特集/社会リハビリテーションの世界的動向 東西デタントの世界における社会リハビリテーションの視点と課題

特集/社会リハビリテーションの世界的動向

東西デタントの世界における社会リハビリテーションの視点と課題

小島蓉子

はじめに

 ベルリンの壁が1989年11月に崩れて以来、旧東ドイツの政治・行政力はマヒし、社会問題が失業、労働人口の移動、住宅難、外国人労働者への迫害などとなって顕在化し始める最中の1991年9月、RIの専門委員会セミナーが、ドイツの旧西ベルリンで開催された。開催地が東欧の中のベルリンであったことも幸いして、旧ソ連の圧力が強い時代でも専門職団体に対しては、関係をもち続けて来た東欧の国々が他に先がけて参加した。社会委員会セミナーにはこうしたわけで、ハンガリーとチェコスロバキアの代表が膨大な論文を発表し、それは確かに東西デタントの時代のセミナーであることを印象づけた。

1.エコロジカル・ソーシャルワークの視点

 社会リハビリテーションが、追求してきたことは、医学的治癒や職業的身分の向上、という限定された目標ではなく、人間生活をトータルに見ての障害者生活の一般的な地域への統合(Community integration)であった。

 人間が社会の中に生きていくということをつきつめて考えると、人間の側が自分の生活上のニーズを満たすために他者とかかわり、現存する社会資源を活用する。そこでもし必要を充足させるための社会資源が不足であるならば、それらを創りあげながら、人間が満足に生きていけるような物・心の社会環境を創造していく。

 自然界の動物、例えば小鳥はエサが求めやすく、外敵の襲来から身を守り易い所に自身と雛の数に適した巣作りをするように、また魚が水質と温度を選んで移動して環境を選ぶように、人間生活も生存条件の創造が大きな課題となる。ただ人間の場合は定住性があり、個体が進化するには長い歴史的な時間を必要とするところから、動物的な適応の様式よりも、その頭脳と技術を生かして、時代と共に変わる生存条件としての社会福祉制度、社会機関や人的なサービス・ネットワークなどを自ら創造していくことになる。また人間の場合は与えられた自然条件に適応するばかりでなく、より能動的に自らの社会生活機能を生かして社会構造を自らの生存のために変革していく。

 かつてから生態学的視点で人間生活を見つめてきた筆者は、個体の存続が有機体と環境の交互作用によるものとして次のように述べた。「…生活主体としての人間は人間的・物理的な環境の全体像の中から養分を吸い取って、成長、発達し、あるいは退化もする。生活主体の環境に対処する能力(coping ability)が機能不全であるか、未発達であるか、または環境の側に人間のニーズに対応する養分がなかったり、有害であるとき、人間の生活は発達を阻止されたり、葛藤が生じたり、力尽きて枯れ果てたりする。…」と。

 個体そのものに環境に働きかける力があり、生まれ育った家庭環境に支えが豊かにあるうえ、生活の便宜の豊かな時代の国や地域に生きている場合、その個体は、生態学的には危機から守られる率が高いといえる。ところが、産業構造の変化で都市化が進み、家族員の生活の場が分散して家族支持機能が弱まり、果ては孤立化してしまった独り暮らし老人のような場合や、遺棄された乳児、家族に援助を期待出来ない重度身体障害者などは、個体の生活能力には限界があるとされる。かような無防備の個体を守るには、人的・物的・社会制度的なネットワークを用意して、その個体のニーズに答える力を環境がもたなければならない。

 社会福祉制度やヒューマンサービスなどは、あげて、こうした無防備の個体を守る生態学的な外皮の役割をもつ。それらを社会責任として意識的に造り上げる人間の働きかけが、社会福祉充実のための政策推進力または運動であるとされよう。

 生態学的なソーシャルワークの視点からみれば障害者が地域の中に住み、生活費が障害基礎年金で保障され、知的生活の向上のために教育の機会が用意され、働きとレクリエーションの機会も用意されるという一連の障害者政策をもつということは、その地域が障害者にとっては応答性のある滋養分豊かな地域に成長したことを意味する。

 生活の質というものは、自らがいかなる価値観で世界を見るかという心理的要素が高いわけであるが、それでも「生活の質」は本人の側の意識変革だけでは不十分で、環境条件に大いに左右される。障害をもつ人々と共に、生態学的な適所(ニーズ充足が効果的に可能とされる場:ニッチ)を創造していく手がかりとして、RI社会委員会は1972年に環境の5側面を指摘したのである。

物理的環境(建物、住宅、道路、空間など)

経済的環境(所得保障、手当、年金など)

法・行政的環境(法的権利擁護、公的サービスなど)

心理的環境(精神衛生、障害受容、対人関係など)

情緒的環境(宗教、レクリエーション、スポーツ、文化など)

 大多数の非障害者が、障害者への配慮なしに作り上げてしまった社会は、障害者にとっては生存が必要とする滋養分をもたない痩せた環境である。この認識に立って、障害者自身には自力で社会資源を活用し、自らの存在を他者に印象づけ、協力をとりつけていくような社会生活機能力(social functioning ability)の獲得を援助すること、その一方、環境そのものを障害者の生活に対して応答性(responseness)の高いものに変えること、という二重の課題が明らかになる。

 エコロジカル・ソーシャルワークの個と環境への同時的アプローチは、共生体験の少ない日本社会の中に外国人労働者を受け入れていく場合の国際社会福祉政策づくりによって、多民族的共生社会の実現をめざす場合の戦略にも通じる。

 かようにエコロジカル・ソーシャルワークの複眼的視点が、社会リハビリテーションの視座の特長的なものであるといえよう。

2.人権意識と環境の人間化政策

 教育や訓練はその目的の故に、非障害者にすら特別の環境を用意することが多い。これは障害者についても言えることで、教育や訓練をめざす施設が、その機能上、一定期間、障害をもつ人々に日常生活から離れた体験を提供することもある。

 しかし、社会リハビリテーションのためのソーシャルワークが本人と共に求めるものは、その人なりの生涯的な生活に向けて、いかなる自己脱皮をはかり、いかなる地域の広域的、制度的、自然発生的な資源を当人の自立に向けて組み立てていくかということである。

 様々な意味をもつ環境を自らに引きつけて活用していかなければ生きられない障害者にとって、社会環境がどれだけ人間化されているか、障害者の利用が権利として定着しているか否かは、障害者の生活の質(quality of life)を決定する条件である。

 事実、中産階級の層が厚い民主的な西欧社会を見ると、階級意識が希薄で、自分の権利を守るには、他者にも同等の配慮をするということが常識となっている。共生の原理に支えられて、人権意識にめざめた先進諸国は、各国の社会福祉政策の一環としての障害者政策を打ち立ててきた。

 例えば、アメリカは1973年に「リハビリテーション法」を旧「職業リハビリテーション法」を廃して成立させた。それにより、職業訓練よりもさらに根本的な生きる力(自立生活機能力)を身につけることに重点が置かれるようになり、それが自立を達成した仲間をロール・モデルとする自立訓練を助長させ、その拠点が自立生活センターとなった。援助はただ障害者個人の能力の変容のみに期待するばかりでなく、客観的に必要とされる人的・物理的環境の整備にも向けられた。人的には障害者の仕事を含む生活活動に補助者の必要が認められれば、生活面では介助者が、雇用面では援護就労(supported employment)の補助者が人的環境補助の第一線で働くという具合である。

 一方、障害者をめぐる物理的環境については、「障害をもつアメリカ人法=ADA」が成立する1990年以前にも道路、住宅改修、福祉機器の給付などの点で、先行努力が払われたので、それらを決定的に整備するADAの成立に導いたとも言える。

 北欧は、ヨーロッパの代表とは言えないまでにも、ノーマライゼーションの思想の発祥の地である。デンマークは、社会リハビリテーション政策のもう一つのモデル国であるとも言える。デンマークでは障害者の経済生活の基盤は、国民年金法(1891)や、障害年金法(1921)による所得保障が支える。施設のほとんどは訓練機能の故に存在し、生活面では、ホームヘルパーや介助者制度を地方公共団体が積極的に導入し、家庭に派遣することによって、重度障害者であっても自宅生活をする者が多い。また時にはグループホームや、介助者つきホステル(施設でなくアパートの錠の管理は本人)の住人となる場合もある。

 自由経済圏の欧米諸国では人権は、他人事でなく自他の共生の原理である。障害の有無より人間であるという事実を重視するので対等に尊い人間に奉仕する仕事に高い価値が与えられ、それがリハビリテーションの科学と実践とを動機づけているのである。経済保障、住宅、公共施設などの地域環境の整備は、公共的利益の追究という価値の発露でもある。

 しかし、いかなる欧米の先進諸国たりとも、現段階の障害者政策が万全だとする国はない。それぞれ自国民の声を聞き、福祉財政の許す限りの次の進展に備えようとしている様子が『欧米における障害者対策の動向』(総理府)の中にも読みとることができる。

(1)障害者対策の南北格差

 障害者生活をグローバルにみると、何らかの障害者政策をつくり出し、それに向かって公私の努力が行われている国々には世界に少数の先進自由工業国でしかない。

 わが国をとりまくアジアだけをとってみても、そのことは明らかである。新興工業国として有望視され、イギリス式の社会福祉の構造をもつ香港ですら、医療の手が施されなかったポリオ患者がそのままの肢体を露わにして路上で恵みを乞う姿を見ることは稀ではない。上層部のみが繁栄するインドでは、未だ大量貧困の問題、失業問題が全く片付いていない。その中に生をうけた障害者は、ハンセン氏病による歩行不能者、失明、片手切断等である。彼らの第一次障害はストレートに、失業、貧困という社会的不利に転化され、極貧の路上生活を余儀なくされ、泥まみれのまま、人間とは思えない生活を余儀なくされている。

 それに対し、財政的にも政治的、政策的にも貧しい国々では、最低限の公的援助も制度化されていない。勢い、マザー・テレサのような強烈な信仰に立つ人の率いる大救済組織に救援をゆだね、治安の見守りをする程度が行政に出来る住民サービスだということになる。しかしながら建て前上、インドの国・地方自治体には、イギリス流の法律を学んだ、上流社会出身の行政官がいて、法的充実を国外に宣伝広報している。しかし存在する法律にも実施予算がついていないので、公的サービスが社会の底辺にいる障害者を援助する場合の機能を果たしてないことは残念である。

 身分格差、男女差別、民族差別が幾重にも交差するうえ、それぞれの問題の中で障害問題は第二次差別のような状況を呈しており、問題は掛け算式に増幅するというのが発展途上国の状況である。

(2)東欧社会に秘されていた障害者問題

 障害者の人権政策の空白は、世界の南北格差の中に見出されるものだけではなく、東西社会の人間生活への価値観の差にも見出されよう。

 社会主義社会では国家は常に個人よりも尊いものとされてきた。

 東欧諸国の国民がやっと本音で自己表現を始めるようになった今日まで、社会主義諸国は、内政問題の弱点はヒタ隠しする一方、国民の中でも、スポーツ、音楽、学問などの優秀な青年や児童は、国威発揚の素材として、国費をかけて大切に育成され、国家行事の担い手とされてきた。

 かつてのシャウシェスク時代のルーマニアは、優秀児育成に力を入れ、国際連合総会でも、優秀な児童・青少年の祭典の第一提案国になることも多く、優秀な人的資源の育成には自信をもっていた。しかしその陰に人間的な扱いを受けぬまま、収容保護されていた病弱児や奇形児の存在などは、旧体制が崩れるまで一切、公表されない民族の恥部とされてきた。

 障害者の自立運動の盛んなフィンランドでの「子どもの城」は脳に障害をもつ児童の総合病院、母子相談クリニック及び、リハビリテーションセンターである。同じような名で呼ばれるルーマニアの「児童・青少年宮殿」は、障害をもつ子供など、全く寄せつけない選び抜かれた全国のスポーツ、音楽、芸術を創造する最優秀児が集って国家と党主をたたえるための殿堂であった。

 障害児をいつくしみ、障害児と共に苦しむ母親に最高のサービスを提供しようとする自由な国々は、特別豊かな国でなくても優しく静かに国際社会の中に受け入れられている。一方、障害児、ストリート・チルドレンがあっても、それらの子供を切り捨てて、計算づくの人的資源政策を推し進めた国々は、痛みを知る国民のクーデターによって、あっ気なく瓦解し去った。こうした東欧の悲劇は、人間社会にとって何が大切なことかを歴史が暗示した今世紀の一大教訓である。

 軍備に巨大な国家予算を注入してきた旧ソ連をはじめ、東欧諸国では障害者が生活しやすい環境の整備をしたという事実にはほとんど見当らなかった。旧ソ連の主要国の道路や公共交通機関はじめ幼稚園に至るまで、物理的環境には予算がつけられず、古くて不便なままだった。

 旧西ベルリンにあったフンボルト大学医学部の整形外科は、優秀さを誇っていたというが、旧東ベルリンを障害者生活の社会生活の環境として見ると、ほとんどわが国の終戦直後のレベルと変わりない。ドイツは東西統合によって、目下、東側に体制変革の困乱状況が現れているが、同水準化を目指している旧西ドイツの政策のおかげで、全ドイツとしての目指す水準は、いずれ達成することであろう。

 チェコスロバキアやポーランドは、体制は異なっても世界の自由諸国の専門家集団と関係をもち続けてきた国々である。

 特にポーランドは、障害をもつ労働者に独自の共同組合を組織せしめ、就労の機会保障の一モデルを提示して国際的な貢献もしてきた。

 かように東欧や旧ソ連は、障害原因も疾病のみならず戦争、原子炉破損による広域大気汚染、食糧・物資の流通機構の混乱という社会主義下の人災の故の栄養失調、失明などが多発し、障害者人口も高齢化現象と共に進行している。東欧諸国は自由市場への移行の課題もさることながら、国民生活に医療、保健、福祉の最低限度を確保しなければならないという課題がある。そして人間福祉の面では世界の支援を必要とする東の発展途上国であるともいえるであろう。

3.求められるリハビリテーション・パートナーシップ

 西側の情報社会化のかたわら、ややとり残されていた東側の世界が開かれていく中で、1991年のRI社会委員会セミナーが象徴するように、東欧諸国はアメリカ、アジア、西欧の情報を懸命に求め、片や我々は、これまで公表されなかった旧東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーの情報に大いに関心を示した。それは相互に学び合いながら、これからどう協力し合えるか、自国の障害者の福祉に役立つ道が、未だ知られざる世界の国々にありはしないかを模索するための互の探索であった。

 一国内でも障害者の自立は、社会関係からの孤立では達成されず、重度者であればあるだけ、介助者やボランティアなど、非障害者との健全なパートナーシップがなければ、自立生活は具体性を帯びない。このことは国家間にもいえよう。

 戦後、各々の障害者政策モデルで一定の発達を遂げた欧米と極東諸国に対し、ラテンアメリカ、アフリカ、中近東諸国及び東欧諸国は相当の課題意識をもって社会委員会のような世界的なフォーラムに接近しようとしている。

 障害者福祉や障害者の地域統合の課題はその国の社会・文化的風土の中で起こる社会現実であるので、たとえある国が特定のやり方で成功しても、そのやり方が他の文化圏に通用するものであるとも限らない。戦争直後なら、その分野の先進国の専門家が援助を必要とする国に赴いて政策作りのデモンストレーションをしたものである。しかし、外国人専門家依存型の援助に問題があると示された今日では、内発型の開発を指向する。

 グローバルな社会リハビリテーションの進展は、パートナーたる他の国々の人々との間で情報交換が先ず行われ、当事国の専門家の自己問題解決への活動開始を刺激することが第一である。

 国連でも、未解決の問題をもつ国々に他国のエキスパートを動員して派遣するという方法がとられるが、それは必ずしも最善の方法だとは限らない。何故なら、この方法は他国の人が自国の方法を他国でデモンストレーションするにすぎず、被援助国の自主解決力は何一つ発動されていないからである。それでは何が最も望ましい方途かというと、被援助国のリーダーに自覚を促し、彼らがイースト菌のように地域の人たちの中に入り込んで草の根からの政策の形成、プロジェクトやプログラムの実現に向けて、民衆と共に内発的に開発を行うことである。

 先ず何を実現させるかの開発の目標を明確にし、それに向かっての手段を自国内の物・心の資源を組織化し、自国の習慣や文化様式にマッチした援助のプロセスや技術を独自に編み出すことが望ましい。

 社会リハビリテーション実践の内発的展開が世界各国で行われるためには、障害者の生きる権利と生活の質の向上を目指す実践を各国が学び合い、自国流の方式を作り出すことが肝要である。そのための世界的な連帯とパートナーシップが、東西及び南北の国々の障害者と専門家とに求められているのである。

 略

日本女子大学教授、RI社会委員会・委員長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1992年4月(第71号)3頁~7頁

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