講座 わが国の義肢装具の歴史

講座

義肢装具・1

わが国の義肢装具の歴史

武智秀夫

まえがき

 世界的にみると義肢装具の歴史はずい分古い。義肢、装具とも紀元前から用いられた記録がある。

 それに反しわが国では著しく新しい。日本の医師達が義肢、装具を概念的に受容したのは、オランダ医学が入ってきた17世紀以後で、実際に義肢、装具が使用されたのは明治維新以後であろう。

1.はじめて義肢装具の図を見た日本人

 徳川幕府の大目付井上筑後守政重(1585~1661)はオランダの医学・薬学・砲術・天文学などの科学を高く評価し、興味をもっていた。この人物のことが「長崎出島商館長日記」に書かれている。それによると、明暦2年(1656)オランダ人医師が政重の邸に行き、鉄製の義手、義足を見せたが、彼が予想していたものと著しく違っていたためその製作費500グルデンを支払わなかったという。記録の確かなものとしてはこの井上政重が日本人ではじめて義肢を見たことになる。政重はおそらくパレの外科書の義肢の図を見て発注したのであろう。

 杉田立[卿](1786~1845)はプレンクの外科書を訳し「外科新書」とした。この本は出版されていない。この本は内閣文庫に所蔵されている。これに側彎症装具、下腿義足の図がでている(図1 外科新編附図 a/ラ・ヴァシェの側彎用装具 b/チャールズホワイトの下腿義足 写真略)。そのほか膝装具、胸椎コルセットの図もみられる。

 奥田万里(生年没年不祥)が1835年上梓した骨折治療書釣玄四科全書整骨篇に、補高用装具とポリオの麻痺性下垂足に用いるブーツのような装具の図がある(図2, a/長頸韈と補脚板 写真略)。

 この時代蘭法を学んだ医師は書物からの知識として義肢や装具のことを概念的に受容していたと思われるが、わが国で義肢装具が実用されたという記録はない。

2.アメリカで義足を見たジョセフ・彦

 ジョセフ・彦(1837~1897)は播磨国の人で嘉永3年(1850)10月遠州灘でしけに会い50日余漂流しアメリカ商船に救助された。アメリカで教育をうけ帰国した文久2年(1862)「漂流記」を出版した。その末尾にパーマの大腿義足の図(図2, b/パーマ型大腿義足 写真略)がでており、「砲丸に当たり、或いは脱疸其他怪我により足を破傷しこれが為に終に亡命せんとする者ハ、其部を切り捨て、人工に足を作り用うれハ健康の者に同しく動作を致す。云々」との説明がついている。

 この義足は1851年ロンドン万国博で名誉賞をもらったものである。ちなみに「漂流記」も内閣文庫に所蔵されている。この義足の広告は伊藤慎[蔵](1825~1880)の訳書「改正磁石霊震気療説」の巻末にもでている。

3.三世沢村田之助の義足

 幕末から明治初期に立女形として活躍した三世沢村田之助(1845~1878)は退廃的な芸風と伝奇的な生涯で知られている。19歳の頃脱疽にかかり色々治療したが、慶応3年(1867)9月、当時横浜に住んでいたアメリカ人医師ヘップバーン(ヘボン式ローマ字を作った人)に左下腿切断をうけた。はじめ江戸の活人形師松本喜三郎が作った義足を用いたが、うまくゆかず活人形師は恥じ入り代金をうけとらなかったという。翌年アメリカ・セルフォ社製の義足が届き、それをつけてまた舞台に出ることができた。代金は200両であったという(図3 三世沢村田之助の義足 写真略)。記録の上で田之助は義足をつけた初めての日本人ということになる。

4.鹿児島で発掘された義足(図4 鹿児島県で発掘された下腿義足 a/足部 b/ソケット 写真略)

 1986年鹿児島県で1本の下腿義足が墓から発掘された。墓碑銘によるとこの墓は1818年に建てられている。義足は今日「在来型」といわれる型式で、下腿の断端の入るソケットの部分は青銅製、足部は木製。足指もある。足継手もあり、膝はヒンジ継手で大腿を締める大腿コルセットもあったろうと思われる。

 この義足は本当に1818年以前のものかどうかははっきりわからない。私は明治10年(1878)の西南戦争のときの西郷軍の負傷兵がひそかに用いていたものではないかと考えている。というのは、18世紀末から19世紀初頭にかけてわが国で切断術はまだ一般化していなかったし、義足が用いられた記録も見られないからである。

 西南戦争で西郷隆盛の長男菊次郎も右足を切断し、アメリカ・マークス社製の義足を用いた。

 また大隅重信もマークス社の義足を用いている。

5.義手足纂論と乃木式義手

 日清戦争(1894~1895)の負傷兵に恩賜の義肢が支給されたが、その詳細はわかっていない。

 日本の義肢装具製作者で最も古い人は奥村義松で、明治10年(1877)大阪で開業した。この奥村一門の流れをくむ義肢装具士は今日日本中に広がり活躍している。

 自分自身が切断者であった鈴木祐一は明治35年(1902)「義手足纂論」を出版した。この本は義肢の啓蒙書であるものの、日本で最初の義肢の専門書である。鈴木祐一も東京に日本義手足製造株式会社を作り、これは今日まで続いている。

 日露戦争(1904~1905)乃木大将の発案で乃木式義手が作られた(図5 写真略)。この義手は1911年ドレスデンで開かれた万国衛生博覧会に日本陸軍から出品されている。もちろんこの頃の欧米の水準から著しくおくれたものであった。その上医学と全く無縁の将軍が義手を考えるというのも、当時の医師達が義肢に興味を示さず、切断者への社会の対応が未熟だったことを物語っている。この義手もほとんど用いられていない。

6.第二次世界大戦と義肢

 大正7年(1818)のシベリア出兵のとき、同盟国チェコの戦傷兵に聖路加病院で義肢が支給されたという。第一次世界大戦のとき戦場になったヨーロッパ、特にドイツで義肢は著しく進歩した。わが国で第二次世界大戦のときはそれらの資料がもとになったと思われる。

 1つは鉄脚(図6 写真略)といわれる作業用大腿義足であり、もう1つは陸軍十五年式義手(図7 写真略)という作業用義手である。この2つは今日もなお用いられている。当時のわが国の水準からすれば傑作といってよい。

 敗戦後は義肢装具の材料は著しく乏しかった。その時代見られた竹製の義足(図8 写真略)である。このようなものは今日でも東南アジアの国で用いられている。

おわりに

 わが国の義肢装具の歴史を第二次世界大戦が終わるまで大まかに述べた。装具については19世紀ドイツのヘッシングが作った革、セルロイド、鉄の支柱を組み合わせたヘッシング型の下肢装具、コルセットが広く用いられた。しかし戦後アメリカのものが入ってきている。

 義肢も国際的に情報交換が容易になり、1950年代後半わが国の経済の復興とともに新しい知識や技術が次々と入ってきた。

 そうしたこともあり1989年神戸で世界義肢装具連盟の第5回大会がアジアで初めて開かれたのである。今後は国際的水準に達した義肢装具の技術を発展途上国へ援助するのもわが国の役割であろう。

文献 略

国立吉備高原医療リハビリテーションセンター


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1993年3月(第75号)30頁~33頁

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