特集/リハビリテーションと介護 リハビリテーションと介護技術

特集/リハビリテーションと介護

リハビリテーションと介護技術

山田明

1.介護技術の日常性

 介護目標を見失った介護過程が少なからずある。この傾向は看護にも教育にもあろうが、介護領域においてはとりわけ著しい。そこにはいくつかの原因が考えられるが、その基本になるものの1つは介護技術の日常性というところにあると私は考えている。

 介護技術として通常対象化されるものは、起床から就眠までの個々の身辺動作に関わる身体的援助、あるいはその間の生活動作に関わる代行的援助である。その内容は、例えば洗顔・歯みがき・排泄・洗濯・掃除で考えてみると、社会で誰もがごくふつうにしていることで、さして専門性が高いとは思われない。介護技術の日常性と表現した所以である。これまでこの介護技術の日常性のゆえに「介護の仕事は誰にでもできる」という社会通念が生まれ、家庭奉仕員や寮母職の無資格者任用が行なわれてきた。

 そして実際の介護過程では個々の介護動作をすることで自己完結している場合が多い。その過程で介護職員の頭の中にある課題意識は、その介護動作をまちがいなくやりとげること、あるいは仕事の流れの中でいかに速くやり終えるかということになりがちである。自らの介護技術の向上に関わる課題意識はほとんどないか、あったとしても効率化、スピード化程度である。介護技術の向上をつねに対象化し、追求しなければならないほど難しい技術とは考えられていない。その結果、心のこもっていない、機械的でぞんざいな介護がうまれる。

 具体的な場面をあげて考えてみよう。食事介助の必要な人4人が1つのテーブルに集められ、職員2人がそれぞれ2人の障害者の介助をしている。職員は2人の間に立ち、食事をスプーンで手早く口に運ぶ。職員の目はまず右側の人の食事ののった皿、スプーン、障害者の口(顔)の順で動いていき、次に左側の人にも同じ順で視線を移す。右、左の人が口に入れられた食事をかんでいる間の待ち時間が1~2分ある。その間に他のテーブルや食堂全体を見わたす。職員の表情は監督的でやや堅く、食べている障害者も無表情で、やや視線を落として黙々と口を動かしている。

 この3年間で全国40ヵ所ほどの身障療護施設を各2~3日程度の日程で見学させていただいた。いろいろな食事場面があったが、全体の3分の1から4分の1がこの場面例のような食事介助であった。食事は一応順序を追って口に運ばれている。スピードはやや急ぎ気味だが、無理に押しこんでいるわけではない。会話はほとんどないが、あっても「何食べる?」程度の断片的なものに止まっている。

 この場合、職員はどういう課題意識をもって食事介助にあたっているのだろうか。『老人ホーム職員ハンドブック』『療護施設職員ハンドブック』などでは、のどにつまらせないことや1回に口に運ぶ量、スプーンを歯にあてないなどの注意事項や食事中の楽しい話題、雰囲気づくりなどを示している。安全に手早く食事を摂ってもらうことは意識されているが、楽しく、気持ちよくというところになると心もとない。食事を口に運ぶだけならば困難の著しい少数の障害者を除けば、日常的技術の範囲内で対応できる。まして何年も介護をしていると慣れもあってかなりスムーズに口に運べる。その分だけ介護者の精神的エネルギーの集中度は弱まる。そして介護動作への心のこもり方が弱くなってくる。その結果、介護者の対面している相手への精神的エネルギーの主要な表出方法のひとつとしてのまなざしや表情はうすれていく。この結果が先に紹介した場面例なのであろう。

 しかしこれは介護技術を日常的な範囲でしかとらえていないことからおこってくる安易さであり、その故の逸脱である。なぜこうした安易な介護技術認識がうまれるのだろうか。それは結局のところ介護過程そのものを誰にでもできる日常生活上の身体動作介助ととらえているからであろう。そして事実、個々の身体動作介助それだけならば、特別な場合を除くと専門性の低いごく日常的な技術レベルで対応できる。しかしそこに止まるならば本来の介護にはならない。介護技術の全過程を起床から就眠までの各身体動作に分解してしまう結果として、被介護者の生活や人格のトータリティが介護者側に見えなくなってしまう。本来の介護技術とは、生活上の各身体動作介護の技術ではない。各身体動作介護と被介護者の人格のトータリティとの関係づくりをスムーズに確保する技術体系のはずである。ところが介護福祉士養成のテキスト類や各施設職員ハンドブックなどもそうはガイドしていない。たしかに介護需要が急速に広がり、それへの即応力が求められている段階では、各身体動作介護の技術上のマニュアルも必要であろう。しかしその技術が介護技術の内容であると言われるならば、それは介護の本筋から離れたきわめて危険な考え方ということになるであろう。

2.介護目標と精神的介護

 リハビリテーションの世界で゛リハの心は心のリハ″ということが言われる。リハビリテーションでいちばん大切なことは障害者の心のリハビリテーションだと言っているのである。これは言わばリハビリテーションの目標規定であるが、同じことが介護についても言える。そのままに表現すれば゛介護の心は心の介護″ということになろう。介護の目標は被介護者の人間性の回復、心のリハビリテーションであり、そのための被介護者の心の介護を意識することが大切である。

 介護の目標をこのように表現するとき、補足的に確認しなければならないことがある。それはリハビリテートしていく主体は障害者であり、介護者はそのための援助者だということだ。心の介護という表現はこのことを十分確認しておかないと、被介護者の心への無神経な介入になる危険性を含んでいるからである。

 介護を受ける障害者からの発言として、「介助者は障害者の手足になってできないことをしてほしい」と言われることがある。この発言はその言われる状況によって意味するところにかなりの幅があるが、一つの端的な立場から言われると、介助者は自己判断を加えないで被介助者が頼んだことをそのままやってほしい、ということになる。頭ではなく単なる手足となることに徹してほしいということである。精神的自立度が高く、自らで生活設計をし、その中に介助者を位置づけている人の場合、こうした介助者論は自然である。心の介護とはその人の心が求める形で精神的介護をすることであるから、この場合は心理的距離を最大限にとった形での身体的介護をすることであろう。

 身体的介護は介護者が意識する、しないにかかわらず相互の心理的要素を色濃く含みもっているものである。先に場面例として紹介したような介護も精神的介護を放棄している結果として、被介護者側には、ただ口に食事を運ばれている、不自然な雰囲気のもとで食事をさせられるという精神的圧迫を加えている。負の形で精神的介護をしているのである。精神的介護を意識しない身体的介護はありえない。心理的意味をもたない身体的介護もありえない。とするなら、個々の身体的介護が被介護者にとってどのような心理的・精神的意味をもつかを常に考えておかないと、身体的介護自体も正しくは完結しないことになる。身体的介護を通して被介護者のリハビリテートした状態をどうつくりだすかこそが介護の目標であろう。ここをゴールに見すえながら、1つひとつの身体的介護をつみ重ねていくことが実際の介護過程である。

 ただ身体を起こす起床介護でなく、1日の始まりにふさわしい新鮮な気持ちをひきたてるような起床介護が求められる。ただ口に食事を運ぶという食事介護でなく、楽しい雰囲気の中でよりおいしく食事ができ、食事を食べただけでなくその場の楽しい雰囲気や思いやりのある人間関係も食べられるような食事介護が必要なのであろう。買い物に行くために車いすを押す介護は、車いすを押すことでその人の身体を運ぶだけでなく、買い物への思いや期待感も一緒に運びふくらませるようなものであることが望まれる。洗顔や入浴も顔や身体を洗うだけでなく、気持ちも洗われてリフレッシュされるものがめざされるべきなのだ。こうした介護の結果として、その人の心がリハビリテートしていくのである。

3.被介護状態のもつ抑圧性

 障害のために生活上の動作、行動ができないことがたくさんある。このことだけでもストレス要因はかなり大きくなるが、それに加えて日常生活上のさまざまなことで他者の手を借りなければならない。この場合、介護者がどのような対応の仕方をするかが、障害者の心理状態に大きく影響を及ぼす。

 在宅生活をしながら著作活動をしているある筋ジストロフィー症者は、いつも自分のことをよく理解してくれている母親との介護場面のひとこまを次のように書いていた。原稿を書いているうちに指の間にかろうじてはさんでいたエンピツが机の下にころがり落ちてしまった。台所にいる母親を呼んでそれを拾ってもらい、しばらくして今度は消しゴムがころがり落ち、また母親を呼んだ。すると「どうして一度に頼まないの」と固い声で言われてしまった。これほどに介護を受けるということはわかってもらいにくいと半ば苦笑い気味に書かれていたエピソードだが、これが肉親という愛情で結ばれていない介護者との関係になるともっと強い抑圧性が生まれてくる。身障療護施設での例をあげてみよう。

 あるリウマチ病者は腕の痛みが激しいので、腕を少し動かしてもらおうとナースコールを押した。すると寮母から、今他の人のトイレ介護で忙しい、時間がないから少しがまんしてと言われた。それでも痛みが強かったので少しでも動かしてと頼んだら、トイレと手の痛みとどちらががまんできやすいと思うかと詰問された。それで自分の手の痛みはがまんできないと言ったら自分勝手な人だと言われてしまった。職員はその後も職員側の言い分が正しく、その障害者が自分勝手だという見方を変えていない。

 これに似たようなことはほとんどの施設でおきている。なぜこのような事態がおきるのだろうか。職員の人手不足から介護の手が回りきらず、どこかで誰かにがまんしてもらわなければならないことはあるだろう。この事例も問題の発生時点はそういう性質のことがらだった。しかしコールに対応して介護職員が自分の意見を言い、それを障害者に強要していくところでは別の問題となっている。障害者からすれば、自分の介護要請が理解されず、加えてその介護要請そのものが自分勝手な主張だととらえられてしまった。これは一種の心理的外傷体験である。ここからは心のリハビリテーションにつながる道は開けない。むしろその逆に障害者の心により大きなストレス、抑圧感を蓄積させることになる。

 10年ほど前に療護施設居住者の生活意識調査をしたことがあるが、その生活の中でいちばんいやなことは介護職員との人間関係ということであった。そこで障害者が語っていた内容は、「介護を頼んでも気持ちよくやってくれない」「自分でできるんだから自分でしてと言われる」「自分たちが職員から一段下の人間のように見られている」というものだった。この発言のうち前2つは具体的事実を述べたものでわかりやすい。より深く考えてみるべきものを含んでいるのはこの最後の発言である。

 介護職員にこの障害者の発言を問いかけると、前2者についてはほとんどの人が思いあたるフシがあるが最後の発言については否定する。自分たちは相手が障害者だからと一段低く見るというようなことはしていない。障害があっても同じ人間だということはよく了解していると言うのである。理念としては平等な人間観をもっているつもりではいるが、実際の対応場面では対等な人間関係にはありえないような言動をしてしまっている。例えばふつうの人間関係で相手から腕が痛いと訴えられると、まずするのは同意、共感の意志の表明である。少なくとも最初から相手の意向を否定することはしない。

 被介護者・施設居住者が訴えている先の内容は、介護職員によって通常の対等な人間関係の埒外に置かれていることへの異議申立てである。これは被介護者が介護者から正当な理解をされておらず、さらには抑圧的な人間関係の中に置かれていることを意味している。しかし介護職員の方にはそのような抑圧的な態度で臨んでいるという自覚はない。技術以前のこうした人間関係のあり方にこそより基本的な問題がひそんでいるといえようか。

4.介護の中の判断要素と判断方法

 介護行為は障害者からの介護要請と、それを受けた介護者の実行行為の二者で成り立っている。ここで障害者側が要請したことがそのまま介護者によって意をくみとられスムーズに実行されるのならば、あとは実行上の介護技術のレベルのみが問われることになる。しかし残念ながらほとんどの場合そうはならない。まず介護者がその介護要請の妥当性に関して判断を加え、その後に介護者側の考えと被介護者側の要請の妥協点で介護行為が実行される。この判断行為をめぐる軋轢はかなり大きい。

 ここでもまずひとつの場面事例を紹介して考えてみよう。夫婦二人暮らしの障害老人家庭に派遣されている家庭奉仕員の記録である。「やたらとおかずを作らせる。冷蔵庫には前回作ったものがたくさん残っている。『たくさん作ってもらわなければ困る』と言われ、4~5人分作る。シーツ等の洗濯も週1回でいいのでは、と申し入れるが聞き入れず週2回洗濯。それもワカメのようにヨレヨレ。」

 この家庭奉仕員はこの日食事作りと洗濯をしたようである。他に掃除などもしたのかもしれない。この記録によると、食事を作ることないしはその量をめぐって、さらにシーツ等の洗濯回数をめぐって両者で判断が異なり、いくばくかの葛藤があったようである。「やたらと」という表現は家庭奉仕員の判断以上だったことを示しているし、「作らせる」は「作らされた」の転換表現で、自分の意に添わない形で食事を作ったことを示している。この記録をもとにこの両者の関わり場面をできるだけ詳しく再現するとどうなろうか。食事を作って下さいと言われて冷蔵庫をあけ、そこに前回作ったものがたくさん残っているのを見たとき、家庭奉仕員はどう言ったのだろうか。「あらこの前のがまだだいぶ残ってますねえ。このところ暑かったからあまり食がすすまなかったのかしら。いたむといけないからもう一度火を通しておきますね。それできょうはそのほかに何を作りましょうか。少しさっぱりしたものがいいかしら」というふうに、前回のおかずが残っていたことについては非干渉的に関わりながら、今日作ることについても最初から好意的なアプローチをしていったのだろうか。きっとそうではなく、「この前のがだいぶ残っているようだし、今日は少しだけ作ることにしましょうか」というふうに、あるいはもっと強い表現で相手の意向を否定するように関わっていったのではないか。「たくさん作ってもらわなければ困る」という主張の強さは、作ってほしいという自分の意向が否定されたことに対する老人のリアクションが含みこまれているのでないか。否定され、攻撃されたことへの防衛機制が働いているのであろう。きわめて好ましくない展開である。このもつれた状態のままいくと、家庭奉仕員の側は食事を作るときにも無理やり作らされている、不本意ながら作っているという反発感情を行動のはしばしに表現することになろう。そしてこの障害老人夫婦もこんな作り方をされた食事を無条件で味わって食べることは難しいものと思われる。

 ここでも家庭奉仕員の方は自分はまちがっていない。前のが残っているのにたくさん食事を作らせ、週2回もシーツの洗濯をさせる障害老人側が非常識でまちがっていると確信しているであろう。その判断内容は1回に作る食事の量であり、シーツの洗濯回数である。判断基準は家庭奉仕員の主婦としての経験ならびに世間の常識ということだろう。しかしこの判断はまちがっている。この判断の際に求められる要素(変数)は食事量あるいは洗濯回数だけではない。さらにもうひとつの変数として目の前にいる障害者がそのことを求めているという事実である。その欲求はf(x)ではなく、f(x、y)なのである。xは食事量あるいは洗濯回数であり、yは目の前にいるその障害老人の意志と気持ちである。

 そう考えたときはじめて、その人の気持ちや意向をどう生かすかという社会福祉援助論になる。それ以前の段階だけでは給食業者であり、クリーニング屋ということであろう。先にも場面例として出したリウマチの人の腕の痛みの場合も、介護職員として上記の家庭奉仕員と同じ誤りをおかしている。介護職員に何かをしてほしいと頼んだとき、自分でできるから自分でして、と言うことなどにも同様の問題が含まれている。個々の介護行為が介護目標に沿って行われるものであるならば、その時々の判断が両者の信頼関係の蓄積という要素を十分盛り込んで行われるべきであろう。

5.人間性回復としての介護過程

 介護過程にはその場だけの一時的なものと、療護施設内での介護のように継続的なものがある。ここでは後者の継続的介護が介護目標に添ったものとなるための方法上の留意点について述べておきたい。

 介護を受けながら施設内で生活する過程はその人にとって人生そのものの一齣である。そこでは一個の社会人たるにふさわしい遇され方が必要であり、またその生活を通してそれぞれの人の人間的熟成が期待される。そして、すべての人に共通することであるが、その人間的熟成への途上にある人として、その人なりに育くみ培ってきた良さや豊かさと、超えていかなければならない弱点や限界をもっている。この途上的段階から人間的熟成へと進めていく主体はその障害者自身であり、その人をとりまく入居者同士や施設職員はその援助者である。

 この人間的熟成への援助者たる介護職員はどうであるべきか。そして仕事としての介護過程はどうであらねばならないのか。

 そのひとつとして、つねに相手に好意的関心をもち、それが相手に直接間接に表現されているということがある。好意的関心とは、相手の自我、人格に対してつねに肯定的で人間的興味をもっていることである。互いに好意的であることは介護場面で何かをするときもっともいい形で相手のことを考えられる条件となる。療護施設などでの介護場面をみるとき、介護職員が目の前にいる人にどれだけ人間的興味をもち好意的関心をもっているか疑問を感じることが少なくない。返事の仕方、介護動作のはしばしにうかがえるのは事務的タッチであり、冷淡さである。好意的人間関係が成立していない場合ほど冷淡で素っ気ない介護となっているように思われる。好意的関係を成立させるには介護場面の1つひとつに相手に対する好意を間接的に表現することが大切である。

 その表現方法のひとつに表情がある。顔の表情はもちろんのこと、声の表情、介護動作をしている自分の身体の表情などがつねに好意的であらねばならない。ところが実際の介護は無表情になされている場合が少なくない。忙しくてそんなことしていられないという声も聞こえそうだが、それ以前にその人に深い人間的興味をもっていない自分がありはしないだろうか。そもそも介護の仕事とはただ手足を動かして介護することであって、一人ひとりの障害者に人間的興味をもち人格的影響を与えることまでを職務の範疇に加えていない職業観がないだろうか。介護過程とは個々の介護を通してこうした人間関係をつみあげていくところにポイントの半ばがあると考えるべきであろう。

 2つめの留意点として、介護職員は障害者のさまざまな行為や努力を評価し、意味づける機能をもつということである。これは介護―被介護関係にのみあるものでなく、人が人の中で何かをなす行為のすべてにいえることであり、人の存在のすべてにいえることである。人は自分の存在や行為の意味を確かめることによってより豊かな自己と自己意識を形づくっていく。そしてその確認行為は自分だけではできない。むしろかなり多くの部分は、自分をとりまく他の人が自分の存在をどう評価し、自分の行為やその結果がどう評価されているかで確かめられるものである。

 人は通常それらの評価をされる人間関係を濃淡さまざまにかなりのチャンネル数でもっている。施設で生活している人の場合も、そのチャンネル数はやや少ない場合がほとんどとはいえ、いくつかに及んでいる。しかしその中でも介護職員とつながるチャンネルの占める位置は大きい。より多様な人間関係をつくりだすことは、その人が豊かになっていく水源がふえることで望まれることだが、ここでは現状の施設に限って述べよう。

 その大きな位置を占める介護職員がどれだけ適切な評価・意味づけ行為をしているであろうか。これまでにもいくつか紹介した場面例にもみられるように、介護職員は介護場面を通して障害者を否定的に評価し意味づけることが圧倒的に多い。そうであるからこそ障害者の側から、職員との人間関係がもっとも大きな悩みとして訴えられるのである。

 この傾向は各施設のケース記録などにおいても共通している。障害者の行為の問題性をマイナス評価で記載している方が、プラス評価のものよりもはるかに多いのが一般的である。果たしてそれほど障害者の存在や行為はマイナス部分が多いのだろうか。先の事例でもみたように、そのほとんどは介護者・評価者側の正しくない認識によって導きだされたものである。このように恒常的にマイナス評価やマイナスの意味づけをされる状況のなかでプラスの人間的熟成を追求することはほとんど不可能である。

 たしかに発達途上にある人間のつねとして、まわりからマイナスの評価をされる行為をすることもあるだろう。さらにはある悪循環のなかでマイナス行為がたび重なることもありえよう。しかしその場合でも、そうであればなおのことプラスの面を見出し、その点を積極的に評価し、意味づけることが必要である。高木憲次がかつて゛好意の無視″ということを強調したことがあったが、人は他者の弱点を好意的立場から無視することが必要な場合もあろう。

 こうした人間の熟成を援助しうる介護職員であるためには、その自分自身が人間的に豊かであり、あるいは人間的に豊かであろうとする意志において誠実で、意欲において旺盛であることが求められよう。介護技術はすべてここに根ざしていることが必要である。

文献 略

共栄学園短期大学教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1990年9月(第65号)8頁~13頁

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