させる点では手書き方式がすぐれているが、ミニファックスは、広くビジネス用に使われている電話ファックスなどのファクシミリに乗入れすることができ、手書き以外の文書も送れるので、難聴者の組織活動の強力な武器として普及した。文字電話としてどのようなものが適当か、難聴者側も要求がしぼりきれておらず、電話会社も試行錯誤を重ねているが、難聴者が望むのは、同障者仲間だけの交信でなく、健聴者とも交信できることである。その意味でミニファックスの方が将来性があるものと思われる。

 ミニファックスは聴覚障害者の福祉機器に指定されているが、家族に誰も聴者がいない場合にしか支給の対象にならない。ミニファックスは失聴者が他人の助けを借りずに電話連絡するための器具であるから、成人失聴者のいる家庭には、支給されるべきであろう。

 (オ) テレビ・映画の字幕

 聴覚障害者に対するもっとも大きな誤解は、目が見えるからテレビ、映画を楽しむのに不自由しないということである。実際は、テレビの放送、映画のトーキーを聞きとれないために、画面を見ても、その意味はほとんど理解できない。ことにドラマを楽しむことは絶望的であり、テレビの場合、比較的に画面だけで理解しやすいスポーツ番組のようなものしか面白くない。テレビ、映画の字幕に対する難聴者の渇望は強烈である。

 障害が二つある。一つはテレビ局が字幕作成にかかる経費と労力とを好まないことである。今一つは、健聴の視聴者が字幕を画面のじゃまになるとしていやがる傾向があることである。現在、それらの対応策として、文字多重放送が実施されようとしているが、高価なアダプターを自己負担で買わねばならないのでは普及は困難であろう。なお、現在難聴者向けとして試作されている文字多重放送の字幕はあまりにも詳細で、ほとんど画面を見る暇もないようである。スウェーデンでは、ほとんどすべての一般放送番組に字幕がつけられている。簡単なものでよいから、テレビ、映画には難聴者のための字幕がついているのが当然という、人々の認識が普及すれば、難聴者にとってもっとも望ましい解決であろう。

 (カ) 読話 唇の動きで人の話を読みとるのは推理小説ではすばらしい威力を発揮するが、実際は、あまり十分な効果があるものではない。長時間続けることは苦痛でさえあり、“十分間程度が限度”といわれる。しかし、聞こえない者にとっては、唇の動きは貴重な手がかりである。私には唇の動きだけでことばを判読することはできないが、唇を見ていると聞きとりやすいのは事実である。無意識に発音を推測する手がかりにしているらしい。カンのよい中失者の中には、読話だけでかなり健聴者に適応して生活している人がいる。難聴者団体の中には、ろう学校の先生に頼んで読話教室を開いている所がある。国際難聴者会議では、演壇で話している人の顔がモニターテレビに大写しにされ、人々はその顔を見て読話していた。わが国の難聴者運動では、読話は大きな要求になっていないが、道具もボランティアも必要としない、もっとも簡便なコミュニケーションの手段であるから、公費による読話講座など、普及のための努力はなされてよいであろう。

 (キ) 手話 身ぶりから発達した、手を主とした身体の動きを利用した独特の言語体系で、聴覚障害者が作りだし、その仲間に流通している。難聴者にとっても有用性があり、ことに若い難聴者の間に普及している。しかし、話しことばとは違う一つの言語体系であるから、話しことばを用いている難聴者は、あらたに修得しなければならない。高年齢の難聴者にとっては、記憶力の年齢による減退、講師の説明が聞こえないなどのために、修得が因難な面もある。また、健聴の家族に囲まれて生活していると、家族が手話を使わないために、修得しても保持されないことがある。一般的には、手話の修得は、難聴者に対して奨励されるべきであるが、修得するかいなかは個々の難聴者の自主性に任せるべきであって、難聴者にとって、かならずしも手話の修得がたやすくないことに対する関係者の理解が必要である。

 結論問題はまだ残る。読書、書信等の健聴者と共通のコミュニケーション手段にも難聴者独自の問題はあろうし、難聴者は自分の発音を聞いて補正することができないので、言語障害をともないやすく、その面からの問題もある。しかし、小稿ですべてを尽すことは不可能であり、もっとも重要な問題は、いかにしてことばを受取るかにある。その点について、一応の概観を試みた。

 けっきょく、難聴者には、これさえあれば万事OKという、簡便で万能のコミュニケーションの手段はなく、時と場合とにより各種の手段を組合せ、使いこなすしかない。そのことは個々の難聴者の能力を越えており、難聴者が集団を作り、社会の中で自分たちにとって必要なシステムを作りだすための努力が要求される。そのことが、社会と難聴者との双方にとって利益であるという全社会的合意が形成されねばならず、その時に、難聴者問題も新たな展望が開けるであろう。

引用文献 略

島根大学教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1985年11月(第50号)16頁~21頁

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