特集/社会リハビリテーションの世界的動向 イタリアにおける自立生活(抄訳)

特集/社会リハビリテーションの世界的動向

イタリアにおける自立生活(抄訳)

Which Possibilities for Independent Living of People with Disabilities in Italia?

Dr. Raffaello Belli

自立生活の定義

 自立生活とは、「障害をもたない仲間によって享受されているのと同程度の自由を達成すること」や「自分自身の力で生活することではなく、生活の場をコントロールして、障害をもたない人と同じ程度の自由をもつこと」を意味している。自立生活が運動の力を抜きにしては考えられないことは確かである。それは障害者が障害をもたない人と同程度に自由とされる基本的な権利のための運動であるが、完全に自由とされるための運動ではないことは残念である。従って、障害者としての立場からは、自立生活はもはや障害による不利益を被ることはないという画期的な目標であり、人間としての立場からは、自立生活は生活を他の人々と同様に構築するための可能性をもつことに向けての手段である。

パーソナル・ケア(対人援助)

 イタリアの一部の自治体では、ごくわずかではあるが在宅有給援助が用意されている。その場合の援助者は、地方公務員の場合もあれば、自治体による委託を受けて健常者によって運営される同組合から派遣される場合もある。しかし、それが行われるのは、労働日の勤務時間帯に限られ、しかもプライバシーに関する権利はない。そのような中では、1日4時間の援助を受けられることは、例外的であり、1日8時間の援助を受けられることは、さらに例外的で稀な場合に限られる。このことは、援助が障害者の選択やニーズに対応するものではないことを示している。生活をコントロールしているのは、障害者ではなく、スタッフである。それでは、施設との生活とたいして変わりはないのである。

 このような援助の最大の欠点の1つは、それが法的権利に基づくものではなく、自治体の裁量に応じて受けることができるものでしかないという点である。従って、生活にとって非常に重要な決定がすぐにでも変えられる場合があり、しかも、そのことに対して法的な不服申立を行うこともできない。法的な観点からは、それはチャリティにしか過ぎないのである。そして、生き残ることだけを考えているような政治家やソーシャル・ワーカーと常に接していなければならないのは利用者にとって苦痛である。援助が法的権利に基づくものでないということが、援助の利用者をそのようなケア・システムの囚われ人にしている。なぜなら、利用者には生きるか死ぬか以外の選択権がないからである。そのようなサービスが必要不可欠であり、以前にはそれに代わる方法がなかったので、この束縛の力は計り知れないものとなっている。

 慈善的なケア・システムによる束縛が最も陰湿であるのは、それが一般社会の目に触れることを押さえる役割を果たしているからである。その束縛がなければ、障害者は依存の状況を少なくするための新しい経験や考え方にもっと接することができるであろう。

 一部の自治体では、障害者のパーソナル・ケアに良心的兵役拒否者をあてている。このシステムはうまく機能している場合もあるが、欠点も多い。特に、女性障害者が利用者の場合には二重の障害をもたらすことになる。なぜなら良心的兵役拒否者は女性の介助を好まないし、それに適していないからである。また、多くの人は良心的兵役拒否者によるサービスが強制的なものであるにも関わらず、自発的なものであると誤って理解している。

自立生活の可能性

 イタリアは世界でも有数の産業化の進んだ豊かな国であると言われているのであるが、社会福祉資金は、恐らく他のどの国の場合よりも障害者を無視する形で用いられている。従って、我が国では重度ではない障害者の自立すら困難な状況に置かれている。まして、重度障害者の場合には、英雄的な人物でもない限り、自立は不可能である。

態度

 イタリアでは、状況を変革することが強く求められている。このことは障害者にとって一層必要なことである。なぜなら、行政が腐敗している一方で、障害者は公的な資金や施設がなければ生活することができないからである。その現状は、そこから遠ざかりたくなるほど、非人間的で許しがたいものであるが、それでも障害者は公的な資金や施設がなければ生活ができないのである。このことは、障害者の生活を特に困難にしている大きな矛盾である。

 イタリアでの中心的な問題は、「attitude(態度)」という英語で表現されるものかもしれない。それは、障害をもつ人、もたない人双方による変革とそのための闘い、ならびに障害者の資質向上に向けた態度である。

不安

 この目的のためには、障害者は自分自身のために闘わねばならない。しかし、自覚が拡大し、個人的な不安が解消されない限り、障害者に闘いの場への参加を促すことは不可能である。従って、障害者に情緒的にも社会的にも自信をもたせることが重要とされる。なぜなら、成功は、何が欠けているかによっては左右されず、むしろもっているものをどれだけ有効に活用するかによって左右されるからである。

 障害者の個人的な不安に関する問題の1つは、他の先進国と同様に、イタリアの最も産業化の進んだ地域では、障害者の一層の孤立化が進んでいることである。その中で他の先進国と異なっているのは、イタリアでは、社会サービスや施設が大幅に不足していることである。従って、イタリアの障害者は、世界の他の地域に例を見ないほど孤立しているのである。イタリアは豊かな国であると言われているが故に、開発途上国の場合と比較して、このような状況を打破するための闘いを起こすことが急務となってきている。

 従って、もし状況が変化しなければ、障害者自身に安心感をもたせることは非常に困難であるという矛盾が存在している。しかし、障害者が不安を乗り越えなければ、状況を変えることはできないのである。それは悪循環であり、筒単には抜け出すことができない。

 そのような中で、同様な状況に置かれている人の「生活事例」は、どんなに優秀なリハビリテーション専門家によるアドバイスよりも力強い働きかけとなる場合がある。このことは、ピア・カウンセリングが障害者の自覚を促し、資質向上を図るため非常に重要な要素であると私が考えている理由である。

社会の姿勢

 我々が努力を集中させる必要のあるもう1つの主要な要素として、イタリアでは政府と人々の間の溝が拡大してきていることがある。このことは、我々が生存し、また自由の獲得に向けて闘うための協力者を見いだすうえで重要であると私は考えている。

 過去10年間で、イタリアでの障害者に対する社会の姿勢には重要な変化がいくつかあった。例えば、障害者が目下の人ではなく、クライエントとして扱われることが多くなったことがある。それに関する重要ではないが非常に目立つ例として次のようなことがある。イタリア語では、友人や親戚以外の人に会ったときに「Lei」(ドイツ語のSie、フランス語のvousに相当)と話しかける。一方、目下の人や子供に話しかけるときは「tu」(ドイツ語のdu、フランス語のtuに相当)を用いる。最近では、障害者が、介助者がいない場合でも、「Lei」で話しかけられることが多くなってきている。また、それよりも重要なこととして、初対面の健常者が障害者に「お手伝いしましょうか?」と話しかけてくることも多くなっている。

 これらの変化は、さらに基本的な問題と結びついている。それは、「ボランティアによる援助の利用者は有給の援助者による場合と比較して、力量、時間的正確さ、信頼度をもつことを期待することができない。」あるいは「慈善組織は、障害者の援助に関するアプローチを全面的に見直さなければならない。」ということである。ボランティアや慈善組織が障害者を成長した大人としてのあらゆるニーズをもつ完全な人間として認識していないことを私は数多く経験してきている。

 昨年フィンランドのラヒチで、開発途上国から来た何人かの障害者が、自分の国では多くの健常者は非常に親切であるが、その親切は健常者の心からのものであり、障害者のニーズや選択を考慮したものではない、と言っていたことが印象に残った。このことは、まさに、イタリアの南部や農村の多くの地域でも現実に起こっていることなのである。サービスや施設が不足しているところほど、健常者は親切であるということを我々はよく経験する。

 私は、イタリア南部で自立して生活している障害者がいることを知り、感銘を覚えた。彼女は、1日何時間も働いて、1日のわずかな時間について援助者を雇うことのできる収入を得ている。しかし、行政からの援助がないために、彼女は必要とするすべての援助のために援助者を雇うことができない。従って、1日の残りの部分に関しては、彼女は、多くの友人をもち、その中で自分の個性を強力に主張することによって、友人の意志によらず、自分の選択に基づく援助を確保している。

 イタリアの南部地域や開発途上国で、北欧や北米で得られるものと同様の有給のサービスを入手することができるようになるまでには、非常に大きな変革が必要であり、それには恐らく多くの年月がかかるであろう。依存の生活は、本当の生活ではないと私は考えているので、世界のそれらの地域に住んでいる障害者に対して、生活を始めるまで何年も待て、と言うことはできない。また、我々は権利ならびに自由のために闘うために、これらの障害者の力を必要としている。しかし、極端に依存した生活を強いられている場合、それらの障害者は我々の力になることすら困難である。むしろ、慈善的でボランタリーな援助の方が資源としては役立つのである。

 従って、ボランティアに向けて、必要であればそれに抗議するキャンペーンを行い、もしボランティアが自分の意志や選択に従って援助を行うのであれば、ボランティアは個人的なフラストレーションに直面するし、我々を援助したことにならないことを明確に示すことは、我々の課題の中の1つである。つまり、我々は、我々を援助するにあたって不可欠な前提として、我々を健常者と同様の自由ならびに尊厳をもつ人間として尊重することがあることを明確に示す必要がある。

 もし、ボランティアが我々を援助しようとしているのであれば、それは政治家が資金を節約するために役立てられるべきではなく、我々の権利ならびに資源を獲得するための闘いに役立てられるべきである。私の住んでいるフローレンスで、ある朝、障害をもつ女性が何人かの政治家に抗議するために出かけようとしたときに、ひとりのボランテイアが彼女の起床、朝食の手助けを行って、抗議に市役所へ付き添っていった。もし介助が得られなければ、彼女が抗議を行うことは不可能であったろう。

 もちろん、私は、ボランティアがそのように有能でないことが多いことを承知している。また、そのような状況でボランティアの援助を利用することに非常に危険な側面があることも十分に承知している。実際問題として、ボランティアの援助を利用することは、a)与党の政治家が票のために公的資金を利用することを認めることにつながりかねない。b)自立生活を実現できるのは強力なパーソナリティをもつ障害者に限定されかねない。c)幅広い介助を必要とする障害者にとって自立生活が非常に困難なものとなりかねない。d)ボランティアの多くは、自立という考え方に慣れていないために障害者の自立生活を援助することができない。e)不十分な仕事しかしないボランティアを別のボランティアに代えることが非常に難しい。しかし、イタリアの南部ならびに開発途上国では我々はこのような問題に直面することを余儀なくされるのであり、我々は、社会の姿勢ならびにボランタリィな組織や慈善組織の態度を変革することを試みなければならない。それは、そのような姿勢や態度を受け入れることではなく、提携者を見いだして、我々の生活を変えることを試みることである。

ネットワーク

 特に姿勢や態度に関する社会的変化には、長い時間が必要とされる場合があるが、障害者にとって必要な自由は、すぐにでも実現されなければならない。そのような中で、社会的な変化を早期に実現するためには、自由への闘いを幅広く展開することが必要である。また、社会的変化によって障害者の自由を生み出すためには、障害者が闘いのリーダーとならなければならない。

 このような理由から、昨年ENIL(ヨーロッパ自立生活ネットワーク)が設立され、また、昨年5月からは、AIAS(イタリア障害者援助協会)ならびにAISM(イタリア多発性硬化症協会)による経済的な支援のもとで、ENILのイタリア支部が発足した。その会員はすべて障害者であるが、援助はどのようなものであっても歓迎している。そして、誠実な援助者であれば、我々のニーズや希望を積極的に尊重するということを私は確信している。我々の前には、非常に長い道程が残されている。しかし、ENLIは我々をトンネルの出口に導く車輪としての役割を果たすであろう。そして、1992年5月5日の「全ヨーロッパ規模の抗議行動日」は、その第一のステップとなるであろう。

 (本稿は、Belli氏の報告の中から特に重要と思われる項目を抜粋したものである。その他の項目には、自立生活を阻むものとしての収容施設、行政効率の悪さ、生活に密着した組織(政党、商工団体あるいはマフィアなどの地下組織)加入への障壁、また自立生活の促進要因となるべきものとしての普通教育、雇用、年金・手当、各種サービス、移動・交通、補装具の現状が示されている。)

(抄訳 曽根原 純)

イタリア脳性まひ者協会 自立生活委員会委員長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1992年4月(第71号)21頁~24頁

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