特集/障害の定義 特集にあたって

特集/障害の定義

特集にあたって

佐藤久夫

 本特集では、「障害の定義」に関連する3つの論文および1つの資料を掲げた。「日本における障害者の法的定義」(日本社会事業大学・障害者の法的定義研究会)、「障害の概念と評価―諸外国との比較調査から―」(佐藤忠)、「障害全般の用語の概念・定義―障害児の教育を中心に―」(小鴨英夫)、「精神障害者の福祉施策研究会中間まとめ」である。いずれも基本的な問題を分析し、今後の議論に重要な材料を提供したものといえる。

 以上の他「障害の定義」をめぐっては、障害者の法的定義の国際比較、各国の障害者登録・手帳制度、国際障害分類と障害の3つのレベル(障害の階層構造)、障害の自己定義(障害をもつ当事者にとっての障害の意味)、障害者ではなく言語小数派としてのろう者、障害関連用語なども重要かつ興味深い研究テーマであろう。これらは総合的、学際的なリハビリテーション研究誌としての本誌がとりあげるべき課題であるが、紙幅と準備の都合で今回は実現できなかった。

 筆者は最近カナダ、オランダなどを訪問し、いくつかの国際会議に参加する機会を得たが、障害の定義を考えるにあたって示唆的なことを見聞きした。より広い視野から本特集をながめるために紹介しておきたい。

「体格・体型の差」にともなう不利益

 1、2年前、アメリカの肥満者の団体が差別撤廃運動をしているとの新聞記事を目にしたことがある。映画館のイスが狭いので自前のイスを持ち込もうとしたところ入場を拒否されたことを問題にしていた。別の記事では、やはりアメリカで、生命保険契約にあたって肥満のために不利に扱われていること(余計に掛金を要求されるなど)を改めてほしいと要求していた。

 一方、オランダには背の高い人々の団体があり、会員の中でいちばん高い人は2メートル47センチだという。ホテルのベッドを長くすることなどの要求をもっている。今のところ、オランダ身体障害者団体評議会には加盟を認められていない。小人症の団体は認められているが、背が高いのは病理的な原因によるものではなく、生理的なものであり、障害とはいえないからだ、との評議会役員の説明であった。

 そういえばWHOの国際障害分類でも病理的なものだけが障害だとしている。しかし「肥満」、「高身長」、一般に正規分布の両極端、さらに「老化」を、生理的変化とみるのか病理的変化とみるのかは議論の分かれるところであろう。したがって障害か否かを病理的か否かに置き換えても、依然として困難は残される。さらに、「正常に」高齢化し階段が上がれなくなった人も、骨関節炎で階段が上がれなくなった人も、同じようにエレベーターを必要とする。したがって身体の形や機能の変化の「原因」を考えるのは、障害予防には必須であり、個別リハビリテーションプログラムにも重要であろうが、機会の均等化にはほとんど意味がない。

 話はやや横道にそれたが、このようなタイプの「体格・体型の差」に伴う不利益に関して、わが国では(おそらく諸外国でも)小人症分野が最も問題とされている。今日の社会は電車のイスの高さなど、JIS規格の社会であり、いわば「平均人」の便利のために低身長の人々の側にもたらされた不利益を、社会が放置しているのはたいへん不公平なことといわねばならない。

「社会的障害」

 オランダの保護雇用は身体障害、知的障害、精神障害とともに「社会的障害」を対象としている。それは上司とうまくいかない、職場のチームのなかでは能力がいかせない、など性格上・対人関係上の問題があるとされる人々である。その割合は保護雇用労働者約8.3万人中の10%だという。人口比率を日本にあてはめると7万人近くとなり、日本のすべての入所・通所授産施設(法内)利用者数を上回る。

 他の欧米諸国では、少なくとも障害者対策の文脈の中ではこうした「社会的障害」についてあまり言及されていないように見えるので、これはオランダの特殊な問題あるいは対応なのかもしれない。日本の場合はどうであろうか。

 日本の一般労働市場はこうした人々をうまく吸収しているのか、それともこれらの人々は「本人の責任」とされ、低賃金の下積みの労働者として苦労しているのか、あるいは「個性的であれ」ではなく「協調的であれ」と育てられる日本人にはそうした人はごく少ないのか、家庭教育と学校教育がそうした「他人とうまくいかない人」を作らないように機能しているのか、それともそうした人々への職業リハビリテーションが日本でも必要とされているのか。

北欧での知的障害者の減少と日本での増加?

 スウェーデンのカールグルンワルドは、50年代には知的障害者は人口の2~3%であったが、いまは0.4%となった、今や軽度知的障害者の割合は4分の1となった、20年前に比べて障害年金を新規に受給する知的障害者は3分の1以下になった、と報告した。

 もう少し詳しく氏の報告を紹介すると、知的障害者に対して新規に許可された障害者年金件数は、1971年ころの1400件くらいから1992年の400件くらいに減った。受給開始年齢をみると、16~19歳では800から200くらいに、20歳~64歳では600から200くらいに減っている。近年の状況は、障害児教育を受けて卒業する知的障害児が毎年900人くらいいて、そのなかで400人くらいは(50%以上の労働能力の喪失とされて)障害年金で暮らし、500人くらいは給料で暮らしている。彼らはまたとくに他のサービスも受けていない。

 氏はこれらについていくつか考えられる原因を挙げる。それは、経済的な生活水準の向上および障害児教育やノーマライゼーション政策の効果である。出生数の変化や予防対策の効果もほとんど関係なく、補助金雇用のなどの雇用促進・安定施策の影響や診断基準の変化も全体の一部を説明するにすぎないという。

 筆者には生活水準の向上が知的障害者数の減少にどう結びつくのか理解できなかったが(一般的な傾向はむしろ逆で、都市化・工業化にともなって公的援助の対象となる知的障害者が増加すると思われるので)、後者の政策の効果についてはなるほどと思われた。教育面ではとくに16歳から19歳までの4年間の知的障害者への職業教育では各学年800人くらいが学び、さらに教師が職を探してきて、失敗しても次の場所を探し、21歳までフォローアップをしてくれる。

 知的障害者は努力をするし休みが少なく頼りになるとして、事業主も好んで採用してくれるという。事業主教育の成果であり、軽度知的障害者を社会が受け入れるようになったのだとする。

 精神障害、聴覚障害などでは新規年金受給が増えており、てんかん、脳性マヒなどでは横ばいであるとのことなので、本当にノーマライゼーション政策の効果といえるのかどうか、もっと深く検討する必要がありそうである。現在障害児教育を受ける知的障害児が各学年900人程度で、1970年代はじめには障害年金を受給する知的障害者が毎年新規に1400人だったとのことなので、以前にはごく軽度の人々を仕事にはつかせずに年金生活に向かわせていたのかもしれない。

 またオランダでも、ある知的障害者サービス機関の所長が、戦後しばらくはIQ100以下で必要な場合には知的障害者とされ援助してきたが、その後は80以下とされ、現在では70以下を基準にしている、と述べた。一般のスイミングクラブなどに自由に出入りするようになってきた。社会がより許容的になってきて、特別なサービスが必要でなくなってきた結果だという。

 工業化、情報化、高学歴化、国際化といわれる社会の動向が厳然としてあるが、それは知的障害者にとって必ずしもますます暮らしにくい社会を意味するものではないのではないか、ノーマライゼーション政策は(それを本気で進めれば)期待に答えてくれるのではないか、などを示唆する話であった。

 一方、日本の知的障害者は1990年の政府の調査で0.31%とされており、低下したとされるスウェーデンの出現率より低い。その数字は1971年の調査ともあまり変わっていない。2、30年前にはおなじ知的障害者という言葉で、まったく違う人々のことを念頭において日本とスウェーデンを比べる話しをしてきたことになり、注意しなければならない点であろう。

 「援助を要する知的障害者」の数・範囲に関して日本で問題とされるのは、むしろそれを増やさなければならないのではないかということである。例えば、職業リハビリテーションの現場では知的ボーダー(IQ75~90)でバカにされる人々などが問題とされている。それでも製造業、建設業などの単純作業の現場、女子であれば総菜屋、うどん屋、パン製造業などで彼らを吸収する労働市場があったが、近年はこうした職場が急速に減ってきているという(日本障害者雇用促進協会編・発行「調査研究報告書3:職業的困難度からみた障害者問題」1994,pp.24―25)。オランダやスウェーデンとは逆に、日本ではよりIQの高い人々をも知的障害者として援助しなければならない社会になりつつあるのであろうか。

 IQは同じのままで、社会的困難を消滅させて援助も不要とし、知的障害者ではなくするのがリハビリテーションの目標であるのに。

「学習困難児」の問題

 これは上記に関連する問題である。「精神薄弱」概念に関する繊細な研究の中で、高橋智は「学習困難」や「不適応」問題にふれ、「障害児教育関係者にとってもこの問題を看過できないのは、『学習困難児』は機能障害を有していないことが多いにもかかわらず、能力や人格の発達に遅れや偏り・未熟さがあるために、通常の学級で『放置』されているか、『軽度の知能障害、学習障害、情緒障害』等と判定されて、障害児学級・学校に措置されて、いずれも適切とはいえない教育的対応を受けているケースが多いことである」としている(高橋智「『精神薄弱』概念をめぐる研究の動向と課題」特殊教育学研究、29(2)、75―84、1991)。急いで実際的な対応がなされるべき問題であるが、同時に、「障害児教育」の概念や教育そのもののあり方をめぐる重要な提起であろう。

日本社会事業大学教授


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1995年3月(第83号)2頁~4頁

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